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夏の扉  作者: 能勢恭介
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   五二、樹


 空港の搭乗ゲートのようだったエントランスを入ったときにはIDをチェックされたのに、老婦人の案内で病棟から出るときは受付も何もなかった。裏口。それが病棟の出口だった。

 先頭に老婦人、一歩あとに怜、だいぶ離れて鳴海がつづく。建物の外は夏草が生い茂り、幅一メートルほどの小道の両側からは、虫の声がひっきりなしに聞こえた。今が夏なのか、それとも秋なのか、首筋をつたう汗を二度三度ぬぐいながら、むっとする草いきれに息を詰まらせながら、怜は考えていた。

「ときどきね、散歩をするのよ。あの部屋にいると息苦しくてね。ここにも談話室はあるんだけど、にぎやかすぎて。わたはね、さびれた集会所みたいだったあの談話室がお気に入りだったのよ」

 振り向くこともせず、老婦人は淡々と話す。淡々と歩く。斜面につづく道は、意外と景色は開けていて、右手に市街地、そして左手は山と森。うねる小道の向こうに行き交う車の姿もない高速道路が見える。

「どこへ行くんですか」

「着いたらわかるわ」

 鳴海はまだ無言だった。土を踏みしめる足音が怜の後ろに続いていて、だから鳴海はまだふたりから離れず、しかし近づこうともせず続いているのだとわかる。怜は一種の既視感を抱いた。前を行く老婦人が、大きなバッグを持った男へゆるやかに形を変え、右手に広がる市街地が、腹立たしいほどにまぶしい青い海だとするならば、やがてこのパーティは風車の回るひまをり畑の丘を目指すことになる。あのときも、鳴海は言葉が少なかった。もっとも、彼女が雄弁に何かをしゃべっている姿など見たことがなかったが。

 ここは市街地だったのだろうか。小道はときどき不自然な段差を上り下りする。それは斜面の住宅地にあるひな壇のような地形、家々の土台部分のなごりを思わせた。草にまぎれてコンクリートの柱が墓標のようにつづくが、これはおそらく電柱だったに違いない。架空線は途切れ、朽ちることもなくただ立ち尽くすだけの電柱は、まさに墓標を思わせた。この斜面に残る街はいま、完全に死んでいた。死に、新たな住人たちが静かに暮らしていた。そこを、三人は歩く。

「まだ、行くんですか」

「もうすぐ。もうすぐよ」

 老婦人の声に感情が感じられなかった。

 怜は右手に広がる市街地を向きながら歩く。平淡だった札幌の市街地は、海水の侵入を簡単に許してしまった。かつて、有史以前、市街地の広がる平野は浅い湿地帯だったというが、それがもとに戻りつつあるのだ。ここから見ても海岸線は予想以上に近い。

 道が急な登りになった。草に埋もれて階段が刻まれていた。怜がもう少し足元に気を配っていたら、階段が始まった場所の両脇に、石でできた門柱を見ることができただろう。そこに刻まれたレリーフはもはや読みとることができなかったかもしれないが。

 丸い丘だった。老婦人は本当に発電所の事故の後遺症が深刻なのだろうか。驚くほど軽快に階段を上がっていく。階段は級で、ふと振り返るとずいぶん眼下に鳴海の黒い髪が風になびくのが見えた。怜は立ち止まり、鳴海を待った。なのに彼女は、階段の中腹で待つ怜を見上げようとはしなかった。

「白石さん、こっちよ」

 老婦人の穏やかな声が風にのる。声が届いてから十数えた。その間、鳴海を待った。けれど鳴海はその猶予に、怜のそばまで到達できなかった。仕方なく、怜は向きなおり、老婦人を追った。そして、階段を上りきった先が何なのか、ここがどこなのかを知った。

「お墓……?」

 怜は階段を上りきったところで立ち止まっていた。声を出すことも忘れ、おそらくは鳴海のような、表情と呼べる表情を失った顔をして。だから、丘の上に広がる空間が何なのか、そこに言及したのは鳴海だった。

