表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏の扉  作者: 能勢恭介
1/19

1

   一、<施設>


 長い休暇がはじまってしまった。

 薄く砂の積もったプラットホームに降り立ち空を仰ぐと、部屋を出たときとおなじ、春の霞が漂っていた。そして鼻腔に抜けるのは潮の匂いだ。海が近い。軌道にはまだ電車の余韻が残っている。ただっ広い荒れ地は一面のタンポポ畑だった。ひびだらけのアスファルト、朽ち掛けたプラットホーム。彼は自分が日常を逸脱していることをあらためて感じた。どうしてこんなところにいるんだろう。

 街をふりかえる。まだ電車のパンタグラフが揺らめいていた。一直線、街灯と電柱が並ぶ港湾道路が地平に向かって伸びている。人の世界が遠ざかっていくようで、そよぐ春風とは裏腹に、なにやらうち捨てられたかのような寂しさが去来する。そうだ、長い休暇が始まってしまった。

 無意識のうちにポケットの鍵を指先で触れていた。それがたったひとつ、昨日までの日常と自分とをつなぐ鍵であるかのように。歩み出さなければならないのに、砂まじりのアスファルトに靴が同化してしまったかのようだ。最初の一歩が踏み出せない。

 朝、ドアに鍵をかけ、よく整備された歩道を地下鉄の駅に向かう。自動改札を抜けて電車到着のアナウンスを聴く。いつもどおりのスタートだ。車輌の軋みや甲高いモーターの音すら、一日の始まりに心地よい音のはずだった。いや、今朝もそう感じていた。しかしいつもの駅を乗り越して、終点からLRT(ライト・レール・トランジット)に乗り換えたあたりから、彼は腕時計をのぞくのをやめた。もう時間を気にする必要もなかった。郊外のターミナルで乗り換えたLRT、電車は光の中を進んだ。次第に車の数も人通りも、車窓からは消えていく。等間隔で並ぶ電柱と街灯、そして草原とタンポポ畑。遠く、見慣れた山並みが、車内で彼と日常をつなぐランドスケープだった。気づけば乗客は彼ひとり。道端の樹々はうっすら芽吹いて萌黄色。運転士ごしに見える地平は、霞のかかった空に溶け込んでいた。やがて到着した停留所は終点だった。以前はもう少し先まで路線は通じていたが、伸びる錆色のレールとひびだらけのアスファルトは、徐々に草に覆われつつあるようだ。電子音のような気笛を残して電車は彼を一人にした。

 鳥が鳴いていた。トビだろうか。

 周りからは生活の匂いがまったくしなかった。ぽつりぽつりと建つ家々にもはや住人はいない。捨てられて久しい地域なのだ。彼はジャケットの内ポケットから紹介状を取りだした。添えられた簡単な地図を一瞥したが、思わず苦笑がもれた。痩せた樹々とタンポポばかりが住人のこの場所で、道に迷うとも思えなかった。

 ようやく第一歩。プラットホームを離れ、もういちど深く息を吸う。潮の匂いは電車を降りたときよりも感じなかった。しかしすぐそこまで迫ってきているはずの海が遠ざかったわけではない。自分がゆっくりと日常を離れているからなのだ。

 彼、白石怜は小さく鼻を鳴らし、穏やかな潮風を受けながらもうひとつの、これからの日常を目指し歩きだした。


 その建物は、ただ<施設>と呼ばれている。もちろん正式な、長ったらしい名称は用意されているが、誰もがただ<施設>と簡単な呼称で、白壁の建物のことを呼んでいた。そのあたりにはもはや人家はなく、建物といえば<施設>以外には見られなかったからだ。しかし建物はもうずっと以前から<施設>と呼ばれつづけていた。

 <施設>がここに建設された頃は、十五分も歩けばコンビニエンス・ストアやスーパーマーケットにこと欠かなかった。今ではてんでに自己主張をしている草原もその頃は畑だったし、<施設>の窓からは市街地が見渡せた。だが市街地の人間と<施設>は、けっして良好な関係であったわけではなかった。誰もが意図的な無関心を決め込んでいた風がある。それは建物が正式名称で呼ばれず、単に<施設>と呼称されつづけてきたことからも明白だった。そうしていつしか潮の匂いが強くなり、畑が草原に変貌し、強制執行によって人家から住人が消えたあとも、<施設>は残った。周囲の怯えや蔑みに似た視線は、潮の匂いと草っ原の緑にとってかわった。

