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白血病が教えてくれた「意外」なこと。

作者: えり

こんにちは、エリと申します。

私は2019年12月に


「急性リンパ性白血病」


を発症しました。

7ヶ月の入院と抗がん剤治療を終え現在は寛解しましたが、まだ「完治」には至っていません。

水泳の池江璃花子選手が急性リンパ性白血病を発症しニュースで報道されたのが、2019年2月のこと。


「え?白血病って?!なんてことだ…まだこんなに若いのに…絶対に良くなって欲しい!」


と願っていた同じ年の12月に、私も同じ病気を発症。

大学病院に緊急入院しました。

本書ではその時のエピソードと、病気が私に教えてくれた、とても「意外」な事があったので、伝えます。

「白血病」という病気に関わりのある方。

家族や大切な人が病気の方。

そして、小さなお子様を育てるママさん達にも、見て頂けたら嬉しいです。


【病気になる直前の生活】

当時の私は、電話対応の事務パートで働きながら、2歳と4歳の男の子を育てる主婦でした。

働くのが昔から好きで、仕事以外にも、予定を入れたり出かけたりするのも好きでした。

少しせっかちな性格で、じっとしている事が苦手というのもあって、下の子の時は、専業主婦生活に耐えきれず、1年間の育休を待たずに8ヶ月で復帰しました。


毎日パートが終わったら、急いでスーパーで買い物をしてから保育園に子供たちを迎えに行く。

バタバタと慌ただしい毎日でしたが、とても充実していると感じました。

仕事も楽しくて、明るく楽しい人たちに恵まれ、頼まれる仕事も増えたりしてやりがいを感じていました。


「今日も元気に仕事に行ける。毎日幸せだな。」


としみじみと感じながら車のハンドルを握っていた事も覚えています。


ただその頃にとても気がかりだった事がありました。

職場で営業の仕事に興味を持つようになり、思い切って営業課への異動を希望したいと相談しました。

上司からの返答は


「ぜひ挑戦して欲しい。であれば相談なんだけど、ちょうど今他のセンターで営業の欠員が出ていて困っていたんだけど、勤務地が変わっても大丈夫なら、是非来てくれないか」


というもので、私は家族にいっさい相談する事無く「はい」と返事をしました。

やりたい事にチャレンジさせて貰えるのなら、このチャンスを見逃したくないと思ったのと、夫に相談したら反対されてしまうかもと思ったから。その理由は、ただでさえ車で40分かかっていた職場が、異動となると更に遠く1時間近くかかる事になるからでした。


今より更に通勤に時間がかかったら、保育園のお迎え間に合うの?


夕食を作る時間なんて、あるの?


無理だよな…キツイよな…


返事をしたので異動がほぼ決まったものの、

毎日ふとした瞬間に訪れる


「どうしよう…どうしよう?」


という不安。その不安を


「何とかなる。何とかさせよう。」


という言葉で乗り切ろうとしていました。

それでも、新しい職場で新しい仕事をさせて貰える事に毎日ワクワクしていた私は

「もっと綺麗になって仕事をバリバリこなしたい!」という思いから、ダイエットのサプリメントや、ネットで話題のコスメ、通勤で着る服などを、欲しいままに買い漁っていました。

ある日、支払い後の預金通帳を見ながら、こう思ったのを覚えています。


(あぁ、私って…一家の金食い虫かも…家族の為に働いていたハズが、いつからか自分が欲しい物だけ買っている)


罪悪感という言葉とはまた違くて、この頃はこんな自分がすごく嫌で

「こんな私、居なくなればいいのに…」

という感情があったのを覚えています。


【初期症状】

だいぶ肌寒くなって来た11月の下旬。

この頃から「動悸」の症状が気になる様になりました。

朝、目が覚めて布団から起き上がり、寝室を出てすぐ右手にあるトイレに入って、ズボンとショーツを下ろして便器に腰掛ける。

この動作だけで、用を足している間ずっと、心臓が飛び出しそうになるくらいバクバクしていました。

現在の自分であれば、その日のうちに病院を受診しているかも知れないけど、当時の私は

「何だコレ…?」

と思うだけでした。


職場の事務所は2階なのですが、ゆっくり一歩ずつ上がっているのに、踊り場の時点で息切れがすごい…。何とか登りきって事務所へ入り「おはようございます!」と元気に挨拶をしてデスクに座るも、隣の席の社員さんから「ちょっとどうしたの?階段駆け上がって来たでしょー?」と言われて「えへへ…」とごまかしました。

それをきっかけに、朝は階段を上がってすぐ横のトイレに駆け込んで、しばらく呼吸を整えてから事務所へ入っていました。

今思うと、どうしてあの頃の私は、身体の不調を必死に「隠そう」としていたのだろう…。

症状は日に日に酷くなって、朝子供の服を着替えさせるだけで、その場に崩れる様に倒れ込んでいました。


「何だコレ…?いや、ホントに。」


でも、気にしていられない。

すぐに自分も着替えて車のエンジンをかけて保育園バッグを積み込まなきゃ、仕事に遅れちゃう。

今週末は子供達のお遊戯会!体調に気を付けて、元気な姿で参加させなければ。


【初期症状2】

いつからか動悸の他にも、頭痛、めまい、耳鳴り、不正出血の症状も出て来ました。

もともと頭痛持ちだから…と思っていたけど、気付けば毎日数時間置きに頭痛薬を飲んでいる。

そして耳を澄ますと常に「ピー!」という耳鳴りがして気になりました。

職場で、重たい荷物を持って階段を登っている社員さんが居たので片方持って手伝うと、信じられない程の息切れが…。

「えっ、大丈夫?!」と言われてしまったり。

後から思い起こすと、そう言えばこんな事もあったなというのが、仕事で社員さんと話している時に

「あらココどうしたの?ぶつけたん?」 

見ると右手の甲に、大きなアザが出来ていました。

そんな日々の中、いよいよお遊戯会!という時期になりました。

リハーサルもすごく頑張ったし、毎日練習して来た成果を見届けなくちゃ。たくさん写真を撮るぞ!

あとちょっとだけ、頑張らなくちゃ…。


【病院受診】

大イベントだったお遊戯会は、土曜日に無事終わりました。日曜日を挟んで、さあまた今日から仕事だ!という月曜日の早朝、私は

「…死にたい!」

という自分の声で目が覚めました。

「えっ…?」

となりました。

嫌な夢を見ていたのだろうか?でも、全く記憶にありません。

(死にたい…?)

(何だったんだろう?)

今日は、仕事帰りに内科へ行こう。

やっとこ、病院を受診する決心がつき、夫の母に保育園のお迎えをお願いしてありました。


そろそろ仕事が終わるという時に夫の母から電話が。

「ごめん!風邪引いちゃったみたいで熱が出ちゃったの。今日のお迎え行けそうにないわ。」

電話を切って

(じゃあ、また今度にするか…)と思った瞬間。


(今日じゃなきゃダメだ!!)


と、心の中のもう一人の自分が叫びました。

《言葉が心の中で鳴り響いた》様な感覚でした。

今日じゃなきゃダメ、今日行こう。

保育園に子供たちを迎えに行き、ゼェゼェと息切れをさせながら、2歳のと4歳の手を引いて内科へ急ぎました。

症状を伝えると先生は

「…ちょっといーい?」

と言って、私の両眼の下を親指で伸ばしました。

「貧血ですね。かなりひどい。」

「貧血!?」

(なんだ、貧血だったのか!通りでこんなにフラフラするわけだ!)

