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夏の扉  作者: 能勢恭介
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   四九、月夜


 怜はためらっていた。ベッドに腰かけ、枕に片肘をついて。ナイトテーブルの上には<ターミナル>が載っていた。電力の安定供給が望めなくなったいまでも、<機構>がメンバー全員に貸与している簡素な端末機。バッテリーで駆動するが、発電所とは縁遠い遠隔地で行動しても、充電なしで最大で百時間は作動する、時代遅れの最新型だ。怜は知っていた。調査員の誰もが<ターミナル>を携帯していても、けっして信頼せず、紙とペンで書くメモを重視していることを。何よりメモ帳は誤って落下させても壊れない。しかしメモ帳は<機構>上層部から発信してくるメッセージまでを表示できない。だからメンバーは<ターミナル>が役立たずだと知っていながら、手放せない。そして怜は最後にその端末に電源を入れたのがいつなのか、思い出せない。休職してからこちら、とりわけ<施設>に通いだしてからは一度も電源を入れていない。バッテリーはとっくに切れているはずだ。

 怜はソケットから外部電源をつないでもなお、<ターミナル>の電源を入れることに、まだためらいを感じていた。電源を入れた瞬間から、またもとの日常がたやすく戻ってくる、そんな気がしていたからだ。戻るのが嫌なのだろうか。いまの生活を気に入っているのだろうか。<施設>と団地を往復する、この奇妙なもうひとつの日常を。

 春分からこちら、怜は<機構>からのメッセージの類をまったく受け取っていない。いったいいつまでこの休職状態が続くのかもわからない。休職を宣言されたのが唐突ならば、おそらく復帰も唐突なタイミングでやってくるにちがいない。すでに<ターミナル>には、<機構>からの通知が舞いこんでいるかもしれなかった。だからなおさら、電源を入れづらい。

 十七号棟の向こうに焼け爛れて流れていく赤い雲が見えた。夏の夕刻、半袖がちょうどいい。暑くもなく寒くもない。エアコンを止めようか迷っているうちに、外気温と室温の差異から判断したコンピュータがかってに止めてしまった。エアコンがとまった室内はやけに静かだ。空調が止まってしまえば、耳が痛くなるくらいなにも聞こえない。<団地>のそれぞれの部屋は防音も抜群によかった。そして怜は稲村の言葉を思い出す。

 自分は選ばれた人間だったのだろうか。

 そうは思わない。自分で選ばれようと思っただけだ。願わず選ばれることと、意図して選ばれることとの隔たりは大きい。はてしなく大きい。自分は、選ばれようと思って選ばれた。だから<団地>にも住むことができた。両親を海の底に沈みかけた錆だらけの街から、<機構>が管理する保養所に移転させられたのも、自分が選ばれようと思って選ばれた人間だからだ。

 立ち上がり、窓辺に立った。明かりを点けていない室内からは、夕闇の空がよく見える。十七号棟の窓に灯る無数の明かりは、それぞれにさまざまな色合いで、その向こうにあるはずの生活を想起させてくれる。怜は蛍光灯があまり好きではなかったが、遠くから見る緑がかった明かりは、嫌いではなかった。

 静かにカーテンが閉まるように、怜の過ごした物語が終わりに近づいている。<ターミナル>を取り出し、ナイトテーブルに置いた瞬間、そして電源を入れる前から操作方法を反復している自分。怜は自分が環境調査員であることをはっきりと自覚した。<施設>に通いだしてから、自分のことを<機構>の人間だとはっきり自覚するようなことはほとんどなかった。だから、思った。<施設>を軸に回ってきた短いストーリーは、もう終わろうとしている。そして、遠くない未来、閉じた扉をこちら側から開けることはできなくなる。もちろん、扉は向こう側から開くこともない。それどころか、誰もその扉の存在に気づかない。だから開けようとも思わない。

 怜は煙草を一本抜き出して火を点けた。眠っていた空調が稼動する。居心地がいい反面、<機構>が推進するシステムはみな、おせっかいのような気がする。ほっといてくれ、たまにそう言いたくなる。