「お墓だね」

 鳴海が教えてくれた。怜は彼女に応えるようにして言った。

 市街地、海岸線、そして遠くの原生林まで見渡せる丘の上には、墓地が広がっていた。墓地といっても、華美な墓標が並んでいるわけではなかった。コンクリートか、あるいは樹の柱、一枚板から十字架まで、ここは宗教を無視した墓地だった。老婦人は丘の先、市街地が海ならばちょうど岬に当たる場所に立っていた。

「有田さん」

「ここは見晴らしがいいのよ。ほら、あそこ」

 老婦人の指はしわだらけだった。いくら<機構>が研究施設を莫大な資金を投じて建設して、水の中や砂漠や無重量の宇宙を穀倉地帯に変えることができたとしても、老婦人の指や表情から、その深く刻まれたしわを取り除くことはできいにちがいない。人が生きていく時間、記憶そのものを止めることができないのと同じだ。

「風車」

 鳴海は老婦人の指先をたどって、大きな空色のプロペラを見つけたらしい。

「<施設>?」

 怜も見つけた。屋上で回転をつづける三連の大きな風力発電のプロペラを。陽を受けてきらめいているのは、あの温室だ。

「ええ、そう。あそこね。こうして見ると、ずいぶん近いでしょう」

 野原にこんもりといくつかの繁みがあり、それはおそらく小さな雑木林なのだろうが、ここから見ると、野原の繁みにしか見えなかった。楊枝のような電柱が並び、碁盤の目の道路と途切れ途切れの送電塔。そのパターンの中に、<施設>は建っていた。

「ここは鏡のどちら側かしらね」

 老婦人はそう言って怜に微笑みかけた。

「そうでなければ、ここは川の向こう岸なのかしら。いつのまにか、川を渡ってしまったのかしら?」

 鳴海が岬の突端まで進んだ。風が吹き、彼女の匂いがした。真水の匂いだ。

「もしそうなら、この三人で岸に立つとは思っていなかったですよ」

 正直な感想だった。そしてそのとき怜は、自分が<施設>に同化しようとはまったく考えていなかったのだと気づいた。明日香に(あなたは街の人間だ)と言われたこと。老婦人に目の色を指摘されたこと。自分は<施設>の人々を理解しようとした。自分と、鳴海や明日香、真琴たちとがどう違うのかと自問したりもした。それはしかしすべて無意味だった。怜は自覚していたのだ。自分は<施設>の人間ではなく、街の人間だと。あきらめが悪く、海岸線の拡大を心から憂いている統合社会管制機構の人間だということを。失われたものを取り戻そうと、取り戻すことなどかなわないのだとわかっていながら、そのあいだも手のひらからこぼれ落ちていくよく知った風景を、拾うことはできても並べなおすこともできず、ただ見送るしかないのだということも。

「昔はね、ここは公園だったのよ。見晴らしがよくてね。わたしが鳴海さんよりももっと若いころ、友達と遊びに来たことがあったわ。晴れていれば、海まで見えた。もちろん、海岸が広がる前の話だから、海は今よりもう少し遠かったわ。夜は夜景がきれいだった。……懐かしいわ」

 そう言って老婦人はその場にしゃがみこんだ。虫の声がする。

「いつから、その公園が、お墓になったんですか」

 煙草は車のグローブボックスの中に入れたまま、置いてきた。怜は手持ちぶさたの右手の中で、ライターを指先でなでていた。

「さあ、いつかしら。憶えていないわ。発電所の事故のあとかしらね」

 岬の突端から振り返ると、丘陵にびっしりと墓標が並んでいた。それは森の入り口で唐突に途切れ、そのまま森は斜面を駆け上って山頂へ向かう。

「わたしの知り合いもここにいるのかもしれないわ」

「……あの事故で、誰か亡くなったんですか」

「かもしれない。わたしはずっと<施設>にいて、よく知らないのよ。鳴海さん」

 老婦人は岬に立つ鳴海に呼びかけた。歩み寄る。

「あの花束、持ってこなかったのね」

 そこでようやく鳴海はふたりと対面する。

「べつにね、ここに供えようと思ったわけじゃないのよ。ただあなたが、あのコスモスをどこに置いてきたのか、気になったものだから」

 老婦人は鳴海に並んだ。

「来てくれて、どうもありがとうね。もう会えないと思っていた」

 怜は一歩引いて、ふたり並んだ向こう側の市街地に目をやった。まだ人が住んでいる、にぎやかな家並みを。けれどやがて眼下の街も沈んでしまう。自分たちがどれほど手を尽くしても、たとえ世界が変わっていくスピードが今止まったとしても、その巨大な慣性は、簡単にはエネルギーを失わない。これからいくつの街や地域、国が住んだ海の底に沈んでいくのか、怜にはわからない。世界中の見慣れた風景が、ひとつひとつ確実に失われていくその出来事を、怜や<機構>は止めることができない。

