10
三五、色鉛筆
砂浜。
いまだ見たことのない風景。
波が寄せ、返す。白い波頭ははるか水平線まで幾重にも続き、潮騒が一定のリズムで耳に届く。頬をなでる風は涼しく、足元は一面の砂だ。
ゆるやかに弧を描いた海岸線に、錆色の船が座礁している。大きい。鳴海は足元の砂を踏みしめながら、歩く、船に向かって。
兄にきつく言われていた。船はずっと昔、台風で航路を見失い、そして座礁したタンカーだ。母港に戻ることもできずにそのまま朽ち、捨てられた。捨てられた船だからいつ崩れてもおかしくない。だから中には入るなと。
鳴海は歩いていた。ゆるやかに弧を描く海岸線を、砂浜を歩いていた。太陽がじりじりと照りつけているのに、海から吹く風がその熱を奪ってちっとも暑くなかった。季節がわからない。水平線のかなたに巨大な雲が浮かんでいて、一秒、一分と同じ姿にはとどまっていなかった。そうか、夏なんだ。
夏の海、潮騒、鳴る、海。
錆だらけの船は思ったよりも遠く、振り返ると自分の足跡が一列。わたしはいったいどこから歩いてきたんだろう。兄の姿を無意識に探していた。それにしても、遠い。
砂浜、砂浜、砂浜。
陸に向かって砂地は砂丘となり、葉の長い名前も知らない草が茂っていた。山も街も見えない。ここはどこだろう。誰に連れられてきたんだろう。疑問は湧くが潮騒が打ち消す。やがて鳴海はようやく船の前に到着した。向こうから見たよりずっと大きく、人が造りだしたものには到底見えない。なにか生き物の抜け殻のように見えた。
船の舷側は裂けていて、それは錆のせいなのかここに座礁したときにできた傷なのかはわからなかったが、鳴海はそこから生き物が殻を捨てて出ていった穴に思えた。船体の半分は海に沈んでいて、ぱっくりと口を開けた裂け目は、波頭に洗われていた。でも歩いてそばまでは行けそうだ。靴を濡らしたくなかったので脱ごうとして気づいた。自分は裸足で歩いていた。けれど足の裏に砂の感触はない。つま先で砂を掘ってみたが、やはり感触はなかった。おかしいなとは思いつつ、鳴海はそのまま波打ち際に歩く。
船は太陽を隠し、砂浜に広く影を落としていた。そこに入ると涼しい。舳はもう目の前で、指を伸ばすとざらりとした感覚が伝わった。変だな、砂の感触はないのに。鳴海は指先でなんども船体をなでた。人差し指の先に、赤黒い錆がつき、それを海水で洗う。海は暖かく、両手を浸して水をすくってみた。おかしなことに、錆だらけの船と海の水は、同じ匂いがした。
風が吹く。船体がきしむ。木の扉を開けるときのような、きしみ。鳴海はふと怖くなった。ひとりでいるのが、怖くなった。もういちど、兄を探す。こんどは声を出してみる。
「お兄ちゃん」
声は裂け目から船の内部に広がってこだまし、いつまでも聞こえた。
「お兄ちゃん」
兄は自分が呼べばすぐに駆けつけてきてくれる。幼い頃はそうだった。庭で遊んでいたとき、はぐった石の裏から大きなムカデがはい出てきた。鳴海は飛びのいて兄を呼んだ。するとすぐに彼はやってきて、裏返しになった石をムカデにかぶせた。だから、いまも鳴海は兄を探す。
「お兄ちゃん?」
いくら呼んでも兄は来ない。こんな広い浜辺に、自分ひとり。鳴海は船から、海から離れようときびすを返し、走った。波を蹴り、砂を飛ばし、走った。でも、まるで水の中を進んでいるようで、まったくうまく走れない。空気が重い。
砂に足をとられた。そして、鳴海は転んだ。一面の砂浜に、転がった。涙がにじむ。誰もいない。わたし、ひとりだ。
と、砂を踏みしめる音が耳に届く。
影が鳴海に落ちる。誰?
「お兄ちゃん?」
やはり来てくれた。兄だ……。鳴海は顔をあげ、彼の姿を確認しようとした。
まぶしい。太陽が邪魔をして、すぐそばに立っている彼の顔が見えない。
「お兄ちゃん」
鳴海は起き上がれなかった。砂にすっかり身体が埋まってしまっているようだ。すると、彼はしゃがみこんで、鳴海の手をとった。
「ありがとう……」
重い身体をようやく起き上がらせて、鳴海は砂浜に座りこむかっこうになった。まだ、彼の顔が見えない。
轟音。
顔をあげ、音を探す。
二本の白いコントレイル……飛行機雲。碧空を切り裂くような、あまりにも白すぎる航跡雲。
「お兄ちゃん!」
飛行機は鳴海の頭上をはるかに越えて、海へ向かって飛んでいく。振り返りもせず。
あれは兄の飛行機だ。灰色の翼、一人乗りの飛行機。行ってしまう。わたしを置いて。
鳴海ははねるように飛び起き、コントレイルが伸びる海へ向かって走る。けれど身体が重い。太陽がまぶしい。早く、早く。そうしないと行ってしまう。
見る間に飛行機は見えなくなり、また鳴海は取り残されてしまった。置いていかれてしまった。
がくりとひざを砂浜につき、鳴海は頭をたれた。轟音だけがまだ、海岸線に残っていた。
兄が、行ってしまった。
そこで鳴海は振り返る。だったら、わたしを起こしてくれた彼は誰?
彼はまだそこにいた。フリントを擦る音、煙草の煙、困惑した瞳。怜だ。
「あ」
一口煙草を喫い、吐き出した煙は風に舞った。照れたような笑み、まぶしそうな顔。
「鳴海さん」
彼が口を開いた。でも、その声は鳴海が知っている彼の声ではなかった。
「白石さん?」
鳴海は問う。あなたは、誰? わたしが知っている人と、声が違うわ。
「鳴海さん」
再度、彼は鳴海を呼んだ。その声は怜のものとは違ったが、でも聞き覚えはあった。
怜が煙草の灰を落とす。すると、不自然なほど場違いな、何かをたたくような音がした。こん、こん、と。
ゆっくりと世界が輪郭を無くしていく。文法は崩れ、やがて怜の身体が空気や海風や、そしてまだ見ぬ砂浜に融けていく。音だけが、怜が灰を落とす硬質な音だけが、鮮明に鳴海の耳を叩き続けていた。
「鳴海さん」
目を閉じ、世界を固定化しようとした。両腕でこの風景を抱きとめた。すると、もういちど彼女を呼ぶ声が、ずいぶんと近くから聞こえた。こん、こん。
ちがう、これはノックだ。誰かがドアを叩いている。
ノック?
そこで目がさめた。
明かりが灯ったままのライティングデスク。鳴海はいつのまにか居眠りをしていたらしい。頬の下には、昼間怜から渡された兄の絵葉書。右手には、直接兄が手渡してくれた砂浜の絵。鳴海はこれを見ながら、いつしか眠ってしまったのだ。
夢。
ノックの音は続いていた。
「鳴海さん」
今度は誰の声なのかはっきりとわかる。声の主はわかったが、鳴海は意外な気がした。彼女が来訪してくるなんて。
「寝てるの?」
飾りのない声。少々粗いノック。明日香だ。
「あ、いま、開けます」
席を立つと、身体が重かった。わたし、走れるだろうか。夢の続き、腕を伸ばしてみる。指先に錆だらけだった船の感触がまだ残っていた。
ドアを開ける。廊下の明かりはもう落ちいていて、常夜灯がぼんやりと灯っていた。いま、何時だろう。
「ごめん、遅くに」
愛想笑を浮かべることもなく、ぶっきらぼうな顔がそこに立っていた。見慣れた表情、明日香のそれ。
「入ってもいいかな」
鳴海の部屋に灯った明かりに目を細め、明日香は言う。彼女が部屋を訪れてくるなんて、まったく予想もしていなかった。だから、鳴海はことわるすべを持たなかった。
「どうぞ」
鳴海は身を引いて、明日香を部屋に通した。淡いブルーのスウェットを着た彼女は、いつもよりもずっと、背が低く見えた。
「椅子がないから、ベッドに座って」
「わかってる。ここの連中で自分以外の椅子をもってるのは、先生方くらいだものね」
そう言って明日香は唇の端を軽くゆがめた。笑ったのだ。
明かりはライティングデスクの白熱灯だけ。白のカーテンを引いた窓から外は見えず、だから閉鎖されたこの部屋にただふたり、ぼんやりと明かりに照らされたおたがいを見つめて向かいあう。しばらくは鳴海も明日香も口を利かなかった。耳をこらせば、屋上でプロペラがゆっくりと回る音すら聞こえる。明日香が体勢をかえれば、マットのスプリングのきしみが聞こえる。そのうちおたがいの呼吸すら聞こえる。そんな静かな夜。どちらかが口を開くまで、きっと言葉がこの部屋に転がることはないだろう。そのことをふたりとも知っていた。知っていたが、言葉を発するきっかけは知らなかった。明日香はじっと、鋭く澄んだ目で鳴海を見つめていた。昼間にやはりここを訪れた怜が、ひととおり部屋の四方に視線をめぐらせたのと対照的だ。明日香は最初から、鳴海をめあてにやってきたのだ。部屋の装飾などには興味がない。