 そうか、<施設>があんがい居心地がよかったのは、<機構>から見捨てられたように放置されていたからだ。まるで無視するように。

 煙草を喫いながら、春からこちら、<施設>での記憶を巻き戻して再生する。初診の際、向かい合った稲村、気がつけば饒舌になっていた自分、中庭、灰皿、鳴海、談話室の風景と明日香、真琴、そして老婦人。

 老婦人はどこでどうしているのだろうか。いま怜は、自分が彼女にはどう見えているのか、尋ねてみたかった。いまでも彼女は怜に、鏡の話をしてくれるだろうか。まだおたがいを鏡に見立て、背を向け合っているのだと穏やかな笑みを浮かべて話してくれるだろうか。あのふくよかで柔和な微笑で。

 一本すっかり煙草を灰にしてしまうと、怜は一瞬息を止めた。そして目を閉じた。何の前触れもなく目を閉じたとき、瞼の裏によみがえってくる光景はなにか。それを知りたかった。誰が怜を呼ぶだろうか。誰も呼んではくれないだろうか。薄く目を開く。漂う煙は瞬く間にダクトへ吸い込まれていく。怜の周囲からなじんだ煙草の匂いが失せていく。大きく嘆息。もういちど暮れゆく空を見上げて。

 そして、<ターミナル>の電源を入れた。


 青く沈んだ夜、鳴海は部屋を出、談話室を過ぎ、階段を下りた。足音を忍ばせて、一歩一歩降りた。一階に下りると、いくぶん空気が濃くなったような気がして、鳴海は深く夜気を吸い込んだ。室内にいるはずなのに、空気は青く澄んでいて、夜風に当たっているような、穏やかな心地よさがある。鳴海は待合室の掃き出し窓が開いているのではないかと思ったが、見てみると窓はしっかりと施錠されていて、開けられた形跡はなかった。月の明るい夜で、明かりもないのに待合室は、淡く白い光に照らしだされ、灰皿が月光を受けて鋭く輝いていた。

 カーテンが引かれた受付の向こうはうかがい知ることもできず、けれど鳴海はいつもの女の子がキーを叩き続けているような気がした。彼女はどこで休んでいるのだろう。稲村の部屋も、事務員たちの部屋も、鳴海は知らない。子どもたちの病棟は一階の奥にあると真琴が教えてくれたが、稲村たちも一階のどこか廊下の奥に部屋を持っているのだろうか。

 待合室を離れ、常夜灯と月が照らす廊下を、音楽室とは反対に折れた。外来用のトイレがあり、水面のようにのっぺりとつづく廊下が一本、ずいぶん長く奥まで伸びている。稲村たちはこの奥にいるのだろうか。部屋を出るときに時刻を確認してこなかった。いいかげん真夜中だ。彼らだって、もう深い眠りについているにちがいない。

 左側は窓。外は驚くほどに明るい。車寄せに突っ立っている樹がアスファルトの上に影を落としていた。光がわずかにも射していれば、影が落ちるのだ。光と影は、常にともにあるのだ。

 鳴海は満月の深夜、電話を探していた。確か、そう、<施設>に一台、公衆電話があったはずだ。かすかな記憶と、誰かの言葉。はたして回線が生きているのかどうか、それはまったく頼りない。おそらく電話があったとしてもそれは形だけのもので、受話器の向こうの誰かの部屋につながっているのかというと、きっとつながっていない。鳴海はなぜか確信を持ってそう想っていた。

 だから電話の前に立ったとき、すぐには受話器を取りあげなかった。そして鳴海はコインもカードもなにも持っていなかった。それに、わたしは誰につながろうとしているのだろう。

 わかってる。

 彼だ。

 ただ、彼と話をしてみたかっただけだ。

 彼もいなくなってしまうのか、あの部屋から出て行くのか、訊いてみたかっただけだ。彼もまた、鳴海を置きざりにしてあの白い部屋を出て行く日が来てしまうのだろうか、と。

 受話器を握った。フックから取りあげた。月の光を浴びて、鳴海は受話器を取りあげ、耳にあてた。わたしは電話のかけ方を知っている!

