第2話 弥生の日常
3月も半ば近くになり、寒さを残しつつも徐々に春の足音が近付いて来ている。
柔らかな朝日に照らされた室内は簡素だが、デスクトップパソコンとモニター、VRゲーム用のバイザー型デバイスは目を引いた。
広さは、2人住むのが限界くらいではあるものの、掃除は行き届いており、清潔感がある。
そんな部屋の中でも、広めの面積を占めるベッドの上で動きがあった。
モゾモゾとした緩慢な動きで布団が捲られ、起き上がったのは少女にも見える若い女性。
寝起きでボケっとしていることと、長い前髪が邪魔でわかり難いが、良く見ると容姿が優れていることに気付くはずだ。
デフォルメされたウサギがプリントされた、ピンク色のパジャマを身に纏い、飾り気のないこの部屋で彼女だけが異質。
そう、この女性こそ、トッププレイヤーであるジンすら驚愕させたサムライ。
夜宵こと天霧弥生である。
ゲーム内の夜宵がロングヘアーなのに対して、現実の弥生は肩より少し長い程度のミディアムヘアー。
前髪が長いことも相まって印象は違うが、顔付きやスタイルの良さは瓜二つ。
暫く体を起こした体勢で止まっていた弥生は、ようやくしてゆっくりとベッドから下りた。
そのまま洗面所に向かって、うがいと洗顔が終わったところで意識がはっきりしたのか、タオルで顔を拭きながら声を落とす。
「ふぅ……今日こそ頑張らないとですね……」
その言葉には、決意と不安が半々くらいの割合で含まれていた。
いや、どちらかと言えば不安の方が大きい。
しかし、強く決意していることも嘘ではなく、弥生は大きく深呼吸してから、クローゼットに足を向ける。
中から仕事着として使っている、黒のニットセーターとデニムパンツを取り出し、パジャマのボタンに手を掛けて脱ぎ去った。
レースがあしらわれた可愛らしい白の下着に覆われた彼女の体は美しく、世の男性の多くが見れば、たちまち虜になってしまうだろう。
だが、自分の容姿に無頓着な弥生は特に何を思うでもなく、サッサとニットセーターに袖を通して着替えを済ませた。
脱いだパジャマを丁寧に折り畳み、ベッドの上に置くと、今度はキッチンに足を運ぶ。
部屋の狭さに相応しくキッチンも手狭だが、料理が得意な彼女が苦にしたことはなかった。
そもそも、朝はトーストとコーヒーのセットが定番なので、調理らしい調理は必要ない。
朝食の準備を終えた弥生は、部屋の真ん中にある丸テーブルの上に置き、正座で座ってからテレビを点けた。
正直なところ、彼女はテレビにあまり興味はないのだが、世間の事情はある程度わかっている方が良いだろうと言う、至極真面目な理由からニュース番組などには目を通している。
「今日もこれと言って、変わったニュースはないですね。 大事件が起こったりするよりは、よっぽど良いんですけど……」
やはり大抵のニュースは弥生の興味を引かなかったが、NAOの存在を知ったのはテレビで特集が組まれていたからなので、決して軽んじている訳ではない。
朝食を摂り終わった彼女は手早く片付け、今度は掃除や洗濯などの家事をこなして行く。
その手際は非常に良く、さほど時間を掛けずに終わってしまった。
時計を見ると、まだ8時を回ったくらいで予定より早いが、弥生はアパートを出ることにした。
身支度を整えると必要な荷物をバッグに詰め、忘れ物がないことを確認する。
玄関で無人の部屋に振り返り――
「……行って来ます」
少し寂し気に声を投げたが、当然ながら返事はなかった。
快晴の空の下、弥生は目的地へと続く大通りを、いつもよりのんびり歩いていた。
彼女が暮らしている町はそれなりに栄えているが、都会と言うほどではない。
それでも暮らしに必要な物はほとんど手に入るし、何より彼女にとって、いろいろと都合の良い土地である。
一定のスピードで歩を連ねながら、弥生は昨日の出来事を思い出していた。
初めて他人と一緒にクエストを受けて、戸惑いつつも、はっきり楽しかったと言い切れる経験をした。
今までは何をするにしても、どんなクエストを受けるにしても1人で、そのことに疑問を持ったことなどないが、昨日の記憶が彼女の心を揺さぶっている。
無論、彼女とて仲間と協力する方が、何かと有利であることは理解しているが、それを上回る拒否感があったのだ。
しかしNAOは、基本的にソロでプレイする前提では難易度調整されておらず、それこそゲーム開始直後の弥生は散々だった。
最初のクエストすらクリア出来ず、それ以前にまともに動くことさえ出来なかった。
専門用語のオンパレードで、システムを理解するまでもかなり苦労した。
見知らぬ人々から――主に見た目が理由で――声を掛けられて、本気で泣きそうにもなった。
それでもやめようと思ったことは1度もなく、絶え間ない努力を続けて来たことと、彼女の持つある能力が、今の実力を作り出している。
時間を掛ければクリア出来ないクエストはなく、だからこそソロプレイを続けるつもりだったのだが、ジンのことが頭から離れない。