「昔話をしましょう」
うつむき加減に、明日香のショートヘアがゆれる。そろった前髪が幾筋か、南だか場違いなセリフといっしょにこぼれた。だから鳴海は聞き返した。
「えっ」
「昔話を、しましょうって言ったのよ」
顔をあげた明日香は、色の見えない瞳をまっすぐに向けていた。
「ここで話すことって言ったら、昔のことくらいしかないから」
明日香はそう言って脚を組んだ。いまはじめて、鳴海は明日香の脚が細く長いことに気づいた。
「話すことなんか、ないわ」
視線を明日香からはずし、言う。
「そう、か」
ふたりきりで会話をするのははじめてだ。そう、きちんと会話になっている。言葉を投げかけ、返す。おたがいが変化球を放る。限りなく直球に近い変化球。
「わたしが生まれたのは、二一年と三か月前。雨が降っていたらしいわ。一晩じゅう。日付がかわるかかわらないか、ぎりぎりにわたしは生まれたんだって。だから、『明日香』って名前らしいの。笑っちゃうほど簡単よね。きょうと明日の境目に生まれたから、明日の字を取って、だもの。ばかな両親。外は酸性雨が降りしきっていたのにね。明日もなにもないと思うけど」
鳴海はしゃべりつづける明日香を見ず、手元の、兄の描いた風景を一枚々々、繰る。
「きっと明日の匂いは酸っぱいんだわ」
独白だ。ぼそぼそとひとりごとのようにしゃべりつづける明日香の声はしかし、明瞭だった。奇妙だ。たがいがたがいに無関心だったはずの<施設>で、何かが変わろうとしている。
「だって、酸性雨が降りつづく夜にわたしは生まれたのよ。ろくな明日がこないのを知ってて、よくまあこんな脳天気な名前を付けたもんだわ」
彼女独特の冷笑。顔のわりに声は低い。
「ほんというとね、わたし、鳴海さんの名前、最初は苗字だと思ってた。鳴海さん鳴海さんって、そう呼ばれていたでしょう。だから。『綾瀬』が苗字だって知ったのは、けっこうもうずっとあとで。興味もなかったけどね、正直言って。真琴の名前を知ったのだって、やっぱりもうずっとあとだったし。あの子の場合は、名前も苗字も知らなかったけど」
冷笑、冷笑。
「鳴海さんか。鳴る、海、ね。いい名前なんだか悪い名前なんだかわかんないね」
同意を求めているのか、彼女の声はたしかに鳴海を向いている。
「鳴海さん、海を見たことがないんだっけ」
「ないわ」
「昼間聞いたよね」
鳴海は沈黙で返した。
「あの環境調査員さん、変わってるわ」
ちらりと見ると、明日香はベッドに半分転がっていた。自分以外の誰かがこのベッドに横たわるのは、はじめてだ。もちろん、鳴海が入所してからだが。
「白石さんっていうんだっけ。おかしな奴」
「おかしい?」
「わたしたちが言うのもなんだけどね。おかしいわ。わたしたち相手にべらべらしゃべって。そう思わない?」
「明日香ちゃんだって、わたし相手にべらべらしゃべってるわ」
われながら冷たい口調だっただろうか。そう思う自分に愕然とする。
「そういえば、ね。いいのよ。鳴海さんと昔話をしにきたの。きょうはね」
「話すことなんかないわ」
「冷たいね」
「いつものことでしょう。明日香ちゃんだって、似たようなものだと思うけど」
「たしかにね」
「だったら、いいでしょう」
砂浜、沈船、青空、夢。風景を繰る手が止まる。
「でも、じゃあどうしてわたしを部屋に入れてくれた?」
平淡な声で言う明日香に、鳴海は顔を上げた。そうだ、どうしてわたしは。
「はじめてよね、鳴海さんの部屋に入るの」
だまってうなずいた。明日香の部屋を訪れたことはあったが、彼女が鳴海を訪れたことはなかった。
「いつだっけね、わたしの部屋に鳴海さんが来たの。あれ、何しに来たんだっけ」
よくは覚えていなかった。覚えているはずがない、鳴海はできるだけ物事を忘れようとしているのだから。覚えなければ、シーンを追加しなくてもいい。
「天気通報聴きに来たんだっけ。八時の」
「さあ、覚えてないわ」
「わたしの部屋に来るひとって、わたしに用があるんじゃないのね。ラジオ。国営放送しか聞こえないのに」
明日香の部屋のラジオが思い出せない。思い出せない。思い出せない。どんな形だったのか、どんな番組を聴きに行ったのか。それもひとりで行ったのか、誰かと行ったのか、明日香について行ったのか、わからない。
「天気通報、全部聴いたことある?」
白熱灯に照らされた明日香の顔は、象牙色であたかも蝋細工のようだ。いつも斜にかまえ、脱力したような表情をはりつけて談話室で真琴とテーブルについている彼女が、ふとひどくはかない存在に見える。いままでそんな感情を抱いたことがなかったから、鳴海は胸にためた呼気を吐き出さず、いっときつやのあるショートヘアを、明日香の姿を、しっかりととらえようと試みる。
「南からずっとね、聞いたこともない街の天気を、アナウンサーが読みあげていくのね。もう沈んじゃった街とか、沈みかけている街とか、そういうところはなんて言うと思う? アナウンサーはただ、『入電がありません』って言うのね。学生やってたころは、おかげで全部の定点観測ができなかったから、ずいぶん不便だったけど、ここで聴くとまた違うのよ。ああ、情報を送れないのか、どうしてなのかなってね。単に機材の故障か、それとも測候所そのものが観測どころじゃないのか、だったらどうしていまだに観測地点として読みあげられるんだろうって。ひょっとしたら、もうそこには誰もいないのに、でも誰かがいたんだってことを、忘れないようにするために、入電がなくても地名を読みあげているのかなってね。そう考えるようになったのね」
明日香の部屋のラジオは年代ものだ。あちこち傷だらけで、アンテナは蔦のようにゆがんでいた。ラジオの前に座ってアンテナの方角を懸命に調節している明日香の、こっけいなほど真剣な顔が、鳴海の頭上に湧きだした。見たことがある。わたしは、忘れてはないなかった。いつか稲村が言っていた。人間は、一度見たものは忘れない。画像をそのまま、脳はどこかに記憶していて、自分でも気がつかないうちにどんどんその容量は増えていくのだと。夢で出会う見知らぬ人も、知らない街も、風景も、すべて実はずっと昔訪れたり出会ったりしたことのある風景。
「こんど、一緒に聞いてみようか?」
「なにを?」
「気象通報よ。いっしょに聴いてみない?」
小首を傾げる。きっと明日香でなければかわいらしい動作なのだろう。けれど彼女がすると、ちぐはぐで可笑しい。
「なに?」
明日香が訝しげに眉をひそめた。鳴海はあわてて無意識に浮かんだであろう微笑をうちけした。
「ごめん」
「いいよ。鳴海さんが笑うところなんて、あんまり見ないから、貴重よ」
唇の端だけ動かして、明日香も笑う。到底笑顔には見えないのだけれど。
「……はじめてね」
鳴海はそっとつぶやいてみた。明日香がどうとらえてくれるか、淡い期待と不安と、ないまぜになった胸の奥は奇妙な熱を宿していた。
「なにが? はじめてって」
明日香が聞きかえす。
「明日香ちゃんとまともに話をしたのって、はじめてじゃないかな」
虚を突かれたように、明日香は目を見張った。そして、こんどは声を出して笑った。
「そうかもね。そうなんだ」
談話室で真琴とささやくように笑う、あの声ではない。愉快そうに、明日香は笑っていた。
「こんな長い間、真琴以外と話をしたのも、はじめてだわ」
「そうなの?」
「ここに来てからはね。ううん、学生やってたときも、友達なんていなかったから、いまがはじめてかもしれない」
「友達」
「そう、友達。わたしね、嫌われ者だったから」
こんどは、自嘲。紙をかきあげ、あごを突き出す。彼女のスタイル。
「鳴海さんは? 見たとこ、わたしと同類って感じがするけど」
同類。友達。鳴海は彼女から目をそらした。
「嫌われてたのかな。そうかもしれない。わたし、こういう人間だから」
「どういう人間?」
「どういうって……」
考える。わたしは、誰?
