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三九、Early Bird
曜日や時間の感覚が、<施設>ではことさらあいまいだった。休日も休暇もない。あえていうなら毎日が休日。けれどそう意識するものは一人もいなかった。一日ははてしなく間のびし、そこがあたかも事象の地平であるかのごとく、時計はゆっくりと秒針をすすめていく。枕もとのアラームクロックは、鳴海が<施設>に入所したとき、自宅から持ってきたものだ。さすがにネジ巻き式ではなかったけれど、電池一本で三年は時を刻み続けてくれる。
火曜日。
曜日の感覚がすっかり失せてしまった鳴海だが、きょうはカウンセリングの日。午後、階下に降りて稲村と対面する。そして、とりとめもない話をする。処方箋はあるのだろうか、すでに対処療法に過ぎないのではないだろうか。わたしは、治るのだろうか。けれど、鳴海は自分が病んでいるとの意識をじつは持ったことがなかった。気がつけば「終わり」が「見えて」いたのだから、それがいいことなのか悪いことなのか、判断する暇もなかった。
一秒、一秒。
目覚めたとき、レースのカーテンごしに、窓の向こう、繁ったイチイの樹が見えた。昨夜、ベッドにもぐりこむ前に鳴海は窓を開け放ち、星を数えていた。明日香は夏の星座がいよいよ見ごろになってきたと言い、こっそり鳴海に天文年鑑を貸してくれた。どこから手に入れたのか、最新版だった。これを読めば、一年過ごす日々、毎日空でいったいなにが起こっているのか、すべてわかると明日香は笑った。鳴海はとまどいながらも本を受け取ったが、残念だけれど読む気にはならなかった。だからせめて、ひざの上に年鑑をおいて、空を見上げることにしたのだ。
カシオペア、ポラリス、大熊座。それくらいは鳴海でもわかる。前世紀とくらべて格段に暗さを増した札幌の空は、星を探すには絶好の場所になった。周囲に高い山もなく、空気は澄んでいる。澄みすぎた空気は逆に、凶悪な紫外線が遠慮なく降り注いでいることの裏返しなのだけれど、理科にうとい鳴海でも、空がそのまま宇宙までつながっていることを容易に理解させてくれる曇りひとつない星空は、好きになれそうだった。
明日香を呼べば、天文学の講義が始まるのだろうか。
ベッドに腰かけ、両開きの窓を開け放ち、少々冷たい夜気を全身に浴び、月のない群青の空を、鳴海は時間を忘れて見上げていた。稲村のピアノが階下から流れてきたが、いつ鳴りだしていつ止んだのか、それすらわからなかった。鳴海の窓は、そのときたしかに外を向いていた。外に向かって開いていた。風力発電のプロペラは、振り子時計の振り子のようなスピードで、ゆったりと回転していた。風切り音がいつもよりずっと、優しかったからだ。今夜は海も優しい。
海。
火曜日は、カウンセリングの日。火曜日の稲村は、午後に鳴海、そして、午前にあの環境調査員、怜を担当している。そう、彼が来る。
あとわずかで日付が変わろうかという時間になっても、鳴海は星を数えていた。ポラリスを軸にぐるりとカシオペアが弧を描き、地上には街灯の明かり。水銀灯の緑色が、物悲しい。いよいよ鳴海は立ち上がり、窓辺から空をのぞきこんだ。時折空を横切っていく星は、人工衛星。そう明日香に教わった。この数週間、明日香と話をすることが多くなった。まるで転校することがきまったクラスメイトを惜しむように。
明日香や真琴とテーブルをはさんでいると、鳴海は彼女の知らない学校を想起する。ろくな記憶のない過去のアルバムに、クラスメイトとテーブルをはさんで食事をしたり、無駄話をしたページは存在していない。「見ない」ためには目をふさぐしかなかった。だから絵筆を持たなかった。記憶を綴じこむアルバムがあるならば、鳴海のそれはスケッチブックなのに。
あの夜、鳴海の描いたポートレイトを見、明日香は不思議な顔をしていた。まるで初対面の誰かと出会ったかのように。鳴海は思う。自分の顔を、わたしは描けるのだろうか、と。セルフ・ポートレイトは、いちども描いたことがなかった。興味がなかったのだ、自分のことに。外界とを遮断する扉をかたく閉ざし、鍵までかけて、窓も閉めきった部屋の中に閉じこもり、鳴海は一切を拒絶しようとしてきた。なのにたった一人のルーム・メイトである自分自身のことを、よく知らない。顔を、描けない。
目を覚ました鳴海は、そっと部屋を出た。どこか耳の奥底で風が吹きぬけるような音が聞こえているだけで、廊下は物音ひとつない。真琴のようにすり足気味に進み、談話室は誰もいなかった。妙に早く目を覚ましてしまった。いったい何時間眠ったのだろうか、時計をほとんど必要としないここでの生活で、時間の感覚すら失われかけている。たがらベッドに入った時刻を覚えていない。もちろん目を覚ました時刻も知らない。窓の外にうっすら靄がかかっていた。それで早朝だと思った。
談話室のドレープカーテンは閉じていて、昏かった。かすかな紙の匂いを鼻腔に感じながら、鳴海はカーテンを開けた。表には透明水彩でさっと塗ったような霞みの向こうに夏の空。一日がはじまる。いや、はじまっている。腰をおろした椅子はそう、老婦人の指定席だ。テーブルに頬杖をつき、もう頭が怖いくらいに覚醒していることを実感する。眠気をまったく感じなかった。おかしな気分だ。
きょうは、火曜日。
診察室の机には、どんな花が飾られているのだろうか。鳴海は知っていた。子どもたちの何人かが時折<施設>のスタッフの目を盗んで外出していることを。そして、あたかも戦利品のように、野に咲く花や草を摘んでくる。花瓶のかわりはどこかで拾ってきたらしいミルクの空き瓶。きっと砂や風でくすんでいただろうガラスを、子どもたちは磨き上げ、そして、そっと稲村の机に置く。
鳴海は晴れわたった夏空を、ガラスのこちら側からながめていた。そのときはじめて、この<施設>で暮らすようになってはじめて、外へ出てみたいと思った。嵐の中ではなく、碧空の下へ。
早朝の談話室に、穏やかな旋律が流れていた。鳴海は気がついていなかった。その音楽を奏でているのが自分なのだと。
旋律は、つづく。
怜はミルクの空き瓶に飾られた小ぶりなひまわりを見つめていた。どこで摘んできたんだろう、屋上の温室で育てているのだろうか。淡い色合いの診察室に、濃い黄色が鮮やかすぎる。稲村はきょうも左手でペンを持つ。身体をこちらに向けて、指はカルテの上を滑る。なにをそんなに書くことがあるのか。
