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夏の扉  作者: 能勢恭介
16/19

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   五〇、透過光


 ひどく濃い霧の中を走っていた。

 今朝はずいぶんと涼しかった。ときおり思い出したようにこの街は前世紀の季節をとりもどす。霧は海に近づけば近づくほど濃くなっていくようだった。いつも電車の中から眺めている港湾道路が、まったく普段の姿とは違って見える。霧の中にぼんやりと灯る街路灯はオレンジ色で、それはナトリウムランプの色なのだけれど、滲んだように光るランプは、画用紙にぽつりと落とした絵の具にも似ているかもしれない。きっと彼女ならそう思うにちがいない。

 ハイビームで行き先を探りながら、市街地を離れた。ここから道路の両側は、捨てられた草地が果てなく広がる。地平に並んでいるはずの送電塔が見えない。等間隔で並ぶ街路灯と、ひびだらけのアスファルトと、電車の軌道と、かわりばえのしない風景はまだ続く。

 怜はダッシュボードの時計に目をやる。午前八時、を少し回ったところ。霧はまだ濃い。目覚めたとき、窓の向こうに十七号棟が見えなかった。雲の中に住んでいるような、不思議で不安な目覚めだった。知っている世界がみな、濃霧の中に呑まれて消滅してしまったのではないかと、怜は半ば本気で不安になったのだ。そんな気分も煙草を一本灰にしてしまうと失せてしまったが、季節外れの意外な霧は、できすぎた舞台演出のようで居心地が悪かった。

 十六号棟を出て、怜は<団地>をあとにした。地下鉄駅の前の地球ゴマが午前七時の時報を鳴らしたとき、駅前には怜ひとりだった。そのまま改札を横目に坂を下り、旧市街に入る。豊平川を渡っても霧は濃く、ポケットに握ったイグニッション・キーの冷たさを感じながら、怜は歩いた。誰ともすれ違わず、ただ自動小銃を肩から下げた武装警官がひとり、じっと怜を目で追ってきただけだった。詰問されればIDを見せればいい。そうすれば、彼は怜に何も言わない。<機構>のIDナンバーは構成員全員に固有で、たとえば警官が怜に身分を問うたとしても、怜が自身のナンバーを口頭で伝えれば、警官は彼の<ターミナル>を操作して目の前の男の身元を割り出すことができる。怜は三日前、<機構>から復職を通知されていた。いや、実はもっと以前から通知だけは届いていたのかもしれない。<ターミナル>の電源を入れたとき、すでに怜のメールボックスには、<機構>からメッセージが一通、それも無味乾燥な文面で届いていた。

 復職が決まった。

 もとの日常が戻ってくる。怜は車のエンジンに火を入れ、しばらく暖機運転するあいだ、ステアリングにもたれるようにして、数ヶ月前までの自分を取り戻そうと、思い出そうと、じっと目を閉じていた。<ターミナル>を携帯しようかと部屋を出るときに少々迷ったが、けっきょく手ぶらで鍵をかけ、エレベータに乗った。きょうは銃も持ってこなかった。

 <施設>へ向かう。

 人通りもまして車の通りもほとんどない旧市街をぬけ、いつもの港湾道路に入ると、LRTの電車を追い抜く。空気輸送中の電車はひどくゆったりとレールを進んでいて、それはいつも怜が乗る電車なのだけれど、霧の中を進む運転士だけが乗客の電車は、現実離れして見えてしかたがなかった。開けた窓から吹き込んでくる風は、いつにもまして湿気を含み、それだけでもう怜の髪は乱れはじめていた。しかも、たっぷりと潮を含んでいる。海が近い。

 はたしていま、いったいどのあたりに太陽が昇っているのか、怜はひとまず路肩に車を寄せ、一本煙草を灰にしながら探っていた。エンジンを止めると、鳥のさえずりがあちこちの繁みから聞こえる。電車が来ない港湾道路は空気が転がっていく音がいくつも重なり、意外と騒々しい。人が住んでいないというだけで、人が捨てたというだけで、まだこのあたりの土も草も枯れかかった木も、みんな生きていた。

 <施設>までは、もうすぐ。あと電停を二つ数えれば、そこが終点だ。防風林と、ポンプ場、やがて見えてくるのは風力発電の風車を二基屋上に載せた、<施設>の白い壁だ。だが、これほどの濃い霧の中で、あの白い壁が港湾道路からも見えるかどうか、怜は自信がなかった。

 窓を開け放った車内で、深くシートに背中をあずけ、怜は苦笑していた。

 これは、カウント・ダウンなのだ。あと、二回。それもきょうの訪問を含めてだ。あと二回、ここを訪れたあとはもう二度と、<施設>を訪ねることはないだろう。それは自信を持って言えた。来る理由がまるでなくなるからだ。もしここを訪れることがあるとすれば、鳴海や明日香、稲村たち<施設>の住人たちがすべて立ち去ったあとの、海に沈むに任せるようになったときだ。そのときもまだ、あの風車は回り続けているのだろうか。屋上の温室で、子どもたちが消えたあとも、あの果物や野菜や草花は、育ち続けるのだろうか。

 ひたひたと海水に浸る待合室の情景が、ひどくリアルに浮かび上がり、そしてその風景があまりに自然な姿に思えて、怜は目をゆっくりと閉じた。

 行こうか。

 エンジン、スタート。

 今朝、怜が電車ではなく車で<施設>を訪れたことには理由があった。

 きょうは、カウンセリングを終えてもまっすぐ<団地>へ帰るつもりはなかった。ゆうべ<ターミナル>を起動させ、<機構>が管轄している医療施設のここ一ヶ月の新規入所者リストを調べたのは、ある人物がいったいどこの施設に収容されているのかを知りたかったからだ。そして怜が今朝、イグニッション・キーをポケットに突っこんで部屋を出てきたのは、その人物に会うためだ。

 鳴海を連れて。

 彼女には何も言っていなかったし、もちろん稲村にもなにも相談していなかった。怜はあの老婦人を訪ねるつもりだった。

 稲村が言うまでもなく、老婦人の移送先はあっけなく見つかった。なにより<機構>の保健局管理しているリストに、彼女と病院の名前があった。事故などで死亡した人間が身元不明の場合、<機構>が発行する公報にその詳細が載せられて一般に公開されるが、それに近いのが保健局発行のリストだった。身元不明、または後見人なしの患者が<機構>管轄の病院に入院した場合、または移送された場合、必ずそのリストに掲載される。リストによれば、彼女は市内の医療施設に収容されていた。怜が通った<施設>は<機構>の直轄ではなかったが、老婦人は設備のととのった<機構>直轄の病院にいた。大規模な施設ではなく、比較的小規模と思われる、おそらくそれまで彼女が住んでいた<施設>によく似た、郊外の病院に。