 電停を離れて十分あまり、防風林沿いの一本道を途中、揚水機場の角を右に曲がると、<施設>の白壁が目に飛び込んできた。想像していた様子とはずいぶん違う。清潔で小ぢんまりとした外観は、新興住宅街のはずれに建つ小学校といった趣だ。樹木が効果的に配置され、人工的な外観を穏やかにさり気なく隠している。怜は現われたもうひとつの日常に、内心胸をなで下ろしていた。自分が「そういう場所」のお世話になるのだと、数日間憂鬱だったが、ここならばよい、そんな気分だった。紹介状を再び取りだし、エントランスから受付に。中はおさえぎみの照明が心地よかった。受付の女の子は自然な笑みをよこしてくれた。こうして見る白衣は、軽い風邪でもひいて訪れた医院で、薬を処方してもらったときに感ずる安堵に似た感情を、そっと思い起こさせた。そちらにかけてお待ちください。

 <施設>の中は思いのほか静かだった。廊下の向こうからオルガンの音に合わせて、子どもたち数人が合唱しているような歌声が流れていた。十畳ほどの待合室からは、中庭だろうか、手入れの行き届いた芝生が見えた。春の日差しを反射して、室内はぼんやりと緑色に染まっていた。殺伐さも慌ただしさもここにはなかった。怜はふと、諦観に似た感情がここに流れているような気がしたが、それは自分の状態ゆえの勘違いではないのかと、みずからを叱った。待合室をぐるりと眺め、隅に灰皿がポツリと置いてあるのに目が止まった。珍しい!

 怜はそれまで座っていた席を離れ、脚の細い灰皿の前に腰を下ろす。喫煙が犯罪行為に等しく叫ばれて、もうどれくらいの時間がたつのだろうか。怜は品物に狙いをさだめ、店員の動きに目を光らせる万引き常習犯のような心境で、受付をちらりと見た。意識しないのに、左手が煙草をおさめたポケットを押さえていた。受付の女の子はキーボードを叩いてこちらには気を向けてはいない。一瞬自分の姿を想像して苦笑が浮かんだ。深く椅子に座りなおして、ポケットから煙草を取りだした。それでも火を付けるのには躊躇した。左手に煙草を、右手にライターを持ったまま。

「喫わないんですか」

 背後から声をかけられ、怜は店員に呼び止められた万引き犯のごとく、びくりと肩を震わせた。

「禁煙じゃないですから」

 振り返ると、はっとするほど白い肌の少女が立っていた。いや、少女というには少し年齢が高いだろうか。透明な声にそぐわず、感情に乏しい顔がほっそりとした首の上にあった。なかなか上背があるようだ。

「ああ、どうも」

 まるで彼女にせかされたかのようだ。怜は煙草に火をつけた。自室以外で喫うのは久しぶりだった。少女は怜に向かって微笑んだようだ。笑顔はどきりとするほどあどけなかった。怜には彼女がいったい幾つなのかが分からない。伸びた灰を磨き上げられ吸い殻ひとつない灰皿に落とす。少女は怜から少し離れた席に落着いた。少し、猫背。日差しが踊る中庭と、待合室は対照的だ。陽と、陰。海風に枝が揺れ、影が揺れる。じっくり根元まで煙草を灰にし、ちらりと少女をうかがった。待合室にはうっすら煙草の煙が層をつくっていた。彼女は煙をまったく意に介さないかのように、じっと中庭を向いていた。子どものような瞳に、つややかな唇、しかし漂う雰囲気はどこか屈託していた。

 やがて廊下の向こうから怜の名を呼ぶ声が届く。白石さん、どうぞ。

 漂う煙を軽く右手ではらうようにして、彼は立ち上がる。受付の女の子が診察室をそっと示す。中庭を横目に、ひんやりとした廊下を進む。突き当たりが診察室らしい。ドアの手前でもういちど待合室を振り返ると、彼女は先程と変わらず、よくできた彫刻のように、じっと前を見据えて座っていた。部屋にはまだ、煙の層がうっすらとたなびいていた。



   二、タンポポ


 白いレースのカーテンがかかる大きな窓を背に、柔和な表情の男がゆったりと椅子に腰掛け、入室した怜にも座るようにうながした。怜が腰掛けた椅子は、彼のさして重くもない身体に、微かなうめきをあげた。椅子に落着き、二人は向かいあった。淡いブルーのシャツに藍色のネクタイをしめ、その上に白衣をまとった男の姿は、そう言われずともはっきり医師と分かる、そんな風貌だが、しかし彼が小学校の教師だと名乗っても怜は違和感を感じなかっただろう。男は人の好さそうな目をしていた。