「音楽を聴いたような気がします」
怜はひまわりの花びらを数えていた。数えながら、つぶやくように言った。
「音楽?」
「ええ、音楽です。というより、旋律、かな」
「旋律?」
「そうです。稲村先生は聴こえないですか」
怜が言うと、稲村はいぶかしむように、それでも耳をかたむけた。怜が聴こえるという、音楽を探して。
「いつ、聴こえました?」
「今も、ずっと」
「今も?」
「ええ」
「おかしいな、わたしには聴こえない」
「それは変ですね。僕には聴こえる」
稲村はペンを置き、指を組んで向きなおった。しばしの、沈黙。
怜は考えていた。いま自分が聴こえると言った音楽が、稲村に感じられるはずがない。じつは怜自身、音楽を聴いたわけではない。けれど、適当な言葉が見つからなかった。それはまさしく音楽なのだ。
「やっぱり、わたしには聴こえないみたいだ。よかったら、どんな音楽が聴こえるのか、わたしに聞かせてほしい」
音を言葉で伝えることができるだろうか。まさしく自分が感じている旋律は、音だった。聞こえない音。かつて荒れた渚を仲間たちと歩き、聞こえない音を聴き、見えないものを見ていたころとは、ちがう。五感で感じるものではなかった。もっとずっと、直で身体に染みてくるもの。
「このあいだ、僕はギターを見に行ってきましたよ」
説明するかわりに、怜は言った。
「ギターを?」
「そうです。ここに最初にきたとき、話しましたよね。覚えてますか」
「それはね。よく覚えてますよ」
「ここに通うようになってから、自分でも不思議なんですけどね、弾いてみたいって思ったんです」
「なるほど。それは悪いことじゃない。いいじゃないですか」
稲村のペンが滑る。
「けれど、まだ、僕には弾くことができない。ひとりではね」
「どういう意味ですか?」
「さっきから聞こえている音楽ですよ」
怜は首をめぐらせ、森のなかで鳥のさえずりを聴き、居場所をさがすようなそぶりをみせた。
「稲村先生にも聞こえているはずだ。……僕は、海を見に行こうと思ってます」
すると稲村はなにか納得したように、いちどだけ深くうなずいた。
「海をね」
「ええ、海を」
診察室はエアコンが稼動していない。窓から吹きこみ、ドアから抜けていく風が、涼を運んでくる。そこに潮の匂いをかぎとろうとしたが、なぜか怜はガソリンの匂いをかいでいた。
「綾瀬さんは、元気ですか」
怜が言うと、稲村はペンを置いた。そして、姿勢を正して口を開いた。
「あなたが聞こえるという音楽、そうか、たしかに今日はわたしも聴いたような気がする」
ひときわ優しい涼風が、ひまわりの花弁をさっとなでていく。
「綾瀬さんがね、今朝、外出届がほしいと事務にかけあってきたそうです」
外出届。
「もちろんわたしの承認が必要な話だから、事務の女の子はまっすぐわたしの部屋に来ました。めずらしいことだ、ここのひとが外出届がほしいなんて、少なくともわたしはここ十年は聞いたことがない。だから、事務の女の子も驚いていました。そもそも外出届のね、書類のありかをその子は知らなかったんです」
怜は聞いていた。
「とりあえず書類を用意して、わたしは綾瀬さんの部屋に向かいました。綾瀬さん、ずいぶんと晴れ晴れとした顔をしていて、けれどね、少しだけ何かにおびえるような雰囲気もありました」
稲村は指をまた組み、言った。鳴海が外出届にサインするまでの経過だ。
「この子はこんな字を書くのかと、わたしは驚いた。考えてみれば、しばらく綾瀬さんの字を見たことがなかった。きれいな字でした。読みやすい、活字のようなね」
「許可したんですか」
「外出ですか。ことわる理由なんて、ない。ただ、まだ書類を受理はしていないんです。ただひとり、散歩に出るくらいなら書類だっていらないんです。でも、綾瀬さんは『海を見に行きたい』、そう言ったんです」
「海……」
「そう。あなたは知ってますね、今、海岸線は<機構>が厳重に管理している。気軽に出かけていけるような場所じゃない。だから、もし綾瀬さんが海を見に行きたいのなら、付添い人がいる。いなければ、許可は出せないんですよ」
そう言って稲村は、まっすぐに怜の目を射た。
「彼女は、なんて?」
「なにも。……いいですか、やはりわたしは以前言いました。綾瀬さんはいい子だ。すこし変わっているが、いい子だ。けれど、街から通ってきているあなたとは、もう根本的にちがう。深くかかわれば、おたがい、不幸になってしまうかもしれない。水と油は絶対に混ざらないんです。そのことをしっかりと覚えておいてほしいんです」
稲村が何を言いたいのか、怜にはわかる。
「でも、綾瀬さんが外出届を書いたということは、変化です。驚くべきね。……あなたのが聞こえるという音楽は、それでしょう。もしそうなら、わたしが聴いたかもしれない音楽と、あなたが聞こえるという音楽は、きっと同じ曲だ」
稲村も怜も、そしてだまった。耳を傾け、音を探す。
「海を見たがっている。綾瀬さんはね」
低く、つぶやくような、稲村の声。
「つれていけるのなら、あなたがいいのなら、いっしょに行くといい」
ふたりの耳に、旋律が届いていた。空気の震え、周波数の変化、それは、音楽。彼女が奏でる。
「綾瀬さんの歌なんて、わたしははじめて聞いた」
片肘をデスクにのせて、稲村はその向こうに中庭が広がっているはずの壁を、向いた。
「彼女が?」
「今朝からね。あの子が歌っているんです。ひとり」
ひまわりの花弁が揺れている。風に揺れているのか、きっと夏の旋律にのって、身体を揺らしているにちがいない。
旋律はつづいていた。
40、扉Ⅰ
どうしたんだろう。
鳴海は中庭の芝生の上でステップを踏んでいた。
おかしな気分だった。風車の風切り音が一定のリズムを刻むとき、鳴海の身体が瞬間、宙に浮く。気分が高揚しているわけでもなく、けれど口からは音楽がこぼれた。小さい頃に聴いた覚えがあるような、まったく覚えがないような。
どうしたんだろう。
芝生はゆったりと起伏がついている。イチイの樹、ドロノキ、遠くにポプラ。波打つ緑の海を、鳴海は駆ける。
旋律もリズムも、かってに身体の奥から湧いてくる。唇がひとりでにメロディをか奏でていた。そのことに気づいたのは、談話室でひとり、空を眺めていたときだった。
歌っている、わたしが。わたしが?