 鳴海を連れて行きたかった。三人で話をしたかった。鳴海は老婦人の『終わり』を『見て』しまうのだろうか。見えるのだったら、その風景を聞きたかった。彼女らは、いったいどんな風景を抱き、この世界で過ごしているのか、それを知りたかった。彼女たちが抱える世界の中で、どんな風景を想起しているのかを。

 スロットル・ペダルを踏み込んだ。軽く砂を蹴立ててスタート。まばらに灯ったままのナトリウムランプが霧ににじみ、なんだか泣きたくなるような寂しい朝だった。やがて軌道の終点が見えてくる。その角を曲がると、霧の中に黒く並んだ防風林がつづく。もう怜の車の排気音は、<施設>まで届いているにちがいない。インストゥルメント・パネルの時計はもう午前九時を過ぎている。<施設>の入所者たちはもうみなベッドから出て、自室で、またはあの二階の談話室で朝食をとりおえたころだろう。風車は霧の向こうで影絵のようで、プロペラは止まっていた。プロペラを回すほどの風が、今朝はない。怜はエントランスの前に車を寄せ、そしてエンジンを止めた。あの日、鳴海を迎えに来たときのように。車を降りてエントランスの扉の奥がやけに暗く、いまがいったい何時なのか、怜は腕時計を見た。


 待合室は静まり返っていて、空調も止まっていた。中庭に通ずる掃き出し窓も閉まっていて、ただ受付の女の子がキーを叩く音が響いていた。

「おはようございます」

 怜ははじめてここに来たときを思い出し、わざと不安げな顔をつくってみた。鏡を見たなら、自分はどんな顔をしているのだろう。あの春の日、はじめてここに来たときのような顔はしていないにちがいない。それだけはわかった。

「おはようございます。白石怜さん」

 受付の女の子は、いつも怜を初診の人間のように扱う。笑顔は自然だが、親しみはわかなかった。

「そこにかけてお待ちください」

 その言葉も初診の際とまったく同じだった。怜はベンチシートの灰皿の前に腰かけた。

 ポケットから煙草を取り出す。そして、躊躇するふりをした。

(喫わないんですか)

 怜は火を点けた。聞こえるはずのない声が聞こえるはずがない。振り向いても鳴海はいなかった。

 深く煙草を喫った。きょう一本目の煙草だった。いつもより辛い。風邪でも引いたのか。ただの気のせいだろうか。

 受付の女の子はなかなか怜を呼ばなかった。廊下の角を曲がった先にある稲村の部屋からも、怜を呼ぶ声は聞こえなかった。<施設>の中に、自分と受付の女の子のたったふたりが取り残されているのではないかと、そう思った。静かだったのだ。

 たっぷり時間をかけて煙草を一本灰にした。薄暗い待合室から中庭を眺め、まだ霧が濃く淀んでいることを確認する。まだ夏は続くはずなのに、怜はかすかな秋の匂いを感じていた。自分が<夏が終わること>を望んでいるから感じたのかもしれないが、どこか懐かしいような、そして寂しいあの匂いを、怜は鼻腔の奥で感じていたのだった。

 やがて受付の女の子が怜の名を呼び、廊下の角を曲がった先で待つ稲村との一時間の対話を済ませ、ふたたび待合室のベンチシートで煙草を喫った。霧はもううっすらと晴れてきていたが、それでも太陽がどこにあるのかはわからなかった。煙草を指にはさんだまま、怜は待合室の窓を開けた。室内から吹き出ていく空気の中に、自分の匂いをかいだ。一歩芝生に足をおろし、潮のにおいが強い風を全身に浴びた。霧のひとつひとつの粒子が頬を触っていく。繭に包まれたような太陽を探し、怜はふと、終わったんだなと息をついた。診察はあと一回残っているが、怜の日常はすでに、ここへ来る以前の流れへとシフトしていた。ぽつんと日常の中に生まれたもうひとつの日常は、この濃い霧の向こうへと消えていくような気がした。けれど怜は、<施設>を軸にした時間の流れが霧にまかれて消え去る前に、鳴海をここから連れ出さなければならなかった。怜の知る日常へ、彼女をいまいちど連れ出さなければならない。

 怜は鳴海を待った。きっと彼女は降りてくる。気づけば煙草はフィルターまで灰になっていた。芝生に灰を散らさないよう、そっと灰皿で煙草の頭をつぶした。

 受付から聞こえるキータッチの音が、時折途切れるようになった。夕立が去ったあとの雨どいの音だ。奇妙なポリリズムだった。怜はそっと、窓を閉めた。すると、それまで聞こえていなかった音楽が耳に届く。オルガンだ。稚拙な旋律は、怜を春のあの日まで引き戻す。初めてここへ来たときも、オルガンが聞こえていた。不思議な既視感だ。

 結局、自分は最後まで外来患者だった。鳴海や明日香や真琴、そして老婦人、あるいは稲村たちここの入所者たちのいったいどこがおかしいのか、どこが悪いのか、なぜ<施設>に入所しているのか、怜には最後までわからなかった。街とここを行き来する自分が見ても、彼女たちがとりたてて<狂っている>とは思えなかったのだ。老婦人が言うようにおたがいがおたがいを映す鏡なのだとしたら、それぞれの向かい合った姿が見えたはずだ。鏡に映った自分の姿が。

 見えたのだろうか。

 それすらわからない。ここに通った数ヶ月間は、いったいどんな意味を持つというのだろうか。

 怜は待っていた。

 煙草を喫おうかとも思ったが、やめた。苦く辛いだけだ。待とう。

 霧はまだ流れていた。


 鳴海が階段を一階へ下りたとき、待合室の長椅子に彼の姿があった。うっすらと煙の余韻があったから、彼がどのくらい前に煙草を喫っていたのか、想像がついた。彼は、待っている。

 わたしを。

 直感的にそう思った。彼はわたしのことを待っている。

 明日香や真琴がいつカウンセリングを受けているのか、詳しい日時はまったく知らない。興味もないからだ。それはたがいがそうであって、なにも自分が特別他人に無関心というわけではない。ここではみんながそうなのだ。しかし鳴海は、彼が何曜日にここに来て、あの長椅子で煙草をふかすのかを、知っていた。『知っていた』というのは正確ではないかもしれない。憶えてしまった、そう言いかえればいいだろう。彼のカウンセリングの次が自分なのだ。

 あの春の日、怜がはじめて<施設>に姿を見せたとき、つい声をかけてしまったこと。いつか、中庭で怜と対面したときのこと。あのときの鳴海は、妙に気分が高揚していた。まるでステップを踏むように芝生を歩いた。真琴はときどき一階に下りてくるが、明日香はカウンセリング以外で階段を下りることは、まず絶対になかった。けれど鳴海はこの中庭が好きだった。案外、という但し書きがついてしまうが、天井のない空間に身を投げ出すことができるのは、<施設>の中でここだけだった。どうしようもないくらいに自分を壁の中へ押しやってしまったとき、<施設>の白い壁と冷たいリノリウム張りの床はときどきつらすぎるのだ。壁も天井もない場所へ出てみたい。ただし、外とつながっていない場所で。その望みをかなえてくれるのが<施設>の中庭だった。

