第3話 アルバイト先にて
「もう、お母さんったら……いったい何を考えてるんでしょう」
病院から次の目的地に向かいながら、ぶつぶつ文句を言う弥生。
まだ顔が赤い。
彼女とて一応成人女性なのだから、そう言う知識はある。
しかし、自分がそうなるのは、まだ先だと考えていた。
と言うよりは、相手が出来るか怪しいと思っている。
それほど弥生の自分に対する評価は、異常なまでに低い。
客観的に見れば、少し着飾ればいくらでも男が寄って来そうだが、それはそれで彼女は困るだろう。
尚も速いままの鼓動を、なんとか落ち着かせるべく弥生は立ち止まって、交通量の多い車道に目を向けた。
頻繁に行き交う自動車を眺めているが、別に彼女は自動車が好きな訳ではない。
では、何をしているのかと言うと――
「4297……7391……2586……1143……」
急に意味不明なことを呟き始めたように見えるが、弥生が読み上げているのはナンバープレートの数字。
これは彼女の癖と言うべきか、現実逃避の手段と言うべきか、何かある度に幼い頃から繰り返して来た。
その発端となった出来事は、弥生にとって忘れたいことなのだが、この行為が彼女にある能力を与えた。
簡単に言えば、常人より遥かに目が良いのだ。
一朝一夕で身に付くものではなく、昔からずっと続けて来た彼女だからこそ手に入れた力。
ただし、運動音痴な弥生は見えていても体が付いて行かない為、スポーツなどで活躍出来たことは1度もない。
ところがNAOでは、システムが動きをサポートしてくれるので、彼女の力をフルに発揮出来る。
その体験があったからこそ、どんなに大変でもゲームを辞めようと思ったことはなく、今では途轍もない実力者になっていた。
もっとも、彼女の実力の裏には、もう1つ暗い側面があるのだが。
暫く無心で数字を読み上げていた弥生は、ようやく落ち着いたのか1つ息を吐き出し、歩みを再開させた。
やがて見えて来たのは、普段から利用している近所の大型スーパー。
食料品から日用雑貨、ちょっとした衣類など、幅広い商品を取り扱っている。
この町の住人のほとんどが世話になっている店で、評判もすこぶる良好らしい。
とは言え、今回は買い物に来たのではなく、仕事をしに来たのだ。
従業員用の裏口から入った弥生は、深呼吸して気合いを入れてから、控室の扉をノックした。
「お、お疲れ様です」
少しつっかえながらも、きちんと挨拶した弥生だが、中には誰もいなかった。
そのことに胸を撫で下ろしつつ1番端の席に座って、鞄から自分で作ったおにぎりを取り出す。
彼女のシフトは、大体昼頃から夕方までなので、仕事前に昼食を摂るのが習慣だ。
どちらかと言えば小食な弥生にとっては、おにぎり1つでも充分で、食事に時間は掛からない。
水筒に入れて来たお茶を飲み、一息ついた弥生はロッカーに鞄を仕舞い、従業員の証でもあるエプロンを纏った。
それによって店員スイッチを入れると、手帳を取り出して仕事内容を復習する。
特売品エリアの作成や品出し、翌日の特売品のカード作成などの実務から、彼女が担当する生活関連フロアにある商品の場所など、地味ではあるが必要な知識を再度頭に叩き込んだ。
これなら基本的には、何を聞かれても大丈夫だと確信した弥生は、遥香の言葉を思い出して薄く微笑む。
問題は、天敵と言っても過言ではない、大人の男性に対してどうするかだが――
「やーよーちゃん!」
「ひゃぁ……!?」
背後から小柄な人物に抱き着かれた挙句、両胸を鷲掴みにされた弥生は悲鳴を上げた。
しかし、このような狼藉を働く人物に心当たりがある彼女は、羞恥に頬を染めながらも冷静に対応する。
「お、脅かさないで下さい、店長。 それと、手を放して下さい」
「え~、もうちょっとだけ~」
「駄目です……って、揉まないで下さい……!?」
「ふっふっふ、ここね? ここが良いんでしょ~?」
「あ、ちょ、やめ……」
「こんなに大きな物をぶら下げて~、肩凝るでしょ? あたしが揉んであげようか? 揉んで欲しいよね?」