 けれど耳にあてた受話器からは、リングバック・トーンも空電音もなにも聞こえなかった。あたりまえだった。カードもコインも入れずに、いったいどうやって通話ができるというのだろうか。苦笑がもれそうだ。でも鳴海は月の光を浴びた彫像のように、眉ひとつ動かすことができなかった。受話器を握ったまま、立ち尽くしていた。せめて、通話中のコールでも、交換台からの警告でも、なんでもいいから聞きたかった。ここに自分がひとりでいることを、誰かに知ってもらいたかった。具体的に、誰に?

 受話器を握ったまま、鳴海は耳を澄ましていた。聞こえない音が聞こえればいいと思っていた。見えないものが見えるのだから、聞こえない音が聞こえてもいいだろう。だから、誰か、電話を取ってほしい。

 うつむき加減に、鳴海は電話機を見下ろしていた。あちこちが傷つき、塗装がはげていた。いつからここにおいてあるのか、鳴海は知らない。知っていたかもしれない老婦人はもうここにはいない。怜でなくてもいい、老婦人が電話の向こうから話しかけてくれれば、白い部屋の外から。白い部屋の向こうにも、鳴海が知らないだけで世界がちゃんと続いているのだと、大丈夫だよと教えてほしい。

 コインがほしい。ラインはつながっている。受話器から電話機本体へ、電話機から伸びるケーブルは壁の中へ。その向こうはわからない。続いてるのだと信じたかった。そこで、気がついた。

 ここは、あの白い部屋と同じだ。

 みんなここから出て行ってしまう。出て行ったあと、わたしはここに残される。ひどく居心地のいいこの建物の中に。

「鳴海さん」

 呼ぶ声に振り向いた。左耳にあてた受話器から聞こえたのではない。声は右耳から聞こえた。振り向くと、青白く月に照らされたシルエットがエントランスに立っていた。長身、ショートヘア、明日香。

「なにしてんのさ、こんな夜中に」

 声音は低かったけれど、明るく。距離をあけて、明日香はこちらには歩んでこない。

「電話、かけてた」

 受話器を握ったままで、応えた。

「誰にさ」

 短い髪に手櫛を通しながら、明日香が言う。顔の半分が影、半分は月の光の中に。

「さあ、誰にだろう」

「電話してんじゃなかったの?」

「してた」

「カードは持ってる?」

「持ってないわ」

「じゃあ、貸してあげようか」

 明日香はすたすたと鳴海に歩んできた。ポケットから一枚、カードを差し出して。

「これ?」

 差し出されたカードを鳴海は受け取った。裏面は無地、表面は、擦り切れかけた文字と、暗がりによく見えない。

「かけられるものならね、わたしのID。学生のころのね」

 擦り切れて見えた部分は、意図的に誰かが削ったようだった。

「ここにね、わたしの顔がね。削っちゃったの」

 軽く足をひねって、すらりと立つ明日香は、たとえば怜と対峙しているときのような剣がまったくなかった。

「使えるかもしれないよ。機械が壊れてなきゃね」

 明日香は受話器を持ったままの鳴海からカードをとりもどすと、リーダに挿しこんだ。しかし挿しこんだカードは途中でなにかに引っかかり、リーダは読み込まず、機械の中にまで入っていこうとはしなかった。