「鳴海さん、どうしてここにいるの?」
明日香の声は自分の声よりもずっと落ち着いている。低いとか太いとか、そういう次元ではない。落ち着いているのだ、いつでも。ときおり発作に耐えられなくなる自分を、きっと明日香は嫌っているにちがいない。
「どうして、かな。。……気がついたらここにいたわ。そういう感じ。考えたこともないわ、どうしてここにいるのかって。明日香ちゃんは?」
鳴海が言うと明日香はすらりとした脚を組み、また小首をかしげた。その動作を、鳴海はしだいにかわいらしいと感じるようになった。不思議だ、そんな感想を抱いたのははじめてだ。
「ちゃんとわたしの質問に答えてないよね。……鳴海さんらしいけど。らしいってどういうことなのかな、よくわかんないけど。わたしもいっしょ。気がついたらここにいた。気がついたら真琴になつかれてた。ずっとわたしはひとりでいたのに、気がついたらね、ほんとうに気がついたら、真琴がわたしのあとをくっついて歩くようになってたな。一度、訊いてみたのね、『どうしてわたしにかまうの』って。そうしたら、真琴がなんて答えたと思う?」
白熱灯をの明かりを浴びた明日香は、いつもよりずっと彫りが深く、つるりとした肌がどこか作り物めいて見える。何を言っても表情をほとんど変えず、口許を軽くゆがめるだけ。すぐそばにいるのに、彼女との距離感がわからない、はかれない。けれど、以前よりは近くにいるような気がする。
「『寂しそうだったから』って。あの顔でね、そう、いつものこんな、上目遣いでわたしに言うのよ。びっくりしちゃった」
明日香は真琴の上目遣いを真似して見せたが、薄暗い明かりだけの鳴海の部屋では、斜にかまえた彼女の表情が、いっそう迫力を増しただけだった。それが可笑しくて、鳴海はまた笑った。
「おかしいでしょ。他人にはじめて言われたわ、『寂しそうにしてる』なんてね。考えてみればそうだったのかもしれないけどね。でもわたしはひとりで寂しいと思ったことなんかなかった。気象通報を聴いていても、ぼんやり談話室で時間をつぶしていても、寂しいなんて思ったことはないわ。けれど、きっと寂しそうな顔をしてたんだろうね。真琴はあれでけっこう鋭いから。ちょっとおしゃべりすぎだけどね。あの環境調査員が、わたしが大学にいたことを知ってたのだって、真琴がばらしたのよ。それはいいんだけどさ」
淡々と、抑揚に欠けた独白が続いた。モノローグだ、まさしく、明日香のモノローグだった。なぜいま彼女が鳴海にそんな話を聞かせるのかは見当もつかなかったが、だまって聞いた。
「ほんと、気がついたら、ここにいたなぁ」
首のうしろで指を組み、明日香は遠い目をした。彼女のそんな顔は見たことがなかった。
「明日香ちゃんは、戻ろうとは思わないの?」
「戻るって、どこへ」
「どこへって、大学へ」
「昼間の話の続きかな。だったら、もう答えは言ったよね、わたしは戻れない。ここがわたしの居場所なんだって、そう思っているから」
そう言った彼女の顔が、ひどくはかなく見え、鳴海の耳に「戻れない」というセリフがいつまでも残響する。戻れない。そう、自分も戻れない。
「鳴海さんは」
「わたしも、戻れない。戻る場所なんかないし」
「お兄さんがいるんでしょ」
「お兄ちゃんは、<機構>の人間だから」
「パイロットやっているんだっけ」
だまってうなずく。
向かい合うふたりに、唐突に訪れた沈黙。明日香は少々しゃべりすぎた。鳴海は最初から誰かに向けて話すべき言葉をもたない。だから、ふたりの間にただよう沈黙を、おたがいは当然のものとうけとめる。これはカウンセリングではないのだ。
医師たちは入所者たちが積極的に交わることを奨励してはいなかった。マイナスにマイナスをかけても、ここではプラスにはならない。もちろん、プラスにマイナスをかければマイナスになる。だから、医師たちの思惑以前に、入所者たちも誰かと交流を持とうという者もいない。明日香と真琴は友達ではなかったし、もちろん鳴海と明日香も友達ではない。ただの顔見知りだ。
「あ」
と、鳴海は明日香の言葉の残響の向こうに、遠く聞こえてくる旋律をとらえた。聞き覚えのある、あの曲。音楽だ。
「なに?」
「音楽が聞こえる」
「え?」
明日香は部屋の扉を向き、耳をすませた。まるで音楽がここへやってくるのを待つようなしぐさだ。
旋律はあの夜と同じように、遠くから届く。風に乗って流れてくるささやきのようだ。午後九時。あの夜と時刻も近い。
「誰が、弾いてるのかな。これ、ピアノだよね。真琴?」
「稲村先生」
「稲村先生?」
明日香はいぶかしげに聞き返す。直接彼を知っていても、たしかにピアノと稲村の組み合わせは妙だと鳴海は思う。
「稲村先生、そういう趣味があるんだ」
目を細め、明日香は耳を傾ける。彼女と音楽、いままでまったく想像すらしなかった組み合わせだが、静かな夜、陶器のような肌の明日香の横顔は端正で、稲村の奏でる旋律は彼女に似合っていた。空やそこに浮かぶ雲をひとりで見上げる明日香、気象通報をひとりで聴く明日香。孤独をしらずのうちに自分のものにしてしまった彼女に、稲村の奏でる透明な水流を思わせるピアノは、ふさわしい。
「明日香ちゃんは、音楽なんか聴くの?」
手元の「絵葉書」をとんとんとはずませてまとめ、鳴海が訊く。さりげなく。
「音楽、か……。音楽。聴かないな、そういえば。聴いた記憶なんかないな」
いつもなら軽く受け流すかはぐらかし、まともに質問には答えないだろう明日香は、ずいぶん素直な声でそう言った。組んでいた足をいつのまにか抱えていた。
「そういう趣味はなかったから」
短く切った髪をかきあげ、顎をひざにのせ、明日香の声はかすかにかすれていた。
「趣味か、ひさしぶりに聞いたな、『趣味』なんて言葉。ここにいればいくらでも時間なんてあるのにね。気がついたらこうして、夜になってね」
明日香は頬を自分のひざにこすり合わせ、そのしぐさは毛づくろいをするネコのようでもある。彼女の表裏、つまりはいつもシニカルで他に興味を示さない裏には、かすかなひびが入ればわずかな作用で砕け散ってしまうガラスのような、そんな一面が隠されているにちがいない。彼女もまた、<施設>の一員なのだから。
「鳴海さんは、絵を描くのが好きなんでしょ」
「えっ」
「ほら、そこの絵、鳴海さんが描いたんじゃないの?」
丸みを帯びた小さなあごで明日香は鳴海の兄が描いた<風景>を指す。「ちがうの?」と明日香の目は問うていた。
「これは、兄がくれたの。ここしばらくわたし、絵なんか描いてない」
「じゃあ、絵を描くのが好きなんだね」
「うん、昔から。本当にときどきだけど、わたしに絵を送ってくれたりするのよ」
「ちがうちがう、鳴海さんよ。絵を描くのが好きなんでしょう?」
シニカルな目ではない、少女のようなやさしく好奇心に満ちた瞳が、けれど少しだけ屈託した光が、鳴海を向いていた。
「ここしばらく、絵なんか描いてないわ」
「嫌いになったの?」
「ううん。描けなくなった、のかな。そう、……描けなくなった」
「どうして」
抱えていたひざを解き、明日香はベッドの上であぐらをかいた。今夜の明日香は真琴にも負けない話好きの女の子だ。
「さあ、わかんない。描きたくなくなったの。描くものがないんだもの。描いたって誰も見てくれない」
誰も見てくれない?
「わたしじゃ、だめかな?」
軽く身をのりだして、明日香はおどけた口調で言った。稲村のピアノが、いったん止んだ。
「どういうこと?」
「わたしを描いてよ。このさい。見てみたいな、鳴海さんがどんな風にわたしを見ているのか、知りたくなった」
知りたくなった。
「明日香ちゃんを、描くの?」
「しばらくわたし、自分の顔なんて見てないから。顔を洗うときだって、わたしは鏡を見ないわ。だから、鳴海さんの目を通して、自分の顔を見てみたくなったの。あの環境調査員のことを『街の人間の顔だ』なんて言っちゃったけど、本当言うとね、わたし、街の人間の顔がどんな顔なのか、わたしの顔とどう違うのかなんて、わからない。だから、知りたくなったよ、自分の顔が。
どう? モデルに不足はないと思うけどな。描いてよ」
明日香のセリフが終わると、稲村のピアノが再開した。最初は右手で旋律を。エチュードだ。次に左手を。つたないリズム、きっと練習を始めたばかりの曲。
「似顔絵なんて、わたし、描いたことがない」
「じゃあ、記念すべき第一号ね。いくら時間がかかっても、わたしは大丈夫。理想のモデルになってあげる。描いて」
笑うと明日香の目は細く、やさしい顔になる。鳴海は思う。彼女のどんな表情を抽出すればいいのだろうか。
「いいのね? 怒らないでよ」
自分の目は、いまも見えているのだろうか。「終わり」ばかりが「見えて」きた自分の目は、はたしてすぐそばに座っている明日香をとらえているのだろうか。そして、彼女を描くことができるのだろうか。そんな躊躇も、いつもとちがう明日香の声に、かき消される。
「決まりね。よろしく。かわいく描いてね」