貧血と言われたのは人生で初めてでした。今日は、マグロとかひじきでも買って帰ろうかな…

なんて考えていたら。

「普通の貧血ではないかも知れません。」

「え?」

「…動悸の他に、何か症状はありますか?」

「はい。頭痛とめまいと耳鳴りと…それとあとは…何か不正出血が続いているので、明日婦人科へ行こうと思っています。」

「明日?いつ行く?朝?」

「いや、どうしよう?仕事のあと…?」

「朝行って下さい!今から血液検査をして、明日の朝には何とか間に合うように結果を出しますから、その結果を持って婦人科の先生に診てもらって下さい。明日の朝、またこちらへ来て下さいね。」

「はい…分かりました。」

と答えたものの心の中では


(何…?)


と、動悸とは違う胸騒ぎがしました。


【翌日】

仕事は休んで、言われた通り前日受診した内科へ行くと、受付後、待合室の椅子に座る前に呼ばれました。


「血液検査の結果ですが、やはり重度の貧血を起こしています。今あなたの体内には、血液が、通常の3分の1しかありません。」


「え?…3分の1?」

「この貧血の原因が、不正出血によるものかどうかを、すぐに婦人科で診てもらって下さい。コレ(結果の用紙)渡してね!そしてもし原因が違った場合は、すぐに大きな病院に行った方がいいです。」

不正出血は、大した量ではありませんでした。

それを自分で分かっていたのと、目の前の先生も

「おそらく違う…」という表情でした。

私は、感情が追いつかないまま婦人科へ急ぎました。

車に乗ってエンジンをかける前に、渡された血液検査の結果を眺めると、ヘモグロビンの数値が、わずか【4】で、真っ赤なラインが引いてありました。


【婦人科】

婦人科は、下の子を産んだ病院にしました。

サバサバした女の先生で、声とテンションが低めで無表情だけど、色々と親身になってアドバイスをしてくれたり、ハロウィンの日には、顔を真っ赤にして“魔女“の仮装をしながら診察に来たり。そういうところが、個人的には好きな先生でした。

診察室に入るなり、先生は目を見開きながら

「ヤバイっすねコレ!!」

と言いながら私を見ました。

(医者が「ヤバイ」とか言うんだ…)

と、思わず苦笑いしましたが、すぐに、事の重大さを感じました。

婦人科の診察をするため台に乗りましたが「だよね、だよね」という感じですぐに降ろされました。

「貧血の原因は不正出血では無いでしょう。他に何か原因があって不正出血が起きているのだと思います。私、今から大急ぎで紹介状を書くので、市民病院へ行って下さい……いや行って下さいって言うか、救急車呼びましょうか?っていうか今日はいったいどうやってここまで来たの!?」

先生は興奮していました。

「え、どうやってって、車で運転して来ました。」

「マジ?!1人でですか?…いいや、まずは待合室で待っていて下さい。私、すぐ行くから!横になっててもいいからね!」 

横にはならず座って待つと、先生は本当にすぐ来ました。紹介状を渡されて、病院へ行ったらまずやる事を説明されました。

理解が追いついてなさそうな私を見て、先生は少し間を置いてから

「…ていうか、どうしてこんな状態になるまで病院へ行かなかったんですか?今日まで何してたの?」

「何って、仕事休めなかったりとか…」

「仕事なんてしてる場合じゃないです。あなたはおそらく、大変な病気です!ママ、あなた頑張りすぎだから!」


(頑張りすぎ…)


そう言われたら、大粒の涙が大量にこぼれました。

「どうする?救急車呼びますか?」

「…いえ、1人で行けます。」

頑なに車で行こうとする私に、さすがに先生もちょっと呆れた表情で

「じゃあ行って!ゆっくりでいいから、本当に気をつけるんだよ!」

と言って、私の背中をさする様に送り出しました。


【市民病院】

受け付けで紹介状を渡して待っていると、こちらでも「横になりますか?」と看護師さんから声をかけられました。

座っていれば何とか大丈夫なのと、夫と母に電話をかけたかったので「大丈夫です。」と答えました。

電話をかけた理由は、最後に婦人科の先生が


「たぶん入院だからね!」


と言ったからです。

夫も母親も「ちょっと時間はかかるけど、今から向かうよ!」と言ってくれました。


午後、夫と母が病院に駆け付けた頃、もう私は1人では立つ事は出来なくなっており、ストレッチャーの上で横たわっていました。

ただでさえ酷い貧血な上に、更にもう一度血液検査をして、その他にも胸部レントゲンに腹部レントゲンなど、色々な検査を終えた後で、さすがに目を開けているのもしんどい状態でした。

不安でいっぱいの私に、看護師さんたちが気遣う様に近くで会話をしてくれています。

「ヘモグロビン、私は12だよ。」

「私15〜。」

「多いねー!」

「…ふふふ。」

通常なら12〜15あるはずのヘモグロビンが【4】って、どういう事なんだろう?

夫と母の到着を待っていた様に、先生が来て説明を始めました。


「大変な中たくさんの検査をしちゃって申し訳無かったですね。重度貧血の原因が、内臓出血に寄るものではないかどうかを調べていました。検査の結果出血等は見られませんでしたので、そうなると考えられる原因は、今、エリさんの体の中では血液自体を作る事が出来なくなっているという事、おそらく“血液の病気”です。うちには血液内科がありませんので、今すぐ血液内科がある大学病院へ行って下さい。」


いつからか涙が流れていて、貰ったティッシュはボロボロに丸まっていました。

ここで先生が


「それか…今日の所はひと晩だけ、お家に帰りますか?」


と聞きました。

「ハッ!」とする、私と夫と母。

「帰ってもいいんですか?帰ります。今日は帰る!」

子供達の顔が思い浮かんでまた涙が出ました。

今考えると、もうこのまま家に帰る事が出来なくなるかも知れないので、最後に子供に会った方が…という病院の考えがあったのでは?と思います。

抱えられる様にして病院を出る時、看護師さん達から

「いーい?あっちの病院へ行ったら、どんな事も我慢しないで、何でも先生や看護師さんに相談するのよ!我慢ダメだよ!」

「あ、はい…。」

(どうしてそんな事、言うんだろう?)

と思いながらも、もう頭は子供達に会う事でいっぱいでした。


【最後の夜】

その日の夜はいつもと変わらない時間が流れました。

当時は、狭いアパートに家族4人で暮らしていました。

マイホームには憧れましたが、全然お金が無いし、このアパートは中央のしきりを開けるとリビングがゆったりとしていて、小さいけどベランダとお庭があって子供達と遊べたので、私はこの家がとても好きでした。

テレビでアンパンマンを見る長男にスマホを向けると、こちらに気付いておどけた表情をしたので、パシャパシャと連写しました。

次男は、まだ発語が無く会話は出来ませんでした。

(後に次男は、自閉症と知的障害がある事が分かりました。)