「だめだね、やっぱり」

 両手をポケットに突っ込み、明日香は唇をとがらせた。

「きっと、わたしのIDなんて、とっくに抹消登録済みなんだわ」

「そうなの?」

「そうでしょ、最初病院にぶち込まれた時点で、大学も除籍になったし、IDが抹消登録になってても、当然だと思うよ」

「わたしも、かな」

「たぶんね」

 それでも鳴海はまだ受話器を握りしめていた。空電音でもいいから、わたしたちがここに取り残されているわけじゃないって、誰か、そう言ってほしい。

「満月、だと思ったでしょう」

 唐突に、明日香は鳴海から離れ、廊下の窓から月を仰いだ。

「違うの?」

「残念ながら。見てみなよ、端のほう、少し欠けてるでしょう」

 受話器を持ったまま、鳴海も窓辺に立つ。まぶしいくらいの夜で、見上げた月は丸く、しかしたしかに明日香の言うとおり、端のほうが少し欠けて見えた。

「信じられる?」

 明日香は腕を組み、目を細めた。

「昔、人類があそこに立ったのよ。信じられる?」

 青白く浮き上がるのは、明日香の通った鼻梁だ。

「行くことのできる場所なのね」

 並んで立った鳴海がつぶやく。遠く、まるで夜空という画用紙の上に描かれたように、ぽっかりと浮かぶ天体を、明日香とふたりで仰いで。

「……行こうと思えばね。行きたいだけじゃだめで、行こうとしなくちゃ行けない場所ね。鳴海さん、月に行ってみたい?」

 いつも見上げるだけの、到底降り立つことができると思ったこともない月面に、行ってみたいと考えたことはなかった。

「世界がこんなになるちょっと前までは、あそこに常駐ステーションがあったのよ。地球の周回軌道には国際ステーションもあったし。いまはもうそれどころじゃなくなって、放棄されちゃったけど。火星への有人飛行だとか、もう夢物語ね。どう? 行こうと思えば行けるのよ」

 空には雲がなかったが、夏独特の濃い空気がたなびいているようで、月は上空でぼんやりと霞んでいた。星はまったく見えない。月が明るすぎるからだ。旧市街方向は明かりも少ないが、新市街、<団地>が並ぶ斜面は煌々と明るい。

「行けるのかな」

「行こうと思えばね」

 明日香は細く息を吐いた。鳴海は握ったままの受話器をまだ離せない。

「外に行ってみようか」

 窓から鳴海に向きなおり、不意に明日香はそう言った。

「外に? 外にって、外?」

「どこだと思うの?」

「<施設>を出るの?」

「知ってた? エントランスって、昼も夜も鍵がかかってないのよ。あたりまえよね、ここは閉鎖病棟じゃないんだから。出かけられるよ。行ってみない?」

 明日香はいまにも鳴海の手を引いていきそうな勢いだ。こっそり建物を抜け出そう、いたずらを思いついた子どものような目をしていた。真琴や怜の前での表情と、あまりにも違う。

「行こう、鳴海さん」

 ほら、はやく。

 明日香は本当に鳴海の手を引いた。引かれながら、受話器を戻した。フックが静まり返った廊下に大きな音を立てたが、明日香は気にした様子もなく、鳴海の手を引いた。


 エントランスの扉は、明日香が言ったように、軽く押すだけで開いた。かすかな蝶番のきしみ、吹き込んでくる風、そして、虫の声。

 外は暑かった。<施設>はたしかに空調が作動していたらしい。全身にまとわりつく空気は湿気をたっぷり含んでいるようだ。

 明日香は駆け出すようにして<施設>を出た。鳴海は彼女を追って数歩、靴の下の砂を踏みしめた。それにしても、夜だというのに明るい。

「はやく、おいでよ」

 道路まで出て、明日香が手をふっていた。虫の声が聞こえる。周囲から、足元から、たくさん聞こえる。そして、空には月の光を受けて雲が輝いていた。

「暑いね」

 明日香が笑っていた。

 ようやく鳴海は明日香に並んで立つ。首筋にうっすらと汗が浮かびはじめていた。

「いま、何度くらいあると思う?」

 明日香が訊いた。

「さあ、わかんない」

「三十度はないかな、湿度は七十パーセントってところかな」

「そうなの?」

「適当よ、適当。どこか行きたいところある? 海まで行ってみる?」

「海?」

「そう。港湾道路まで出れば、すぐだよ、すぐ。きっとね」

「遠いわ」

「近いわ」

 言うと明日香は両腕を空に突き上げて、大きく伸びをした。

「目がさえちゃって、眠れないよ」

 少年のようなショート・ヘア。通った鼻梁、人を食ったような眼。けれど、いつもの明日香とは違う。あの、いつかポートレイトを描いてほしいと、鳴海の部屋でじっと座っていた明日香を思い出す。鳴海のスケッチブックに現れた明日香はあどけなかった。そして、憂いをたっぷり含んだ目をしていた。