真琴が音楽室でオルガンを弾いていても、知らない曲ばかりだった。知っている曲があっても、歌おうなんて気はまったくおきなかった。なのに。
いま、わたしは歌ってる。わたしの知らない歌を、歌っている。
転調、転調。悲しげに、明るく。奇妙なステージだ。つぶやくような、叫ぶような。
立ち止まる。待合室に、人影。
お兄ちゃん?
ちがう、片手に煙草。いつかの夢を思い出す。でもここは砂浜ではない。<施設>の中庭だ。鳴海のよく知っている場所だ。でも、そっと空を探ってみる。兄の乗った飛行機が飛んではいないかと。真っ白い航跡を曳いて、自分をおいて遠くへ向かう兄の姿を、そっと探した。
……白石さん。
鳴海はステップを踏むのをやめる。そこでようやくつづいていた旋律が止まった。
「鳴海さん」
彼との距離がはかれない。ずっと遠く、まるで地平のかなたに突っ立っているようにも見える。手を伸ばせば届きそうな気もする。海の匂いがする。
「海を、見たい?」
彼は言った。鳴海は考えた。わたしはなにをしたいのだろう。もう何も見たくないはずなのに。だからここにいるのに。ここを出るつもりはないのに。明日香にもそう言ったのに。
「診察室の机の上、見ましたか?」
鳴海は怜の質問には答えず、質問で返した。
「……ひまわり?」
「そう」
怜は一歩、芝生に足をおろした。
「見たよ」
彼の白いシャツがまぶしい。煙草の煙がすっと風に流されている。
「ガラスの瓶、きれいだった」
「ひまわりをいけてる、あの瓶だね」
「そう」
怜が、もう一歩踏み出した。忘れていた世界が、見えてくる。彼は、ここの人間ではないのだ。
「君は、ひまわりはどうでもいいのかい」
「ひまわり?」
「瓶のことばかりを話すから」
怜が近づいてくる。ステップを止めた鳴海は、その場に静止し続ける。
「ガラスの瓶なんて、あまり見たことがないから」
「海に行けばいくらでも落ちているさ。めずらしくもないよ」
まだわたしは迷っている。外へ出ることに。迷っている? じゃあわたしは、ここを出ようとしているの?
「……ひまわり」
鳴海はつぶやく。
「ひまわり?」
怜は訊きかえす。
「ひまわりって……、どんな花?」
まっすぐに怜を向いて、訊く。
「見たことがないのかい? 稲村先生の机にあった、あの花だよ」
「黄色い」
「そう、黄色い」
「わたし、見たことがないのかもしれない。ちがう、わたしが知っているひまわりは、あの花じゃないと思う」
「ちがう?」
「もっと、背が高くて、大きな」
「ああ。……そうか、君は見たことがあるんだ、ひまわりを。そうだよ、ひまわりは背が高くて、大きな花だ。漢字で書くように太陽を追ったりはしないけれどね」
「太陽を?」
「いや、なんでもないよ」
たおやかに天を突くひまわり。怜の目によみがえるのは、碧空とまぶしいばかりの黄色い大輪だ。そう、稲村の机上にあったひまわりはにせものだ。いや、よくできたイミテーション。
「暑いね」
怜は太陽をあおぐ。中庭は狭い。ここは、自分にとっては、少々狭い。鳴海は?
鳴海はただ怜をまっすぐに見つめて、その場に立っていた。
「歌っていたのは、君だよね」
怜は言った。なるべく笑顔で。微笑みかけてみたつもりだ。できるだけ。
「かもしれない」
彼女は答えた。短く。瞬きもせず。
出かけよう。
怜は小声で呼びかけてみた。聞こえたかな? 聞こえなかったかもしれない。
<施設>の北数キロまで海はせまってきていた。エントランスを一歩出れば、もう風向きに関係なく潮の匂いがした。けれどきょうはちがう。潮の匂いより強く、ガソリンの匂いがする。
その音が聞こえたとき、稲村は診察室にいた。診察室で楽譜をながめていた。まだ子どもたちが音楽室にいる。それに、昼間からピアノは弾けない。開けておいた窓から懐かしい音が聞こえたとき、稲村はいまがいったいいつなのか、時間の感覚が一瞬うせた。
明日香は自室でラジオのアンテナを調節していた。このところ感度が悪い。ひょっとすると電波の出力じたいが弱くなっているのかもしれないが、それにしては気象通報の聞こえが悪い。もう等圧線を書くこともないだろうに、明日香は気象通報を聞き逃したことがない。遠くからガソリンエンジンの排気音が聞こえたとき、明日香はラジオの雑音だと思った。空電音にしてはおかしな音だと首をかしげつつ、スピーカーが定時ニュースを告げたとき、アンテナ調整はもうすっかり終わり、つまり雑音は空電音ではなく、外から聞こえているのだと気づいた。何の音だろう。
真琴は音楽室で子どもたち相手にオルガンを弾いていた。いつもの曲、前世紀から歌われてきた曲。子どもたちの歌にあわせて真琴も歌った。だから排気音には気づかなかった。すっかり歌に没頭していた。子どもたちひとりひとりの顔を数えながら、真琴はオルガンを弾いていた。
老婦人はベッドのなかにいた。このところ気分がすぐれない。せっかく季節がいれかわったのだから、中庭の芝を見下ろしながら、冷えた麦茶でも飲めばいい。ひどく具合が悪いわけではなかった。ただ、身体がどことなく重かった。この何日か、談話室にも顔を出していない。食事もケータリングしてもらった。食べ物はおいしい。だから、きっと心だ。また、心が弱っている。そんなとき、風に揺れるレースの向こうから、はるか昔におぼえのある音を聞いた。エンジン音。最後に聞いたのは、自分がここに、<施設>に送られてきたとき。もう、何年前だろう。ああ、きょうはこのままベッドのなかで、すこし昔に旅をしよう。
鳴海は色鉛筆をライティングデスクにならべて、稲村からもらった外出許可をながめていた。絵を描こうと思った。明日香のポートレイト以来、絵を描いていない。<施設>にはもう描くものがない。描きたいものがない。色鉛筆の芯はみなとがったまま、長さはみんなそろっている。椅子に背をあずける。少し暑い。窓は開いている。なのに、暑い。また、夏がきた。カレンダーは待合室の壁。談話室にはない。ここのひとたちはカレンダーを持たない。日付けにとらわれた予定を持たないからだ。けれど、きょうはちがう。ただひとり、鳴海には約束があった。外出許可。一枚の薄っぺらな書類が、それだ。定型の文、稲村のサイン、自分のサイン。兄への手紙以外、字を書くことすら最近はない。そんな自分のサインは、なんだかゆがみ、かたむいて見えた。