「あなたは、優しい子です」

 老婦人が鳴海にそう言ったのを、怜は聞いた。老婦人の言葉を受けて、肩まで伸びた髪を振り、まるで悪夢から覚めたことに気づいていない子どものような顔をして、鳴海はいくつもしわの刻まれた老婦人を向いたのを、怜は見た。

 老婦人は言葉を続けず、おびえたように見返す鳴海を向き、微笑むでもなく瞬きもせず、ただ立っていた。

 怜はふたりから離れた。砂を踏む。足跡が残る。足元の砂は、もはや海岸では見られなくなった目の細かいものだった。飛ばされてここに積もったのだろうか。

「わたしが、優しい?」

 かすれた鳴海のつぶやきは、虫のささやきにまぎれこみ、かろうじて怜の耳に届いた。

 老婦人は目を細めて青白い顔の鳴海を見つめるだけで、ひとりごとのような彼女のセリフに応えようとはしなかった。

「わたしが、優しい……?」

「優しくないひとなんて、この世の中にはいないのよ。きっと」

 それはあまりに痛々しいセリフだった。優しさに満ちたこの空間にいて、怜の胸がかすかに痛んだ。怜は、意味もなく目の前の墓碑に、かしずくようにしゃがんだ。

 おそらく老婦人の言うとおりなのだ。とりわけここのような、優しさに満ちた場所では。墓地を訪れる人間は、いったいどんな人間だ。そこに眠る自分に近しい存在に、寂しさをぶちまけるか、あるいは悲しみの涙を流すか、そうでなければ在りし日を思い起こして祈る場所だ。そこを訪れる人間は、きっと、みな、優しい。

 怜の前の墓標は、杭のような細い石の柱を地面に刺しただけの簡易的なものだった。墓石の前には、手のひらほどの大きさの歯車と、一本のドライバーが供えられていた。ここに葬られた彼……男だという根拠はないが……は、おそらくはエンジニアだったのだろう。怜は手を合わせはしなかった。だが、軽く一度だけ、頭を下げた。

「涼しくなったわね」

 老婦人が言う。

「まだ三〇度以上ありますよ」

 届いた声に怜は応えた。しゃがんだまま。

「もうすぐ八月も終わるわ。もう、秋よ」

「あと二週間はありますよ」

「二週間なんて、あっという間よ。そう、<施設>にいたころはカレンダーも見なかったけれど、気がつけば夏になっていて、気がつけば夏が終わっていた。そんな生活だったわ。あそこでは時計がいらなかった。もっともわたしは、時計が必要になるような生活を、結局この歳まで一度も送らなかったけれどね」

 怜はしゃがんだまま、エンジニアの墓標を一度、なでた。そして、歯車の歯を、ひとつひとつ指先で感じた。本物の歯車なのか、遺族が用意したイミテーションなのか。たとえば、自分が葬られたとしたら、墓碑にはなにが飾られることになるのだろうか。ガイガーカウンターか、気圧計か。およそこの墓地には似つかわしくないそれらの機器を、自分は飾ってもらいたいと願うのだろうか。すべてが終わってしまったそのときに、自分はここから沈んでしまった街を眺めるのだろうか。