「街まで行ってみる? 海よりは遠いよ」

 虫の声ばかりが耳につき、市街地方向は街路灯が瞬くだけで、息遣いは届かない。

「街は、いいわ」

「あの環境調査員の部屋まで、行ってみようか?」

 そう言ったときの明日香の目は、ひどく冷たい光を帯びていた。声音は変わっていないのに。

 鳴海は答えず、ジグザグに足を進める明日香のあとをついていくだけだ。砂を蹴りながら、明日香は歩く。どこまで行くのだろう。どこまで歩くのだろう。どこへ行くのだろう。行き先がわからない。

 不意に明日香は振り向いた。不敵な笑みを浮かべていた。わずかに顎を持ち上げて、かすかに目を細めて。そして月が雲に隠れ、明るかった夜が暗転し、明日香の表情が闇に融けた。瞳の中には水銀灯が灯っていた。それにしても、月のない夜というのは、こんなにも暗いものだったのだろうか。<施設>が建つうち捨てられた港湾地区は、いまや帰化植物と土に還りきらない廃棄物が散乱する明かりの乏しい場所で、電飾だらけの新市街と比べれば危険なくらいに夜の闇は濃い。今夜はだが月が明るい。だから、鳴海は明日香が外に出てみようと誘っても、闇に対する怖さを感じなかった。むしろ、鳴海にとっては、あの白い部屋のほうがよほど恐怖を感じる。

 いま、月は雲の向こうに姿を潜めている。点々と灯る弱い水銀灯の明かりだけが、二人を照らしている。ひとつおき、ふたつおき、並ぶ街灯のすべてが灯っているわけではない。電力が安定的に供給されていないだけではない。故障した電灯がそのまま放置されているのだ。誰も修理しようと思わない。誰も、その明かりが故障しているということを知らない。

 砂を踏みしめる音。一歩、二歩。音を耳で捉えて、鳴海はその場から動かない。明日香が歩み寄っているのだ。

 三歩目は砂を蹴りつけるような、強い音だった。月はまだ雲に隠れたまま。

「明日香ちゃん……?」

 鳴海はそのとき、闇が実体化して自分を抱きすくめにきたのかと、ほんの、ほんの一瞬ではあるがそう思った。

「鳴海さん」

 明日香だ。

 鳴海の身体を、明日香はしっかりと抱きしめていた。いや、抱きしめるというより、しがみつく、そんな感じで。

「いっしょに、わたしと、海、見に行こう」

 明日香が耳元でささやいていた。彼女の体温が暑い。今は、真夏だ。

「海は、遠いわ」

 鳴海は両腕をだらりと両脇にたらしていた。明日香が鳴海を抱く腕は痛いほどで、それが少し、怖かった。

「いっしょに、わたしと見に行こうよ」

「なぜ」

 風は止まっていた。だから、<施設>屋上の風車も止まっていた。鳴海はなぜか場違いなことを考えていた。<施設>の光発電パネルは、はたして月の光程度の明かりでも、発電するものだろうかと。