音が聞こえる。遠くから、ずっと遠くから、こちらに向けて。それは迎えだ。怜が来る。約束は、怜と。
出かけよう。
三日前、ステップを踏みながら鳴海は中庭にいた。口からはでたらめな旋律。青い芝の波に身を浸して、彼の言葉を聞いた。出かけよう。
鳴海は彼のつぶやいた言葉をきちんと拾っていた。そして、うなずいた。
海を見に行く。夢で見た、あの砂浜を思い出す。遠くに一直線、空と水がとけこんでいるあそこが水平線。けれど本物を知らない。すべては写真や絵や、兄や怜の口から語られた風景だ。
見てみたい。
鳴海ははじめて自分の気持ちに気づいた。外へ出てみたい。
何も持たずに部屋を出た。スケッチブックも色鉛筆もライティングデスクに広げたまま、ドアを閉めた。また、わたしは戻ってくる。談話室で明日香と真琴が顔をつきあわせていた。ふたりの家はどこまでできたのだろう。鳴海に気づいた明日香が、ちらりとこちらを向いた。言葉はなかった。まるでいつもどおり、これから稲村のカウンセリングを受けに行く彼女を見送るように。真琴も振り向き、上目遣いに鳴海を見た。どうしてそんな顔をしているの? わたしはただ、海を見に行くだけ。おかしな理由、鳴海は可笑しくなった。老婦人の姿は談話室にはなく、指定席でページを繰る読書青年が見えた。階段を下りる。下りると煙草の匂いがした。待合室の長椅子に、彼の後姿があった。怜だ。はじめて彼を見かけたときのように、いやあのときは自分が声をかけるまで煙草は喫っていなかったけれど、あの日のようにすらりとした背中が見えた。足音に気づいたのか、ふと振り返った怜は髪が少し短くなっているような気がした。
「やあ」
指にはさんだ煙草から、ゆらりと煙をたなびかせて。
「こんにちは」
「こんにちは。……診察以外でここに来たのは、よく考えたらはじめてなんですよ」
その日の最初は、なぜか彼はいつも敬語だと、鳴海は煙草の煙を目で追いながら思った。
「道に迷うかと思ったんだけれど、まっすぐなんだ。そうだよね、線路をたどってくればいいんだから」
怜は煙草を消し、立ち上がる。
「いい天気だよ」
一階の蛍光灯はぜんぶ消灯されていた。光はすべて、外から。彼が来た、外から。
怜は鳴海を誘う。行こう、と。
エントランスを通した外は、色、色、色。草の緑、アスファルトのグレイ、空の青、名も知らない花の黄色、木の葉の深緑、青緑、そして太陽の白。わたしはこれから、外へ出る。扉を開けると、潮の匂いがした。これが、潮の匂い。直接まだ見たことがないのに、わたしはこの匂いを潮の匂いだと知っている。明日香に聞いたのか、真琴に聞いたのか、怜に聞いたのか、稲村に聞いたのか、それとも老婦人が語ったのだろうか。エントランスを出ると、白い自動車が停めてあった。どうぞ、と怜が助手席のドアを開ける。窓は全開、ガソリンの匂い。父の車はこんな匂いはしなかった。乗りこむのをためらう鳴海を横目に、怜はさっと運転席につき、エンジンをかけた。暴力的な音、振動、鳴海はとっさに耳をふさいでいた。
「乗ってよ」
怜が身をのりだして、鳴海を呼ぶ。ふさいだ耳に、彼の声はきちんと届いていた。
「車、はじめて? そんなわけないか」
「こんな音がする車は、はじめて」
「ああ、そうか。うるさいよね」
ようやく乗り込んだ鳴海に、怜はシートベルトをしめるように言った。ステアリングに軽く両手をのせて、怜はウィンドシールドの向こうに目を細めていた。鳴海はドアを閉め、シートに身をあずけた。<施設>を向くと、二階の窓に人影を見た。人影は鳴海に、手をふっていた。明日香だ。
「じゃあ、行くよ」
怜の左手がふたりの座席の真ん中に突っ立ったレバーを握り、操作する。ゴツン、と妙な音がして、車はゆっくり走り出した。鳴海は動き出した車の中から、まだ手を振っている二階の窓辺の明日香を見ていた。
さよならじゃないのに。
残念ながら、明日香の表情までは、鳴海の目には見えなかった。
怜がステアリングを大きく切る。車は<施設>を出、春の嵐の中、ふたりが転がった道路を行く。街へ向かう方向とは逆、海へ。高まるエンジン音、反対に<施設>が遠ざかっていく。鳴海は振り返らなかった。また、戻ってくるのだから。
四一、扉Ⅱ
「音楽でも聴けたらよかったんだろうけど」
砂埃がひっきりなしに車内に飛び込むのを嫌って、窓を閉じ、今年はじめて、怜はエアコンのスイッチを入れた。鳴海の髪が風で乱れるのも気の毒だ。
「あいにくラジオもないんだ。あったとしても、国営放送くらいしか聞こえないけれどね」
鳴海は流れる風景をながめていた。車は<施設>を出たあと、荒れ放題のアスファルトを蹴りながらようやく国道に入った。通る車がほとんどないから、<機構>は道路補修を行わない。ひび、顔を出した雑草、かたむき錆だらけの標識。ところどころ橋が落ちている路線もあるから、衛星と航空機を使って作成された精度の高い地図なしには、遠出ができない。怜はクリップボードにあの地図をはさみ、ダッシュボードに載せていた。この道路は状態がいい。もうほとんど湿地と化した港湾地帯をかすめる道路で、途中の橋が無事ならあんがい早く市街地を抜けられる。
「外へ出たのはいつ以来なの?」
効きすぎのエアコン。パワーが有り余っている車だ。その分ガソリンを食うが。
「さあ、もう、憶えてないわ」
シートに座った鳴海は、<施設>にいるときよりもいくぶん小柄に見える。陽を浴びた髪は栗色がかっていた。それにしても色が白い。
「君の家は、どこにあるんだい?」
「<施設>」
「ちがうよ、昔住んでいたところさ」
「……丘の見えるところ」
「丘?」
「丘の向こうに森があって、塔が立ってたわ」
「原生林の近くだね。なんとなくわかるよ。まだ、誰か住んでいるの?」
「お父さんが、たぶん。どうして?」
「何年も<施設>を出たことがないんだったら、帰りたくなったりしないのかと思ったのさ」
ウィンドシールドの向こうはゆるいカーブ、右手に防風林、左手は湿地帯。少し向こうに高層住宅街。強制執行がかけられ、無人の廃墟になってしまった、市の北のはずれのニュータウン。
「戻れる場所は、<施設>だけだもの」
「そうか、そうだったね」
橋は無事だろうか。二ヶ月前の衛星写真では、石狩川にかかるこの橋はまだ健在のはずだ。沈黙したままの信号機を無視して、怜はガスペダルを緩めない。
