拉致、要求①
かつて天才と呼ばれた少年がいた。
少年は成長し、国の頂へと至る。呼び名は天才から皇帝へと変わった。
そして少女は生まれる。
兄を恋しがる少女はその好奇心のままに国を動かし始める。
人々は少女の手腕を恐れ、鬼才と呼ぶようになった。
天才を超える天才だと。
『皇国紀 蒼ノ章』より
その日、アリアは皇宮を訪れていた。
国の事業として動かしている新型銃火器の売買についての報告を、兄アルベルトにしなければならなかったのだ。
アリアがほぼ勝手に始めた事業とはいえ、皇族が関わっている以上国への報告は義務であった。
「つっかれたぁ~。……報告なんて書面でいいでしょー」
「そう言わずに………兄君に元気なお顔でも見せると思って」
アリアの小さなぼやきを一歩後に続くアドワンがキャッチする。
「兄さんはそんなの求めてないでしょ」
「……皇女殿下」
「アリアって呼んで」
昔馴染みに畏まって呼ばれるのは嫌なのだ。気づけば口調も砕けていた。
「……では、アリア嬢」
兄の幼馴染であるこの男はそれでも自分を『アリア』とは呼ばない。既に諦めているが、線を引かれているようで地味に悲しくなる。
(兄さんのことは『アル』って呼ぶくせに)
先へと続く廊下から目を逸らすように庭園を見るアリア。その瞳に一本の木が目に留まった。
「あ……」
引き寄せられるように木に近づいていく。アドワンも後に続いた。
「この木、昔下りられなくなった木だ…」
幼い頃、木に登って下りられなくなったことがあった。なんてことないと思って足を置いた場所が想像以上に高かったのだ。
今では飛び降りられる高さだが、当時はそんなことも出来ずただただ泣いていた。
「結局、誰が助けてくれたんだっけ?……アモン?」
「アルですよ」
アリアはアドワンに視線を向ける。
「アルが泣いている貴方に手を伸ばして受け止めたんです」
「………………ふーん」
想定外の人物にアリアは言葉が出てこなかった。
「……………」
何か言わないと。言葉を探すが見つからない。
「…覚えてなくても無理はありません。幼い頃の話ですし、これといった関わりも無かった頃のことですから」
「………そういうのいらない」
アドワンの言葉を拒否するアリア。励ましが欲しい訳ではない。むしろいらない。
『仕方なかった』ことにはしたくないのだ。
「………帰る」
アリアは一言呟いて、廊下へと足を向ける。そのまま歩き出したが、後に続く気配がない。
「……アドワン?」
アリアは不思議に思い、振り返った。
そこには。
そこには、喉元に短剣を押し当てられたアドワンと、短剣を押し当てているエクター侯爵子息の姿があった。周囲には何人か見覚えのある騎士もいる。
「ごきげんよう、皇女殿下」
「……ご機嫌なのはそちらでは?」
「ふ、相変わらず手厳しい。………少しお付き合い願えますか?彼を失うのは大きな損失となるでしょう?」
「………………」
(オレは、見た)
見てしまった。只事ではない状況を目撃した。
(は、早く、知らせないとっ!)
入団して一年にも満たない騎士。高位の騎士でありながら、その未熟な気配を察知できなかった。
それが彼らの描く輝かしい未来への小さな汚点となった。
両腕を縛られ、目隠しをされ連れてこられたのは、窓のない薄暗い部屋。空気の冷たさからして地下室だろうか。
目隠しを外されたアリアは真っ先にアドワンの無事を確認する。少し離れたところで騎士に押さえられているアドワンは同じように両腕を縛られているものの、目立った傷は見当たらなかった。
「ふふふ、お付き合い頂きありがとうございます」
エクター侯爵子息が歪んだ笑みを浮かべる。
「……何が目的ですか?」
先に問いかけたのはアドワンだった。
「この度、皇弟殿下のお誘いを受けることに致しました。せっかくですから、『皇女殿下の失脚』なんてものを手土産にしようかと」
子息が恍惚とした表情で言う。それはそれは気持ちが悪い笑顔である。
「皇女殿下を裏切る、と」
「どうとでも受け取ってください。皇弟殿下は私を正当に評価してくださった。それだけです」
「こんなことしなくても、他に方法はあるでしょう」
「慈悲ですよ、慈悲」
「慈悲?」
声を揃えて聞き返すアリアとアドワン。
「はい。皇女殿下にはこれまでお世話になりました。なので、考えを改めていただく猶予を差し上げることにしたのです」
何を言っているのだろう。皇族と次期宰相候補に対してよくそんな口が利けるものだ。
「我々を軽んじていたことを謝罪していただきたい。そして正当な地位に置いてください。そうしていただければ、また皇女派として貴方様と共に歩んでも良いと思っています」
「私は正当な評価をしているつもりですが。あと、軽んじているのは貴方達の方でしょう」
アリアがため息交じりに答える。このような状況だというのに面倒くさそうだ。アリアは時折、人を選んでは挑発的な態度を取る癖があった。
「自分を軽んじる者を傍に置く必要性を私は感じないのですが」
その言葉に子息を始め、騎士達が息を飲んだ。アドワンを押さえる騎士の手の力が強くなる。
「…なるほど。考えを改めるつもりはない、ということですか?」
「考えを改めるのはそちらでしょう。仮にも皇族にこんな真似をしてただで済むとでも?」
頃合いを見てアドワンが口を開く。アリアだけにこの場を任せるのは危険だ。既に闘り合う気満々である。
(せめて私は事態の改善を図らないと)
「仮?仮って言った?」と小さくぼやいているアリアは放っておく。
「済むかもしれませんよ。貴女がたは助けを呼べない。よって護衛騎士もここには来られない。誰も知らないまま、時間だけが流れていくのです」
子息の方も考えを改めるつもりはないようだ。ここまで気が大きくなっているのはこの状況のせいだろうか。確かに目上の相手を見下している今の状況は、彼らの優越感が満ち溢れそうではあるが。
「ふふふふ。彼らがこのことを知ったらどんな顔をするでしょうか?………ああ、なんならここで既成事実でも作って、共に皇弟殿下の手助けでも致しますか?」
エクター侯爵子息の言葉に騎士達が湧く。どんな想像をしているのかは知りたくないが、そういうことだろう。
「死んだ方がマシ」
「でしたら、考えを改められるべきです。……なに、時間はたっぷりとあるのですから。………また今夜、お話ししましょう。良い返答を期待しています」
子息は優雅に礼をして出ていこうとする。その背中にアリアが言葉を投げた。
「その礼服はここで脱いでから行かれて下さい。裏切り者に着せるほど安くないので」
「はは。いや、着心地が良くて…。着納めです、着納め。もう一時、お借りしますね」
彼らが来ていたのはノワール騎士団の礼服である。当然ながら誰一人脱ぐことなく、アリアの言葉を笑いながら部屋を後にする。防音仕様なのか、扉が閉まると話し声が聞こえなくなった。
二人部屋に残され、一気に静まり返る室内。アドワンは壁に背中を預け息を吐く。アリアは明後日の方向を向いている。考えているのか、ただぼーっとしているのかは分からなかった。
二人で何かを話すこともなく、沈黙の時間だけが続いていた。