「確かに肩は凝りますけど……って、そうじゃなくて、やめて下さい……!」
「あ、逃げた! ぶ~、やよちゃんのケチ~」
息を荒げながら拘束を解いた弥生は、襲撃者(?)から距離を取って相対する。
身長は、150cmに届かないくらいだろうか。
少しだけ茶色く染めた髪を二つ括りにしており、服装は弥生と似たようなもので、エプロンを身に付けている。
幼い顔立ちと低い身長、そして慎ましい胸元を見る限り、中学生か小学生に見えるが、弥生の言う通りこの人物がスーパーの店長だ。
名を佐々木梅子と言い、その外見と言動に反して、経営者としてはかなり優秀。
信じられないかもしれないが年齢は26歳で、これでも弥生より6つも年上なのだ。
過剰なスキンシップが困りものだが、弥生にとっては自然体で関われる、貴重な相手でもある。
ふくれっ面で不満たらたらな梅子を、どう宥めようか弥生は迷ったが、診察で遥香から言われたことが脳裏を過ぎり、チャンスだと思った。
「あの、店長。 実は相談があるんですけど……」
「うん? 相談って……もしかして男!?」
「え……!? ち、違います……!」
「ホント~? やよちゃん可愛いから、疑わしいな~」
「はぁ……店長までそんな冗談を言って……。 すみませんけど、わたしは真面目に話したいんです」
「むぅ、冗談じゃないのに……。 まぁ良いや。 それで、相談って?」
「えぇと、出来ればで良いんですけど……2人1組で作業するときとかに、その……わたしの相手は、女性の方にお願い出来ませんか……? き、急にこんなこと言われても、困るのはわかってるんですけど……」
弥生からすればかなり言い辛いことで、なんとか声を絞り出して伝えるのが精一杯だった。
ところが――
「あ、それならもう、そうなるように調整しといたよ」
「え……? ほ、本当ですか……?」
「うん。 前にチラッと見たときに、やよちゃんやり難そうだったから。 そりゃ誰とでも仕事出来た方が良いけど、調整してどうにかなるならそれで良いしね」
「あ、有難うございます」
「いーの、いーの。 あたしとしても、やよちゃんに悪い虫が付かないように出来るしね~」
「そ、それは良くわかりませんけど……。 でも、本当に良いんですか? わたしのわがままなのに……」
「だーかーら! 気にしなくて良いの! 詳しいことは知らないけど、やよちゃん男の人が苦手なんでしょう? お客さんの相手も無理しなくて良いように、皆にもフォローお願いしといたから。 その代わり、他の仕事はバリバリやってもらうわよ?」
「……はい、頑張ります。 改めてよろしくお願いします」
「うん! よろしくね!」
快活に笑う梅子を見て、弥生は目頭が熱くなる思いだった。
これほど理解ある上司がいる職場を辞めようとしていたなんて、自分はどうかしていたのだろう。
こんなことなら、もっと早くに相談すれば良かった。
そう考えた弥生は気が楽になり、梅子の想いに報いる為にも、より一層仕事に励むことを誓う。
肩の荷が下りた弥生は脱力し、だからこそ気付けなかった。
襲撃者が、すぐそこまで来ていたことに。
「隙あり!」
「ふぁ……!?」
「ふっふっふ、ガードが甘いね~。 そんなことじゃ悪い男に騙されそうで、お姉さん心配だよ~」
「き、気を付けますから、胸を揉まないで下さい……!」
「え~、やよちゃんの為にいろいろしてあげたんだから、ちょっとくらいサービスしてくれても良くない~?」
「そ、それに関しては感謝してますけど、こう言うのはパワハラとかセクハラとか、いろいろ良くないんじゃ……」
「固いこと言わないでよ~。 女の子同士なんだから、だいじょーぶだって!」
「そう言う問題じゃなくてですね……」
だらしなく顔を弛緩させて、自身の胸を揉み続ける梅子をどうするか、弥生は今度こそ本気で困り果てた。
感謝しているのは間違いないので、礼自体はしたいところだが、だからと言ってこれはちょっと――と言う感じである。
このままだと、変な気分になる危険もあると判断した弥生は、思い切って梅子の手を止めようとして、気付いた。