「寒くない? ちょっとエアコンが効きすぎてる」
「大丈夫」
鳴海は半袖のブラウスだった。怜も半袖のシャツだが、露出した腕に陽射しが痛い。長袖を着てくるべきだった。紫外線が怖い。自分以上に、鳴海の白い肌が気になった。
「それにしても、よく、出てくる気になったね」
橋は無事だった。ゲートも検問もない。周囲数キロに、もう誰も住んでいない。軍や<機構>の車両も見えない。このまま海まで、走るんだ。
「どうして?」
「外に出るのが嫌いなのかと思っていたから。<施設>を出るのを怖がっていたんじゃないのかい?」
怜が言うと、鳴海はすぐには言葉を返さなかった。
橋の下で、川はよどんでいた。流れてはいない。両岸の湿地と同化して、もう川は湖か海の一部のように広い。ルームミラーに映る砂埃のコントレイル。
「よくわからない。どうして海を見てみたいと思ったのか、わからない。でも、わたし、夢を見た。海なんて見たことがないから、本当にそんな場所があるのかどうかぜんぜんわからないんだけど、その、海の夢を」
「海の夢?」
「お兄ちゃんがくれた絵。砂浜の絵」
「ああ」
「わたし、あの絵の風景の中にいた。歩いてた。本当の海を見たことはないけれど、写真だとか絵でだったら、見たことはあるの。でも、夢の中の海は、寂しかった。わたししかいなかった」
橋は長い。鳴海の横顔の向こうに、河口がある。だから、あの水平線は、もう海だ。けれど褐色に濁った水面を怜は海だとは思いたくなかった。だから鳴海にも言わなかった。もう海が近いのだと。
「白石さんが、いたわ」
「僕が? 鳴海さんの夢に?」
「そう。砂浜に」
「でも、それで海を見てみたくなったんじゃないでしょう?」
「さあ、わからない。でもわたしは、白石さんの話を聞いて、海を見てみたいと思った。見たことがないんだもの。それに、誰もいないんだったら、『終わり』もきっと見えないわ」
「『終わり』か。僕にはわからないんだ。その感覚がね」
「わからないほうがいいと思うわ。そのほうが」
「そう」
橋を渡り終え、国道は湿地帯を行く。大潮のたびに海水が流れ込み、畑も全滅、捨てられた土地。等間隔につづく電柱は通電していない。ただ、遠景に並ぶ送電塔は整備の手が入っているようだ。一本として断線していなかった。北方の海岸線に発電所があっただろうか。
「でも僕は、『終わり』を見てきたよ。仕事でね。いつか鳴海さんが言っていた、誰もいなくなった部屋の話ね、僕はわかる気がするんだ。取り残されてしまった、その気持ちをね。いろいろな場所を歩いて、たとえば沈んだ街だとか、捨てられた部屋だとか、ぽつんと水面に顔を出してたぬいぐるみとかね。本当は誰かと一緒にいるはずの風景が、僕の目の前で終わっているんだ。ああ、こんな感覚なのかもしれないって、そう思ったんだ。ちがうかい?」
交差点を折れ、北東へ。湿地が終わり、アスファルトの砂にわだちができていた。このあたりはまだ捨てられてはいないのだ。家がぽつぽつと建っていた。
「わからないわ。わからない」
鳴海はゆるゆるとかぶりを振った。その顔が青ざめて見え、怜はエアコンの設定温度を上げた。寒いわけでも、ないだろうけど。
「きっと、僕にも『終わり』は『見えて』いるんだと思う。そんな気がする」
正面を向いたまま怜が言う。鳴海はヘッドレストに頬をつけるようにして、目を閉じた。
「わからない」
道はやがて林にさしかかった。ゆるやかな傾斜、丘を登る。怜はエアコンを止め、かわりに窓を開けた。樹の匂いがした。風の音が聞こえる。聞こえるものは聞こえ、見えるものは見えた。ちらりと助手席を見ると、閉じていた目を開け、鳴海は樹木を一本一本数えるようにして、首を動かしていた。
怜が丘陵を行く道を選んだのは理由がある。かつての国道は海岸線を走っているから、もうずっと昔に水没してしまった。だから地図を信じて尾根道を行く。両側は緑濃い林。樹木のトンネルを車が行く。丘を登りはじめてから、怜も鳴海も口を閉ざした。やがて道が頂上にさしかかった。樹木がとだえる。トンネルを抜けた。目の前が光であふれる。怜は予感で胸が熱かった。
青い地平……水平線だ。そう、海。濁りはなく、ただ青く空へ向かってとけこんでいる、海。怜はガスペダルから足を離した。惰性でなおも車は進む。
海だ、海だ、海だ。仕事でいやというほど見てきたはずなのに、怜は喉の奥で絶叫していた。けれど口から出たのは驚くほどそっけない言葉だった。
「鳴海さん、海だよ」
けれど声は震えていた。声は震えたが、内心の興奮とはうらはらに、ずいぶんと自分は冷静だ。ミラーに自分の左目だけが映りこんだ。瞳まで震えているような気がした。
海に向かって伸びていた道は、すぐに右にカーブした。正面の水平線はぐぐっと左手に広がる。鳴海を見ると、彼女は身をのりだすようにして、夏空となめらかに溶けこんでいく水平線を見ているようだった。怜は窓を開けた。草の匂いがまず流れ込んできて、もうずいぶん走ったはずなのに、<施設>のあたりと同じ匂いがした。海と、草と、名前もわからない花。ここはたしかに<施設>と地続きの場所なのだ。鳴海はそのことをわかっているのだろうか。彼女は怜を向こうともせず、じっと水平線から目をはなさない。
怜はギヤを入れなおし、ペダルを踏み込む。海岸線に下りられる場所を探さなければならない。ここから見ているだけでは、わざわざ彼女と自分を連れてきた意味がない。背後からぴったりと張りついてはなれない排気音が、やけに疎ましく感じられた。なるべく静かに。怜は回転計をちらりと見、優しくスロットルを開ける。
「海……?」
排気音にまぎれそうな声。鳴海が口を開いたのは、点々と並ぶ電柱を十本も数えたころだった。わき道を探す怜は、彼女のセリフがいったい誰に向かって投げかけられたものなのか、一瞬判断できなかった。
「海だよ。あれが」
「青い」
鳴海の肩にシートベルトが窮屈そうだ。潮の匂いはここまで届いているだろうか。残念ながら怜の鼻は、年代もののこの車の悪癖、不意をつく排気漏れのせいで、海を感ずることはできていない。
「波打ち際まで行ってみよう。道がなくってね」
このあたりは風が強いからだろうか、アスファルトは荒れているが、街のように砂や火山灰はほとんど積もっていなかった。