「こんな場所にお墓なんて……」

 思わずつぶやいていた。

「気に入らない?」

「これから沈んでいく街を、ここでこうしてずっと眺めているなんて、きっと僕には苦痛ですよ」

 立ち上がった。虫の声が遠ざかった。

「そうかしら」

 鳴海はずっと街を望んだまま。髪が風に吹かれて細かく舞っていた。

「きっとじゃない。僕には苦痛だ」

 しゃがんだままの怜と、意外に顔色のいい老婦人。後姿の鳴海は動かない。

「帰りましょうか。風が出てきたようね」

「かえって涼しいくらいですよ」

「海風に当たりすぎると、身体に悪いわ」

 発電所の事故のことを言っているんですか。怜は危うく出かかった言葉をあわてて飲み込んだ。

「もう、夏は終わりよ」

 言うが早いか、老婦人は一瞬ひどく寂しい表情を怜に投げてよこし、さっと踵を返した。

 怜は老婦人が歩きだし、肩に触れるほどに繁る草の陰に彼女の白髪がまぎれてしまうまで、しゃがみこんだままだった。墓標と墓標の向こうに、街が見える。ぽつぽつと並んで建つビルが、そう、やはり同じように墓標に見えた。一歩一歩遠ざかる老婦人の足音を後ろに聞きながら、それでもまだ怜は立ち上がらなかった。

 鳴海がまだ、岬の突端にたっていたからだ。


 コスモスが咲いていた。

 怜が花束を見つけたのは、老婦人の病室を出、廊下を進んだ先のホール、吹きぬけた天蓋に向かって伸びる一本の樹の下だった。鳴海は言葉も少なく、怜が花束を見つけて鳴海を振り向いても、何も言わなかった。

「鳴海さん」

 怜はコスモスを拾いあげたりはしなかった。まるでこの空に向かって伸びる樹が、誰かの墓標であるかのごとく、そこに供えられた花束を、怜は立ったまま、見下ろしていた。

「どうしてだい?」

 鳴海はステップを踏んでいた。いつかあの春の日に見た軽やかなステップではない、憂いとけだるさをたっぷり含んだ、ゆるやかなステップだ。

「有田さんの部屋には、似合わないから」

 手折られたコスモスはまだ、可憐な色をたもっている。花弁の穏やかな色と、みずみずしい葉の色が対照的だ。手折られてなお、みずみずしい。

「活けておけば、しばらく持つよ」

「いつかは枯れるわ」

 鳴海はきょうはじめて、怜と並んだ。

「鳴海さんなりの、心遣いなのかな。それは」

 ホールにはかすかな空気の流れがあった。天蓋は空と地面で遮断されていて、だから風が吹き込んでくるはずがない。空調か。意図的な風なのだとしたら、ここは地球の周回軌道上に浮かぶ長期滞在型中継基地と同じだ。長く風や太陽などの刺激を絶たれた人間は、精神や肉体に変調をきたすという。無刺激症だ。だから、意図的な気圧差を利用して風を作る。無重量空間では熱による空気の対流も発生しないので、そうしたシステムまでが必要になる。怜は廊下のところどころに穿たれた窓の向こうに目をやる。