鳴海はライティングデスクの袖の、いちばん下の引き出しから二四色セットの色鉛筆を取り出した。ずっと昔に兄がくれた、色鉛筆。けれど芯はみなとがっていて、長さもそろっていた。はじめて、描く。はじめて。色鉛筆の下にしまってあったまっさらのスケッチブックを広げる。さらりとした画用紙、どちらが表だったっけ。鳴海は何も言わず、まずはやわらかめの黒の筆記用鉛筆を握る。そして、芯は画用紙の上空をしばし滞空する。いつも迷う、最初の線。そこから世界ははじまるのだ、うかつな線は引けない。白い「無」から、鳴海はこれから世界を創造するのだ。大仕事になる。久しぶりの緊張だったが、苦痛を感じない自分に、鳴海は驚く。顔をあげ、ベッドに座っている明日香をもういちど確認。大丈夫、彼女はそこにいる。
「じゃあ、はじめるね」
「期待してる」
明日香はすました顔でベッドに腰かけている。いつもと同じ、ちょっとだけあごを持ち上げたあの表情で。
鳴海は大きく息を吸う。耳には稲村の旋律を感じながら。静かな夜、彼のピアノはさらに夜に静寂を呼んだ。
そして、滞空を続けていた鉛筆が、じょじょに高度を下げていく。着陸だ、新しい世界に。
鳴海は一本目の線を、画用紙に描く。そうだ、一本の線はその時点ですでに絵になっているのだ。
三六、2B
画用紙の上をすべる鉛筆。描きながら思う。この音を聞いていると、落ち着く。稲村のピアノもいいけれど、鳴海は楽器ができなかったから、鉛筆を画用紙に滑らせて軽やかな音を奏でるこの作業は、彼女にとっては演奏だった。ひとつの風景を、世界を描きつむぎだす、ひどく神経をすり減らす演奏だ。音楽家は一曲を演奏するとき、驚くほどの体力を費やすのだと聞くが、それと似ているかもしれない。弛緩と緊張が、ここでは同居している。
まずは輪郭から。
明日香の顔は形のととのった卵。歪みやいびつさがなく、こうして描いてみると彼女はずいぶん美形なのだ。きっと。
まったくの我流だから、きっとセオリーを無視した描き方なのかもしれない。でもそれでいい。鳴海は人間を描くとき、かならず最初に目を入れる。もっとも、これまで人間を描いたことなど数えるほどしかなかったのだけれど。
モデルはたしかに優秀だ。身じろぎひとつせず、じっとベッドに腰かけてポーズを崩さない。けれど鳴海は思う。ポートレイトを描いて欲しいと頼まれても、モデルは不動である必要などないのだ。なぜなら絵を描くという行為は、写真撮影とはちがうからだ。イメージはすでに鳴海のまぶたの裏に露光している。それをいくつもの因子をつなげ、パズルを組み立てる要領で画用紙に出力していくだけだ。あるものをそのままは描かない。描き手の目をとおし、指を介して描かれる世界は、もう実在のそれではないのだ。
下書きにはできるだけやわらかい芯がいい。濃淡がつけやすく、あたかも画用紙がクッションのように感じられるくらい、指先と鉛筆が一体になるような感覚が得られればなおいい。だからといって、画材に対するこだわりもない。自分の思うとおりに描くことができればそれでいい。
明日香はあまり瞬きをしない。それも彼女がモデルをつとめてはじめて気がついたことだった。まつげが長いことも、はじめて知った。気負いも照れもなく、ベッドにただ座って、鳴海がイメージを出力し終えるのを待ってくれる。理想のモデルだ。鳴海は思い出す。幼い頃に絵本を読んで聞かせてくれた祖母のことを。祖母は鳴海にとって、いちばん身近なモデルだった。陽だまりのソファで、あるいは冬の日、午睡を楽しむ祖母の表情をこっそり写しとるのが好きだった。一本一本刻まれたしわは、月並みだが祖母がすごした時間、年輪のように思えたし、その溝の一本一本に無償の優しさが刻み込まれていた。
不意に胸の奥に、熱く懐かしいものがこみ上げる。まだなにも知らなかったあの日。もう取り戻せないあの日々。なにも見えていなかった、幼い日々を。
明日香がそっと重心を変えたらしい、ベッドがきしんだ。遠くに響く稲村のピアノはいまだつづいていて、エチュードはしだいに曲としての体裁を整えつつある。鍵盤に指を触れ、ハンマーが弦を叩きはじめて音が出る、その行程すら聴こえるような、静かな夜。はじめて明日香とすごす夜だ。もう何年も暮らしてきたのに、いまが、はじめてだ。しかもわたしは彼女をモデルに絵を描いている。奇妙だった。不思議だった。意外だった。なにかがゆっくりと回っていく、そんな予感があった。
「ねえ」
稲村のピアノにのせて、明日香の声はヴィオラのような響き。楽器は弾けないが、父が音楽好きで、彼は虹色の光を放つディスクをプレイヤにかけ、娘を誘っては大昔の音楽を聴いた。ああ、また扉が開いていく。
「どうしたの?」
「わたしね、高等課程にいたころは、もちろん理科も好きだったけれど、歴史も好きだったのよ」
話ながらも、鳴海の指はとまらない。筆で描いたような眉毛、桜色の唇、すらりとした鼻梁。
「ほら、資料集ってあるじゃない、写真とか満載の。それをねぇ、授業中にこっそり関係のないページを読んだりしてね、考査と関係ないことばっかり覚えて」
「うん」
「鳴海さんは、どう。歴史は興味がある?」
話ながらも表情を、ポーズを崩さないのが明日香らしい。
「あんまり。過ぎたことには興味がなかったから」
「かっこいいね、そういうの」
「そうかな」
「でね、わたし、近代史とか中世とか、世界がめちゃくちゃになっていく現代史とかはどうでもよくってさ、古代史のページばっかり読んでたの。わかる?」
「わかる、なんとなく」
「そんなかでも、わたしがいちばん好きなのは、なんだと思う?」
明日香はポーズに影響しない程度に身をのりだし、言う。きっと寂しいのだ、彼女も。唐突にそう思った。
「壁画」
「壁画?」
「そう、壁画。洞窟の壁にさ、古代人が描き残した壁画。あれが好きなの。考えても見てよ、絵を描く動物なんて、人間だけよ。鳴海さんを前にしてこんな話も変だけど」
「人間も、動物なんだっけ」
「そうよ。動物動物。絵を描いたりする動物。変り種よね。動物って、環境に適応するために毛が生えてきたり、首が伸びたりちぢんだり、海に潜ったり空を飛んだりするじゃない。人間は環境を自分たちに適応させる変な動物ね。だからこんなになっちゃったんだろうけど。……それは関係ないね。壁画、壁画。
よっぽど暇人だったのかな、昔ってさ、いまと違って毎日食ってくだけで精一杯のはずじゃない、なのに、わざわざ岩の壁に絵を描こうなんて、よっぽどの変人かよっぽどの暇人ね。わたし、そういうの想像しながら資料集読むのが好きだったの」
おぼろげに鳴海のなかの明日香が画用紙のなかで形をととのえていく。これまでの斜にかまえた皮肉屋の女の子が、話好きのさびしがり屋にクロス・フェイド。
「絵を描くのって、特殊な技術よね。わたしはまったくだめだから、すごいと思う」
「そうかな」
「そう。絶対そう。……ここがさあ、もし古代の洞窟だったら、鳴海さんは壁画描きの変わり者ってことになるのかな」
そう言って、明日香は笑った。いたずらっぽく。
「でしょうね。わたしは、変わり者だから」
「真琴みたいなのもきっといるわ。一族のなかで、いつも歌を歌ったり、へんてこな楽器をつくって四六時中やかましいタイプね」
細い首、ゆったりとしたスウェットの襟、洗いざらしのつやのない髪。鳴海のなかの明日香。
「ごめんね、べらべらしゃべって。きっとあの環境調査員が伝染ったんだわ」
怜。ほんの一瞬、絶対に明日香にはわからないほどの一瞬、鳴海の指は止まる。砂浜で自分を起こしてくれた、彼。とまどいがちにライターを擦った彼。街の、人間。もうここの人間が戻れない場所からやってきた、彼。
「壁画の話ね、べつに鳴海さんにひっかけて話したわけじゃないのよ。……ここに来る前、わたしは別な病院にいたの。外来じゃなくて、入院ね。その頃のわたしは、自分でいうのもなんだけどかなりやばくて、ドアに鍵がかかる部屋にぶちこまれてた。なかからじゃないのよ、外からしか鍵のかからない部屋ね。閉鎖病棟ってやつ。鳴海さんみたいなタイプだと、一生縁がないんだろうけど。
そこにいたころの話なんだけど、変わったひとがいたの。もちろん直接は知らないし面識もないんだけど、その病院では有名人だった。どんなひとかって言うとね、そのひとは、自分を絵描きだと思ってるのね。絵描き。画家よ。病室はさしずめアトリエね。そこでそのひとはもう、ずっと絵を描き続けているわけ。閉鎖病棟ってね、病院にもよるんだろうけど、わたしがいたところは、WHOも真っ青の、まあ更生機関みたいなところでさ、私物の持ち込みがほとんどできないわけ、病室にね。本だとかはいいんだけど、ラジオはだめ。わたしは暇を持て余していた、わけでもなかったかな、ずっとわけのわかんない薬飲まされてて、一日中ぼうってしてたから。でもその絵描きさんはちがうの。もう四六時中絵を描き続けてるわけ。そう、もちろん画材なんて、自殺の道具になっちゃうから持ち込み禁止よ。だから彼は、三十歳くらいの男なんだけど、クレヨンみたいな、なんていうのかな、四角い画材があるでしょ、パステル? それを医者にもらってね、ずっと絵を描き続けているの。どこにだと思う? そう、壁に」
明日香のショートヘアはつやはないけれどやわらかい。一本一本、ハイライトを入れていく。額はそれほど広くはないが、狭くもない。それにしても肌のきめが細かい。
「壁にね、絵を描くの。子供みたいにね。ずううっと、一日中。面会のひとも来なかったみたい。わたしのとこにも来なかったけどもね。で、壁が絵で埋め尽くされると、暴れるわけ。そうだよね、もう描けないんだから。描く場所がなくなっちゃうんだから。そりゃもうすごい暴れかたで、わたし、入院したてのころ、怖くて寝られなかったもの。うるさいってレベルじゃないのね、もう。で、部屋を変えるわけ。新しいスケッチブックよね。すると静かになる。わたしもあおりを食らって部屋を変えさせられたわ。で、廊下からそいつがいた部屋をチラッと見たの。絵で埋め尽くされた壁もね。