2人の兄弟はとても仲が良く、一緒にアニメを見たり、追いかけっこをして遊ぶ姿を、私はコタツで頬杖をつきながら、穏やかな気持ちで延々と眺めました。


翌朝、夫が子供達を保育園へ連れて行きました。

玄関で1人ずつ“ギュッ”と抱きしめてから「行ってらっしゃ〜い!」と笑顔で手を振りましたが、どうしても涙が出て来てしまいました。

見送った後は間もなくして、母が来てくれました。

タオル、着替え、下着、スリッパ、携帯の充電器…何日か入院する事を想定した荷物を念の為積み込んでもらい、家を出ました。

涙はもう止まっていて

「さあ、行こう。」という気持ちでした。


【大学病院】

入院病棟の待合室で母とテレビを観ていると、主治医の先生と男性の看護師さんが挨拶に来て、近くの面談室に通されました。

面談室は、パソコンと机があるだけのシンプルな部屋で、主治医の先生と看護師さん、さっきは居なかった若い女性の看護師さんに、私と母。

簡単な挨拶が終わると、すぐに主治医の先生が話し始めました。

「色々な検査をさせてもらって、まずこの病気で間違いないというのが“急性白血病”です。」

私も母も

「あっ…」

と呟いたまま、言葉を失いました。

「もしこのまま病院を受診せず生活をしていたら、1カ月ほどの命だったでしょう。今日から入院して頂きます。」

「……。」

よく、癌などの重い病気を宣告された人の話を聞くと

「頭が真っ白に…」とか「どうして私が?!」

という感じだと思うのですが、私はこの時、ショックな気持ちはもちろんですが、その奥底にひとこと

「休める…」という言葉が浮かびました。

ここ最近、正直言うと、死ぬほど辛かった。 

それが本当に死ぬ手前だったなんて。そして“今”も。

(そうだったんだ…)という安心感の様なものと

(今の生活から“苦しみ”から、離れられるんだ)


(自分を「止められる…」)


充分幸せだったはずなのに、こういった感情もあったのを覚えています。

説明は淡々と続きました。

私は時々、横目で母の顔を見ていました。

母は、私を産んだのをきっかけに血圧が高くなってしまい、長年血圧を下げる薬を飲んでいます。

興奮したりショックな事があると更に上がってしまうそうなので、倒れてしまうんじゃないかと心配でしたが、静かに先生の顔を真っ直ぐ見つめていて、冷静そうに見えました。

母の心配をしていたら自分がクラクラして来てしまって、先生に向かって軽く手を挙げ

「あの……ちょっと水を飲んでもいいですか?」

と言いました。

「ああどうぞどうぞ!…というか凄いですね。この病気の告知を受けて、こんなに冷静に話を聞ける方はなかなか居ないですよ。」

看護師さん達も、ほとんど吐息を吐く様な声で

「すごい…」と言っていました。

突然褒められたので思わず表情が緩んで、背筋を伸ばしながら母の方を見ると、母は少し苦しそうに微笑んでいました。

リュックからペットボトルの水を取り出して一口、もう一口だけ飲んだらキャップを閉めて

「大丈夫です。」と言いました。

その後は

急性骨髄性白血病と、リンパ性白血病のどちらの型なのかを調べる検査をする事。

抗がん剤治療をする事。

副作用の説明。ほとんどの人が、全ての髪の毛が抜けてしまうということ。

あくまでも一番順調に行った場合、入院期間は7ヶ月ということ。

血球が下がれば、一時帰宅が出来るという事。

過去のデータから治る確率は“50%”という事…。

私はこの時突然…


「大丈夫です。私頑張ります。頑張ってやりますよ!白血病が何ですか!抗がん剤治療なんてへっちゃらです!あっという間に良くなって、元気に退院してみせるので、よろしくお願いします!!」


と言いたい気持ちが湧き上がって来ました。

(実際には言っていません)

もう喉元までこの言葉が出かけましたが、急に恥ずかしくなって、変にハイになったテンションを抑えながら「よろしくお願いします。」とだけ言いました。

後から聞いた話で、よく病気を宣告された人が、同席した家族を気遣う気持ち等から、ハイテンションになったり元気なフリをしてしまう事があるそうです。

そして最後に先生が

「それから、この病棟は12歳以下の子供は立ち入り禁止です。なので大変申し訳ないのですが、入院治療中、お子様たちには会えません。ごめんなさい。」


「っっ!?」


これには、突然雷に打たれた様な衝撃が全身に走って、声を上げて泣き崩れてしまいました。

先生は

「あ〜…ここでしたか。そうだよね。そうだよね。」

〝あなたの一番辛いポイントは、ここでしたか〟

という意味で言っている感じでした。

今朝見送ったばかりの子供達に、次はいつ会えるか全く分からないということ…毎日当たり前のように保育園に迎えに行っていた日々が、突然“夢”になってしまった気持ちでした。

説明が全て終わった後も、私は車椅子で病室に運ばれる時まで泣いていました。

病室は「クリーンルーム」と呼ばれる個室でした。

先生が「〝セカチュウ〟って見ました?ドラマの…。長澤まさみが無菌室に居たけど、今あんなんじゃないから!普通の部屋だし、普通にテレビ見たりスマホ使ったり出来るからね。」と説明していたけど、言っていた通り普通の部屋でした。

ただ普通じゃない所が、入り口が二重扉な所と、患者以外の人が入室している間は、ずっと換気扇を付けていなければいけないルールで、この「ボーッ!」という換気扇の音が、地味にうるさくて、ちょっとストレスを感じました。

しかしそれよりも過酷なのが、入院中はこの部屋から“一歩も”出ては行けないということ。

飲み物を買いに自販機へ行く事もしてはいけなくて、全てナースコールで看護師さんに頼まなければいけないそうです。それを知った母が近くの自販機で、病室の冷蔵庫を埋め尽くすくらいの量のお水を買って来てくれました。

母は意外と元気そうで

「あら〜、割と広い部屋じゃん!」

と言って部屋中を見渡しながら荷物を置きました。

「そうだね。」

窓から見える景色で一番目立っていたのは、ボーリング場のでっかいピンの看板でした。


今日から私は、ここから見える景色ただひとつしか見る事が出来ない…。


こうして私は、2019年12月13日、〝急性白血病〟と診断され入院しました。


【入院初夜】

入院初夜は、言葉通り、一睡も出来ませんでした。

「死ぬこと」へのただならぬ恐怖と、子供達に会いたい寂しさ、悲しさ、悔しさで、トイレに行く時、窓の外の景色を見るとき、テレビを観ている時、ふとした時に突然恐怖と悲しみが押し寄せて来て、前回の涙が乾く前にまた泣く事の繰り返しでした。

「治療、頑張ろう!」という話をみんなでしたばかりなのに「死ぬんだ…」という事しか考えられず。


自分の身体に起きている事、白血病という病気についてもっと知らなければ…と、スマホで「白血病」と検索するのですが、関連に出て来る

(死亡率)

(寿命)

という言葉が恐ろしすぎて、もうそれだけでめまいがしてしまい、調べる事が出来ませんでした。


「幸せな人生だったな…可愛い子供達にも恵まれて」

と考えては

「あの子達は今何をしているだろう?」

「このまま私が死んだら、あの子達は私のことなんてすっかり忘れて大人になっていってしまうのか…」という事を考えてはまた涙を流す…。


涙が止まらない理由は、子供達に会いたい、という気持ちと、もう半分は、自分が「いい母親」になってあげられなかった事への後悔の念からの涙でした。

静かなクリーンルームのベッドの上で、ボーッと、ここ最近の自分の生活のことを考えていました。


毎朝起きたら、洗濯物を干してお弁当を作って、ゴミ出しをして化粧をして…保育園の連絡帳に、実際はまだ食べていない朝食のメニューと、測っていない体温を書く…バタバタと準備をし、なかなか起きてこない長男にイライラ…前日スーパーで買っておいたパンを出すもなかなか食べ始めない様子にまたイライラして

「ほら早く食べなさい!」と怒鳴る。 

当時はテレビで子供達の大好きな「おじゃる丸」がやっていたけど、2つ目のお話が終わる頃には出かける時間になるので「まだ見たいよ。」という長男の声を無視してテレビを消していた。

保育園では、先生に子供を預ける保護者の列が出来ている…我が子の様子を長々と話す前列の保護者にまたイライラ…やっと番が来ると

「今日も変わりないです。よろしくお願いします!」と言って仕事に急ぐ…手を振る長男に、ちゃんと目を見て、笑顔で手を振り返してあげていただろうか?