 中庭でステップを踏んでいたとき、待合室に彼がいた。彼はふらふらと芝生に足をおろした。そう、鳴海には、怜がふらりと揺れながら中庭に出てきたように見えた。鳴海は会釈をした。彼も返した。鳴海はまたステップを踏んだが、怜は固まってしまったかのようにその場から動かなかった。そのうち稲村が鳴海を呼んだ。医師の声に驚いたのか、怜は身体をびくりとさせた。そんな怜の顔を見て、鳴海は笑った。自然に笑えた。あのときの自分が不思議で仕方ない。

 怜は長椅子に背をあずけたままで動かない。少し傾いた頭は、まるで日を浴びてうたた寝をしているようにも見えた。今朝から立ち込めていた濃い霧はいま、ようやく晴れつつあった。レースカーテンを透したような淡い陽で、案外うたた寝にはぴったりなのではないかと、鳴海は待合室とエントランスの境界線に立ち、思っていた。怜は鳴海の接近にまだまったく気づく様子がなかった。

 稲村とのカウンセリングまではまだ少し時間的余裕があるはずだった。万事が時刻にルーズ、というよりも時間の流れそのものが個々人でまったく異なっているこの<施設>にあって、医師たちとのカウンセリングの開始時刻と食事の時刻はほぼぴったりと決まっていた。だから入所者たちは、自分のカウンセリングの日、時計を見る回数が一回だけ普段より多くなる。

 鳴海は並ぶ長椅子の最前列へ歩む。怜が座っている場所だ。淡い日を浴びた怜の横顔は、まさに昼寝をしている子どものそれだった。人は眠っているとき、こうも無防備になる。人だけではない、おそらくは動物はみんな。

 そっと怜の隣に腰をおろした。ぎしりと長椅子がふたり分の重さにあえぐ。その音で怜は目を覚ましたようだった。本当に眠っていたらしい。

「やあ」

 最初に声を出したのは怜だった。鳴海は正面を、中庭を向いていた。

「こんにちは」

 抑揚もなく、鳴海は応える。

「いつから、ここに?」

 怜は顔を両手で一度こすり、二度ほど頭を左右にふった。まだ眠気が残っているらしい。

「つい、いま」

「そう。気がつかなかった。眠ってしまった」

 待合室が変に静かだと思ったが、受付のカウンターに女の子の姿が見えなかった。昼食だろうか。それにしては早いか。

「煙草、喫わないんですか」

 鳴海は言ってみた。すると怜は目を三度、四度と瞬かせて、灰皿を指さした。

「ここでは僕以外に煙草を喫う人間がいないんだよね? だったらほら、これは喫いすぎだ」

 吸殻は三本。それが多いのか少ないのか、鳴海には判断できなかった。

「ついさっきも一本喫ったばかりだ。それなのに眠ってしまうなんてね」

 まるで煙草に覚醒作用があるかのごとく怜は笑ったが、鳴海は笑わなかった。

「霧が、晴れたみたいだ」

 怜のセリフはひとりごとのような響きがあった。誰にたいして言ったわけでもなく、強いてあげるとするならば、晴れてしまった霧にたいしてか。

「今朝はすごい霧だった。鳴海さん、起きてましたか?」

 怜はこうしてときどき敬語が混じる。

「起きてました」

 彼に倣う。

「あんな霧、ここしばらくお目にかかったことがない。電車で来ればよかった。ちょっとね、来る途中で後悔したよ」

「電車で来たんじゃないんですか」

「車だよ。ちょっとね」

 怜も鳴海も正面を向いたまま。中庭に向かって、ふたりそれぞれがひとりごとを吐いているようだ。

「これから、診察だね」

 前を向いたままの怜が鳴海に言う。霧のカーテンを強引に引いているのは誰か。鳴海は窓の外を向き、ぼんやりとそんなことを考えていた。

「白石さんは、終わったんですね」

「終わったよ」

 ふたりが重心を変えるたびに、長椅子がきしむ。その音だけが待合室に響く。

「カーテンが」

 鳴海の口をついて出た言葉は、勝手に彼女の感情から飛び出したセリフだった。

「カーテン?」

「いえ、霧がどんどん晴れていくのを見ていたら、まるでカーテンみたいだと思ったから」

 並んで座っているとはいえ、二人の距離はあんがい離れている。たとえば、怜の肩幅ひとつ分くらい。

「カーテン、んん、だったらそれはきっとレースのカーテンだな。暗いところから明るいところは見えるけど、その逆は見えない」

 あたりまえのことを、鳴海は思ったが、次の瞬間には彼の言葉にもうひとつの意味を見出していた。

「ここは、暗いですか」

 だから、訊いてみた。

「そんなことは言っていないよ。そうだね、今朝の霧がさ、本当にレースのカーテンだとしたら」

 怜はそこでいったん言葉を切った。

「レースのカーテンだとしたら?」

 鳴海が受けた。

「僕はその向こうが何も見えなかった。のぞくこともできなかった。今はこうしてさ、霧が晴れていくけど、今朝は何も見えなかった。見えなかったってことは、僕は部屋の外にいたってことだよね。レースのカーテンが引かれた部屋の外で、見えない窓の向こうをのぞこうとしていたったわけだ。僕がいたのは、外なのかな、内なのかな」

 怜はシートに深く背をあずけて、さもけだるそうに、つぶやくような口調でそう言った。

「ねえ、鳴海さん。どっちだと思う?」

 胸のポケットから煙草の箱を取り出した。喫いすぎだと言っておきながら、怜は箱から一本抜き出して、くわえた。

「君は、今朝の霧をカーテンみたいだと言った。僕もその通りだと思った。だったら、僕や君は、どっち側に住んでいるんだろう」

 怜は煙草をくわえたまま、なかなか火をつけない。ちらりと見ると、ライターを取り出してもいなかった。

「わたしは」

 怜はようやくオイルライターを取り出した。

「きっと、部屋の中で明かりを点けていたんだと思う。夜中に」

「どうしてそう思うんだい?」

 鋭い音をたてて怜はライターを点火した。

「きっと、この<施設>が、その……部屋だと思うから」

 怜は深く煙を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。

「自分が外から部屋の窓を見ているとは思わないのかい? 真夏の昼間にね、こう、道を歩きながら、風にカーテンがなびいているのさ。誰かいるのかな、そう思って部屋をのぞいてみようとするんだけど、あいにくカーテンはレースだ。明るいところから暗いところは見えない」