すごかった。本当に、絵。絵。絵。壁画よ。しかも、なにを描いているんだかわかんないくらい、びっしりね。気持ち悪かった。薬が効いててわたし、そのころはのべつまくなしぼうぅっとしてたんだけど、はっきり覚えてる。怖い絵だった。それこそ、古代人のわけのわからない壁画ね。あれは」
イメージの固定化。出力はまもなく終わる。しゃべりつづける明日香が、いちども描いている途中のスケッチを見たがらないことが、ありがたかった。イメージが固定化しないうちに他人の意思が介在すると、結晶化が失敗する。そう、結晶だ。やはり明日香はいいモデルだ。
「鳴海さんが絵を描くのが好きだって、わたし、真琴から聞いたわけじゃないわ。真琴は知らないかもしれない。知ってるのかな。……わたしは有田さんから聞いたのよ」
老婦人。いつもひとり、マグカップを片手に談話室の椅子に座っている、彼女。そういうば、老婦人の部屋はどこなのだろう。
「有田さんが」
「いつか、言ってた。鳴海さんが絵を描くのが好きだってことをね。有田さんの似顔絵でも描いてあげたの?」
「そんなことしないわ」
「そうか。だよね、鳴海さん、有田さんとはあんまりしゃべらないもんね。じゃあ何で知ってたんだろう」
「……ここに来たころ、わたし、まだ絵を描けてた。描くっていっても、落書きだけど。スケッチブックに中庭だとか、窓とか、そんなのばっかり描いてた。そうしないと、見えちゃうから」
「終わりが?」
「そう。描いているあいだは、けっこう何も考えてないから、楽になれるから。でも、そんな気持ちで描いても、だめだった。だから、やめてた」
まもなく明日香が画用紙に誕生する。けっして質のいいとはいえない画用紙と、しまいこんだままだった色鉛筆で。新しい世界への着陸は、うまくいっただろうか。似ているのか似ていないのか、わからない。
「いいじゃない、描けば。さっきからの鳴海さん、んん、ちょっとちがうかもしれないけど、なにも見えていない感じだった。見ていないんじゃなくて、余計なものを見ていないって。そういう感じ。いつもとぜんぜんちがう。怖いくらい」
画用紙のなかの明日香は、おしゃべりな少女ではなかった。憂いを含んでこちらを向き、少し寂しげで悲しい顔をしていた。口元の微笑、ショートヘア、細い首。
「できたよ」
そっと、鳴海はスケッチブックを閉じる。ここで、いったん鳴海の世界は終わらなければならない。一度閉じて、そして、つぎには鳴海ではない誰かがその扉を開く。いまは、明日香。
明日香はなにも言わずにスケッチブックを手にとり、そして開いた。最初のページを。最初のページのほかはなにも描いていないから、記念すべき入り口は、明日香の憂いを含んだ瞳が飾ることになった。
「これが、わたし……」
声にならないつぶやき、額にはらりと前髪が垂れ、彼女の右目が隠れた。鳴海はバウムテストを終えたばかりの患者のように、こころもち緊張していた。だから、声にならない明日香のつぶやきを、鳴海は聞き逃さなかった。
鏡より、もちろん写真より、ある意味でリアル。絵には作者の意識が介在しているから。いったん描き手というフィルターをとおし、イメージを再構築するから。そのもののリアルな姿なら写真にかなわない。だが絵はちがう。描かれた人間の表裏を画用紙に落とし、いろいろな要素がちりばめられるのだ。ある意味残酷で、ある意味、暖かい。
「ごめん、気に入らなかった?」
「鳴海さんは、わたしに気に入られようとして描いたりしないでしょ。いいよ、これ。そうか、こいつが、西明日香なのね。面白いわ」
「面白い?」
「わたし、いつもこんな、ひとを莫迦にしたような顔してる?」
軽く顎をあげ、見下ろすような視線。けれど寂しげ。そうだ、諦め。行ってしまう誰かを見送っている目だ。
「そう見える?」
「さあ」
明日香は両手にスケッチブックを持ったまま、手鏡をのぞきこんでいるように、画用紙から目をはなさない。そう、これから化粧でもはじめるかのように。
「言ってみただけ。そっか、わたしはこんな顔か」
「似てるかどうか」
「似てるんじゃない? そう思うよ。かわいいかどうかは別にしてもね。きっとわたしはこんな顔をしてるんじゃないかな。嫌だな、こんな顔でここをうろついてるのか」
ぞんざいな口調は、きっと鳴海の絵を見てしまったからだ。たぶん、そうだ。誰でも幾重にも着込んだ衣装をはぎとられた自分の姿を見るのは、怖い。スケッチブックの明日香の表情に、実は鳴海は見覚えがない。まくしたてるように「昔話」を繰り出す明日香の表情を、鳴海の指はかってに描き出していた。いっさいの虚飾は、ない。
「そういえば、どうして色鉛筆を出したのに、色をつけてくれなかったの?」
顔をあげず、明日香。いつもの強気でつっけんどんな彼女はいなかった。絵のなかの彼女とベッドの上の彼女がゆっくりと等号で結ばれはじめたとき、スケッチブックは本当に鏡になる。
「時間がかかるから」
そう答えたものの、自分でも二四色入りの色鉛筆をろくに使わず、鉛筆でかきあげてしまったことがわからなかった。濃淡も陰影もすべて、モノトーン。
「つぎは、色をつけてほしい」
ともすれば眠りに落ちる寸前のような、さもなければダウン系のドラッグに酩酊しているような目を鳴海に向けた明日香には、はっきりとわかる憂いが漂っていた。
「また、モデルになってくれるの?」
「鳴海さんさえよければね。……鳴海さんがここにいるあいだは」
言ったあと、明日香はひどく寂しげに笑った。その微笑の意味がわからず、鳴海は問う。目で。
「本当は、昔話をするために来たんじゃなかったのよ」
スケッチブックを閉じ、傍らに置いて明日香は指を組んだ。小さな、手。
「昼間、あの環境調査員はわたしたちに訊いたよね、『戻りたくはないのか』って。わたしは戻れないって思った。戻るところなんてないし、わたしの居場所はここだって思うから。だけど、鳴海さん」
言葉をいったん切り、明日香はその細い身体いっぱいに深呼吸をした。勢いをつけ、つぎの言葉を用意する。
「鳴海さんはいつか、ここからいなくなるような気がする。戻っていくような気がする。わたしが言うのもなんだけど、ここはもう<街>とは別な世界よ。離れ小島、絶海の孤島ね。進化の過程からとりのこされた、奇跡の島よ。そこでは動物たちは独自の進化を遂げていくわ。どんな形になっていくのかを知っているのは神様だけ。神様なんかに会ったことはないけどね。きっと底意地の悪い奴なのよ、神様ってね。やつはここの人間を、もう二度と<街>に戻れない身体につくりかえちゃった。外と出入りがないってことは、もう種としては末期的な状況よ。近親交配って言葉知っている? 遺伝子が弱体化して、結局は滅びるの。血が濃くなるのよ。でも、少しでも外から誰かが来れば別。血が薄まるからね。外からの血が強ければ、あおりを食らって滅んじゃうかもしれないけど、停滞していた進化がまたはじまるかもしれない」
明日香は立ち上がった。見下ろす彼女は顎をひいて、まっすぐに鳴海を向いている。明日香が誰のことを話しているのか、鳴海にはわかっていた。
「鳴海さん、わたしの代わりに外を見てきてよ。見てきて、絵を描いてよ。そしてその絵をわたしに見せて。わたしはもう外には行けないから、だから、代わりにわたしの目になって。きっとわたしが外に出たら、発狂しちゃうわ。でも鳴海さんが描いた絵なら、わたし、平気だと思う。見られると思う」
まっすぐに鳴海の瞳をとらえ、明日香は歩み寄る。歩み寄り、小さな手を鳴海の肩にのせた。
「わたしも、海を見てみたい。鳴海さんを通してね。もしできるんなら、……わたしも環境調査員をガイドにして、外を歩いてみたかった」
端整な顔立ち、すらりととおった鼻梁、長い睫毛、細い首、明日香。
「言ってなかったっけ、わたし、学生のころは環境調査員になりたかったのよ」
そう場違いなくらい明るく言い放った明日香の顔は、いびつな笑みを固まらせていた。
「行っといでよ。でもまた戻ってきてね、一回はね。スケッチブック、持って」
「わたしは行かないわ」
「きっと、行くわ。そう思う。鳴海さんはここで目を閉じているんじゃなくて、開いた目でいろいろなものを見ることができるひとだもの。知ってた? わたしも真琴も、目は閉じているのよ。何も見たくないから、ここにいるんだもの」
「わたしも、いっしょよ」
「ちがう。鳴海さんは、戻ることができると思う。ううん、鳴海さんは、外に忘れ物をしているんだよ、きっとね。それを取りに行かなくちゃ」
「忘れ物?」
肩に置かれた明日香の手は暖かかった。そのぬくもりが絡みつき、沁みこんでくる。不意に明日香がずっと遠くに感じられる。そばにいるのに、実感がない。遠い。ドアの向こうに、彼女は立っている。扉はもう、開いている。でも鳴海はわからない、自分がドアのその向こうにいるのかどうかが。
「行ってきてよ。……その前に、わたしの似顔絵、色をつけて描いてよね」
明日香はおどけた顔でつけくわえ、鳴海は一瞬ためらったあと、うなずいた。うなずいた鳴海にもういちど笑顔を送って、明日香はすっと手を引いた。