「快適だね、ここは」

 風に震えるコスモスの花弁を見下ろして、ふたりは並んで立っている。

「汗ひとつかかない。寒くもない。……僕の部屋と似ているよ」

「白石さんは、こんな部屋に住んでいるんですか」

「ちょっと違うけれど。けれど、似ているよ」

 怜が答えると、鳴海は唇の端を少しだけ持ち上げて笑った。いや、微笑んだ。

「白石さんの部屋にも、こんな樹が立っているんですか」

 見ると、空に向かって立つ目の前の樹の、幾重にも繁る枝葉もやはり、低気圧に向かって吹き込んでいく空気に細かく震えていた。

「僕の部屋には、樹は生えていないよ。何にもない部屋だ」

「わたしの部屋みたいに?」

 そう言って鳴海は、怜に目線を合わせた。

 怜は彼女の視線を受け、そらしたくなる顔をそのまま鳴海に向けていた。

「もっと、無機質だよ。鳴海さんの部屋みたいに、スケッチブックだとか、そうだね、僕宛に誰かが手紙を送ってくるなんてこともない」

「それが、いいことなのかわからないけれど」

「寂しくはないさ。君は誰かとつながっているんだ」

「寂しいの?」

 怜はそこで数瞬、呼吸をとめた。鳴海の言葉にとめられた。

「さあ……。寂しいと感じたことはないよ。鳴海さんは、寂しいのかい」

 鳴海に向けて軽く放ったつもりのセリフは、彼女にとっては直球すぎたのかもしれない。ふと目をそらし、目を伏せた。

「わからない」

 まだ震えつづけるコスモスは足元で、目の前の樹は不思議と匂いがしなかった。

「わからない?」

「寂しいってどういうことなんだろう」

 目を伏せた鳴海は瞬きをしない。だからレンズのように見える。

「感じたことはないのかい? 誰かと話をしたくなるとか、そんなことをさ」

「ないわ」

 抑揚もなく転がり落ちていく鳴海のセリフは平淡で、あまりに細かく散っていく言葉のひとつひとつは拾うことができなかった。

「君と話をしても、いつも堂々めぐりになるね」

 苦笑を含ませて、怜が言う。それに対する鳴海の応えはなかった。

「きっと、これからもずっと、……鳴海さんが見てるものは、僕には見えないんだろうな」

 怜はそう言うと、短い嘆息をコスモスに向けて、一方的に歩き出した。

「けれど、たとえば君の兄さんから手紙がこなくなったら、寂しいと思わないのかい?」

「思わないわ」

「嘘だね。君は寂しいと思うはずだよ。……君が見える『終わり』をね、きっと僕も見ているんだと思う。僕たちはあきらめが早いんだ。すべてが終わってしまうのはしかたがない。花は枯れていくし、……人も……同じだよ」

 爆弾だった。言っていいのかどうか、その言葉を口にする本当に直前、怜は考えた。彼女に伝わってしまっていい言葉なのかどうか。そう思ったが、言った。

 五秒、十秒。怜は彼女の返答を一応、待った。どんな言葉が返ってくるか、気になったからだ。二十秒、三十秒。怜は背中に視線を感じていた。お互いの距離が近ければけっして感じることのない、それはいくぶん遠くから放たれた視線だ。怜は振り向いた。

 アトリウムの樹……それは大木と呼んでも差し支えない大きさだった……がまず縦方向に怜の視界に飛びこむ。そして鳴海がやけに小さく見えた。彼女とはもう十メートル以上離れていた。それが怜と彼女の距離なのだろうか。怜は離れてしまった鳴海を向いただけで、彼女のもとへ歩み寄りはしなかった。鳴海もまた、まっすぐに怜を向いて、まだ歩きだそうとはしなかった。

 どれくらいそうして立っていたのか、怜は鳴海を振り向いたとき、それまでのカウントを止めてしまっていたから、わからない。けれど少し長い時間、ふたりはただおたがいを向いて突っ立っていた。差し込む陽射しは強いはずなのに、気温は心地よかった。コントロールされている。鳴海の背後に立っているあの巨木ですら、水耕栽培に違いない。あれだけの荷重を支える水耕栽培の方法があるのかどうか怜は知らなかったが、土の匂いがまったく感じられないのだから、間違いない。鳴海が置いたコスモスは、彼女の陰に隠れて見えない。見舞い客には到底見えない療養服姿の子どもがふたり、意外なほど元気に駆けていく。馴染んでいたはずの世界、それは怜が<施設>に通いはじめるまで身を置いていた世界のはずなのに、いま彼は居心地の悪さを感じていた。それは違和感と呼べるほどではなかったが、<施設>に通ったわずか数ヶ月で、怜はどちらの世界に対しても違和感を感じるようになっていた。

 何かが狂っている。

 それは、いま鳴海の背後を駆けていく療養服姿の子どもたちであり、<施設>の温室で出会った子どもたちであり、鳴海であり真琴であり、明日香もまた狂っていた。もちろん自分も狂っていた。指摘はできないけれど、すべてが狂っている、そう思った。それが違和感を感じる原因だ。

 鳴海は怜の言葉に結局応えてくれないつもりらしい。怜は鳴海に微笑んでみせた。

「帰ろう、鳴海さん」

 言うと鳴海はようやく歩き出した。

「稲村先生は日が暮れるまでに帰ってくるようにって、そう言っていたんだ。もう夏は終わりだよ。あっという間に日が暮れる。早く帰ろう。……きっと、みんな鳴海さんを待ってる」

 言いながら怜は、明日香の怒った顔を思い出していた。明日香は自分に言った。鳴海のことが好きなのだろう、と。けれど怜は思っていた。むしろ明日香自身が鳴海のことを好きなのに違いない。明日香を見ているとよくわかる。

「帰ろう、さあ」

 鳴海は彼の言葉にうなずくわけでもなく、かすかにうつむいて歩く。彼女はコスモスも樹も振り返らなかった。


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