「白石さんはそう思うわけですね」

 鳴海は中庭を向いたままで、目の前を流れていく怜の煙草の煙を追っていた。

「いや」

 否定の返事に、鳴海は怜を向いた。

「思わないよ。言ったじゃないか。僕は、自分がどちら側にいるのかがわからないってね……。だめだな」

 怜のセリフの尻尾にくっついた言葉が、鳴海の耳にぶつかって肩から背中へ転がり落ちていった。

「だめ?」

「だめだな。平行線だ。まるで市電のレールみたいだ。終点は、海の底だよ。この話題はね、きっと君と僕のあいだでは上演禁止なんだ。終わりが見えないから」

「終わりが見えない?」

「君に引っかけていったわけじゃない。曲解したのならあやまるよ。そのままの意味なんだ。どっちが外でどっちが部屋の中かなんて、どうでもいいことだった。

 僕が君を待っていたのは、ああ、そうそう、待っていたんだけど、君を待っていた理由はね」

 怜はそこで言葉を切り、やけに大げさな瞬きを一度だけした。スローシャッターだ。

「お見舞いに一緒に行こう」

 中庭を向いて怜は言った。ふたりとも前を向いたまま。誰に向かってしゃべっているのか、たがいのひとりごとをたがいが拾っているだけのような、奇妙な寂寥が漂っていた。

「お見舞い?」

「有田さんのさ」

「有田さん」

 怜はシートから背を離し、両肘を両膝にのせ、頬杖をついた。

「復職が決まったんだ」

「え?」

「僕は環境調査員だ。いまも、これからもね。仕事に戻るんだ。来月から」

「……話がよくわからないけど」

「<機構>、統合社会管制機構は、ほぼすべての医療機関を管理している。いや、監視というべきなのかな。たぶんここの<施設>も例外ではないと思うんだけれど、不思議とここは<機構>独特の雰囲気がないんだ。ちょっとびっくりするほど閉鎖的で、前時代的だ。じつはね、稲村先生や、おそらく君や西さんが思っているほど、<機構>は閉鎖的な機関じゃないんだよ。末端構成員の僕にはくわしいことはよくわからないけどね、上層部のドロドロとか、そういうのはね。けれど、情報を一手に管理する能力はずば抜けて高い。そうでなければ、環境の激変をこのレベルで抑えきれているはずがないさ。シベリアが大穀倉地帯になってしまったっていうのにね。前世紀のスピードで二酸化炭素濃度が増加していれば、今ごろ僕も君も、海の底で泡を吹きながら会話をしてただろうさ。

 話がそれたね。そう、お見舞いの話だ」

 怜は煙草を一本抜いた。身体が欲して喫うわけではない。話の間を持たせるのに、煙草は非常に有効な小道具なのだ。とりわけ、自分のような大根役者には。怜は春の日、ここに座り、芝生でステップを踏む鳴海を、舞台を見るようにしていたことを思い出す。

「<機構>の構成員は全員が端末機を持っているんだ。万能ではないけれど、物を調べたりするのには便利なんだ。図書館に行くよりはずっとね。……今は持っていないよ。で、僕は調べてみたんだ。有田さんがどこに収容されているのかをね。すぐに見つかったよ。それで気づいたんだ。この<施設>はずいぶんと閉鎖的だってね。たとえば医療機関などの入所者リストは、僕のように<機構>の人間であって、そして公的な<パーミッション>があれば意外に簡単に読むことができるんだけど、ここのリストは読むことができなかった。たぶんリストそのものが存在していなかったんだと思う。それで前時代的だ思ったのさ。リストが存在していたとしても、それがもし紙媒体だとしたら、端末から読むことなんてできないからね」

 鳴海は相槌も打たず、ただ中庭をながめていた。隣に座っているのは誰だろう。聞いたことがある声だが、知っている人間のはずだが……。

「有田さんは、<機構>直轄の病院にいたよ。新市街じゃなく、旧市街のね。直接話をしたわけではないからよく知らないが、……元気みたいだ」

 元気みたいだ。

 そのセリフだけ、鳴海の知っている怜の声だった。力みのない、弛緩した声だった。いきなりのトーンダウン。きょうの怜はなにかがおかしい。それに付き合って座っているわたしも、おかしい。

「行こう」

 いつのまにか怜は煙草を消していた。どこまで喫ったのだろう。

「え?」

「お見舞いさ。一緒に行こう。だからきょうは電車で来なかったんだ」

 のりだした身を半身、鳴海に向けて怜は目を細めてみせた。

「鳴海さんを連れて行こうと思ったんだ」

 薄く煙がたなびく待合室で、ふたりは向かい合った。おたがいの半身だけを向けて。

「これから一時間、稲村先生と面談だよね。そのあとでいい。昼食のあとでもいい。行こう、有田さんに会いに」

「鳴海さん」

 怜の言葉をさえぎったのは、意外に鋭い稲村の声だった。

「時間ですよ、わたしの部屋に来てください」

 鳴海にとっては助け舟だった。稲村は廊下の角に立ち、両手を白衣のポケットに突っこんでいた。

「鳴海さん」

 稲村と怜の声が重なった。鳴海はどちらを向いていいか、一瞬逡巡する。

「行こう、鳴海さん。海を見に行くわけじゃない、ただの見舞いだ。何の問題もないよ。だから、稲村先生とのカウンセリングのあとでいいから、待っているから、行こう」

 怜は早口に言った。

「鳴海さん」

 稲村が呼ぶ。意図していないのに、早く席を立ち、稲村とのカウンセリングを受けなければならないのに、怜の声が腕を引いた。そして、<施設>を無言で出て行った老婦人の顔が瞬きのたびに眼前を漂う。不意に鳴海の脳裏にフラッシュ・バックするのは、あの白い部屋。怜は部屋の外からドアをノックしている。鳴海の名を呼び続けながら。断続的な排気音は、怜の自動車のエンジンだ。世界は外に向かって続いているのだ。彼は鳴海を呼び続けた。有田さんが君を待っているよ、早く行こう。

「待ってますよ、僕はここで」

 鳴海は怜の言葉をそっと受けとめて、席を立った。彼の言葉には応えることなく、また稲村の呼びかけに積極的な応対もすることなく、ふらりと長椅子を立った。ここは、どこだろう。覚醒しているのに、夢から覚めていないような、頼りない気分だった。

 鳴海には稲村の診察室が、ひどく遠く感じた。



   五一、花束


 鳴海が診察室に去ってすぐ、待合室におなじみのキータイプの音が響きはじめた。音のありかを向くと、受付カウンターの向こうに、上下する黒髪が見える。<施設>に通いはじめてからずいぶんたつ。怜は長椅子に座りなおし、中庭を眺めた。すっかり霧は晴れ、陽射しは強くまっすぐに、青い芝生を照らしていた。まぶしかった。芝の青を照り返し、夏の太陽は蛍光灯の灯らない待合室の壁や天井を、緑色に染めていた。風が芝を流れれば、きらめく葉の一枚一枚がまるで水面の小波のように、細かな模様を天井に映す。首をめぐらせ、怜は待合室の様子をひとつひとつ記憶に焼きつけた。壁に入ったひびの一本一本までを。

