洗骨儀礼
この国には、土葬の記憶がいまも色濃く残っている土地があります。海を渡って吹いてくる風が、どこか時間をゆっくりと運んでくるような土地です。そこで人々は、亡くなった方を土へ還し、時が満ちると骨を洗い、遠くニライカナイに暮らす先祖のもとへ送り返す……そんな営みを静かに続けてきました。
私が奄美諸島のある島でその光景に立ち会ったのは、もう二十年ほど前のことです。記憶はところどころ薄れてきてはいますが、朝の湿った空気や、光に揺れる海、骨を拾う人々の慎ましい手の動きだけは、いまもとても強く胸の奥に残っています。
亡くなった方は、海に近い墓地に眠っていました。木で作られた小さな“家”のようなものが墓の上に置かれ、傍らには茶碗や草履がそっと並べられていました。都会のように、死がどこか遠くへ押しやられてしまう場所とは違い、その土地では、死者は日々の暮らしとつながったまま、静かにそこにいました。
やがて年月が過ぎ、決められた日になると親族が集まり、桶に張った海の水で骨を洗います。白い骨に陽の光が反射し、水面にはゆらゆらと小さな影が揺れます。それは悲しみではなく、長い時間をともに生きてきた家族だけに宿る、穏やかな敬意のようなもののようでした。こうして一つひとつ丁寧に洗われた骨は甕に納められたあと、先祖の近くに埋められ、その周囲に珊瑚のかけらが敷かれます。敷いたばかりの白い珊瑚は太陽の光を受けて淡く光っていました。
こうして、故人は先祖となり、その家を、土地を守る者になります。
その儀式を見ていると、「人は死によって終わるのではなく、土地へ静かに還っていくのだ」と、自然とそう思えてきました。風になり、海になり、また季節の中をめぐるように感じられたのです。
そんな記憶を持っているからかもしれません。
近ごろ、葬り方についてさまざまな意見が聞こえてきて、ときどき胸がざわつくことがあります。
表向きには、衛生や土地の問題が挙げられています。どれも大切な視点ですし、それは確かに理解できます。
けれど、その議論の陰に、別の色をした影が顔を出しているのを感じることがあるのです。
何かを守るための言葉のようでいて、本当は何かを遠ざけるためにも聞こえる言葉。
人は、馴染みのない習慣や祈りの形を前にすると、不思議と「自分の知っている形」だけが“正しい”ように思えてしまうものなのかもしれません。
しかし、文化というものは、長い時間の中で、人々の暮らしに寄り添いながら伝えられてきたもので、どれが正しいとか間違っているというものではありません。それをひとつの理由だけでまとめてしまおうとすると、なにか大切なものが音もなくこぼれ落ちていくように思えるのです。
骨を洗っていたあの朝の静寂を思い出します。
遠くに見える青い海も、風も光も、人を選り分けることなく、その場にあるものすべてを包んでいました。
人の祈りの形は一つではなく、土地の数だけ、家族の数だけある……その当たり前のことを、私はあのとき教えられた気がします。
だからでしょうか。
いま起きている議論の中に見え隠れする影……。
大きな言葉の背後で、遠くに押しやられてしまう小さな営み。
それがとても気になるのです。
それは、私自身のためというより、あの日見た風景のために。
海辺の墓地で見た洗骨の美しい光景は、いまも私に静かに語りかけています。
「誰もがいつか、この土地に、あるいは別の土地に、静かに還っていくのだ」と。
その道のりが、扉に閉ざされてしまうことがありませんように……と。