仕事が終わると急いで保育園へお迎え。校庭を出る時に「ママー、あの子達滑り台してる。僕も1回だけやっていい?」と言う長男に「ダメ!時間ないから帰ろう!」と言って足早に帰っていた。


…1回くらい、滑らせてあげれば良かった。

夕食のおかずも、もっと、手の込んだ美味しいものをたくさん作ってあげれば良かった。


どうしてあんなに、余裕がなかったんだろう?


今日一日の出来事を、お風呂の中でたっぷり聞いて…夜は子供たちが眠るまで絵本を読み聞かせ、朝は早起きして朝ごはんを作る…いつも笑顔の、明るくて優しいママになりたかった!


今すぐ帰ってご飯を作ってあげたい…

お風呂で身体を洗ってあげたい…

同じ布団でくっついて寝たい…

新しい服やおもちゃを買ってあげたい…

一緒に公園へ行きたい…


全部、出来なくなってしまった。

辛いことがあって泣いた夜は今までにたくさんあったけど、こんなにも、夜が明けるまで泣き続けた夜は初めてでした。


【親友】

検査の結果私は「急性リンパ性白血病」という事が分かりました。

そしてリンパ性白血病の中でも「フィラデルフィア染色体」が陽性か陰性かの検査をし、陰性でした。

「9番染色体と、22番染色体が入れ替わってしまう事です」と説明され「はぁ。」という返事しか出来ませんでした。

初日に比べると少し精神的に安定した私は、少しづつ周りの人たちに連絡する事にしました。

職場で仲良くしてくれる社員さんたち、ランチに行こうと約束していたママ友…そして私には“親友”と思っている人が3人居ました。

Nちゃん、Hちゃん、Мちゃん。

それぞれ千葉、大阪、奈良と遠い県外に住んでいて、ここ5年ほど会っていませんでした。

私を含めた4人のグループラインを開くと、前回のやりとりは数ヶ月前で「ちょっとみんなテレビ観てる?〇チャンにしてみて!」みたいな会話でした。

「ひさしぶり!」の言葉から始まり、私は3人にメッセージを送りました。

急性リンパ性白血病という病気になってしまった事。

抗がん剤治療のため入院している事。そして

「1人じゃ乗り越えられないから、助けて欲しい。

仕事の愚痴でも子供の写真でも、何でもいいから何気ない会話をラインでやりとりしたい。今のみんなが知りたい。時間がある時でいいから、連絡して欲しい。」

という内容のメッセージと一緒に、病室で撮った自分の写真を送りました。

疲れてしまいベッドの上で目を閉じていると、間もなくして返信がありました。まずはHちゃん。


「ちょっと!ホンマか?今ライン読んでパニックなんやけど、エリちゃん大丈夫なんか?!

うち今仕事の休憩中やねん、ホンマビックリして…ウチは元気やで。ウチも自撮りしてんけど、めっちゃ目充血してない?この充血マジでヤバない?!こんな時に、こんなメッセージでごめん。でも、すぐに返信せな思うてな!」


というメッセージと一緒に、本当にバッキバキに目が充血した仕事着の自撮りを送って来てくれました。

クリーンルームで1人、声を上げて笑いました。

しばらくすると次はNちゃんから。


「本当にビックリしたよ。まだ、動悸が治まらない。病気め…寄りによって、どうしてエリちゃんなの!あのさ、私エリちゃんに会いに行く!新幹線に乗って会いに行くよ!面会OKなら仕事を休んでそっちに行こうと思うんだけど、今病院ってお見舞とか行って大丈夫?!大変な中ごめんなんだけど、すぐ確認して!」


Nちゃんからは「病気め…!」と言っている様な、眉間にシワを寄せて拳を握る自撮りが届きました。


心の中で、何かが解きほぐれて行くような安心感が生まれました。何とも彼女たちらしいメッセージ。この人たちが友達で、本当に良かった…。

彼女たちとは、以前同じ職場で働いていました。

喜びも苦しみも分かち合って、4人で居たらいつだって楽しかった。同じアパートで過ごした、かけがえのない日々を思い出していました。

2時間ほど経ってから、最後はМちゃんからもメッセージが。


「ごめん。私もうだいぶ前にメッセージには気付いてたんやけど……ショックでショックで、どうして良いか分からんくて…何て言葉をかけたら良いか、ずっと1人でメソメソしてたんよ。返信遅れてごめん。でも2人見てたら、それじゃ何も伝わらんと思って……ウチも元気やで!子供大きくなったよ!あと、家族が“1匹”増えました。」


というメッセージと一緒に、子供達と穏やかに微笑むМちゃんの写真と、犬、猫、ミニブタ、最近飼い始めたというトカゲの写真が送られて来ました。

入院してから、こんなに笑顔になれたのは初めてでした。それでも「そうだよね。ビックリさせて、悲しませてしまって、ごめん!」という気持ちも。

Nちゃんには、今はインフルエンザが流行している関係で、面会は家族のみという事を伝えました。

そしてこのあと“コロナウイルス感染症”の大流行が始まり、入院期間中は、家族以外の人とはいっさい会う事が出来ませんでした。

この日を境に彼女たちは、朝は「おはよう!」

から始まり、仕事で起きた出来事や子供達の話…Nちゃんからは「カエルの壁ドン」という題名で、飼っているカエルが本当に壁ドンしている写真が送られて来て大爆笑したりと、毎日毎日、本当に色々な話題で楽しませてくれました。

「今日の治療スケジュールと体調を報告せよ!」とメッセージが来て、辛い検査がこのあと控えていて、怖い…と送ると

「頑張れ!深呼吸大事だよ!無事に終わりますように…今、犬の散歩中。元気玉送るわ!」というメッセージとともに、太陽の下に手のひらを当てている写真を送ってきてくれたり…。