「稲村です」

 男はまず、みずからを名乗った。そして目尻にしわを寄せ、「こんにちは、白石さん」、そう言った。怜は会釈で返した。

「さて、どうしました」

 稲村は怜にまっすぐに向き、両の指を膝のうえで組み、訊いた。おなじみのセリフだな、怜は医師のピアニストのように細くしなやかな指を眺めつつ、言葉を探った。彼は楽器を弾くのだろうか。視線を窓辺にうつす。霞は徐々に晴れ、空は青さを増しているようだ。医師の机上には、ガラス製の小ぶりな花瓶が載っていた。タンポポの花束が、にぎやかだ。しばらく怜は言葉を探ったが、稲村医師は一言も余計な口をはさまなかった。

「稲村先生」

 医師から視線を外し、怜は口を開いた。

「はい」

「先生は楽器を弾かれますか?」

 怜は言葉を放つと顔を上げ、医師とはじめて目を合わせた。黒目がちで、柴犬のような目をしていた。

「ピアノを、少しだけ弾きますね」

 低くやわらかな声が返ってきた。「ただし、下手ですよ、到底お聞かせできるような腕前じゃない」。稲村はなぜ怜がそう訊いたのかは問わず、

「白石さんは、何か?」

 そう言った。

 怜は自分の両手を開き、握る。キーボードの感触だけが蘇る。鍵盤ではない、キーボード。さもなければカウンターや双眼鏡の重み、脚を取られそうな湖沼のぬめりを思い出す。そして、そのたびに感じた絶望。

「僕は、いつか弾けたらいいと、思っていました」

 自分の声は、口を離れたとたんに診察室の床に転がってしまった。稲村の耳に届いたのだろうか。

「どんな楽器を弾いてみたいと思ったのか、もしよかったら教えてもらえますか?」

 稲村が問うた。

 いつも嫌になるほど感じた蛍光灯のちらつきが、ここでは気にならなかった。ふと天井を見上げる。ところどころがくすんだり染みになってはいるが、おおむねほころびのない、きれいな天井だった。そこに二本一組の蛍光灯が点っているのだ。安定した供給。ここにはまだ電気は来ているのか。

「友人が、ギターを弾いていました」

「ほう」

「彼の指は、よく動くんですね。まるでフィルムのコマ落しみたいに。しかも、滑らかな音がするんです。そう、まるで口で歌っているみたいにね。ですから、いつか、自分もそんな風にギターを弾けたら、きっと心地いいのだろうなと、ぼんやりですけど考えていました」

 こんどはなるべく大きな声で、言った。ひとつ一つの言葉を、稲村の耳に放り込むような気持ちで。

「その友達が演奏する姿を見て、自分もそうなりたいと、思ったのですか?」

 稲村の声は終始穏やかでよどみない。

「彼のようになりたいと思ったわけではなくて、そうですね、思いどおりに楽器を弾けるという、そのことに憧れた、というか」

「思いどおりに、楽器を弾いてみたい」

「そうです。そう思いました」

 怜はずっと、稲村の目を向いて話をしていた。稲村もまた、怜の目から視線を外さなかった。瞬きはゆっくりで、ふと怜は、この医師と自分では、時間の感じ方が違うのではないかと思った。

「では、なぜ、ギターをはじめなかったんでしょうね? 『自分も弾いてみたい』、そう感じたのであれば、よしやってみようと、そういう気持ちというのは、起こりましたか?」

 医師はゆっくりと、言葉を手渡すようにしゃべる。

「起こりました」

「起こった」

「はい。その友人の部屋で、彼の演奏を見てから、自分もなにかやってみようと、自分もやれるのではないかと思いましたから、今度、ギターを買おうかと考えて、カタログも集めました」

 薄暗い店内と、壁に並びライトを浴び光沢を帯びたボディ。加湿器が小さな音を立て、片隅で長髪の店員が弦を張りかえていた。

「カタログも集めたんですか。どうでした?」

「ええ、いろいろと、目がうつりました。カタログを眺めていると、結構こう、楽しくなってきました。僕が好きなあの曲も、自分の手で弾けるようなるのかな、とか、練習して、その友達と一緒に弾いてみたいな、とか。そう、なんていうのかな、そういう自分の姿とかも浮かんでくるんですね」