「わたしも、海を見てみたいから」

「どうして」

 この程度の明かりではだめだろう、仮に発電していたとしても、明日香が三十分もラジオを聴けば、すべてが帳消しになってしまうにちがいない。

「わたし、海を見たことがないわ。衛星写真でしか」

「だから、見に行きたいの?」

 明日香は鳴海の肩の上で小さくうなずいたようだった。

「いっしょに、行こう」

「今?」

「今じゃなくていいわ、いつか、いっしょに」

 暑い。熱い。風がない。月もない。水銀灯が、明日香のショートヘアの毛先の向こうに、ちらちらと瞬くのが見えていた。

「白石さんに、頼めば」

「いや」

 明日香が首を振ると、彼女の頬が鳴海の頬に触れた。熱い。鳴海は、明日香が泣いているのではないかと思った。彼女の声は震えていた。真夏なのに、初冬のように。

「いっしょに行こうよ」

鳴海は応えない。

「わたしは、鳴海さんと、見に行きたい。あんな、環境調査員とは、行きたくないわ」

 明日香のショートヘアの毛先の向こうに水銀灯、そしてその向こうに新市街の明かりが見える。<団地>だ。怜はもう眠っているのだろうか。

「いつか、わたし言ったよね。海をわたしの代わりに見に行ってほしいって。見に行って、それを絵に描いてほしいって。憶えてる?」

 耳元でささやき続ける明日香の声は、まだかすれていた。

「憶えてるわ」

「あれ、嘘」

「……嘘?」

「そう、嘘。鳴海さんには、外に行って欲しくなかった。あんな環境調査員なんかと、外に行って欲しくなかった」

 いつかの夜、鳴海のベッドの上で、じっとポートレイトのモデルになっていた明日香の言葉を、鳴海は実はほとんど忘れかけていた。外に出て、絵を描いて、それを明日香に見せるという、一方通行の約束を、鳴海はかすかな記憶としてとどめるだけで、効力を発揮する契約としては、まったく憶えていなかった。

「明日香ちゃん」

「いっしょに、海を見に行こう、鳴海さん。こんどは、わたしがガイドをしてあげるから。これでも自然科学は強いんだから。あんな環境調査員には、あなたは渡さないから」

 鳴海を抱きしめる明日香の腕に、さらに力が入っていく。痛いくらいに。

「鳴海さんは、ずいぶん変わっちゃった」

「……」

「きっと、鳴海さん、ここを出て行くのね。<施設>を。いつか。わたしを置いて」

 震える明日香の声。本当に泣いているのだろうか。彼女の汗ばんだ髪の匂いばかりがするだけで、表情がまるでわからないのだ。

「違うわ、明日香ちゃん。……置いていかれるのは、わたしよ。みんな、笑って、部屋を出て行くのよ。手を振って。そしてね、みんなの思い出だけ、残っちゃって、わたしは部屋にひとりきりなのよ。みんなのほうが、わたしを置きざりにして、出て行くのよ」

 ささやき返すように、鳴海は言った。すると、抱きしめていた明日香の腕の緊張が、すっと解けた。触れ合っていた頬が離れる。

「どうして、わたしが<施設>にいるのか、明日香ちゃんは知ってるでしょう。そうよ、『終わり』が『見える』からよ。その終わりの風景ってね、わたしが今言ったとおりの、白い部屋なのよ。まるで<施設>の談話室でしょう。みんな手を振って、笑って、もう二度と会えないのに、楽しい思い出だけをわたしに投げつけてね、出て行くのよ。さよならって」

「それが、『終わり』なの?」

「ちょっと違うけど、そうよ。『終わりの風景』が見えるのよ。誰もいない部屋、誰もいない場所、ちょっと前まで、少し前まで、誰かがいた場所の、そういう風景なのよ。誰かが活けたきれいな花もね、わたしが気がついたときには枯れてるのよ。枯れて、きれいだった思い出だけが、残ってるのよ。わかる? 明日香ちゃん、絵に描いてあげようか? だからね、わたしは出て行かないわ。残される側なのよ、わたしは。出て行くのは、きっと明日香ちゃんだったり、白石さんだったり、そして……」

 白髪、マグカップ、老婦人のイメージが、もう鳴海の白い部屋には残っていた。マグカップに三分の一ほど残った紅茶はすっかり冷え切って、おかしな色に成り果てていた。

「わたしは、ずっと、<施設>に残るわ」

 抱きしめていた腕を緩めた明日香は、それでも鳴海の両腕からは手を放さなかった。真正面に明日香の双眸がじっと鳴身を射る。長いまつげと、水銀灯を閉じ込めた瞳。

「部屋に戻りましょう」

 すっと身を引いて、明日香の腕を払う。

「絵を描いてあげるわ」

「白い部屋の?」

 明日香は鳴海に払われた腕を頼りなく空中に漂わせていたが、次にはもう、スウェットのポケットに両手を突っこんでいた。

「違うわ。いつかの続き。明日香ちゃんのポートレイト、描いてあげるわ。目がさえて眠れないんでしょう。こんどは、色をつけてあげる」

「……本当?」

 苦笑まじりに明日香は訊きかえした。

「明日香ちゃんが描いて欲しいんなら」

「……お願い」

 気がつくと、鳴海も明日香も、月の光の中に立っていた。いつのまにか雲が晴れ、星座もわからないほどの明るい夜空がふたりの頭の上にあった。

 まぶしい。

 鳴海は少し端の欠けた月を見上げ、本当にそう思った。


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