全力で寄り添ってくれました。

それ以降私は、辛い日は窓際に立ち、太陽の下に手のひらを当てて“元気玉”を作って乗り越えました。


【輸血】

抗がん剤治療のスケジュールが決まるでに1週間以上かかっていて、まず先に「輸血」から始める事になりました。

人生初の輸血は、不安で、恐怖で、真っ赤な血液の入った点滴パックが運ばれて来たのを見たら「うっ」という気持ち悪さがありました。看護師さんに

「ココに袋とか被せて見えないようにしてる人も居るんだけど、被せます?」と聞かれて

「…大丈夫です。」と答えました。

輸血が終了して数時間…体力が明らかに回復するのを感じました。そしてある日看護師さんが

「今日はね〜、神奈川県の方ですよー!」と言いながら輸血パックを運んで来ました。

「神奈川県の方…」

ただの血じゃないんだ、命を助けてもらってるんだ…

「神奈川県の方」という言葉を聞いてからは

「ありがとう」という気持ちで輸血を受ける事が出来ました。それ以降、輸血は私にとってまさに「元気玉」となりました。


ある日の輸血の日、ちょうど点滴がスタートした頃に、母が面会に来ました。

今始まったところなんだ、という話をしている時に

「ところでエリちゃん、おでこん所どうしたの?ニキビ?」

と母が目をまん丸くして聞いてきました。

「え?どれ?」

ベッドから起き上がり鏡を見るふと、おでこに大きな発疹がひとつ出来ていました。

「えー!こんなの無かったけど…」

と言う間に、何だか左目の上あたりもぷくっと腫れて来ました。そして見る見るうちに全身に発疹が。

「あっ…アレルギー反応!」

急いでナースコールを押すと看護師さんが来てくれて、輸血をストップしてくれました。

しばらく休んでいると、また看護師さんが来て

「わーすごい!発疹キレイに消えていますね!良かった〜。」

私も安堵の表情で

「はい。もう大丈夫です。」

と言うと

「そうですね。じゃ、輸血再開しまーす!」

「えっ!?!?」

声が裏返りました。

輸血に使う血液は、“なまもの”なので使用期間が24時間という事。数に限りのある“大切ないのちのもと”なので、無駄にしてはいけないという事。

アレルギー反応が出てしまったらその都度中断して、反応が消えたらまた輸血が終わるまで続けます、と言われて、早々に点滴が再開しました。

「両手と両足の袖をまくって、近くに手鏡を置いて、常に顔や身体に発疹が出ていないかを見ていて下さい。出てきたら、すぐにナースコールね!」

アレルギーが出ると分かっている血液が自分の体内に入って行く事に、とてつもない恐怖を感じました。

その後は「…何か、左うで痒いかも?」と見つめていると、見る見るうちに発疹になり、ナースコール。

消えたら即再開…目元が痒くなりナースコール。再開…の繰り返し。

そして輸血の後半で私は、なんだかすごく不愉快な気分と言ったらいいか、看護師さんにイライラしたり、暴言を吐きたくなる衝動にかられたり

“気性が荒くなる?”感覚がありました。


“この方とは、合わないんだ…”


と思いました。

退院後にネットなどで調べると、輸血で性格等が変わる報告は無いとありますが、これは経験した人にしか分からない感覚ですが、私は、人付き合いには“合う、合わない”があるのと同じ様に、輸血でも、性格が合わない人とはアレルギー反応を起こすのでは…?なんて事を考えました。

まだ数日しか経っていない闘病生活でしたが、初めて「治療の過酷」さを感じたのがこの日でした。

はじめは、輸血同意書(アレルギー反応のリスク、AIDSなど感染症のリスク、ごくまれに、死んでしまうリスク、これらを承知した上で、輸血を受ける事に同意する書類)を震えた手で記入していましたが、

それ以降輸血の日は、アレルギー反応の恐怖に怯えながらも、両手両足をまくり、手鏡を握って

「ふぅー…。よし!」と気合を入れて点滴を眺める、たくましい自分になって行きました。


【抗がん剤】

抗がん剤治療は“クリスマスイブ”からスタートしました。本当なら、家族でパーティーをしていたハズの日…看護師さんに「来年は家族みんなで過ごせますよ!」と言われて(来年なんて、生きてるかわからないじゃない)と思いながら「はい。」と答えました。


主治医の先生が

「抗がん剤って聞くとドラマで“うっ…”とかやるから、年中吐いてるイメージだと思うけど、ハッキリ言って、一日中ゲーゲーやってる人なんて居ません!今は“吐き気止めの点滴”を打ってからやるからね〜。それでも気持ち悪くなっちゃったら、吐き気止めの飲み薬もあるよ!」

と、説明していました。

それでもやっぱりゲーゲーは始まってしまいました。

私は(抗がん剤治療なんだから、全く気分が悪くならない訳が無い…この位は我慢しなきゃ!)と思い

部屋の備え付けのトイレでうずくまっていると、よく担当になるテンションの低めな看護師さんが来ました。

「トイレ中?失礼しました。体温測れたかなと思って。体調大丈夫です?」

「はい、ちょっと今吐いちゃったけど、落ち着きました。」と答えると、すぐに

「え?!吐いちゃったの?カーテン開けますよ!…そうだったんだー辛かったね!今、先生に伝えて来ますね!吐き気止めの薬、きっと出してくれるよ!ちょっと楽になると思いますからね!」

と言って、背中を優しくさすってくれました。

(この人…こんな事言ってくれるんだ!)

と思ったと同時に、市民病院の看護師さんたちの言葉が蘇りました。

(何でもすぐ相談するのよ!我慢ダメだよ!)

抗がん剤の副作用はその他にも

頭痛・発熱・倦怠感(ひどい時は、自分が生きているか死んでいるか分からないくらい意識がボーッとする)・便秘・膀胱炎・口内炎(対策で、1日に何度も氷を舐めるという処置をするも、酷くなってしまう)・飛蚊症・手足の痺れ・ムーンフェイス・顔の火照り

などがありました。

数え切れない程の副作用が起きるけど、同じ症状が何日も続くわけじゃなく、頭痛が辛くて相談すると薬が貰えて良くなり、良くなった頃には顔の火照りが酷くなって、相談するとアイスノンを持ってきて貰って楽になる…。

次々と起こる副作用は辛いけど、その都度相談すると、すぐに対応してくれて、ちょっとでも楽になる方法を考えてくれる…(何でもすぐ相談するのよ!)というのは、こういう事だったのかな。

しかし、一番の副作用は「血球の減少」でした。

抗がん剤後は、ベッドから降りて何歩か歩くだけで息切れがしたり、シャワーの時は、身体を洗い終わるまで体力が持たずに、全身ビショビショのままベッドへ逃げ込んでいました。

バスタオルにくるまって5分程休むと少し呼吸が治まり、髪の毛を拭いては5分休む、ドライヤーをかけたら5分休む、下着を着たら5分休む…。

こんな事は人生で初めての経験で

「このまま死んでしまうかも知れない不安」というのが、毎日ありました。


【脱毛】

初めての抗がん剤からだいたい1週間程で「脱毛」が始まりました。

入院してからすぐに、Nちゃんから贈り物が届いて、開けると、とても可愛いニット帽でした。

「洗い替えで3つ送ったから、その日の気分で使い分けてね!」

それぞれの帽子を一つずつ被った写真をラインで共有して、これが一番似合うとか、私はこの色も好きとかメッセージをくれて…彼女たちは、苦しみと恐怖しか無かった抗がん剤治療に「楽しみ」を与えてくれました。

当時の私はショートカットだったのですが

「髪の毛って…こんなにあったんだ」

というくらい、一時期はクリーンルームの床が真っ黒になりました。

自分で掃除をする体力(血球)が無いので、ナースコールで看護師さんを呼び、掃除をしてもらいます。

髪の毛だらけの部屋を掃除してもらう光景をただ見つめているのは、虚しくて恥ずかしい気持ちになりました。「…スミマセン。」と看護師さんに言うと、「大丈夫ですよ〜!はい終わり!お待たせしました〜!」

と言って颯爽と部屋を出て行きました。

髪の毛が抜ける時は、痛くも苦しくもありません。

辛い副作用に比べたら、脱毛なんて全然…

と始まる前まで思っていたのですが、髪の毛の無い、もちろん顔もすっぴんの状態で、夜ひとりクリーンルームの鏡の前に立つと

「……ああぁ…。」という言葉が漏れました。

毎日しっかりお化粧をして、髪の毛をセットして、綺麗な服を着て、出掛ける。

美人とは言えないけれど、以前の自分がとても輝いていた様に思えて、でも、そんな自分はもう居ない。

髪の毛の無い化粧もいっさいしていない自分の顔を見つめていたら、ふと産まれた時の姿に戻った様な気持ちになり、何故か同時に「死」を感じました。


(私はこのままどうなってゆくのだろう?)