怜はクリップボードにはさんだ地図をめくる。道路地図ではないから、こまかなわき道までは網羅されていない。ただ調査に使われる地図だ。海岸線への道は載っているはずだ。錆だらけの速度標識がかたむいていた。架空線には草ともゴミともつかない何かが垂れ下がっていた。ここにもうち捨てられた家の残骸が見える。この先にはもう町はない。前世紀にいくつかあった漁村はみな、海中で漁礁になってしまった。いまは魚たちだけが住人だ。だから、町へ降りる道がない。
天気がいい。海にも陸にも、雲は陰を落としていない。ぽつりと漂うのははぐれ雲。刻々と形を変えているのに、じっと見ていなければわからない。きょうは風も弱い。しばらく尾根道を走り、ようやく海へと下る小道にそれた。舗装されていない砂利道で、車はこきざみに揺れた。切通のようになった砂利道は左、右と屈曲し、そしてあっけなくゲートにぶつかってしまった。<機構>だ。
「やれやれ」
怜はつぶやき、鳴海は黙ったまま。これ以上先には行けない。ただし、車では。怜はエンジンを止めた。
「どうしたの?」
「降りよう。ここから海岸線までは、すぐだよ」
ベルトをはずし、怜は車を降りた。足元は砂だった。葉の長い草が茂っていた。遅れて鳴海が続く。
「砂……」
怜に並んだ鳴海が、幾度か足踏みして砂の感触を確かめていた。
「砂浜はもうないけれど」
「そうなの?」
「僕の知るかぎりはね。行こう」
フェンスは錆だらけで、立ち入りを制限する標識もまた、塗装がはがれて血を流したような錆の色が痛々しかった。ここが封鎖されたのはもうずいぶんと昔のようだ。
「なんて書いてあるのかしら」
鳴海が標識の文字を指で追っていた。日本語と、キリル文字。
「どれも同じだよ。『これより先の立ち入りは制限されています』。大丈夫だよ、北海道の海岸線がいったい何百キロになるか考えればね。それに、忘れたのかい、僕は環境調査員だ」
「休職中のでしょう」
「関係ないよ」
怜は錆だらけのゲートをつま先で軽く蹴った。きしみ、はがれ落ちる塗装、その向こうは海。
「きれい」
怜がゲートと格闘を始めそうなのを横目に、鳴海は向こうの水平線を見つめていた。
「広い」
鳴海はしゃがみこみ、指先で砂をつまんでは放っていた。
「あ」
と、彼女が小さく言ったのは、怜が強固なゲートを破壊する手立てを見つけられず、身の丈よりも高いフェンスをうらめしく見上げたときだった。
「どうしたの」
怜が問うと、鳴海はフェンス沿いの砂地を指した。
「足跡があるわ」
「足跡?」
鳴海に歩みより、彼女の指を追う。たしかに足跡がつづいていた。フェンス沿いに、茂みを左右によけながら。
「先客、かな」
足跡は一列。ひとりだ。環境調査員は単独行動はない。もちろん軍の人間も同じ。すると考えられるのは、先客。自分たちのようにただ、海を見にきただけの誰か。海からの風は今は弱いが、このあたりに背の高い樹が一本もないのは、普段は空気の塊が海からどんどん押し寄せてくるからだ。そんな場所で足跡が数日も残るはずがない。
この先に、誰かがいる。
怜はゲートを指ではじいて、足跡の上に足をのせた。
「行くの?」
「フェンスがどこかで破れているかもしれないからね」
まるで国境を越えようとしている亡命者のようだ。地雷がわりに空き缶が転がっていた。怜は後ろにつづく鳴海が、ガラス瓶を探しているような気がした。
潮の匂いにすっかり鼻は慣れてしまい、今はただ、足跡を追う。歩幅が広い。歩くのになれた人間の歩調に思われた。鳴海はしっかりと怜の後をついてきている。彼女の呼吸が聞こえる。並んで歩けない。一定の距離をたもって、歩く。
「白石さん」
後ろから鳴海が呼ぶ。
「なんだい」
「どうして、わたしを誘ったの」
歩調はかえない。歩き続ける。
「さあ、どうしてだろう」
「どうして、わたしなの?」
ふたりの足音と、草の葉が風にゆれるざわめき。そして潮騒。怜は意識しないうちに足元ばかりを気にしていた。
「それは、君がついてきたからだよ」
一瞬鳴海は立ち止まる。
「誘われたから、来ただけ」
「西さんも芹沢さんも、行かないって言ったからね。でも鳴海さんは海を見たいと言った。僕も海を見たかった。海を見てみたい人間がふたりいる。だったらいっしょに行けばいい。そう思ったからだよ」
足元の砂は浅い。思ったほど歩きづらくはない。怜は振り返る。少しはなれて鳴海は立ち止まったままだった。
「行こう」
ベルトに下げた銃がきょうほど重いと感じたことはなかった。おいてくればよかった。鳴海は怜の銃に気がついているのだろうか。そもそも彼女は銃など見たことがあるのだろうか。
「暑いね」
怜はシャツの裾で腰の銃を隠す。
「わたしは平気」
「行こう」
ふたたび怜が言い、鳴海は続く。
足跡はまだ伸びていた。目的地がはっきりわかっているような、自信ありげな足取りだ。
「さっき、君は夢の話をした。そうだよね、鳴海さん」
前を向き、足跡を数えながら、怜。
「僕もときどき夢を見るんだ。いろいろと。けっこうよく憶えていてね。ひとつのストーリーがあったり、全然別な、もうひとつの日常だったり。いろいろね。鳴海さんが見るような夢とはちがうのかもしれないけど」
怜の後ろを鳴海の足跡はしっかりとついてきている。
「夢の中には僕の部屋もある。決まった部屋ではないけれどね。部屋を出て、地下鉄に乗ったり、ぶらぶらと街を歩いたり、見たこともない街をね、それは夢が覚めてから気づくんだけど、僕は自分の街だと思っているんだ。そこでもうずっと暮らしているようなふりをして。おもしろいよね。絶対にいけない場所なんだ、そこは。僕は自分の夢の街に行ってみたいと思ったことがある。夢の街か、なんだかあいまいな言葉だね」
虫が鳴いている。鳥が鳴いている。海が鳴いている。
「絶対に行けない場所、だけど行きたい場所。だいたい僕は夢のなかで、その街に住んでいるんだ。べつになんの感慨も湧かない。だって住んでいるんだからね。でも、目がさめると気づくんだ。あの街はどこにあるんだろうって」
いつしかふたりの歩調が同調し、足音がひとつになっていた。
「そして、こうも考えた。僕の街には、海がないんだってね。そう、僕はその街に住んでいて、海を見に行ったことがないんだ。海のない街なんだね。現実の自分が住んでる街は、もう何十年か先には海の底になっているはずなのにね、奇妙だよ」