梅子の背後に、巨大な男性が立っていることに。
そして、次の瞬間――
「いい加減に……しろッ!」
「痛ッ!?」
男性が振り下ろしたバインダーで叩かれた梅子は、両手で頭を押さえて蹲る。
やっとの思いで解放された弥生は、深く息を吐き出し、男性に向かって声を掛けた。
「お疲れ様です、岩田さん」
「おう、お疲れさん、弥生ちゃん! 今日もこのチンチクリンが、迷惑掛けたな」
「い、いえ、お気になさらず。 それより、岩田さんはどうしてここに?」
「あぁ、うちの仕入れ先について、こいつに話があってな。 そしたら弥生ちゃんが襲われてたから、成敗してやったんだよ」
「そ、そうだったんですか。 あはは……」
曖昧に笑うしかない弥生。
助けてもらったのは有難いが、ここで礼を言うと、梅子がどんな反応をするかわからないからだ。
この男性は岩田武尊と言い、スーパーに入っている精肉店で働いている。
身長190cmを超える筋骨隆々の大男で、金髪に近い茶髪を短く切っていた。
スーパーの店長と店員と言う立場なので、上下関係ははっきりしているはずなのだが、同い年の幼馴染である梅子に対しては、全く物怖じしていない。
それだと他の店員に示しが付かないと思われるかもしれないが、梅子自身が気にしていないこともあって、今ではお馴染みの間柄となっている。
大人の男性が苦手な弥生は、武尊を当初苦手としていたものの、何度か接するうちに彼の人柄を知り、いつの間にか普通に話せるようになった。
武尊も弥生を実の妹のように可愛がっており、何かと世話を焼くことが多い。
すると、乾いた笑い声を漏らしている弥生を、武尊が真剣な眼差しで見つめた。
いくら普通に話せるとは言え、大人の男性にジッと見られるのは落ち着かなく、キョロキョロと目を泳がせてしまう。
弥生が居心地悪そうにしたまま10秒ほど経った頃、武尊がニカッと笑って口を開いた。
「弥生ちゃん、少しは元気になったみてぇだな」
「え……? わ、わかりますか?」
「おうよ。 何て言うか、憑き物が落ちたって感じか? 前はどんよりしてたからなぁ」
「う……すみません……」
「あ! いやいや、責めてる訳じゃねぇんだ。 ただ心配だったから、安心はしたぜ」
「……有難うございます。 店長にも、凄く助けてもらいました」
「そうかそうか。 こんなチンチクリンでも店長だからな、困ったことがあれば、何でも言ってくれよ」
「えぇと……わかりました」
粗雑なようで、自分のことを案じてくれていた武尊に、弥生は心から感謝した。
梅子の扱いに関しては、どう反応すれば良いか悩んだが。
そうして、2人の間に和やかな空気が流れようとしたその前に、もう1人が復活する。
「調子乗んな! 筋肉だるま!」
「いってぇッ!?」
ガバッと立ち上がった梅子が、武尊の足を思い切り踏み付けた。
あまりの痛さに跳び上がった武尊に構わず、梅子は指をビシッと突き付けて言い放つ。
「やよちゃんに言い寄ってんじゃないわよ! クビにされたいの!?」
「馬鹿野郎! 別に言い寄ってなんかねぇよ! 俺はただ、心配してただけだっつーの!」
「ふん、どーだか! どーせ、やよちゃんが可愛いから優しくしてるんでしょ!? オッパイ大きいし」
「違うって言ってんだろ! 弥生ちゃんは可愛いけど、妹みたいなもんなんだからよ! 確かにオッパイは大きいけどな」
「ほら! やっぱりオッパイ目当てなんじゃない! あー、いやらしい!」
「うるせぇな! 男は皆、オッパイが好きなんだよ! つーか、お前が言ってんじゃねぇ!」
「女の子同士なら良いのよ!」
「お前は女の子って歳じゃねぇだろうが!」
「何ですって!?」
「何だよ!?」
良い大人がギャアギャアと喚き合う姿は、言葉を選んでも醜い。
内心でそんなことを思いつつ、口を閉ざしていた弥生は、自身の胸部が口論の中心になりつつあるのを悟って――
「……お仕事して来ます」
ボソッと告げてから、控室を出た。
その顔には、能面のような無表情が張り付いている。
控室からは尚も喧しい声が聞こえて来ているが、彼女が振り返ることはなかった。