「ギターを弾いている、自分の姿ですか?」

「そうです」

「それは、楽しそうですか? いえ、あなたが思った、ギターを弾いている自分の姿ですよ」

「楽しそうでしたね。実際、楽しいだろうなと思いました」

 無意識に、まだ押さえ方も知らないコードを、左手がかってに握っていた。

「いいですね」

 稲村医師の顔がほころんだ。つられて怜も頬が緩んだ。そうだ、ギターを弾けたら、楽器を思いどおりに弾けたら、どれほど楽しいだろうか。

「でも、買わなかったんです」

 怜はふたたび稲村の組んだ指を見る。彼の十の指が、軽やかに鍵盤を踊る姿が苦もなく浮かぶ。

「買わなかった。それは、どうしてでしょうね」

「ええ。仕事が終わって、部屋に戻ってくるじゃないですか。ぼけっと、集めてきたカタログをめくるんです。こう、ぱらぱらとね。どのギターも格好がいい。来週の日曜に買いに行こうと思うんです。手帳に、気に入った機種の型番をメモしたり、予算を計算したり、もう、買う直前まで行ったんです。機種も決めて、友達に訊いてどのアンプがいい音がするだとか、そうそう、真空管の型によっては、こんな音がするんだとか、教えてもらいました」

 医師は柴犬のような黒い目をゆっくりと瞬きし、怜の言葉にうなずく。

「でも、ふっと思ったんです。思いどおりに行くはずがないって」

「思いどおりに行くはずがない」

「ええ」

 ふと気づくと、稲村は机上に置かれたファイルに、こちらを向いたまま、さり気なくペンを走らせていた。電話中、手元のメモ用紙に無意味な落書きをしている、それに似ている。

「冷めちゃったんです。多分。僕はもう、結構昔からそういうところがあったんです」

「『熱しやすく冷めやすい』、そういう感じですか?」

「ええ、そんなところです。なんだかそう思ったら、あれほど格好よく見えていたカタログの写真もね、うそくさい、まがまがしいもののように見えてしまって」

「ははぁ」

「それで、やめました」

 目障りなものをくずかごに捨てるような口調。怜は足もとに目線を落とした。稲村の白衣が、かすかな衣ずれの音を立てていた。

「なんだか、のべつそういう感じです。すぐに冷めてしまうというか。見えちゃうんですね、うまくいかない様子が」

「でも、やってみなくちゃ分からないな、ひょっとしたらうまく行くかもしれないな、そう考えることもあるわけでしょう?」

 ペンを走らせる音が消えていた。見ると稲村は、柔和な表情を怜に向けている。最初感じた、小学校の教師が駄々をこねる児童を大きな手で包むように、そっと諭すような表情を。

「思うことはあります」

 稲村はまた指を組んだ。これが彼のスタイルだろうか。

「思うんですが、でも、やっぱりだめなんですね。仕事のせいかもしれない」

「仕事の」

「はい」

 長い休暇がはじまってしまった。その言葉がまた聞こえてきた。意図せずとってしまった、終わりの見えない休暇だ。

「僕の仕事は、……、言ってみれば世の中の絶望を拾い集めたり、確認するようなものだと思っています」

 稲村は黙ってうなずいている。受付で提出した紹介状には、怜のこれまでのカルテのほか、簡単な略歴も添えてある。前の担当医が、その方が役に立つと進言した結果だ。だから稲村は怜の職業を、正確にいうと、先週まで彼が就いていた仕事のことを知っているはずだ。

「お前は考えすぎると、同僚に言われたこともあります。自分たちはただの機械なのだから、黙ってデータを集めていればいいのだと。でも、ああいった光景を毎日、うんざりするくらいの証拠を突きつけられれば、自然、誰でもこうなるとは思いませんか?」

 怜が言い終わると、稲村は居ずまいをただし、指を組み直した。

「あなたはさっき、『見える』と言いました。『うまく行かない様子が見える』のだと。それは畢竟、あなたの仕事にも関連して、『見えて』くるのでしょうか?」

 廊下を誰かが歩く、すり足のような音が聞こえた。スリッパか。だったらきっと、ここの看護婦に違いない。

「そうかもしれません」

 顔を上げ、稲村を向く。先ほどまでの表情が、心なしか締まって見える。小学校の教師から、医師の顔へ。

「普段はまったく意識してません。いや、考えないようにしているのかもしれません。しかし、仕事をしている間は、いやでも現実を突きつけられます。このままでは、もう、だめだと。僕のことではなくて、この世界が、ということです」

「なるほど」

「一度そう思ってしまうと、何をしてもだめなんだと、冷めてしまうんです。先ほど先生のおっしゃったとおりです。きっと僕の仕事と関係しているんだと思います、僕がこうなってしまったことは」

 怜が言うと、稲村はまた目尻がほころんだ。

「決めつけてしまうのは簡単ですし、また早いと思いますよ。実際あなたの仕事と、あなたのその、『冷めていく』感情は関係しているかもしれない。しかし、関係していも、切り離すことはできるかもしれない。どうでしょう?」