足跡は茂みの向こうに消えていた。フェンスが足跡に沿うようにしてカーブしていた。海の音、風の音、草の音、ふたりの足音。
「目がさめた瞬間、僕の街も部屋もなにもかも、ぜんぶ消えてしまう。残ったのはやっぱり僕の街に部屋なんだけど、そこは本当によく知っている場所で、でも海が近いんだ。僕は街に住んでいていちども海を見ようなんて思わなかった。仕事で散々見てきたからね。なにも休みに出かけるような場所じゃないと思ってた。きっと<施設>に行かなければ永遠に見にこなかっただろうね、こんなところまで。だから、感謝してる。ほら」
怜は指をさす。足跡はたやすくフェンスの向こうへ続いている。そこだけフェンスは破れ、人がひとり通れるくらいの穴になっていた。
「先客がやったのじゃなさそうだよ。切断面が錆びてる」
不意の来客を親切に<機構>へ知らせる呼び鈴など、すべての海岸線に設置できるはずがない。ときにフェンスが破られるのは、めずらしいことではないのかもしれない。怜は金網をそう、まるでギターを弾くようにじゃらりとなでつけると、フェンスをくぐった。とまどいがちに鳴海もつづく。足跡はさらに砂地を下っていく。フェンスの向こうは海まで下りだ。水平線が見える。怜のポケットのなかでイグニッション・キーが鳴った。
「風が……重たい」
フェンスをこえた鳴海が、ひとこと。
足跡をたどってゆるい斜面を行く。獣道のような一筋の小道。鳴海は眼前の海に圧倒されていた。あまりにも、広い。広すぎて距離感がつかめない。手を伸ばせば冷たい水に触れられそうな気がした。想像していた海とはちがう。もちろん夢で見た砂浜ともちがう。怜の背中までが遠かった。
「あ」
草地がひらけ、かたむいた電柱に架空線がからみつくちょっとした広場に出た。怜が短く声をもらしたのはけれど、ひらけた風景にではなく、そこに見つけた人影にだ。先客、足跡の主。
足音に気がついたのか、先客はすっと視線をこちらに向けた。夏だというのに、彼は長袖だった。足元に草色の大きなバッグをひとつ。髪は肩にとどくほど長かったが、不思議な清潔感がただよっていた。
「やあ、こんなところで仲間と会えるとは思わなかったな」
彼は親しげな笑みをふたりによこした。あまりに気さくなふるまいに、鳴海は彼を怜の知り合いだと思った。視線で怜に訊ねたが、返事はない。
「どこかで会いましたか」
怜が言った。初対面なのだ、彼とは。
「さあね、会ってないね。でも、お仲間さ」
「仲間って」
「あんたらも海を見に来たんだろう。だったらお仲間さ」
電柱にもたれて、男は海を向いた。
怜はゆるりと彼に歩みよっていく。怜の右手が腰に伸び、シャツの下で何かを握っていた。
「火を貸してくれないかな」
男は怜のそぶりを気にかける様子もなく、からりと言う。
「火?」
「犯罪的かな、煙草を喫いたくてね。けれどフリントが切れてしまった。もしライターを持っているならね」
男は怜よりもいくつか年上だろう。落ちついていた。怜は腰に伸ばした手をいったんひっこめ、ポケットからライターを取りだした。
「ありがとう。いや、煙草は持ってる」
怜がさしだした煙草を押し返し、男は薄汚れたバッグから煙草を出して、くわえた。怜はいつものオイルライターのフリントを擦ってやった。
「灰皿がないんだな、ここには」
口ではそういいながらも、彼はうまそうに一息喫った。
「俺はついてる」
とがらせた口から煙を吹きだし、男は言う。
「ライターを持ってる人間にお目にかかったのは、函館以来だ」
「函館?」
「青森から貨物列車に便乗したのさ。もうすっかり街は沈んじまってたけどね。」
「向こうの人なんですか」
怜の警戒心が多少は和らいだのを、鳴海は感じた。同じ喫煙者だから? それはどうだろう。
「まあね」
男はじっくりじっくりと煙草を喫う。
「あんたは見たとこ、こっちでずっと暮らしてるって感じだね」
「ずっとね」
怜が応えると、男はじろりと鳴海を向く。鳴海はただうなづいただけ。
「こっちはいい。海がまともな色をしている」
ふたたび海を向いた男は、噛みしめるように言った。
「このあたりだけは」
怜が言う。並んだふたり、怜が男より頭半分背が高い。
「そうかね。あっちの海よりずっとまともさ」
「向こうは、どんな感じなんです?」
問いかける怜の声が低い。
「霞ヶ浦と東京湾がつながったからな。ひどいもんだ。もし首都まで行ってみたいのなら、ワクチンを忘れずに打っていったほうがいい。今の時季はね」
男の顔は日に焼けて黒かった。それでも最初に鳴海が感じた清々とした印象はかわらない。
「けれど、夜はきれいだよ。沈んだままでも灯りっていうのは灯るものなんだな。あれはいちどくらい見ておいても損はないね。暑さとまずい食い物を我慢できるのならね」
根元までしっかりと喫った煙草を、男は電柱にこすりつけて消し、そのまま吸殻はポケットにしまいこんだ。
「<機構>は」
「強制執行の話をしているのか。東京にはもう誰も住んじゃいないさ。みんな沈んじまったからな。少なくとも特別区には誰もいないことになってる。神奈川や千葉まで行けばいっぱいいるけどな。でもあっちにくらべたら、こっちはもう無人島だな。誰もいない。貨物にまぎれたりしてここまで来たけど、あんたらみたいな奴には会わなかったよ。いまどきただ、海を見に来る奴なんてね」
両手をポケットにつっこんだ男は、怜を見て眉を片方つりあげて笑った。
「なんでフェンスが破れているのを知っていたんです?」
怜が訊く。
「訊いたのさ。俺とおんなじようにぶらぶらしてる『渡り』の奴らにね」
「『渡り』?」
「おんなじ場所にとどまらないで、ふらふら歩き回ってる奴らのことさ」
ふうんと怜は鼻を鳴らして、目を細めた。
「あんたらはどうやってここまで来たんだ?」
男はこんどは鳴海に訊いた。鷹や鷲のような目が、鋭かった。
「自動車で」
「車で? あんたのか」
怜を向く。だまってうなずく怜。
「そりゃあめずらしい。さっき聞こえたのは、あんたの車の音か。ガソリン・エンジンか」
「……ポンコツだけどね」
ぼそりと怜はつぶやくと、ポケットに片手をつっこんだ。
「下りてみないのか、そこから海に出られるよ」
男はあごをしゃくって広場の端を指す。
