プロローグ 寝惚け娘
皐月の退院前日、実家の掃除を行う日曜日。
そして――夜宵とseiの決戦当日。
穏やかな朝日が満ちる室内に、目覚まし時計の電子音が鳴り響く。
いつもは鳴る前に止められるので、地味に珍しい。
その音に反応した部屋の主は、のろのろとした動作で布団を引き剥がし、ゆっくりとベッドの上で身を起こした。
ボケっとしており、どこからどう見ても寝惚けている。
長い前髪が顔に掛かっているが、それでも尚、美貌は損なわれていない。
最近NAOで頭角を現し始めたサムライ、夜宵こと天霧弥生。
クエスト中の夜宵とは似ても似つかないものの、どちらも彼女の一面である。
時計の秒針が1回転するほどの間、ベッドの上で微動だにしなかった弥生だが、ようやくしてゆっくりと床に足を付けた。
そして覚束ない足取りで洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗う。
多少はマシになったようだが、未だにぼんやりとしていた。
普段から朝が苦手ではあるものの、今日は輪を掛けて酷い。
どうやら、昨夜遅くまでゲームをしていた影響が出ているようだ。
それでも、なんとか動き出した弥生は、パジャマに手を掛けて着替えを始める。
そのとき――コンコンと、扉がノックされた。
寝惚け眼のまま視線を巡らせると、外から声が聞こえて来た。
「おはようございます、天霧さん。 起きていますか?」
NAO最強と名高いジンであり、隣人でもある、神崎暁。
彼の声を聞いた弥生はフラフラしながら玄関に赴き、扉を開いた――開いてしまった。
「おはようございます、神崎さん……。 ……どうかしましたか……?」
覇気はないながらも、辛うじて淀みなく言葉を紡いだ弥生だが、暁から返事はなかった。
それどころか、思い切り顔を背けて赤面している。
どうしたのかと思った弥生が不思議そうにしていると、極寒の冷気を感じさせる声が突き刺さった。
「天霧さん」
「あ、一ノ瀬さん……。 おはようございます……」
「おはようございます。 ところで、その格好はどう言うつもりですか?」
「その格好……?」
凄腕のガンマンであるスノウの正体、一ノ瀬白雪。
落ち着きながらも、激情が込められた視線に貫かれた弥生は、自身の姿を視界に収める。
やけに肌色が多く、ピンク色の小さな布を身に付けていた。
この布は下着で、リボンが付いたお気に入りの可愛らしいデザインである――などと言う情報が、彼女の脳に届いた瞬間――
「……? ……!? ……!?!?!? し、失礼しました……!」
グラデーションで混乱した弥生は、凄まじい勢いで扉を閉めた。
扉の外では暁が盛大に嘆息し、白雪がジト目になっていたのだが、それどころではない。
下着姿を見られて――厳密に言うと見せ付けて――涙目になり、蹲って震えている。
しかし、完全に自業自得だと反省した弥生は、鋼の精神で立ち直り、急いで服を着た。
そして、顔が赤くなっているのを自覚しながら深呼吸を繰り返し、意を決して扉を開ける。
「ほ、本当にすみませんでした……」
「いえ、お気になさらず」
開口一番、謝罪した弥生に対して暁は、敢えて何でもないように言い返した。
実際は彼にとっても衝撃的な出来事だったのだが、辛うじて表面に出すことは堪えている。
白雪は文句が言いたくて仕方ないと思いつつ、暁の心意気に免じて黙っていた。
そうして3人が協力して(?)、先ほどの1件を全力で忘我の彼方へ吹き飛ばすと、気を取り直した暁が口を開く。
「白雪が朝ご飯を作ってくれたんですけど、良ければ一緒にどうですか?」
「え、良いんですか……?」
「はい、勿論です。 白雪にも、そのつもりで用意してもらいましたから」
そこで弥生が白雪に目を転じると、彼女は澄まし顔をキープしていた。
だが、否定をしなかったと言うことは、暁の言った通りなのだろう。
そう結論付けた弥生は、申し訳ないと思いつつも、受け入れることにした。
「でしたら……ご馳走になります」
「良かった。 では、俺の部屋で食べましょう。 白雪、よろしく頼むよ」
「かしこまりました、暁様」
暁の部屋に招かれた弥生はテーブルに着き、ワクワクしながら待っていた。
そんな彼女を暁が微笑ましく思っていると、白雪が人数分の朝食を運んで来る。