「絵葉書、待ってる」
それだけ言うと、明日香は片手を上げてさようならの合図。おやすみなのか、また明日なのか。
明日香はふわりと空気を押しのけて、廊下へ出て行ってしまった。そのとき鳴海は明日香の匂いをかいだ。明日の、香りを。
酸性雨がどんな匂いなのか、鳴海はわからない。けれど、もし明日香の匂いが雨の匂いなら、雨の夜に生まれた彼女の匂いなら、いつまでも降っていてもきっと鳴海は気にならないと思った。そんな雨ならずっとあたっていてもいい。
稲村のピアノはいつのまにか、もうやんでいた。
ひとりの部屋に、鳴海は帰ってきていた。いつもの、ひとりの部屋に。
ベッドの上に、スケッチブックが閉じてぽつんと置かれていた。
まるで、忘れ物のように。
三七、氷
黄昏の時代に黄昏をながめる。
怜は旧市街中心、大通公園のベンチで群れる鳩をぼんやりと数えながら、稜線に沈んでいく夕日をながめていた。背後のテレビ塔はもう十数年前から老朽化が激しく、塔そのものだけでなく、周囲百メートルの立ち入りが制限されていた。修理をしようというのでもなく、ただやがて海に沈むのをまかせるだけ。怜は捨てられた風景に背を向けて、古ぼけたベンチに腰を下ろして、ワゴンが売るトウモロコシをかじっていた。
捨てられることが決まった街は、引越しを待つ部屋とどこか似ているかもしれない。しかも、それは不精者の部屋だ。どうせ部屋を捨てるのだから、もう掃除する必要もない、床や窓を磨く必要もない。瞬く蛍光灯を交換しようと思う者もいない。かつては照り映えるほどに磨き上げられていたであろう地下街の床も、好事家が化石を探したかもしれない大理石の壁も、すっかりくすみ、汚れていた。かろうじて通電しているだけの照明は青白く、場所全体が陰鬱な声を発する地下街がつらかった。だから怜は、地上に出たのだ。
鳩の目はなぜこれほど無表情でいて凶暴なのだろうか。平和の象徴とは考えた人間のセンスを疑いたくなる。もともと鳥類の目は恐ろしく冷徹で、表情に乏しい。群れる鳩にまじって、すぐそばにカモメが数羽たたずんでいるのが面白い。かじりかけのトウモロコシを数粒、指ではじくと鳥たちが集まってくる。そんなに飢えているのか、怜にはとても彼らが飢餓に苦しんでいるようには見えなかった。
午後、遅くなってから怜ははちみつをかけたシリアルをとり、自宅を出て地下鉄に乗り、かつての職場を訪れた。地図が欲しかったからだ。
海を見に行くには地図がいる。すくなくとも三ヶ月以内に作成された地図が。海岸線は猫の目のようにその形を変えていく。一週間前まで通ることができた道路がもう崩れて使い物にならなくなっている、そんなことは日常茶飯事だ。だから、地図がいるのだ。
怜が所属している環境保健局では、調査員向けに衛星写真から起こした精密な地図が配られる。端末がないと読み込めないようなデジタルなものではなく、昔ながらの紙媒体で。衝撃に強く、電力を消費しない。理想のメディアが、実は紙だ。破れてもまた刷ればいい。手軽で、ローコスト。だから環境調査員はみな、紙の地図を携帯していた。そしてもうひとつの利点は、誰でも安易に手に入れることができるということ。
幾重にも折りたたんで、地図はポケットに突っ込んだ。そしてそそくさと職場を出てきた。ひさしぶりに顔を見せたさえない同僚を、歓迎の言葉が待っているはずもない。一言二言、交わす言葉は最低限だ。発狂した怜を羽交い締めにして転がった同僚の顔は、あのときより土気色が濃かった。では自分は。ひさしく鏡をのぞいていない怜は、自分の顔を知らない。こと、<施設>に通いだしてから、怜は鏡を見ていない。毛づくろいに洗面時に立っても、顔が見えない。怜の目は自分自身を確認する作業を拒んでいた。
鳩が怜の足元にぎっしり群がっている。羽の模様、体系、歩き方。みな同じように見えるが、それぞれが微妙にちがう。怜はもうトウモロコシをかじるのをやめていた。別段空腹を感じていたわけではないのだ。三分の一ほどを残して、怜は足元にトウモロコシをそのまま落とした。環境調査員のすることじゃない、食糧事情は日に日に悪化しているというのに。けれどそれを声高に叫ぶ人々を怜は嫌悪していた。真摯な気持ちから出た行動なのはわかる。しかし彼らが集まると、そこに偽善の文字が見え隠れする。いまさらなにをしても無駄だ、そんな諦観。気づかないふりをしているのか、それとも本当に気づいていないのか。さもなければ、自分たちの行動が世界を変えていけるとでも思っているのか。だったら一度海を見に行くといい。海に飲まれていく街を、森を、畑を。あるいは原始、生命を育て護っていた頃のように、海はもういちど、人をその懐の奥にしまいこみ、閉じ込めて浄化しようとでもしているのかもしれない。暖かく、慈愛に満ちた海水に全身を浸して、やがて脆弱な身体は空気に触れることもできなくなる。
怜のまわりに寄った鳩はもう、数える気がうせるほどになった。もうトウモロコシがどこにあるのかもわからない。何かに似ていると思ったが、答えを出すのはやめた。
ポケットから出した地図を夕日にさらす。茜色のフィルターだ。怜は海岸線を探す。北へ、北へ。
碁盤の目のように街路が描かれているのは、市街地。北へ行けば網の目は粗くなり、唐突に途切れる道路がめだちはじめる。<機構>が立ち入りを規制している地域は、道路上にゲートのしるし。ゲートに人を配置しているような場所は少なく、道路を使わなければたやすく規制地域に立ち入ることができる。もっとも、沼地や荒れ放題の草地を徒歩で突破できる自信があればの話だ。それだって、地雷が埋設されているわけでもないから、その気になりさえすれば、誰でも海を見にいける。渚を歩くことだってできる。でも怜は徒歩で海を見に行くつもりはまったくない。そんな苦労をして見るものじゃない、気軽に、前世紀の人たちが夏休みにしていたように、見に行きたかった。
地図に見る海岸線は予想していたより入り組んではいなかった。等高線のとおりに侵食が進んだのか、海はそこにあるのがとうぜんといった風情でのっぺりと描かれている。しかも、近い。職場の屋上から見えた水平線は、間違いなく本物だ。
いったん海にたどりついた怜は、すぐにとってかえし、港湾道路を探す。LRTの終点はあんがいすぐに見つかった。電停の名前もひとつひとつ読みとることができる。防風林もちゃんと描かれていた。ポンプ施設、草地、そして<施設>。
人差し指がそこで止まる。
ぽつんとそこに、だだっ広い草地の真ん中に、<施設>は建っている。名前もなく、ただ網掛けされた四角い表示で。コの字に配置された建物の配置はそのままだ。こんな形で<施設>と接するのははじめてだ。あの場所が実在していることを、怜は確認した。実在の場所なのだ、あそこは。
海が近い。
地図上では、もう指一本分ですぐに海岸線だった。
鉛色の水平線しか知らない自分と、海を見たことがないという彼女、鳴海。鳴る、海、潮騒、打ち寄せる波、鳴海。彼女の名前だ。なるみ、という音を、字であらわすとおよそ彼女のイメージと遠くなる。怜はいつ彼女の名を、「鳴海」と書くのか知ったのだろう。稲村から聞いたのか、老婦人が語ったのか。
ちがう。
彼女の名前を、怜はきちんと「見て」いた。この地図と同じ、紙の上で。
それは隆史が描いた「絵葉書」だ。彼に託された一束の手紙。郵政公社を頼れなかった、鳴海の兄。さりとて自ら手渡すこともできなかった、彼。風車がまわる屋上での出会い、紙飛行機(やはり、紙だ)、描かれた世界。隆史の字で書かれた妹の名は、それもまたひとつの風景にも見えた。そして知った。彼女が「鳴海」という字で描かれていることを。封筒に細く達者な筆致で、「鳴海へ」と。そこには隆史の感情がつめこまれていた。怜には見える。フライトを終え、空から地上に戻って間もない隆史が、雲やジェット気流の匂いがたっぷりとしみた身体を折り曲げ粗末な作り付けのスティール・デスクに向かい、、ペンを封筒に走らせている風景が。
怜は考えた。自分が誰かの名を思いをこめて書いたことなどあっただろうか、と。
ない。
おぼえているかぎり、ない。
広げた地図の上に、人差し指で書いてみる。海の上に、「鳴海」と。固有名詞なのに場所の名ではない。人につけられた呼称でもない。それは、イメージ、風景そのものだ。<施設>の中庭を、青い芝の上を、地雷を探して歩くように頼りなかった彼女、はじめて訪れた待合室で、煙草をすすめてくれた白い肌。
嘆息、街といっしょに夕暮れどきの倦怠を吐き出す。季節は夏の真ん中へ。街路灯が点灯し、群がっていた鳩はもういなかった。いったいどれくらいベンチに座っていたのだろう。結局怜は、海の上に書いた彼女の名を読むことができなかった。指先で書いた字を、読めるはずもなかった。
稜線はまだ明るい。見上げる空に、光点。軌跡を残すそれは、きっと人工衛星。金星はこの角度では見えないはずだが、うるおぼえの知識ではどうにも判別できない。明日香なら解説してくれるだろうか。きっと質問には最初、まともには答えてくれないだろう。いちど怜をはぐらかしてから、さも当然というふうに言うのだ。
(環境調査員なのに、天文の知識もないのね。宵の明星は西の空よ。あなたが見ているのは、正真正銘人工衛星ね。金星がこんなスピードで動くと思う? わたしでよかったら、星の話でもしてあげようか?)