 この風景を、自分はいつ頃まで覚えていられるのだろう。

 この風景を、自分はいつ頃まで覚えていようとするのだろう。

 鳴海には、ここで待つと伝えてしまった。カウンセリングに要する時間は、外来も入院も関係なく、一時間だ。一時間後にここへ戻ってくればいい。怜は長椅子から立ち上がり、頭上にさざめく芝生の波のきらめきを感じながら、受付前を通過し、二階へ上がる階段に右足をのせた。

 一段一段上がっていく怜の足取りはしかし、けっして軽くはない。未踏の山に足を踏み入れ、一歩先、二歩先を見極めながら進むように。いまは<施設>の二階がずいぶんと遠く感じられていた。明日香や真琴たちに会うことすら、怜には少々億劫な気分だった。だから怜は、二階の談話室に誰もいないことを確認し、そのまま屋上へ上がる階段室の扉を開いた。

 あの耐爆ドアのような扉を開けると、停滞していたらしい階段室の空気が外側へ向かって吹き出した。霧の晴れた空がすぐ頭の上に広がっていて、見渡す屋上は照り返しが熱い。三六〇度、霧のなごりすら残さない夏の風景がどこまでも続いていて、遠くに望む新市街の窓がきらめいていた。

 屋上には誰の気配もなかった。けれどここの住人たちは気配を消す名人だ。温室にはあの子どもたちがいるのかもしれない。プロペラが風を切る音がやけに大きい。怜は温室の扉を開き、中へ入った。

 気温はさほど外気と変わらないのかもしれない。むしろ照り返しがない分、過ごしやすい。けれど湿度が高い。そして立ち込める濃厚な甘い匂い。温室の中は気圧がそれだけで倍になったような気がする。季節感のまったくない、あふれ滴る緑の空間だった。二度目の温室は、怜にとってあまり居心地がよくなかった。<施設>の屋上から見える風景と、ここの住人たち、何もかもをあきらめた雰囲気だけが漂う<施設>において、温室だけが異様だった。すべてに背を向けているはずなのに、この温室は向けるところを見失った希望だけがあふれているように感じたからだ。

 怜はしゃがみこんだ。そこは地表ではないのに、ひんやりとした空気がかすかに流れていて、触ることのできない透明で液状化した土の存在を、怜は霞みがかかった温室の中で感じていた。

 温室の中にいると、風力発電のプロペラの音は聞こえない。この温室は気密性が異常なほどに高い。エアロックを思わせるあの入り口は、案外本当にエアロックなのかもしれない。扉を開けたとき、なかなか強烈な圧で空気が流れ出ていくのは、温室の内部の気圧を上げているからに違いない。それは<機構>が管轄している防疫施設のシステムと同じだ。水と同じで、空気は気圧の高いところから低いところへ流れていく。常に室内の気圧が高ければ、外気は流入してこない。

 <施設>の人間はめったにこの温室を訪れないという。世話をしているのは子どもたちだけで、明日香ははっきりとここを毛嫌いしている。鳴海ですら、ここに上がってこようとはしないのだ。それは、この温室がすでに<施設>の人間を<施設>の屋上にありながら拒絶しているからだ。よりどころのない希望があふれ、それが物理的に高められた気圧で濃密な瘴気になり、<施設>の人々の気を奪っていくのかもしれない。

 怜はサーモスタットのかすかなうなりを耳にしながら立ち上がり、そして歩む。通路の両側から肩に触れるほど、色とりどりの花が咲いていた。さらにエアロックを抜け、ふたつめの部屋へ。あの赤いトマトが実っていた部屋へ。空気が冷たい。

 きょうもトマトは実っていた。赤く、たわわに。

「誰?」

 部屋の奥に小柄な人影が揺れた。

「……やあ」

 子どもたちだ。その声にも顔にも怜は見覚えがなかった。けれど、誰何する瞳の色には覚えがある。あの子だ。また会った。

「きょうは、彼はいないのかい?」

 少女は、その小さな身体にはあまりに大きすぎのバスケットを抱えていた。トマト、キャベツ、トマト、トマト、トマト。

「きょうのお昼に使うのかい?」

 少女はうなずかない。否定もしない。

「食べる?」

「いや、遠慮しておくよ」

 この子は、こんなに背が小さかっただろうか。

「ここが好きなの?」

 少女が訊いた。口調は真琴よりずっと大人びている。けれど声音が悲しいくらいに幼い。

「さあ。わからない。好きなのかもね。君は、どうなんだい?」

「これは、わたしの仕事だから」

「仕事?」

「仕事」

「そうか、仕事か」

 <施設>で「仕事」などという言葉を聞くとは思わなかった。

「わたしがトマトを作らなかったら、誰が作るの?」

 少女はまっすぐに怜を見つめ、そして、ふっと視線をバスケットのトマトへ落とす。

「……誰かがやるさ」

 怜はわざと挑発的な物言いをしてみた。彼女はどう反応するだろう。

「……誰もやらないわ。わたしがやらなきゃ、ここの誰も」

「君がこの温室の植物全部の面倒を見ているわけじゃないんだろう?」

 少女は細い首の上にのった小さな頭を、二度三度横に振った。

「なんであんな大きな風車が回っているのか、ここに来なければわからないだろうね。ここの温度は何度だい?」

「二七度」

「外気温が何度かわかるかい?」

「三四度」

「暑いね」

 少女はトマトを抱えたままでうなずいた。

「これだけの部屋を冷やそうとしたら、太陽光発電と風力発電を併用しなくちゃならないんだ。二四時間、一定の温度に保っておくなんてね」

「一定じゃないわ」

「そうかい?」

「夜は温度を下げるの。そうしないと、誰も眠らない」

「誰も?」

 怜が訊くと、少女はくるりと室内に首をめぐらせた。そうか、この植物たちか。

「眠くなったら、眠るだろうさ。そうは思わないのかい?」

 怜の言葉を、少女は理解ができないという風に、ゆっくりと首をふって否定した。

「そうか」

 怜は目の前の少女が不意に、明日香のショートヘアにダブって見えた。そうだ、目の前の少女は、明日香にそっくりだ。安易な想像が生み出した安易な相似かと怜は誰にたいしてでもなく首をふった。それをめずらしい植物でも発見したかのように見上げる少女の瞳は、おそろしく澄んでいた。白と黒がくっきりと分かれた、レンズのような冷徹な瞳だ。

「君はここが好きなのかい?」

「ここ、ここって?」

 怜ははっとした。少女は頭がいい。ものごとを覚えるのが早いとかいう、そういう頭のよさではないような気がした。少女の頭は、年齢のわりに回転が異常に早いに違いない。怜は(温室が好きなのか)、そのつもりで訊いた。けれどきっと少女はこう受け取ったのだ。

(この施設が好きなのか?)