「そう、でしょうか」

「それを、これから考えるんですよ、白石さん」

 稲村はこれまで以上に穏やかな笑顔を、怜に向けた。背後に、またオルガンの音が、今度ははっきりと流れているのが聞こえた。



   三、カモメ


 賑やかで焦燥に満ちた時代は、黄昏を迎えつつある。かすかな寂寥とともに茜色の空が夕闇に飲まれていく、そんな黄昏。まるでフェードアウトだ。怜は一時間あまりの診察を終え、<施設>をあとにした。空は目の曇りがとれたあとのようにすっきりと晴れていた。霞はもう残ってはいない。頬を暖かな風がなでつけていく。はっきりと潮の匂いがする。そう、去年よりも、おととしよりも、海岸線は近づいている。ここが波打ち際に変貌するのも、きっとそう先の話ではない。

 防風林沿いの道を電停へと歩く。とぼとぼと。セイタカアワダチソウが海風に波立っていた。立ち止まり、目を細める。荒れ地は地平まで続いているようだが、わずか数キロ先はもう海だ。あれは地平線ではない、水平線だ。かつて人で賑わった砂浜など、とっくに水没してしまった。今渚に立っても、いや立つことができるならば、そこは荒れた沼地だ。潮を浴びて立ち枯れた樹々、濁った水面は、ありとあらゆる分解されない浮遊物でいっぱいだ。

 彼は環境調査員だった。時代がゆっくりとフェードアウトする様を、まさに最前線で見守ってきたのは彼の目だった。そう、見守るほかすべはなかった。何もかもが彼の、彼らの手を離れ、かってに事態は進行していたのだから。

 この世紀の初め、十一月には初雪の声が聞こえた。春は四月にならないとやってこなかった。それがどうだ、クリスマスを過ぎても雪は降らない年がある。タンポポの季節はその頃よりも一月以上駆け足でやってくる。厳冬期に雨が降ることもめずらしくなくなった。たった数度の気温の上昇など、この惑星にとってはエアコンの設定を変えるくらい些細な事象に違いない。これまで、海面は高さの基準だった。ゼロメートル。ゼロは年々上昇しはじめた。海岸沿いの街はすでにいくつも飲まれてしまった。水没した地域、島、国、そんなニュースも珍しくなくなった。それだって、長い時間をたどれば幾度もくりかえされてきた過去のできごとに違いない。だからこそ、彼は、彼らはなすすべを持たなかった。ゆるやかな坂道を下るように、環境は変わりつつある。声高にそれを糾弾する声はもう聞こえない。もう、何もかもが手後れだった。あとに残ったのは諦め、一言だった。

 怜は思い出す。同僚とともに入ったぬかるむ湿地を、かつて街だった広大な沼地を。住民が去り、取り壊され捨てられた街は干潟になっていた。水鳥が貝や小魚をついばんでいた。数年前まで子どもたちが駆け回り、大人たちが家路を急いだであろう風景を、怜は観測機器を抱いて呆然と眺めていた。信じがたいほど平和で、慌ただしさも猥雑さもかけらもない景色だった。怜にとっての絶望は、水鳥たちにとっての絶望と同義ではないらしかった。海岸線はゆっくりゆっくりと迫ってくる。このままでは、自分の街を象徴する白亜の時計台が波に洗われるのも、そう遠い未来のことではないだろう。

 電停の上空を、カモメが風に乗って旋回していた。電車は一時間に一本もやってこない。怜はプラットホームに腰を下ろした。時刻表のポールの根元に、錆びた赤い空缶が転がっている。人の作ったもの。その大半は、分解されずに波打ち際を漂うことになる。赤い錆だらけの缶が、浅い湿地を漂う姿がいやにはっきりと目に浮かぶ。怜はそのイメージをあわててふりはらう。目線を海とは逆、人の住む街の方向へ、山沿いの自宅の方へと向ける。斜面に乱杭歯のように高層住宅が並んでいるのが見える。低地に住む人たちは、強制執行でそれまでの土地を離れ、市の西から南にかけての斜面に建設された高層住宅に移住させられた。怜の住むアパートも、そういった高層住宅の一室だ。旧市街は少なくとも彼が老い、永遠の眠りにつくまでには水没してしまうだろう。