メニューはトマトのベーコン巻き、スクランブルエッグ、コーンスープ、サラダ、ヨーグルト。
暁たちにとっては大した献立ではないが、弥生にとっては豪華なラインナップ。
目を輝かせている弥生に苦笑した暁は、率先して声を発する。
「じゃあ、食べましょうか。 頂きます」
「い、頂きます」
「頂きます」
見た目にも美味しそうだった朝食だが、当然と言うべきか味も絶品で、弥生は感動している。
その気持ちを白雪に伝えても、彼女の反応は冷たかったものの、ほんの微かに頬を朱に染めていた。
暁は白雪の機嫌が良くなっていることを察し、こっそりと微笑んでいる。
暫くして食事を終えた3人が、食後のコーヒーを楽しみながら、何ともなしにテレビを――これもいつの間にか設置されていた――観ていると、花見に関する特集が流れて来た。
それを見た弥生はあることを思い付き、少し躊躇いながら言葉を紡ぐ。
「あの……い、一ノ瀬さんは、お花は好きですか?」
「別に、好きでも嫌いでもありません」
「そ、そうですか……。 今度、皆でお花見に行こうって話があるんですけど……良ければ、一緒にどうですか……?」
「……皆と言うのは?」
「えぇと……わたしと、わたしの知り合い2人と、神崎さんです」
「でしたら、参加させて頂きます」
「ほ、本当ですか? 有難うございます。 詳しい日程はまだ決まってないので、決まったら連絡しますね」
「わかりました」
白雪の了承を得た弥生は、ホッと胸を撫で下ろした。
彼女が参加するのは暁がいるからだと知っているが、それでも一緒に行けるのは嬉しい。
梅子と武尊には事後承諾になってしまうが、なんとかなるだろう。
2人のやり取りを聞いていた暁は、満足そうにしていた。
まだまだ仲良しとは言えないものの、着実に関係は進んでいると言える。
その後はこれと言って会話はなく、頃合いを見計らって弥生は切り上げることにした。
「それでは、そろそろ戻って準備して来ます。 ご馳走様でした」
「わかりました。 俺たちも用意しようか、白雪」
「はい、暁様」
断りを入れた弥生は一礼し、部屋に帰る。
そして、実家に持って行く皐月の荷物を纏め、他の準備にも取り掛かった。
8時前には全てを完了させた弥生は、最終確認まで済ませたが、やはりファッションだけはどうしようもない。
黒のトレーナーに、いつものデニムパンツ。
今日は掃除が目的なので構わないとは言え、もう少し改善したいところである。
1つ溜息をついた弥生は、頭を切り替えて部屋を出た。
すると、既に暁と白雪が待っていたのだが、弥生は驚きを禁じ得ない。
暁はグレーのパーカーに黒のジョガーパンツで、オシャレさと動き易さを兼ね備えている。
いつもながら魅力的で見惚れそうだが、弥生が驚いたのは白雪の方だった。
「……何か?」
弥生がジッと見ていることに気付いた白雪は、冷たい目を向ける。
普段のメイド服――ではなく、スーツを完璧に着こなしており、どこぞの社長秘書のようだ。
キャリーバッグを持っているのが気になるものの、非常に似合っている。
そのことに弥生は驚愕していたのだが、慌てて声を発した。
「い、いいえ、何でもありません」
「まさかとは思いますが、街中をメイド服で歩くとでも思っていたのですか?」
「そ……そんなこと、ないですよ……?」
「まったく……。 そんな目立つ真似をする訳がないでしょう。 外出するときは、いつも着替えています」
「で、ですよね。 あはは……」
完全に図星を指されて、引きつった笑みを浮かべる弥生に、鋭い眼差しを注ぐ白雪。
誤魔化し切れないと思った弥生は、諦めて謝罪しようとしたが、その前に暁が口を挟んだ。
「天霧さん、そろそろ出発しませんか? 白雪も、行こう」
「あ……そ、そうですね」
「……かしこまりました」
暁に救われた弥生は内心で安堵の息をつき、白雪は不服そうにしながらも従う。
そうしてアパートを出たところで、弥生が2人に説明を始めた。
「お母さん……母の実家には電車に乗って行くので、まずはバスで最寄り駅に向かいます」
「なるほど、了解です」
弥生の言葉に暁は返事したが、白雪は無視を決め込んでいる。
機嫌を損ねてしまったかと弥生は落ち込みながら、バス停への道を歩み始めた。