 どっちにも取れる質問をした自分が悪いのかもしれない。「ここ」の範囲は案外広い。

「温室さ。この」

 怜は中腰になり、少女に視線の高さを合わせた。

「きょうはあの男の子はいないんだね」

 低く、つぶやくように言ってみた。けれど少女は応じなかった。バスケットを抱えたままで、まっすぐに怜の瞳を見つめるだけだ。

「そうだ。君にお願いがあるんだ」

 そのレンズ眼に怜は呼びかけた。

「なに?」

 バスケットは重くないのだろうか。怜はそう思ったが、持ってやろうという気分にはならなかった。

「花が欲しい。君たちだろう、稲村先生のデスクにいつも花を飾っているのは」

 少女は応えない。しかし沈黙が回答だ。少女は否定しなかった。それだけで十分だ。

「僕にもくれないかな。もしよかったら」

「誰かにあげるの?」

「部屋に飾るよ」

「綾瀬さんにあげるんじゃないの?」

 少女の言葉に怜は絶句した。温室へはひとりで来たことしかない。そもそもここに来るのは二回目だ。少女に会ったのも二回目だ。それなのになぜそんなことを言う? 理由は想像できる。自分が何年かぶりだという外来であること。だからここでは、それだけで街の中で放射能防護服を着ているよりも目立つ。それに、あの春の嵐の日、外へ飛び出した鳴海を自分が追って、土砂降りのアスファルトに転がったことはきっとここの誰もが知っている。知ろうとしなくても知れてしまうということは、真琴がその饒舌ぶりを発揮しなくともありえることだ。

「綾瀬さんのことが好きなんじゃないの? 白石さん」

 感情をまったく読みとることもできず、怜は少女の視線を正面で受けていた。

「さあ、……どうだろう」

 中腰から立ち上がった。暑いからだろうか、視界が一瞬白くなる。軽い眩暈だ。

「いいわ」

「え?」

「お花。欲しいのなら、あげるわ」

 少女はそう言うが早いか、バスケットを持ったまますたすたと歩き出した。

「こっちよ」

 バスケットを持ったまま、エアロックの向こうへ。怜は少女のあとをついて、もと来た通路を折り返す。

 扉は少女が軽く押すと簡単に向こう側へ開く。トマトの部屋の気圧がさらに花の部屋よりも高いからだ。探せばこの部屋のどこかに、明日香が喜ぶかもしれない高精度な気圧計が設置してあるに違いない。

「早く扉を閉めて」

 つと振り返り、少女の目が厳しい。怜はだまってそれに従う。

 それにしても、これだけの花や樹、野菜や果物がところせましと繁るこの温室が、無愛想な外観の<施設>の屋上に建っているとは、不思議な気分がした。大きな病院にアトリウムがあるのはめずらしくはない。そこに集う入院者たちの憩いの場所になるのもうなずける。けれど、ここ、<施設>の温室は違う。入所者たちは誰もここに集わない。みんな無視している。花や樹木はよく手入れされていて、通路や外壁にくもりひとつもなく、よく整備されているのは一目瞭然だ。なのに、誰も来ない。

 名前もわからない青い花が肩口をかすめる。むせかえるほどの芳香は意外に不快に感じない。怜は繁みの向こうへと見え隠れする少女の背中を追い続ける。まるで迷路だ。歩き続け、温室の広さを知る。ここの植物がみな水耕栽培だとすると、システムから水そのものの自重、おそらくは強化樹脂製と思しき天蓋など、すべての荷重は相当なものになるはずだ。そもそもこれだけの植物を栽培する水は、いったいどこから汲み出しているのだろうか。怜はここへ通うときにいつも目印にしているポンプ場を思い出す。住人が消え、荒地に戻ってしまったこの街に、水をくみ上げる揚水機もポンプも必要ない。けれど怜が通りかかるとき、いつもポンプ場からは、揚水機が作動する低いうなりが聞こえていた。

 ここの水か。

 そう考えると、ますます<施設>と温室の関係がわからなくなる。これほどの規模を持ちながら、入所者たちから無視されつづけているこの不思議な場所のことが。

 前を行く少女は歩きつづけている。立ち止まることもなく、温室の中をぐるぐると歩く。怜は呼びかけることもなく、ただついていく。少女のバスケットに次々と繁みに咲く花が摘まれていくのに気づいたのは、額に浮いた汗を三度目にぬぐったときだった。歩きながら、少女は器用に花を摘みつづけていたらしい。

 いくつかの角を曲がり、見え隠れしていた少女の背中が忽然と消えた。怜はそれでも亜とを追うことはせず、そっと少女が消えた角を曲がった。

 この部屋の通路の配置は、ぐるりと繁みの外側を一周し、その環状線から中心部へ、いくつもの放射通路が交差するというものらしい。部屋から部屋へと通ずるのはさしずめ主通路、というより外郭環状道路のようなもので、少女と怜が踏み込んだのは、外環状から伸びるスポークからハブへ向かう放射通路と、何本かの内環状らしい。背丈ほどもある草木が水上に屹立する温室の中で、怜はしばし方向感覚を失っていた。自分が今、環状線に立っているのか、放射通路に立っているのかもわからない。だから少女が消えた曲がり角が、ハブへ向かっているのかリムへ向かっているのかもわからなかった。ただ、目の前にぽっかりと広がった空間に、突然の広がりを見せた空間に、一瞬の眩暈を感じていた。

 そこは花畑だった。

 まるで水耕栽培とは思えない。水耕栽培独特の配管も見当たらなければ、列をなす畝があるのかもわからない。花は勝手気ままな場所に、自分の意思で見つけた場所に、ただ咲いていた。

 ヒナゲシ、モーブ、ヘリオトロープ、プリムローズ。気の狂った画家がパレットに溶いた絵の具をでたらめにキャンバスにぶちまけたならこんな色になるだろう。統一性もなにも見当たらない、ただ気に入った花だけをそこに植え、咲かせているような場所だった。