「階段がある。いいかげん腐りかけてたから、気をつけるんだね。真ん中を歩くことだ」
地べたに置いたバッグに腰をおろし、男は目を閉じた。海風に髪がはねていた。
「行ってみよう」
怜は鳴海を呼んだ。
以前ここは公園か何かだったのかもしれない。階段は木製で、たしかに男の言葉どおり、いたるところがもう腐っていた。両側は木と見まがうほどに背の高い草。草いきれがむっとした。手すりまで腐りかけていたから、鳴海は両手でそっとバランスをとりながら階段を下りる。怜はリズムよく下っていくから、あんがい自分の要領が悪いだけかもしれない。彼の背中が遠くなる。それにしても、ちょっと暑い。海の匂いに、草の匂い、そして先ほどまで揺られた怜の車のガソリンの匂い。外は匂いにあふれていた。そんなことまで自分は忘れていた。それが驚きだった。
ざわざわと葉が揺れる音にクロス・フェードして潮騒が大きくなる。波の音だ。そう、外は音も雑多だ。いろいろな音が聞こえた。風切り音を数え、患者たちの吐息を聞き、稲村の声の調子をうかがう日々が何年も続いた。暗い部屋から光の中へいきなり背中を押されても、最初のうちは目がくらんで何も見えない。それに似ていた。まだ鳴海は耳に届く音すべてを処理しきれていなかった。ましてはじめて潮騒を聞く。やむことのない波の寄せ返しは、嵐の夜、ベッドの中で聞く雨音に近いような気がしたが、それよりずっと力強かった。
「海……」
鳴海は口に出して言ってみた。誰もいない波打ち際がすぐ足元に、階段の尽きるところにあった。そこは道路だったらしい。オレンジ色のセンターラインが見える。ガードロープの向こうがもう、海だった。
「国道だ」
ひびだらけのアスファルトを何度かつま先でつついて、怜が腕を組んだ。
「まだ沈んでいなかったんだな、ここは」
ここが、国道。遅れてアスファルトを踏みしめた鳴海は、かつてここを車が行き交っていた場所だとすぐには理解できなかった。路面はぬめりがある。海草のきれはしがぽつぽつと散らばっていた。
「潮の満ち干で沈むんだろうね」
海草の一枚を拾いあげた鳴海に怜が言う。
「どう?」
怜は両手をポケットにつっこんで、センターラインの上に立ち止まっていた。鳴海はしゃがみこんだ。陽が照りつけ、海が空気に溶けていく匂いが強い。制限速度を示す標識もまた錆だらけで、いつまでたっても一台の車もやってはこない。今はもう、夏だというのに。
「アンテナが見えるよ。ほら」
見ると水面にぽつぽつと、それはまるで枯れた細い枝のようだ。そうでなければ、できそこないのサンゴだろうか。
「アンテナ」
「家が建ってる。そこに」
ガードロープまで寄っていって、怜もしゃがみこんだ。
「暑いね」
波はガードロープのすぐ下で砕けていた。風が強い日なら、きっともう怜は波をかぶっていたにちがいない。
どこまでが陸だったんだろう。どこまでが海なんだろう。水の底に、まだ誰か住んでいるのかもしれない。水の音を聞きながら、鳴海はそんなことを考えていた。脈略はなかったが、そうしないと、今にも見えてきそうだった。
「寂しい」
ぽつりとつぶやいた鳴海に、怜は気づかなかった。足元で砕ける波の音が、鳴海を打ち消した。だから彼女の言葉は彼女だけのものだった。
「寂しい」
もういちど。怜の背中があいかわらず遠くに見える。外は<施設>の中よりもずっと寂しいところだ。誰もいない。誰もいないとは、こういうことなんだ。首筋に太陽が痛い。アスファルトの照り返しが暑い。海は青かった。何かを溶かしたような青さで、だから底に沈んでいる記憶が見えない。鳴海はそれでいいと思った。
カモメが鳴いていた。海も鳴いていた。鳴る海、鳴海。わたしの名前。どんな思いで両親がこの名前をつけたのかはわからない。いまのいままでいちども海を見たことがなかったのに、鳴海は名前の中に海をたたえていた。けれどその海は見えなかった。はじめていま、わたしは海を見ている。
水平線がかすんでいた。遠い。怜の背中よりずっと遠い。手を伸ばしても届かない。水たまりなどにはとうてい思えない。広さを実感できないほどに、広い。
「これが、やっぱり海なんだな」
いつのまにか怜は立ち上がり、鳴海のすぐとなりにいた。彼の声は平淡に聞こえた。
「はじめて見るような気もするけど、ちがう。やっぱり見たことがあるよ」
鳴海も立った。軽くめまいがした。
「きっとこんなところから見るものじゃないんだろうな。けれど泳ぐ気にもならないしね」
「泳ぐ?」
「そう。昔はみんな泳いでいたのさ、夏にはね。どう、泳いでみる?」
鳴海も怜も、夏休みの海を知らない。懐かしい砂浜の光景を知らない。ふたりの頭上に、濃密な青空。そして水平線、草の緑。ここでこうして水平線をながめていた人間はどれくらいいるのだろう。鳴海には見えなかった。もう、終わってしまった世界だから。終わってしまったものの「終わり」は見えない。
「まだ、見てる? それとも、本当に泳いでみる?」
怜の声はあいかわらず平淡だった。落胆しているのか、納得しているのか、鳴海には判断しかねた。
「君を連れてきてよかったのかどうか。僕ひとりで来ればよかったのかな」
鳴海は返事をしなかった。どう応えていいのか、わからない。わからなければ、だまっているしかない。
「どう、湖とはちがう?」
「寂しいわ」
こんどは彼に届いただろう。鳴海は怜の横顔を向いて言った。
「寂しい、か。そうだね、寂しいね。夏休みだっていうのに、僕たちふたりだ。誰も海を見に来ようとしないんだな」
そう言って怜は下ってきた階段を、上の広場をあおいだ。もうひとり、いた。海を見に来た男が。あの男はまだ広場にいるのだろうか。
「砂浜って、もうないのね」
「このあたりにはね。僕が知っているかぎり、みんな沈んでしまった。もうずっと昔に。鳴海さんは、砂浜を見てみたかった?」
「わからない」
夢で見たことしかないから。
「戻ろうか、ここはたしかに寂しいよ。君じゃなくても」
踵を返した怜の靴の裏で、砂が鳴った。砂? ここが砂浜だというの? 鳴海はアスファルトを靴で擦ってみた。砂が浮いていた。
「砂……」
鳴海のつぶやきは、やはり怜には届かなかった。海岸を去ろうとして、鳴海は波が砕ける姿を見ていなかったことに気づいたが、怜はもう階段に足をのせていた。