と、心底悲しくて涙が出ました。


【姉】

私には、5歳年の離れた姉が居ます。

姉も結婚していて子供がおり、住まいも近いため、よく土日はお出かけをしたりお互い子供を遊ばせたり、頻繁に行き合っていました。

私が病気になってからの姉は、毎回下着やバスタオルを洗濯して届けに来てくれたり「体調はどお?」という電話も、毎日かけてくれました。

毎週土日には、母を車に乗せて2人で面会にも来てくれました。

子供たち2人を公園に連れて行ってくれて、仲良く遊ぶ姿を動画に撮って送ってくれたりもしました。


「太一(私の長男)に、手紙とか折り紙とか、作ってあげたいんじゃない?」


と、レターセットと筆記用具、のりハサミ、可愛い柄の折り紙、そして「机が散らかってるの、嫌でしょ?」と言って、それらをまとめる仕切りやケースまで買ってきてくれました。さすが、お姉ちゃん!

学校の先生をしている姉らしい行動でしたが、今まさに私がやりたかった事を叶えてくれました。

仕事で忙しいはずなのに、見えない所で私のために、走り回ってくれている…。

しかしある日、姉と電話で話しているとこんな話をして来ました。


「最近さ…仕事ちょっと休んだりしてるんだよね。」

と、精神的に不安定なこと、夜あまり眠れていないこと、病院を受診したところ“適応障害”と診断された事などを、話してくれました。


(まったく知らなかったし、気付かなかった…)


不調は、私が入院する前から始まっていて、ずっと悩んでいたと言います。

入院前に姉と会った時、私は何をしていただろう?

子供達の面倒に夢中で話をちゃんと聞いていなかったり、自分や子供達の話ばかりしていたかも知れない。

(お姉ちゃんはこの話…私が入院せず元気に過ごしていたら、打ち明けてくれていただろうか?)

という事を考えていました。


【Aちゃん】

別の日、入院前にランチに行く予定だった友人のAちゃんと、ラインでやりとりをしていました。

Aちゃんとは年賀状を毎年出し合っていて、毎年「今年もランチ会しようね〜!」というようなメッセージが書いてあるのですが、今年は年賀状を出す前に病気の事を知った様で「えりちゃん、大好きだよ!」と、ひとこと書いてあり、病室でそれを読んだ時は涙がこぼれました。

そんなAちゃんからのラインで…


「実は今、仕事辞めようかなって悩んでるんだよね。」


「…うそ!?」

私の中のAちゃんは、仕事も家事も卒無くこなして、かしこく生活しているしっかり者のイメージがありました。

学生時代に同じ場所でアルバイトをした経験もあって、仕事が出来るAちゃんが、いつも羨ましかった。

「エリちゃんの方が大変なのに、こんな話しちゃってごめんね。何か、つい話しちゃった。」

私は、嬉しかったです。

Aちゃんに関しても、全く同じでした。

お互い同じくらいの年齢の子供が居るので、子供達を連れてランチへ行って、子供の話や自分の話、くだらない笑い話をして毎回楽しかったけど、

「Aちゃんは、最近どう?」と、ゆっくりAちゃんの話を聞いた事があっただろうか?


【Kさん】

血球が少しづつ上がって調子の良い時期に、Kさんともラインのやりとりをしました。

病気になる前、異動するはずだったセンターで営業アシスタントをしていたKさん、異動になったら、一番深く関わる予定の先輩でした。

「一緒にお仕事したかったです。」という会話をしたのを覚えていますが、ひと通り長いラインをお互いに送り合った後で、こんなメッセージが来ました。



「実は、私の娘も脳の病気で、今、エリさんと同じ大学病院に、通ってるんだよ。」


「えっ!?」

本当に驚きました。わずか2カ月前に発症したばかりで、それまではいたって健康だったそうです。

自分の子供が病気になったら…。どれだけ苦しくて、どれだけ心配な日々を送っているのだろう?

病気を宣告された時に

(病気になったのが、自分で良かった!)

と思った。代われるものなら代わってあげたいと、心の底から思っているはずだ。

これもまた…自分が病気にならなかったら、知る事は無かった。病気にならずに予定通り異動してKさんとお仕事していたら、教えてくれていただろうか?

白血病による入院生活は、私に


【大切な人の話をゆっくり聞く機会】


を与えてくれました。

「人の話を聞くことの大切さ」

「話したいと思われる人になれる喜び」

を感じていました。

そして、ゆっくりと相手の話を聞いたり、自分の痛み、苦しみを“間”を置いて話すことで、相手からも

「実はね…」という本音や悩み事を聞ける機会を増やすのかな?ということを思いました。


【一時帰宅】

抗がん剤治療が順調に進んで、初めての一時帰宅が出来る事になりました。

嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて…

人生の中で、長男が産まれた時と同じ位嬉しい日でした。朝からクリーンルームで1人、荷物の整理を頑張りました。お昼前には、母と姉が迎えに来てくれて、病院の昼食は無しにしてもらい、3人で食事をしてから、4人で住んだアパートへ帰ります。

食べたい物がたくさんありました。

母と姉から何が食べたいかと聞かれて「オムライス」と即答し、大学病院の中にあるレストランへ行きました。

しかしその時の私は、(本当に退院して良いの?)と不安になるくらい、少し歩くだけでめまいがして、何分かに一度は仰向けになって寝ないと気分が悪くなってしまう状態でした。

帰りにコンビニに寄りました。コンビニなんて、1カ月ぶりです。お茶やお菓子を選んでいる時間すら、めちゃくちゃ楽しい…。

でも体力は思った以上に回復していなくて、数分コンビニで商品を選んだだけでクラクラしてしまい、一度逃げるように車に乗り込んで横になり、何分か休んでから買いに行きました。

「はい!じゃあ、いよいよお家へ帰るよー!」

姉がハンドルを握って言いました。

(あの子達に、やっと会える…!)


夫の母が保育園に迎えに行ってくれていて、アパートに帰ると、子供達が待っていました。

「ママ!」

長男と抱き合って、母にスマホでたくさん写真を撮ってもらいました。

次男はというと……久しぶりに会うというのに、一瞬私の顔を見ると「パッ」と目を逸らし、近付いて来ようとしません。

その様子に「うそ…」とショックで倒れそうでした。

しかし長男を抱っこしている私のもとに、母に背中を押されながら「ほら、ママだよ〜!」と連れてこられると、表情がパッと切り替わり、それからは、嬉しそうに笑って膝の上に乗って来てくれました。

本当に嬉しかったです。

私は元気な子供達の姿に感動していたけれど、子供達からしたら、10kg以上痩せて、髪の毛は無くなり、目の下に大きなクマが出来た変わり果てたママの姿に、戸惑っていたのかも知れません。