 見上げるとカモメはどこかへもう飛び去ってしまったようだ。斥候か。数年後の自分たちのテリトリーを下調べに来たのか。

 腕時計で時刻の確認。調査員時代の癖がぬけない。時間ごと、データ収集を要求されたからだ。コンピュータ・ネットはとっくの昔に消滅してしまった。電力の安定供給に陰りがみえはじめたころ、誰もがコンピュータを信頼しなくなってしまったからだ。市から西へ数十キロ、市が電力の大半を依存していた原子力発電所は、環境変化に敏感だった。海岸線に建っていたからだ。真っ先に海中のモニュメントと化し、放射能を撒き散らしはじめた。怜は防護服に身を固め、ガイガーカウンターを持たされ、数年前までの砂浜を歩かされたこともあった。もう、うんざりだ。

 流行病。

 いつの時代にも、人が根絶を願っても、あとからあとから流行病は姿をあらわす。

 流行病。

 一言で片づけるのは簡単だ。発達した医療技術の前に、病はあっというまに、塩基配列のひとつひとつにいたるまで解明され、殺戮される。そして人は晴れやかに復帰する。

 北緯四三度の街の暖かい冬がはじまりかけた頃、彼は流行病にかかった。この国だけでなく、海の向こうのいくつもの国々で流行りはじめた病だった。だが発達した医療技術も、病を解明し、根絶することはできなかった。その病は感染ルートもはっきりせず、しかも塩基配列などという気の利いたものも持っていなかったからだ。

 心の病だった。

 この流行病は心をだめにした。正確には「流行病」ではないのかもしれない。しかし今、全世界に病は蔓延しつつある。病は怜のような、変化の最前線にいる者からまず狙い撃ちにした。倦怠感、不安、恐怖、絶望、諦観、そして、死。直接死にいたる病ではない。かかった者が、自ら死を選ぶのだ。怜の発病を知った上司は、医師の診察をすすめた。上司はすでに同僚を病で喪っていたからだ。怜はすすめられるまま診察室のドアを叩いた。おかしな気分だった。自覚症状などまったくない。ただ、感じるだけなのだ。絶望、を。

 最初訪れた病院の廊下は、瞬く蛍光灯の下に青白い顔をした人々がうつむき、ある者は足を組み、若いカップルは寄りそって中空に視線を泳がせていた。時折誰のものともつかないため息、そして背筋を凍らせるような嬌声が響く。医師の前に座った怜は、とおりいっぺんの質問のあと、何十問にもおよぶ心理テストを施された。つぎに、何枚もモノクロで描かれた絵画を見せられ、印象や感想を質問された。絵の具をこぼした染みのような、意味不明なイラストも見せられ、これにも感想を問われた。診察が終わると、何種類もの錠剤が入った袋を渡される。食後、必ず飲んでくださいね。怜は言われるまま、薬を飲んだ。それでも医師は怜を通院から解放してはくれなかった。自分はかりに病だとしても、ずっと軽度だと思い込んでいたのに。

 通院しつつも、怜は仕事を続けた。毎朝七時に目覚め、シリアルとミルクの軽い朝食をとり、部屋の鍵を閉めて地下鉄に乗る。パターン化された生活、パターン化された絶望。気がつけば感情を失いかけていた。調査員の同僚と海岸線を歩きながら、観測機を放り投げて絶叫している自分を、どこか離れた場所から眺めていたこともあった。倒れた湿地の、苦味と潮の混ざった、複雑でまずい味だけがあとに残った。怜はフィールドワークから事務職に異動になった。慣れないデスクワーク、度重なる停電、瞬く蛍光灯、希望のかけらもないデータの集計と、青白い顔をした職員たち。ある日、怜はふらりとビルディングの屋上に立っていた。旧市街中央に位置する彼の職場からは、まだ海は遠かった。しかし見ると低地からは日に日に人の生活が消えていく。地平はかすかに丸みを帯びていて、その先がぼんやりと青かった。ああ、海だ、海が見える。思えば彼は屋上のフェンスから身を乗り出していたのだろう。彼の姿を探していた同僚に羽交い締めにされ、コンクリートの床に転がった。そして、怜は環境調査員の職を解かれた。馘首ではなく、休職扱いで。それからは、自室で好きな音楽を聴いたり、いつか読んだ小説を読み返したり、そうでなければ呆けたように一日を過ごし、週に二回は通院。そして早すぎる春が訪れた頃、担当医が紹介状を書いた。白石さん、あなたはここへ行くといい。きっとよくしてくれる。行っておいで。