 羽虫たちの羽音も聞こえない。風の音も聞こえない。見上げても太陽は透明な天蓋に邪魔されて見えない。怜は花畑の中心に歩み寄ることもできず、立ち尽くしていた。

「白石さん」

 呼びかけられ、振り向いた。少女だと思っていた。バスケットを抱え、冷徹なレンズ眼を向けて、突っ立っているのだと思った。

「鳴海さん」

 後ろにたっていたのは鳴海だった。右手に花束を抱えて。

「あの子が、くれたの」

 鳴海も目もまた、あの少女と同じだった。レンズのような、ガラス球のような、悲しい目をしていた。

「女の子は」

「降りていったわ。自分の部屋に」

「そうか。これ以上僕の相手はできないってことか」

「この花と、そう、トマトをくれたわ。白石さんにって」

 鳴海は左手にトマトを一個、持っていた。差しだした手は花畑ではいつもよりずっと白く、色彩が欠落して見えた。なにも色の塗られていないキャンバスそのものに見えた。だから、鳴海の手のひらのトマトは、画用紙に一滴たらした、パレットから溶いたばかりの絵の具のようだった。

「トマト?」

「白石さんの好物だって」

 怜は鳴海からトマトを受け取った。赤く、熟れすぎない程度に熟れていた。

 空調が作動したらしい、腹に響くようなサーモスタットの稼動音がふたりを包み込む。それは憂鬱な耳鳴りのようでもあったし、寝不足の翌日に感ずる偏頭痛のようでもあった。

「嫌いじゃないけどね」

 手のひらにトマトをのせて、そっと握った。つぶれないように、トマトの感触を確かめるように。

「きれいだ」

 鳴海の右手の花束は、すべてがコスモスだった。秋の花だ。少女が歩きながら摘んでいた花は、鳴海の花束ではなかったのだろうか。少女はコスモスなど一輪も摘んでいなかった。

「それ、持っていこう。有田さんに」

「これを?」

「お見舞いさ、花束くらい持っていかないと、格好がつかないよ。あいにく、僕は街で花を売っている店なんて知らないんだ」

 夏の扉はまだ開いている。なのに、少女はコスモスを摘んだ。ひょっとすると、鳴海が右手に抱えている花束が、秋の扉を開く鍵のひとつなのかもしれないと、怜は思った。

「行くよね、有田さんのお見舞い」

 鳴海の表情は硬かった。まるで、初めて待合室で顔をあわせたときのような。鳴海の扉はまた、内向きに閉じてしまったのだろうか。

 怜は、鳴海の扉をふたたび開ける鍵など、持ってはいなかった。


 これではまるで拉致だ。視界の片隅の、ガラスに頭をもたれる鳴海の横顔がよく見えない。膝の上のコスモスの花束が、エンジンの振動にあわせて揺れていた。エンジンの振動にあわせて、鳴海の膝も震えていた。

 空は快晴。今朝の霧など嘘のようだ。強制執行がかけられた荒地を突っ切る港湾道路は一直線、遠く新市街は霞みがかかったように夏の空気に沈んでいたから、道路が空まで続いているようにも見えた。それにしても、暑い。

 老婦人が入院している病院は、<施設>からはちょうど真西の方角に当たる。南中した太陽は、助手席の鳴海ばかりを狙っている。シフトレバーにのせた怜の左手も暑い。

「元気ですか」

 怜の口をついて出た言葉は、あまりにも突拍子もなく、そして手紙の書き出しのような短いセリフは、言葉を発した怜自身、誰に向けたのかよくわからなかった。

「わたしが、ですか」

 車内にはたったふたりしかいない。だから、片方が発した言葉は、ほぼ無条件にその相手に向けられたものなのだ。

「たぶん」

「いつもと、おなじ」

「それはよかった」

 窓にもたれたまま、鳴海はちらりとこちらを向いたようだ。

「無理に誘ったつもりはないんだけど」

 怜が言うと、そこではじめて窓にもたれていた頭を上げた。

「ずいぶん、強引でしたよ。……昔、措置入院させられたときみたいだった」

「措置入院? そんなことがあったのかい?」

「精神保健衛生法に基づく措置入院。だったかな」

 助手席の鳴海は力なく微笑んでいた。

「そんな人たちばかりがあそこに集まってるのよ。……有田さん、あそこから出られてよかったんじゃないかなって、そう思います」

「本当にそう思っているのかい?」

「どうしてですか」

「そう思っているのなら、あの日、どうして……その」

 スロットルペダルを踏み込む足が少し浮く。

「あんなに取り乱したんだ?」

 道の両脇はポプラ並木。ささくれ立ったアスファルトに、かすれた白いラインが途切れ途切れにつづく。

「……さあ」

 また鳴海は窓へもたれかかる。

 壊れた信号機、水があふれる用水路、巨木と化した並木道、捨てられた家。その向こうに新市街、そして裾野に広がる旧市街地が見える。老婦人の病院は、新市街と旧市街の境界線にあたる、斜面に立っているはずだ。怜はそれっきり口をつぐんだ。鳴海もまた、膝にコスモスをのせたまま、だまっていた。


 受付でIDの提示を求められた。終日エントランスを開放している<施設>とはえらい違いだ。けれどリーダーを通し、身分を確認する作業は十秒とかからない。受付の係員にとってそれはルーティンワーク以外の何者でもなかった。だから<機構>のメンバーが顔色の悪い少女を連れていたとして、なによりここは病院だから、係員は何も言わなかった。だまって通路の奥へ導かれた。

 その施設はエントランスを抜けると、なんとも居心地の悪い渡り廊下を渡らされる。斜面に建てられているゆえ、エントランスから病棟まではゆるやかなスロープが続いていて、ガラス張りの天蓋(あの温室のようにガラスであるとの確証はまったくないが)は廊下全体を覆っていた。両脇は森だった。館内は冷房がほどよく効いていた。エアコンの効きすぎで寒いくらいの<施設>とは違う。

 コスモスの花束を抱えて、鳴海は終始無言で怜のあとを歩いた。スロープが頂上に到達し、いやに自然光がまぶしい本館のホールに入っても、一言も口を利かなかった。怜はスロープとホールをさえぎるらしい肉厚の防護扉を一回指ではじくと、ナースステーションに向かった。エントランス壁面に案内図が掲示されていて、それで怜はこの建物はコの字型の<施設>とは違い、ナースステーションがある本館を中心に、花びらが開いたような放射状の配置になっていることを知った。ステーションに詰めている看護婦に怜がなにごとか尋ねている際も、鳴海は防護壁に寄りかかって、中空を見つめていた。タイル張りの床が陽射しを反射して、鳴海の顔をいっそう白く照らしていた。

 怜がステーションでの質問を終え、鳴海のそばに戻ったときもまだ、彼女は中空を見つめていた。まるで無数に浮かぶ塵のひとつひとつを数えているかのように。

「行こう」

 ホールはにぎわっていた。がらんとした<施設>のエントランスとはくらべるまでもない雰囲気で、けれどすれ違う人々はみな顔色が悪かった。ひとめ、どこかに病を抱えているのがわかる彼らの姿は、それだけで<施設>とは異質だった。その中に鳴海が溶け込んでいくのもまた、怜は居心地が悪かった。