怜は苦笑する。真琴も苦笑する。老婦人がマグカップを片手に少しはなれた窓辺にいる。あの読書青年も見える。そして、白い肌の彼女が困惑気味にたたずんでいる。
風がとおる。半袖には涼しすぎるくらいの、夕の風。不意に怜は緯度を実感する。ここはまだ、北緯四三度の街なのだ。いくら季節が狂いはじめていても、ここは、北の街だ。やがて冬を探して旅に出る時代が来るかもしれないが、まだ怜は冬を知っている。雪に閉ざされる冬を。けれど、今は夏だ。冬があるから、夏を感じられる。
怜はひざの上に広げた地図をたたんだ。そろそろ帰ろう。誰も待つもののいない<団地>の一室でも、自分の場所には変わりない。戻る場所、戻るべき部屋だ。
立ち上がり、鳩たちがむさぼったトウモロコシの芯をつまみ、ゴミ箱へ放ると、地下鉄の駅へとまだぼんやり明るい稜線に背を向けた。
その日、鳴海は昼食を談話室ですませた。午前の天気通報を聴いた明日香が、太平洋高気圧が例年になく勢力をたもち、首都ではもう一週間、熱帯夜が続いているのだとなにやら憂鬱な顔をして言った。まるで彼女が湿度百パーセントの水上都市の住人であるかのごとく。真琴はぼそりと、(暑いのは嫌い)とつぶやき、給湯室の冷凍庫から、グラスいっぱいの氷水を持ってきて、ちびちび飲んでいた。鳴海はテーブルの上のかごに積まれたトマトの表面をなでていた。子どもたちが屋上で育てているトマトだ。真琴は子どもたちから直接トマトを受け取っていたが、彼女はトマトが食べられない。断ればいいものを律儀に受け取り、冷水で冷やしたあとかごに入れて食後のテーブルにおいた。読書青年が意外にも一番手にトマトを引っつかみ、自室に消えた。いつもチェス盤をはさんでいるふたり組みの片方が、真琴に何事か言って、三つほど持っていった。明日香は手をつけようとしなかった。どこかで明日香は子どもたちを嫌っている。いつか彼女がこう言った。(お人形さんって、無気味だから苦手ね、わたし)。たしかにここの子どもたちはつかみどころがない。真琴のオルガンに合わせて歌を歌ったり、声を立てて笑う無邪気な顔の向こうに、見えない無意識が存在しているのだ。皮膚をうすい膜でおおうと、針の先でつつかれても一瞬刺激の到達が遅れるように、子どもたちは淡い色のベールをまとって、稲村や老婦人や、そして自分たちと距離をたもっている。
つるつるしたトマトの表面をなでているうち、真琴が二杯目の氷水を飲み干してしまった。風力発電と太陽光発電で自給自足している<施設>にとって、電力はけっして潤沢ではないから、エアコンはほとんど稼動していない。盛夏には全館が冷房されるが、その際は消灯時間が早くなる。午後十時以降は、個人の部屋のエアコンはカットされる。鳴海は暑さがそれほど苦にならないが、真琴はこれからの季節、ハンカチを手放さなくなる。明日香はまさに涼しい顔をして汗だくの真琴をからかって笑う。自分も汗をかきながら。
階段の踊場の窓が全開になっている。談話室の窓は半分が開いている。風が抜けていく。心地いい。鳴海はテーブルにつっぷして、トマトをなでていた。どうしてこんな赤が自然に彩られるのだろうか。
「鳴海さん、食べないの?」
向かいに座った明日香が訊く。これまでなら真琴と顔をつき合わせてなにやら話し込むのが彼女の日課だったのに、ポートレイトを描いて以来、明日香は食事が終わっても席を立たなくなった。かといって鳴海に話題をふるわけでもない。ただなんとなく、席を立たずに鳴海と相席しているだけ、そんな雰囲気。真琴が何か話せばそちらを向く。
「トマト」
細い指をおおげさにつきだして、明日香はトマトをつっついた。
「おなか空いてないから」
「苦手なんでしょ、わかるわ。わたしもだから」
「そんなことはないけど」
「真琴は食べないの?」
切れ長な瞳を真琴に向ける。真琴は両手をふりまわして否定のサイン。明日香の冷笑が追随する。
「においがきついのよね、ここのトマト」
たしかに、ふつうに座っていてもトマト独特のにおいがする。
「味は悪くないんだけど、でもサラダに入ってるだけで十分だな、わたしはね」
鳴海はトマトが嫌いではない。けれど好きでもない。好きな食べ物は何かと訊かれても、鳴海は即答できない。何が好きなんだろう、わたしは。
「でも真琴さ、ずいぶんと気に入られたものよね」
なにが? と問う上目遣い。
「あの子たち。名前なんていったっけ、あのふたり。男の子と女の子の」
「背の高い?」
「ちがうちがう、ほら、いつもふたりくっついて、屋上に行くじゃない」
「沙耶香ちゃんと翔太君?」
「かな、よく知らないけど、名前聞いたって。あの子たち、いったいいくつ?」
「初等課程の三年生じゃなかったかな」
「じゃあ、九歳くらいか。ませてるよね、あのカップル」
明日香が子どもたちを「カップル」と言ったのが真琴は可笑しかったらしく、鼻を鳴らすように笑った。
「カップルカップル。所内恋愛はやっかいよ」
真琴はますます笑う。鳴海も誘発されて気がつけば笑っていた。
「鳴海さんまで。なにが可笑しいの?」
明日香は鼻白んで半開きの口から嘆息をもらした。
「べつに、なんでもないわ」
ふん、と明日香は鼻を鳴らしてトマトをひとつ、つまんだ。
「重いなぁ」
「いいできなんだって、今年は」
「『今年は』って、年中食べてるじゃない」
くるくるとトマトを手のひらでまわして、明日香は真琴に視線を向ける。
「水耕栽培だから。けど、やっぱり夏がいちばんおいしいんだって」
「そんなこと知らないわ。なにが楽しくてあんな植物園に入りびたってるのか、陰惨な子どもばっかり集まったものよね」
「そうかな」
「そうよ」
真琴は返事のかわりに、氷を口に含んで噛み砕いた。
「わたしには、どのトマトができがよくてどのトマトができが悪いのか、さっぱりだわ」
テーブルにトマトを転がし、両腕をだらりとたらして明日香が目を閉じた。鳴海は明日香が転がしたトマトをたぐり、手にとってみた。一個まるごとのトマトなんて、かじったことがない。すくなくともここに来てからは。
明日香がいうところの、あの環境調査員、怜の言葉を待つまでもなく、<施設>の食事はおいしいのだと思う。好きな食べ物も嫌いな食べ物もなぜか思い出せない鳴海でも、三食用意される<施設>の食事は嫌いではなかった。もちろん気分しだいでは自室にこもり、ケータリングも拒否することがある。けれど、たいていは談話室で、とる。おそらく子どもたちが育てた野菜と、食糧配達のおばさんが持ってくる肉や魚などの蛋白源といっしょに。
明日香は好き嫌いが多いらしい。まず、魚が食べられない。理由は知らないが、夕食が魚料理だったりすると、露骨に顔をしかめ、反対に魚が好きな真琴にプレートを押す。さらに明日香はトマトだけではない、野菜全般をあまりとらない。生野菜にいたってはプレートを空にしたことがない。いつも食事に同席するわけでもないが、鳴海は知っていた。彼女は声がよくとおるのだ。だから聞こえる。なにが食べられて、なにを食べられないか、真琴と言いあっている彼女の声が。
「きょうはチキンブロスだったよね」
トマトをかごに戻し、鳴海は明日香を見ずに言った。
「なにが?」
「お昼。明日香ちゃん、チキンブロスは好きなの?」
「お肉は好きよ。鳴海さんは嫌いなの」
「わたし、好きな食べ物とか、とくにないわ」
「へぇ、そうなの」
そっけない。明日香は食べ物に興味がないのだろうか。
「明日香ちゃん、野菜嫌いでしょう」
「好きじゃない」
「どうして」
「おいしくないから」
「身体に悪い」
「いまさら身体の心配してもね。心が病んじゃってるから、せめて身体だけでもってことかな?」
皮肉屋の明日香が向かいにいる。真琴はじっとグラスの氷が融けるのを待っている。
「それもあるわ。野菜は食べないとだめよ」
「鳴海さんは、野菜が好きなのね」
「そういうわけじゃないんだけど」
「わたしたしちが食べてる野菜なんて、ここで作ってるんでしょう。気持ち悪いもの」
「気持ち悪い? どうして」
明日香は鳴海の問いに言葉では答えず、ちらりと真琴に視線を走らせた。真琴は氷を融かすのに熱心で、明日香の視線に気づいていない。
「こんな時代に生まれて、あの子たちも気の毒ね」
椅子の背をきしませて、明日香は身体をくずした。
「しかも、こんなところに押し込まれて。気の毒だわ」
セリフが棒読みだった。敵意すら感じられる口調だが、明日香がなぜそこまであの子どもたちを嫌っているのかがわからない。たしかにつかみどころがなく、鳴海もろくに口を利いたことがなかったが、それはつまり、好く嫌うといった人間関係が形成される以前の問題だからだ。明日香が子どもたちと何かあったわけではあるまい。鳴海の知るかぎり、<施設>の人間関係は単純で、同年代の入所者が群れる傾向がある。だから自分たちと子どもたちが積極的に交流することはあまりない。初等課程の教師よろしくオルガンを弾いて子どもたちと歌う真琴は、むしろ例外だった。
「真琴」
グラスにまで上目を遣っていた真琴が、明日香に呼ばれてようやく顔をあげた。
「あの子たちさ、好き?」
「な、なにが?」
「子どもたちがいるでしょ、温室に入りびたってる」
「うん」
「好き?」
「好きよ」
「なぜ」
「なぜって言われても」
「ときどき音楽室で歌唄ってるじゃない、楽しい?」
「わたしはオルガン弾いてるだけだけど」
真琴は手のひらのグラスをテーブルに戻す。小さな手だった。楽器にはおよそ不向きの。
「いっしょに歌わないの?」
「わたし、歌うのは苦手だから」
「へぇ。で、どうなの、あの子たちのこと、どうして好きなの?」
たたみかけるような明日香。
「……わたしたちに似ているから」
「わたしたち? わたしたちって誰?」
「わたしや、明日香ちゃんや、鳴海さん」
くるりと明日香を見、鳴海を向く。大きな目は瞬きをしない。鳴海は真琴の目に吸い寄せられるような錯覚を感じる。