 日差しを受ける背中が暖かい。こんな一日も悪くない。

 怜は白壁の<施設>を思い起こしていた。つい十五分前にあとにしたばかりの、二階建ての<施設>を。

 磨かれた床、瞬かない蛍光灯、待合室の隅に置いてあった灰皿、よく手入れされた中庭、子どもたちの歌声。すべてはもうとっくになくしてしまった風景に思われた。ひんやりとして無愛想な建物だったのに、それゆえか、怜にとっては居心地がよかった。小一時間、自分の支離滅裂な話につきあってくれた、あの稲村とかいう医師の顔を思い起こす。何を話しても、目は赤ん坊を抱く父親のように穏やかだった。どんな会話をしたのかはもうよく憶えていない。なのに稲村の顔と机上の花瓶に生けてあった、黄色いタンポポの束が、鮮明に思い出された。病院という気がしない。卒業後、久しぶりに訪れた母校で、恩師と言葉を交わしてきたかのような気分だった。

 白い肌。

 怜はポケットから煙草を取りだし、火をつける。錆びた空缶を灰皿代わりに。吐き出した煙は、吐き出したかたちのままで風に乗る。

 少女の白い肌が浮かぶ。黒い髪を肩まで伸ばし、顔からは一切の表情が欠落して見えた。彼女もまた、自分と同じ病にかかっているのか。だとしたら、自分たちは何と残酷なことをしたのだろう。

 喫わないんですか。禁煙じゃないですから。

 わかってるさ、だけど、ちょっとびっくりしているんだ。灰皿を俺の部屋以外で見かけるのなんて、何年ぶりか分からないからね。ありがとう。

 澄んだ、しかし色の見えない瞳が、じっと彼を見つめていた。

 この時間で二本目なんて、少し喫いすぎだな。

 怜は根元までじっくりと煙草を灰にした。赤い缶の中へ吸い殻を落とすと、じゅっと音をたてた。水が残っていたのか。しかし彼は水の色を想像したくはなかった。

 レールがかすかに鳴っている。帰りの電車だ。怜は立ち上がり、一直線に伸びる港湾道路の彼方から、パンタグラフが揺らめきながら近づくのを、目を細めて迎えた。



   四、南の終着


 こんなに早い時間に地下鉄に乗るのは久しぶりだ。学生時代以来だろうか。甲高い走行音と、コンピュータで合成されたアナウンス。感情がこもっているのかいないのかが分からない、若い女性の声。乗客は少なく、だから反対側の窓に映った自分が、鏡をのぞくように見える。こんな風に、じっくりと地下鉄に乗ったのは、本当に久しぶりだった。ただの移動手段ではなく、今は乗り物として地下鉄を感じていた。

 旧市街を南北に貫くこの路線は、十数年前、南の終着が延伸された。以前の終着駅からいくつか手前で電車は地上に上がり、窓からは山の斜面びっしりに建つ高層住宅が見える。街区ごとに呼び名もあったが、住人たちは自分たちのすみかをただ、<団地>と呼ぶ。正式名称があるにもかかわらず、<施設>が<施設>としか呼ばれないように。地下鉄が延伸されたのは、<団地>が完成し、そこへ通ずる交通機関を整備するにあたり、とりあえず南の終着をさらに延ばすことで片をつけた、ただそれだけの話だ。終着駅が変更されたのは、前世紀、この街で開催された冬季オリンピックを契機にこの路線が開通してから、初めてのことだった。それも、旧市街が水没すれば、この路線はあっさり廃止されることが決定していた。

 電車は延伸区間に入っていた。ぐぐっと右にカーブを切り、高架のままで<団地>を目指す。川を渡り、通る車も少ない国道をまたぐ。右手から左手へ、ぐるりと高層住宅が広がる光景は、安物のアトラクションによく似ている。怜のアパートは、まさにこの路線の終点からほどちかい高層住宅にあるのだ。

 真新しいけれども即席の香りが強い終着駅。自動改札を抜け、いかにも人工的な街並みを、ふと立ち止まって眺めてみる。ビルディングのガラス窓が真っ青な空を反射していて、怜はビルとビルの隙間にのぞく空ですら、どこかフェイクにも見えてしまう。この街は、おかしい。怜はポケットの鍵を検めた。駅前の地球ゴマのモニュメントを横目に、駆けていく子どもたちを横目に進む。子どもたちはいつだって駆ける。何をそんなに急ぐのかと、見ているものが疑問に思ってしまうほど、よく駆ける。そして、笑う。