今度は3人で写真撮影会をしていると、時間切れ…とばかりに、体力の限界が来てしまいました。

「ごめん…もう、ダメだ…横になる。手足が痺れて、ちょっと動悸もして来ちゃった。」

スマホを構えてはしゃいでいた母と姉の顔が急に心配そうな表情に変わり、すぐに布団を敷いてくれたので、倒れ込む様に潜りました。

母が天気の良い日に布団を干してくれていた様で、柔らかくて暖かくてふかふかで、最高でした。

すると次男が、私の布団の中に入って来て、右足にしがみつきました。母が


「そうそう、康ちゃん(次男)はいつもこうやってママの足に、コアラみたいにしがみついて寝るんだよねぇ〜。……ばあば、康ちゃんがこうやって寝るのを知ってたから…ママが入院した時もう、どうなっちゃうかと思って…まだ喋れないけど、うんと寂しかったよね。我慢してたんだよずっと…偉かったね。」


と、涙ぐみました。

(まだこんなに小さいのに…理由も分からずある日突然ママが居ない生活が始まって、何日も居ない日が続いたと思ったら突然帰って来て、混乱するのも無理ない…ごめんね。)

そんな事を考えながら、そのまま疲れの限界が来てしまい、夜まで眠ってしまいました。


【人生で一番辛い4月】

私は毎年4月になると、なんだかワクワクします。

出会いと別れの季節…ポカポカ暖かくなって来るし、新しい生活が始まったり、周りの環境が変わる事も多いので「頑張ろう!」と思える季節が4月で、この4月から、本来なら私は新しいセンターで営業のお仕事を始める予定でした。

しかし今回は“人生で一番辛い4月”でした。

毎月血球が上がれば一時帰宅出来ていたのに、4月は帰宅は無し。

“地固め療法”という治療法の期間で、3月から5月までぶっ続けで入院をしました。


白血病細胞を徹底的にやっつける期間で、一番大切で、一番しんどい期間、メンタル勝負ですよ!


と言われました。しかし、普通に2カ月だけ入院するのと、長い入院生活の中で、今月は1度も帰れないという2カ月とでは、全くもって違いました。


抗がん剤治療は、2日連続で点滴をしたら、2週間休んで血球の上昇を待つ、という様な形式が続く為、長い入院期間の中で“何もしない”日というのが、かなりあります。血液成分が激減して、感染症や貧血を引き起こすので入院の必要があるのですが、何もしないスケジュールの日々は、体調が安定していると、かなり

“暇”です。

暇と感じるという事は、体調が安定して順調な証拠なのかも知れませんが、私はこの時期に、精神が崩壊しかけました。

病室からは一歩も出られず、少し歩き回るとダルくなって来るので、基本的には1日中ベッドで過ごす…

ひたすら、テレビやYouTube、スマホゲームをして過ごしました。

面白いテレビやYouTubeに夢中になって、気分が上がる時もありましたが、その少し後には


「みんな毎日、仕事に家事に子育てに…一生懸命頑張っているのに、私だけ、何をしているのだろう?」


という気持ちになります。

日常を取り戻すために、必死に病気と闘っているんだ

と自分に言い聞かせようとするも、何とも言えない

「社会から疎外された気持ち」が、胸を苦しくさせました。

長男に手紙を書いたり、家族や友人とラインや電話をしたり、読書をしたりもしましたが、1日24時間という時間が、当時の私には長すぎて…

そしてその頃に、おそらく「プレドニン」という治療薬の副作用のひとつでもある、気分の浮き沈みと、そして「無性に〇〇が食べたくなる」副作用に侵されていました。

この薬の副作用について先生が

「すごーくお腹が空いちゃうかも知れなくて、この症状をしんどく感じる人が中には居る。」

と言っていました。

はじめのうちは

「美味しいじゃん!」

と思って食べていた病院食は、いっさい食べたくなくなり、お盆ごと投げつけたくなりました。

ラーメン、ハンバーガー、オムライス、そして、母の作る焼きそばが無性に食べたくなりました。

病院で食べて良い病院食以外の物は、缶詰め類、カップラーメンやカップスープ、そして、調理した物を食べる場合は、充分加熱した料理を、作ってから30分以内に食べなければいけないルールだったので、姉も母も大学病院から車で1時間かかる距離に住んでいた為に、叶いませんでした。


食べたいものが自由に食べられないという生活は、想像の何倍も苦しく「今日の夕食は何にしよう?」と悩める事が、どんなに幸せな事かを思い知りました。


「大食い系YouTube」を1日に何時間も見て気を紛らわせたり、退院したら食べたいものリスト、行きたいお店リストを書いたり、子供達に作りたいご飯のレシピを調べて書き写したりしました。

この時期は、吐き気で何日も食事が取れずにいた頃よりも、100倍辛いと感じました。

この気持ちはきっと誰にも分からない。

この頃に初めて


「どうして私ばっかり…」

「みんな、同じ病気になれ!」


と叫びたくなって

病気になったのが自分で良かった…なんて思っていた自分は、どこかへ消えていました。


【死のうとした日】

そしてこの2カ月の入院期間に、私は一度、死のうとしました。

「もう嫌だ!死んでしまおう」

と自暴自棄になったのではなくて、原因不明の

“ある症状”がきっかけでした。

ある夜…背中の痛みが気になって、眠れなくなりました。「ずっとベッドで同じ体勢でいたからかな?」と思い、柔軟やストレッチをしてみましたが、逆に酷くなるばかり…背中が痛いと言った所で、看護師さん困るだろうな。と思いましたが、すぐに

(何でも相談するのよ!我慢ダメだよ!)

の言葉を思い出して、ナースコールを押しました。

「何だろうね?温めてみる?」

と、湯たんぽを貰うも、良くならず…

何だか背中だけだったはずの痛みが、肩、足、腕にも広がりました。

関節痛という感じなのですが、それはもう

「身体の芯から」痛む感じの、居ても立っても居られない様な異様な痛みです。

一晩中眠れなかったので、翌日は痛み止めの点滴を打って貰いました。

「これで様子をみて下さい。きっと治まるよ」

と言われたものの、いっさい効く事はなく、更に悪化してしまいました。

痛み止めが効かない事を伝えてからは、新たな対処法がなかなか見付からず「様子をみて」と言われるまま何時間も経過しました。

かれこれ丸2日、朝から晩まで痛みが続いています。

昼も夜も眠れず、痛すぎて気を失ってしまいそうなのに、意識は無くならない…。

もういい加減我慢出来なくて

「もう我慢出来ません」と看護師さんに言いました。

看護師さんは

「そうだよね、相当辛そう…でもね、もう今日は先生が帰ってしまって…明日、朝いちで来るから、それまで頑張ってみて。」

私は、朝をひたすらひたすら待ちました。

テレビの深夜番組にお笑い芸人が出ていたので、それを無心で観るようにしたり…それも15分ももたずまた苦しみもがいて…。

風邪を引いて、ちょっと関節が痛む時のあの感じ…

あの感じの100倍くらいの痛み…。

首、肩、両足、そして特に左腕が、長い爪を食い込ませたまま思い切りねじり潰されている様な痛み。

痛い…痛い…痛い…!

