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第1章 第1話 堕落の魂魄

 世界にも真名がある。

 レネイスト、それが世界の名前だ。

 女神ヴァルノセレナが創造したとされ、人知を超越した俗に言う神と称される天上の存在が、人の世にその姿を現す世界だ。

 天の恩恵は絶大だった。

 それは何も無い荒廃した世界に山海を創り、文明を興させた。

 とはいえ、神にも種族がある。

 人に加護を与える神〈神族〉と、人に災厄を齎す神〈邪神族〉だ。

 二分化されたその関係は溝が埋まらない。

 そういう仕組みの定着があり、それがレネイストの理。

 〈神族〉に与するのが、人を手助けする〈天使族〉ならば、逆に人を狂わせるのは〈悪魔族〉だろう。

 忌み嫌われる邪悪、それが悪魔。

 世界の隅に追いやられた者は、居場所を求め彷徨い、それからある場所に集まる。

 『堕落の魂魄』。

 通称、灯火屋と噂される老舗だ。

 そこに来店した御客が口を揃え言うのは、こんな感想。

 ——穢れた魂が堕落した。

 〈悪魔族〉の魂は、汚い。

 既に堕ちたもの。

 それが堕落とは、一体どういう意味合いがあるのか。

 と、興味本位に訪れる同族も少なからずいたが——。

 同時に畏怖を抱いた者もいた。

 魂が堕落する間際、翡翠の灯火を見た、と。

 真実がどうだろうと、その『堕落の魂魄』が排斥された〈悪魔族〉の拠り所であるのは事実だった。


「メノア、起きなさい」

 執事らしき男が声をかける。

 光を遮るカーテンを開け、陽光を室内に入れた。

 現下は黎明。

 本来なら起床の時刻だ。

 しかし、その呼びかけには応じない。

 駄々をこねるように首を振りながら、布団を被る。

 陽の光が眩しかったのかもしれない。

 然れど、男は容赦しなかった。

 やれやれ、と肩を竦め強制的にそれを起こしにかかる。

「私の仕事を増やすな」

 布団を掠め取られ、丸まった身体が露わになった。

 未成熟の幼い女児だ。

 目に飛び込むのは、一糸纏わない裸体。

 不健康にも思える白皙の生気のない素肌だった。

 端麗な顔立ちなのだろうが、少しばかり頬がやつれ、その輝かしい美貌が薄れる。

 碌な手入れもされない長髪は、血が染み込まされたような、真紅。

 それが血管のように寝台(ベッド)の上に広がる。

 長い睫毛の瞼が開き、紅玉の双眸が光を宿す。

 眠そうに垂れ下がる瞳は落ちそうだ。

 気怠げに上体を起こすと、瞼を擦った。

 体勢の変化により、前面がさらされる。

 発達の乏しい胸部は膨らみかけ。

 四肢は痩せ細り、お世辞にも肉付きが良いとは言えない。

 浮き出た青白い血管が、いやに酷かった。


「貴方はいつも多忙そうね、堕落」

 ——それと。

 と、メノアは続ける。

「私の事は彼岸と呼びなさい、そう言った筈よ」

 メノア、否彼岸は堕落の呼び方を咎めた。

 そこに拘りがあるのだろう。

「毎度、仕事を押し付ける貴方が、それを言いますか……」

 布団を畳み、丁寧にしまう。

 中性的な見た目の、燕尾服を着た男性だ。

 蜂蜜色の短髪は綺麗に切り揃えられ艶がある。

 常日頃から欠かさない手入れの具合がうかがえた。

 顔の造形は彫像の如き黄金律。

 見惚れる程に整った容貌だった。

 特徴的なのは、その耳だろう。

 細長い尖った耳だ。

 かけられた眼鏡の奥にあるのは、怜悧な糸目。

 爽やかだが全体的に冷たい印象を受ける。

 すらりとした佇まいが、完成された最高峰の執事のようだ。

「押し付けた?」

 意味が分からない。

 と、彼岸は小首を傾げる。

「私の頼み事に貴方は了承を示したわよね?」

 だから、それに異議を唱えられるのは、お門違いだと反論。

 諦めたように堕落は嘆息する。

 中空に魔法陣を描き、そこからドレスを取り出す。

 物質の収納が可能な《異空間収納(ディートファスト)》だ。

 ドレスは、肌面積の少ないパーティードレスだ。

 堕落が指を鳴らすと、それが彼岸に着せられる。

 おまけに、寝癖のひどかった髪の毛が整えられた。


「相変わらず、口は達者ですね」

 どこか含みがある。

 無駄に詭弁は上手いと言いたげ。

 不満を隠そうとしなかった。

「ふふっ、ありがとう」

 然れど、彼岸は健気に笑う。

 上品さ漂う仕草だ。

 寝台(ベッド)から飛び降り、床板(フローリング)に素足をついた。

「貴方のお墨付きなら、商談も大丈夫そうね」

 彼岸には予定がある。

 知り合いの商人との交渉事だ。

 だから、堕落は早めに起こしに来たのだが——。

 やはりといえる。

 朝に弱い彼岸は寝坊する寸前だった。

「それは、いえ……」

 幾ら口が上手いとはいえ、不安な要素は残る。

 まあ、それを堕落が口にする事はないだろう。

 それは彼岸に対する嫌がらせが目的だ。

「何か言いたいなら、はっきりしなさいよ」

 語尾を濁す堕落に問い詰める。

 だが、堕落は笑みを見せるばかり。

 意図的に重要な情報は伝えない。

「いえ、これは私の懸念ですから、お気になさらず」

 一方的にそう会話をきりあげられた。

 煮え切らないが、仕方がない。

 堕落は気分屋じゃない。

 こうなったら、話す気に戻らないだろう。

「あっそ」

 だから、彼岸は素っ気ない態度を取るしかなかった。

 その後ろに、柔和な笑みをたたえた堕落が付き従う。

「まあ『堕落の魂魄』の損害に繋がるような真似はしませんよ」

 堕落も理念がある。

 それを反故にするような蛮行は犯さない。

 彼岸は返答せず、さっさと部屋を出た。

最後まで読んで下さりありがとうございます。


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