 アパートへ向かう石畳の坂道をいく。振り返れば旧市街が一望できる。遠く、森林地帯に一本、尖塔が建っている。この地方の開拓百年を記念して建てられた塔だ。

 そうか、まだ二百年たっていないのか。

 強制執行は旧市街だけでなく、周辺地区も対象となっていた。そして人が消えた街は、ゆっくりと、開拓時代より以前の姿へ帰ろうとしている。

 そうか、戻るのか。

 怜は尖塔を視界の端にとらえながら、そっと呼吸を止める。周囲の音がことさら大きく聞こえるが、それは空調の音だったり、ビル風の音だったりするのだ。怜は向き直り、自分の部屋を目指す。<S15-18-1506>、それが彼の部屋を示すコードだ。「南十五街区-十八棟-一五〇六号室」というわけだ。

 エレベーターホールは薄暗い。どこかからか子どもの泣き声が聞こえる。二基あるエレベーター、ひとつの箱は上昇中、もうひとつの箱は最上階、二〇階から怜の呼び出しに応じて降りてくる。音も立てずにドアが開き、瞬かない蛍光灯が眩しいくらいの箱の中へ、身を滑り込ませる。十五階のボタンと「閉」のボタンを、ほとんど同時に押す。するすると箱は上昇していく。降り立った十五階のエレベーターホールもまた、ひんやりとしていた。慣れた匂いだ。自分の匂いにかすかに似ている。ここは独身者用の階層だ。廊下の両側に並ぶ扉を見ると、怜はいつでもなぜか、墓地を連想してしまう。なぜなのかを考えたこともなかった。さして意味のある連想とも思えなかった。だから前の担当医にも、稲村にもこのことは言わなかった。そもそも普段は忘れている。箱を降り、自室のキーを鍵穴に挿し込もうとしたときだけ、その連想が蘇るのだ。自分は、墓穴の鍵を開けているのだ、と。

 つい数時間前の自分の余韻がまだ残っていた。簡素なキッチンの隅に、洗って伏せた食器が見える。ミルクは好きだが、あとに残る臭いは好きではない。だからミルクを注いだグラスや、シリアルを食べる器は、いつも必要以上に時間をかけ、洗う。

 二部屋あるアパートの、すべての窓のブラインドを下ろして出かけた。だから部屋は冷えきっていた。上着をハンガーにかけ、怜はブラインドをすべて上げる。窓は東を向いているが、見えるのは十七号棟の蜂の巣のような窓ばかりだ。それでも自然光を部屋に入れるのは悪い気分ではない。

 怜はベッドに腰掛け、華奢なナイトテーブルから灰皿を手繰りよせた。が、煙草は上着のポケットに入れたままだ。立ち上がり、部屋の反対側のハンガーへ。フローリングの床が冷たい。ポケットから煙草を取りだし、一本抜きだしてくわえ、ベッドに戻る。ライターで火を点けた途端、空調のスイッチが自動的に入る。常時スタンバイ状態なのだ。だから部屋の空気はいつでも浄化されている。<施設>の待合室のように、分厚い煙の層ができたりはしないのだ。

 深く煙を吸い込み、吐く。頭の先がくらりとする。今日三本目の煙草は、しかし旨くはなかった。怜は半分ほど喫って、もみ消した。

 寒い、この部屋は、寒い。

 両腕を抱く。ここは、寒い。

 テーブルにのせてあったコントローラを取り、TVのスイッチを入れる。電源が入る際の音が、驚くほど大きかった。暗い画面が徐々に明るくなる。映っている人物の輪郭がはっきりとしてくる。目覚めた直後の視界のように。音声はミュートしてあった。ボタンを操作し、音を出す。

「……らは、統合社会管制機構です。私達は住みよい社会、希望ある未来を築くため、日々皆様とともに……」

 陳腐なフレーズのオンパレードだ。チャンネルを変えても、この時間に馴染みがないためか、どんな番組を放送しているのかが分からない。途中から見たところで内容が理解できるとも限らない。怜は再度音声をミュートして、適当なチャンネルに合わせた。

 ベッドに転がると、すぐそばに空を感じられた。手を伸ばせば届きそうな場所で、雲が漂っていた。怜は実際に腕を伸ばしてみた。指が空を切る。痺れるほどに腕を伸ばす。そっと、雲をつかんだ。しかし、次の瞬間には彼の指から流れ出す。まだ、届いていない。怜はさらに腕を伸ばした。指先が硬く冷たい何かに触れた。空に触れてしまったように感じ、慌てて腕を引っ込める。

 もういちど。

 腕を伸ばす。あと少し、あと少しだ。

 何度腕を伸ばしても雲には触れられない。伸ばした先で触れられるのは、硬い空の果てだけだ。それでも怜は腕を伸ばした。空に触れられるんだ、雲をつかめたっていいはずだ。

怜はベッドの上に仰向けになり、腕を伸ばしつづけた。そして雲は、彼の指の隙間から、次から次へとこぼれ、流れていくのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