何度時計を見た事か…という夜でした。

うっすらと窓の外が明るくなって来て、やっと朝が来ました。

もうすぐ6時かな…?まだ5時か…。

やっと6時になり、検温のため看護師さんが来たので

「先生は…」

と言うと

「先生はそうですね…回診の時間が9時からだから、この部屋に来るのは、9時半くらいかな?あと少しだけお待ち下さい。」

と言って部屋を出て行きました。

どうやら「朝いち」というのは、いつも通りのただの回診の事の様で、勝手に、私に起こっている緊急事態のために、言葉通り朝いちで、夜が明けたらすぐに来てくれると思っていた私は、絶望しました。

回診はいつも10時近くになってからなのを知っていたので、あと4時間近く、誰も来ない…。

そして先生が来たとしても、痛み止めが効かない以上もうやれる事が無いかも知れない…。

これ以上はもう耐えられない。

この痛みに、もうあと1分も耐えられない。

途方に暮れましたが、もう途方に暮れる余裕も無いほどに、痛い。

この痛みから今すぐに解放される方法…。

それを必死で考えたら、もう

「死ぬこと」以外思いつきませんでした。

死にたくなんかありません。

でも、もうこれ以上耐えられない…。

家族、両親、その他大切な人たちのことや、自分の今までの人生を振り返る余裕などありませんでした。

今すぐ死ぬ方法…。

のたうち回りながら見上げると、点滴などに使うコードがたくさんありました。

「これを使おう……。うまく出来るかな?」

と考えた瞬間…

コンコン!とノックが。

なんと…朝食が運ばれて来ました。

私は「ハッ」としました。

昨日からずっと全身が痛過ぎて、食事はおろか、食事が運ばれて来た事も記憶にありませんでした。

「朝食ですよ〜。置いておきますね〜。」

食事は、たまに看護師さんが運んで来る事もありますが、基本的には看護師ではない係の人が運んで来て、この時も私の状況を何も知らない係の人でした。

朝食のメニューは「食パン」でした。

透明なビニール袋を開けてみると

「フワァ〜ッ」と、小麦の良い香りがしました。

(パンって、こんなに良い香りがするんだ)

私は、中の食パンを鷲掴みして、ひと口食べました。

「…美味しい…」

ひと口、もうひと口と、無心で食パン2枚を完食して、スープを飲んだら、不思議なことに

(ス〜ッ)と全身の痛みが消えていきました。

「あっ…」

まだ痛いけど、和らいだ。

目には涙が溢れていました。

そこへ、先生たちが回診で部屋に入って来ました。

いつもの様に、何やら楽しそうに雑談しながら先生たちは入って来ます。

私の顔を見ると

「おはようございま…え、どうしたの?!何かすごく辛そうだね。どこか痛いの?」

先生の反応に、慌てて看護師さんが昨日からの私の様子を伝えだし、私は看護師さんを睨みました。

「大丈夫?!」

と聞かれましたが

「もう、本当に耐えられない程痛かったんですが…でも、もう良くなりました…。」

と答えると

「本当に?あー良かったー!じゃあまた何かあったら言って下さいね!」

と、部屋を出て行きました。

この日以来

「どこも痛くない、苦しくないって、何て素晴らしいんだ。」と思うようになり、この時の苦しみを思い出せば、今まで辛いと感じていた吐き気やめまい、頭痛、手足の痺れを、乗り越えられるようになりました。


【その後】

その後私は、4回〜5回程の一時帰宅をしながら、2020年7月10日に、化学療法(抗がん剤治療)のみで退院しました。

退院してしばらくは、ゆっくり、少しづつ、日常を取り戻していきました。

仕事をする事は考えていなかったし、何よりも再発が怖かったので、この先の人生は、無理せずのんびりと行きていこう…。



しかしそんな私の心境が変化したのは、白血病治療を終えて退院した池江璃花子選手が、2021の東京オリンピックに出場するというニュースを見てからでした。

病気を克服しただけでもすごいのに、オリンピックに出場するなんて、すごい!

そのうちに私も

仕事が大好きだった頃の自分に戻りたい。

今度は、家族や友人、一緒に働く仲間をもっともっと大切に出来る様に、まずは“自分”を大切にしながら色々な事を頑張りたい。社会に貢献したい。

と思うようになり、この気持ちを抑えきれなくなって、退院翌年の4月から、異動する予定だったセンターに仕事復帰をさせて頂く事になりました。

今は、やりたかった営業のお仕事を頑張っています。

病気をした事で学んだ


【人の話を聞くことの大切さ】


が、営業のお仕事で結果を出すために必要な

【ヒアリング】に繋がりました。

また“死のうとした“あの日”以来、朝、食パンを食べると生きる活力が湧く様になった私は、お客様に自社のパンの美味しさを伝えて

「パンが美味しそうだから」というのを決め手に契約を貰えるようにもなりました。


【現在】

もしも再発したら…と想像すると、とてつもない恐怖に襲われ、今だに夢に見たり涙が出る夜もあります。

過去の私は、自分を大切に出来ていなかったから、人を大切に出来なかったのかも知れません。

大げさかもしれませんが、自分の中の一部がこの世から居なくなって、半分だけ生まれ変わった様な気持ちで今を生きています。

子供は、2人とも小学生になりました。

毎朝玄関で長男と「ギューッ」と、ハグをし合って

「忘れ物無いね!?行ってらっしゃい!」と言って

ハイタッチをしてから送り出します。

「そういえば今日学校でさ…」

「あのね?ママ。」

と、長男からの言葉も、増えました。

ある休日のこと。

「ママ、何してるの?」

「友達に送るプレゼントを包んでるんだよ…どうして?何かあった?」

「…公園行きたいなぁ。」

「公園、いいよ!準備する?」

「わーい!!」

この生活を取り戻すまでに、どんなにたくさんの苦労をしたか分かりませんが、全部吹っ飛ぶ程に、幸せな気持ちでした。


私は、病気になって辛い闘病生活を送った事で、数え切れないほど本当にたくさんの事を学びました。

人間的に大きく成長する事も出来たと思います。

しかしそれ以上に言える事は、それも抗がん剤治療が順調に進んだ事…再発や、余命宣告をされる事無く、一度も骨髄移植をせずに化学療法のみで退院出来、今現在とても元気に生活出来ているから、そう思える「だけ」かもしれないということ。

病気になった事で学んだ事、人間的に成長した事はたくさんありましたが、それでも

「病気になって、良かった!」

と思った事は一度もありません。

病気にならなくても成長出来る機会は人生に山ほどあると思うし、病気になる前の健康だった自分にもしも戻れるのであれば、今すぐ戻りたいというのが本音です。

でも、病気によって経験した様々な事や、その時に感じた想いは、私の人生最大の「財産」となりました。

今後どんな事が起きようとも、この事だけには絶対の自信を持って、生きて行こうと思います。


【退院日】

退院の日には、夫が1人で迎えに来ました。

夫は人柄的に「よく頑張ったね!」「おめでとう!」なんて言葉を発するキャラではありません。無言で迎えに来て、無言で先生方に会釈をして、病院を出ます。でも、帰りの道中で彼はひとこと

「…何か食べたい物あるん?」

と聞きました。

「そうだなぁ…ケンタッキーが食べたい。」

「ケンタかあ〜。あ、あそこにあったよね。行く?」

「いいの?!」

「もちろん。」

「子供達に早く会いたいから、ドライブスルーして、車で食べてもいい?」

「別にいいよ。食べながら帰ればいいじゃん。」

「やったー!」

7月半ばの、空がカラッと晴れていて、真っ白な入道雲がキレイな夏の日…空の写真をスマホで撮って、背もたれに寄りかかりながら眺める。


(生きてて良かった…)


と思える、最高に幸せなひとときでした。






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― 新着の感想 ―
 発病から、5年過ぎたのですね。 頑張られたのですね。辛い闘病生活には心が痛くなります。私が体験した訳でもないのに(少々あつかましくてすみません)  書いてくださりありがとうございます。 何気ない日…
2025/02/09 21:54 あさきゆめみし
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