「似てる? わたしたちが? どこが」
明日香はテーブルにのりだすようにして真琴につめよる。
「帰る場所がないのは、おなじでしょう。あの子たちも、帰るところがないのよ」
「そんなの、ここにいる全員がそうでしょう。べつにあの子どもたちにかぎったことじゃない」
「違うわ」
「なにが」
「あの子たちは、わたしたちよりずっと小さいもの。わたしや明日香ちゃんが高等科にいたとき、あの子たちはまだ生まれたばっかりよ。いまだって、世界の半分も知らない」
「わたしたちだって、世界の三分の二も知らないわ」
「でも、半分は知ってるつもりになってるでしょう。違うよ」
グラスの氷はまた少し融けたようだ。真琴は融けたばかりの氷だった液体を、口に運んだ。
「あの子たち、ここしか知らないのよ。<施設>だけ。自分の家がないのよ」
「わたしもないわ」
「明日香ちゃんは、ここに来る前があるでしょう。学生だったし、自分の家に住んでたことだってある。あの子たちは、物心ついたときから、ここにいるのよ。変なものを見たとか、毎朝気持ちが悪いとか、ほかの子たちとなじめないとか」
「そんなの、誰だって経験あるでしょ」
「ちがうちがう。明日香ちゃん、どうしてここにいるの? わたしはどうしてここにいるの? 鳴海さんは、どうしてここにいるの? ここはどこなの?」
ここは、<施設>だ。外とはちがう。あの環境調査員、怜が通ってくる、<街>ではない。
「そう考えてよ。わたし、あの子たち見てて、自分の小さかった頃を思い出した。わたしね、すぐに突拍子もないことを言いだして、まわりのひとたちを困らせてたのよ。だって、その人が何を考えてるのか、ぜんぶわかっちゃうんだもの。わかってるから、先回りしてどんどんしゃべるでしょ、すると、そのひと、困った顔をして、話すのやめちゃうの。『おかしな子ども』って顔して。それで、ここに来ちゃった。誰もわたしの味方じゃなかった。だからね、わたしはあの子たちの味方でいたいって思ったの」
数日前の明日香が重なった。怜の前で、病んでいく自分を語った、明日香の顔が。
「味方、ね」
「そうよ。味方でなければ、敵だもん」
「そんな単純かな」
「明日香ちゃんならわかってくれると思うんだけど」
「味方でなければ、敵だってこと?」
真琴はだまってうなずく。
「あいまいな言い方をしたって、自分とちがう人間を、ひとは味方だって思ってくれない。敵だって思うのよ。そうすると、はじかれちゃうの。わたしたちみたいに。わたしは、明日香ちゃんも鳴海さんも、味方だって思ってる。だからわたしも明日香ちゃんや鳴海さんの味方のつもり」
「はじかれたものどうしってこと?」
「そうかもしれない」
「そうして傷をなめあうのね、わたしたちは」
「なれあいじゃないわ。じゃあ明日香ちゃん、ここを出て行ける? すくなくともわたしは、明日香ちゃんや鳴海さんがいなくなったら、誰もいなくなったら、生きていけないよ」
明日香はもう、茶々を入れようとしなかった。だまって真琴の目を見て、恐いくらいの顔をしていた。だから鳴海もだまって、真琴の横顔を向いた。視界のはしに、トマトの赤が鮮やかだった。
「それって、頼ってるってことかな、おたがいが」
明日香が言う。
「さあ。でもちがうと思う」
「もし、わたしなり鳴海さんなりがここを出て行くことになったら、真琴はどうするの」
スケッチブック、忘れ物、明日香の陶器のような肌。あの夜の会話。
「止める? 行かないでって」
「止めないよ。わたしたちって、そういう関係じゃないでしょう」
「なんか、言ってることが矛盾してないかな」
「してないよ」
「なれあいじゃない、傷をなめあってるわけでもない。頼ってるわけでもない。でも、誰かがいなくなったら、生きていけない。じゃあどうしたらいいの」
「わかんない」
「わかんない?」
「どうしたらいいんだろう。でも、もし明日香ちゃんがここを出て行くことになっても、わたしは止めないと思う。止める権利なんてないし、戻れる場所ができたから出て行くんでしょ、それは、きっといいことだと思う」
「わたしは出て行かないわ」
そう言って、明日香はちらりと鳴海を見た。瞳がかすかに、ゆれていた。
「たしかに、でも。真琴がいなくなったら、わたしは困るかもしれない」
「そう?」
「去年から作ってる家が完成しないもの」
「家?」
何の話かわからず、鳴海は明日香に訊いた。
「わたしたち、家を建ててるの。空想で。頭の中にね」
談話室でいつも顔をつき合わせて話している、その内容だろうか。はじめて聞いた。
「まず場所をきめて、まわりにどんなお店があるか調べて、設計図を書いてって」
真琴が答えた。
「つぎはどんな間取りをきめたり、壁の色や屋根の色を決めたり、どんな家具を置こうか考えたり。いまはまだ、ようやく家を建てる場所がきまっただけ。けっこう大変よ」
明日香は苦笑をにじませて、言った。彼女たちなりの、ここでの時間のすごし方。鳴海が部屋でぼんやり外を眺めたり、スケッチブックに描けない絵を描いているのと同じ、悲しい時間のつぶし方。
「わたしは、ここにいるわ。だから安心してよ、真琴」
そう明日香は言ったが、言外に鳴海の未来を指しているようで、鳴海は真琴の顔が見られない。夏休みの海を探しに行こう、明るく言った怜の顔が、瞬きするたびまぶたの裏に浮かんで、鳴海は目を閉じることができなかった。
三八、ナッツとシリアル
今夜は、街の明かりが見えない。
怜は十八号棟十五階のエレベーターホールから、旧市街を見下ろしていた。南十五街区の高層住宅を透かして、いつもは天の星をそのまま地上にばらまいたような夜景が見えるはずなのに、今夜はぱらぱらと指先でつまんで散らした程度のささやかな夜景だった。
停電だ。それも、旧市街全域におよぶ、大規模な。けれど驚くべきことではない。停電は日常茶飯事だ。かつて電力は、最大使用量を基準に供給されていたが、そんな芸当が今できるはずもない。化石燃料の枯渇、よしんば燃料があったとして、それを思うままに燃焼させられる世の中ではなくなっている。風力発電で全市の電力をまかなえるはずもない。戦争より二酸化炭素の無秩序な放出が悪であると叫ばれているのだ。だからひとびとは、停電に文句を言わなくなった。
ぱらぱらと灯ったままの明かりはたいがい、自家発電装置を装備している施設だ。小型のガスタービン・エンジンを利用したコージェネレーションや、新市街に近い場所では水素を供給して化学反応で発電する燃料電池が普及していて、悪しき停電からは解放されている。もちろん<団地>のすべての電力は自給されている。だから常夜灯がぼんやりと、エレベーターホールを照らしている。
耳の底に囁きかけるような空調の作動音。室温二二度。快適すぎる。単身者向けの<団地>はあんがい倍率が高かった。自分で認めたくはないが、すんなりとここへの入居が決まったのに環境調査員という肩書きが効いていないはずがない。黄昏の世界の番人、<機構>の末端であれ構成員である自分は、眼下で明滅する電灯を恨めしそうに見上げているだろう市民たちの姿を想像できても、実感できない。それは、沈みかけた街をさまよい、街が内包しているかつての住人たちの暮らしや、直接訴えかけてくる多くの「遺品」を見、過ぎた時間をたどることができても体感できないのと同じだ。
怜は片手にマーケットの袋を持って、エレベーターホールに突っ立っていた。もう、五分、十分。時間きっかりには閉店してしまうマーケットに、シリアルとはちみつを買いに行ったのは、もうすっかり日が暮れたあとだった。長い休暇に身体が慣れきってしまい、時間の感覚があやしくなっていた。だから、食糧が底をついていることに気づいたのは、午後ももう遅くなってから、そう、空を染めていた夕焼けが青藍のシェードにゆっくりとつつまれはじめてからだった。
<団地>の玄関口、地下鉄駅のすぐ前に位置するマーケットは、大規模ではなかったが品揃えはこの時代に豊富で、整理券なしに食糧が手に入れられるから、旧市街からもちらほらと客がやってくる。さすがに食糧が配給制になるような事態は<機構>が排除してくれているが、それでも入店客数を制限する店舗が多い中、前世紀のスーパーマーケットのようなシステムはありがたい。怜はコーンがメインのシリアルを二箱と、ドライフルーツを数種類、そしてナッツもいくつかと、はちみつを一瓶、ミルクを大瓶で一本買った。給食中の身だ、手持ちが少なかったから以前のように一週間分の食糧を一気に買い込むような真似はできなかった。それでも片手にあまる量にはなった。ドライフルーツを物色しているとき、怜はふと、果汁がはじけるトマトの触感を思い出していた。<施設>の屋上でかじった、あのトマトだ。だから怜は陳列線にトマトを探した。
夏はトマトの旬。ゴンドラには紅く熟れたトマトがぎっしりとつめこまれていた。加湿機が吐き出す霧を滴らせて、白々しい蛍光灯に照らされ、実験施設を思わせる陳列台に、びっしりトマトがつめこまれていた。怜はそのうちのひとつを取りあげて、蛍光灯にかざした。よくできたトマトだ。そんな感想を抱いた。そう、よくできてる。
<施設>の屋上でかじったトマトは、文句のつけどころがない味だった。ひさしく忘れていた味だ。でも怜は思う。
同じだ。
マーケットのゴンドラに並ぶトマトも、土のない畑で育ったトマトも、同じだ。
怜は紅い果実をもとに戻し、シリアルばかりを入れたかごを手に、レジスターの列に並んだ。自分には、まだシリアルがお似合いだ。
エレベーターのシャフトから、箱が上昇する気配。怜はぼやけた焦点をふたたび旧市街の貧相な夜景に合わせる。停電はまだ復旧していないらしい。とたんになぜか煙草を喫いたくなった。背後に箱が上がってくる作動音を聞きながら、ポケットの鍵を探る。硬質な感触は、閉じた世界への鍵。鍵穴に突っ込み、開錠。怜が自室にもぐりこむのとその背後でエレベータの扉が開くのは、ほとんど一緒だった。