 この病院は精神障害者のためだけの施設ではない。あらゆる病に対応させた、<機構>が各地に建てている医療機関で、だから発電所の後遺症がいまだ残っているらしい老婦人もここに収容されたに違いない。入所者たちのプロファイルはすべてコンピュータで管理されていた。電力の供給は、<機構>の施設の中でも優遇されているらしい。それはそうだ、世界各地で病に倒れる人間の数は、新たに生まれる人間の数を圧倒している。<機構>にとって、海水位の上昇以上に、人口の激減は最重要課題だった。歯止めが効かないのだ。病原菌やウィルスによる疾患ではない、自殺による人口の減少が。

 わざとらしいほどに病棟の照明は明るい。それに色温度の高い照明がまったくない。自然光を積極的に取り入れているほかは、いわゆる電球色の照明が大半を占めている。ここまで気を使わなければならないほどに、人間は脆弱だったろうか。怜はなぜか<施設>の談話室を思い出していた。照明はすべて青白い蛍光灯だった。そこかしこに設置された観葉植物はみなイミテーションだった。屋上には<機構>の研究所でもなかなかお目にかかれないほどに徹底管理された温室が設置され、風車が回り続ける前世紀の色が濃すぎるあの<施設>を。そこから連れ出した少女は、怜のあとを足音もたてずについて来る。それにしても、鳴海の肌の色と、この建物の内壁の色が同期する。白すぎる。

 老婦人の病室は、花弁状(というよりは雪の結晶に近い)に開いた病棟の突端に部屋を与えられていた。一五六号室、北側の斜面。ドアはみな開け放たれていて、中の様子が伺える。テレビの音、音楽、鮮明な画像、ノイズのない旋律。怜のあとをついて歩く鳴海の耳に、明日香のラジオのひどいノイズが流れ出す。

 やがてふたりは突端の部屋に到達する。個室だった。受付の係員が老婦人に二人の来訪を知らせていたのだろうか。老婦人はベッド脇の椅子に腰かけ、ナイトテーブルにマグカップを載せて、ふたりを迎えた。

「こんにちは」

 老婦人の挨拶に、怜はすぐには返事ができなかった。ひさしぶりに肉親に出会ったような気分だった。鳴海は部屋に入ってこない。

「おひさしぶりね、環境調査員さん」

 明日香が怜を呼ぶように、老婦人は名前で彼を呼ばなかった。それでも怜はいやな気がしなかった。なぜ老婦人がここに収容されたのか、それを容易に知ることができるのは、<機構>のメンバーに限られる。それを老婦人は彼女なりに茶化してみたのだろう。

「元気そうです」

「このあいだは、ちょっと調子が悪かったのよ。風邪を引いたようなものだったの。鳴海さんには心配をかけたわね」

 鳴海は部屋と廊下の境目で、コスモスに顔をうずめるように突っ立ったままだ。

「鳴海さん」

 怜は振り向いて彼女をまねく。それでも鳴海は一歩も動こうとしなかった。まるで機嫌を損ねた幼い子どものように。

「居心地はどうですか。あの<施設>とくらべて」

「知り合いがひとりもいないのって、気楽だけれど寂しいものね。あそこでもそんなにみんなと話をしたわけじゃなかったけれど、知った顔がひとりもいないのって、それはそれで寂しいわ」

 そう言いながらも、老婦人は手放しにふたりの来訪を歓迎する姿勢は見せなかった。かすかな拒絶を、怜は感じ取っていた。それが自分に向けられた拒絶なのか、鳴海に向けられたものなのか、ふたりに向けられたものなのか、笑顔が邪魔をする。

「具合は、いいんですか」

「風邪を引いたようなものだといったでしょう。大げさなんですよ、稲村先生も河東先生も」

「それだったら……、安心しました」

 怜は椅子に座る老婦人の正面に立った。窓が大きい。嵌め殺しで、森の向こうの旧市街地がよく見えた。なるほど、建物が放射状に建っているのはそういう理由か。

 穏やかな女性の声で館内放送がかかる。誰かが誰かを呼んでいる。ここではそういう人間関係がある。良くも悪くも、ここは<街>なのだ。

「至れり尽せりで、かえって居心地が悪いわよ」

 ポットから紅茶を注ぎながら、老婦人は笑った。あなたも飲む? 老婦人の目がそう訊いていたが、この部屋に入院者以外のマグカップがあるとも思えなかったので、あえて無視した。鳴海はドアに寄りかかり、じっとこちらを凝視していた。その目が、まさに監視カメラのレンズに見えて、怜は表情を鳴海と自分の間に置き忘れたことに気づいた。あるいは彼女が怜の表情を奪ってしまったのかもしれない。彼女に向かって言うべき言葉、向けるべき表情が思いつかないのだ。なぜ、そんな顔をしている? 鳴海という少女がわからない。ひとたび感情が高まると手がつけられない。なのに普段は手のつけどころがない無表情だ。あの芝生で見せた笑顔、ひまわり畑で見せた表情は何だったのだろうか。

「鳴海さん、元気そうね。まだ、『終わり』は見えるの?」

 監視カメラは瞬きもしなかった。老婦人の言葉に返事もしなかった。老婦人はそれを意に介することもなく話し続けた。

「西さんは相変わらずラジオを聴いているのかしら。ここはいいわよ、有線で気象通報が聴けるわ。今度は、あの子も連れていらっしゃい。芹沢さんはどうしているのかしらね。西さんと一緒に建てている家はもうできたのかしら。どう? 鳴海さん、何か聞いている?」

 怜は鳴海に向かって話し掛ける老婦人の言葉がすべて、鳴海に対する攻撃のように聞こえた。憎しみも悪意も何もない、攻撃。鳴海に対してではなく、鳴海の中の誰かに対して。よくはわからないけれど。

「ここは見晴らしがいいのよ。白石さん、ここへいらっしゃい」

 老婦人は怜を窓辺に招き寄せた。それに従う怜。

「手稲から石狩、あれがテレビ塔ね。まだ建っていたのね。天気のいい日は、江別のずっと向こうまで見渡せるのよ。今は一日、こうして外ばかり見ているわ。ここには談話室みたいな場所もなくてね」

 手のひらでマグカップを包み込み、老婦人は窓に目をやる。斜面を下っていくと、ぎっしり詰まっていた家並みがまばらになる。平野に出たとたん、それは途切れ、緑の海が地平線までつづく。ぽつりぽつりと送電塔が並んでいるのが見えるのは、<施設>の屋上からの風景と同じだが、高度が違った。本当に見晴らしがいい。

「どうでしょう、外へ出てみましょうか。内緒だけれどね、ときどき散歩をしているのよ。建物を出るとね、いい散歩道があるのよ」

 言うと老婦人はマグカップをナイトテーブルに戻し、立ち上がった。発電所の事故の後遺症が深刻だとはとても思えなかった。

 鳴海はまだだまっていた。


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