セイヴァーと言う圧倒的なクラスパワーに胡坐をかかず、大胆かつ精確な戦いを繰り広げ、その強さを見せ付けた。
そして――
「優しい人でしたね……」
サムライだからと馬鹿にすることもなく、上手く喋れなくて挙動不審でも、嫌な顔をしなかった。
そのことに弥生は救われ、彼となら一緒に遊べるかもしれないと思えたが、出した答えは悲しいものである。
「……いえ、彼はセイヴァー。 私のようなゲーム初心者が、一緒にいて良い人じゃありません……」
がっくり肩を落として、トボトボと歩く弥生。
普通に考えて、弥生の強さで初心者を名乗るのは無理があるのだが、少なくとも彼女は本気だ。
ジンの方から誘われていることすら忘れて、暗い空気を漂わせたまま歩みを進めていると、いつの間にか目的地に到着していた。
見上げるほど大きな白い建物で、幼い子どもからお年寄りまで、多くの人が出入りしている。
特徴的なのは、白衣を着た人たちを散見出来ることだろうか。
もう言わなくてもわかるかもしれないが、ここは病院。
それもかなり大規模で、いわゆる総合病院の1つ。
人によっては圧倒されそうなくらいだが、通い慣れている弥生は、気にすることなく受付を済ませた。
彼女はこの病院に2つの用事があり、1つは自分の診察。
断っておくと体調は悪くないし、怪我をしている訳でもない。
しかし彼女には、間違いなく診察が必要なのだ。
「天霧さん、天霧弥生さん。 診察室へどうぞ」
「あ……はい」
待合室でぼんやりしていた弥生は、看護師の呼び掛けに応えて席を立つ。
導かれるままに入った診察室は――心療内科。
彼女は外面ではなく、内面に問題を抱えている患者。
高校を卒業してすぐに就職した弥生だが、対人関係が苦手な彼女は職場で上手く行かず、1年足らずの間に鬱病を発症した。
結局、退職することになってしまい、暫くは引きこもり生活を続けていたが、今では普通に日常生活が送れる程度には快復している。
その助けとなったのが、ここでの診察であり、弥生も担当医のことは信頼している。
診察室に入った彼女が目にしたのは、白衣を身に付けた妙齢の女性。
理知的な銀縁のメガネとサッパリとしたショートカットのせいか、『可愛い』よりは『格好良い』と言った表現が当てはまりそうだ。
椅子に座っている為わかり難いが、女性にしては高身長なのも要因の1つだろう。
カルテを見る目は真剣そのもので、弥生は思わず見惚れてしまった。
すると、そんな彼女の視線に気付いたのか、白衣の女性が朗らかに笑いながら口を開いた。
「天霧さん、おはよう」
「お、おはようございます」
「うんうん、今日も可愛いわね」
「もう……冗談はやめて下さい、先生」
「冗談じゃないんだけどなぁ」
全く相手にしない弥生に対して、白衣の女性は肩をすくめて溜息をついた。
彼女の名前は南海遥香。
弥生の担当医であり、この1年ほど彼女を支え続けて来た。
当然、医者と患者と言う立場で関わるが、弥生は姉のようにすら感じている。
ときには厳しいことも言われるが、根底には確かな思いやりを感じられるので、弥生にとって数少ない心を許せる相手。
これ以上ないほどの塩対応で軽口を躱された遥香だが、すぐに立ち直って医者モードに入った。
「じゃあ、診察を始めましょうか。 座ってくれる?」
「はい、よろしくお願いします」
遥香に手で示された弥生は、軽く会釈してから着席した。
それを確認した遥香は、手元のカルテに目を通しながら、平坦ではあるが温かい声で語り始める。
「前回の診察からは、ちょうど2週間ね。 調子はどう?」
「そうですね……まだ少しアルバイトに行くのが怖いですけど、ゲームを始めてから段々と、辞めようって気持ちはなくなったかもしれません」
弥生の診察はおおよそ2週間に1度行われるのだが、前回の診察の時点で彼女は、アルバイトを辞めるか悩んでいた。
その原因は仕事環境ではなく、弥生のコミュニケーション能力。
とは言え、彼女を一方的に責めるのも、いささか酷ではあるのだが。
何にせよ他の従業員や来客と、上手くコミュニケーションが取れない彼女の同僚からの主な評価は、「悪い人じゃないけど接し難い」と言うものだ。
そのような状況に耐え兼ねた弥生は気を紛らせる為に、藁にも縋る思いでNAOに手を出し、概ね目論見は成功したと言える。
彼女の報告を聞いた遥香は目を細め、嬉しそうに声を発した。
「それは良いことね。 天霧さんからゲームを始めたって聞いたときは驚いたけど、結果的には良かったんでしょう。 本当、人生何が役立つかわからないわね」
「はい、良い気分転換になってるんだと思います。 相変わらず、人付き合いは苦手ですけど……」
「焦らなくて良いのよ。 少しずつ前に進んでるんだから、慌てず自分のペースでね」
「はい……有難うございます」
成果を急ごうとしていたところに、遥香から優しく諫められた弥生は、恥ずかしそうに縮こまった。
そんな彼女に苦笑を漏らしつつ、遥香は診察を続ける。
「素直でよろしい。 アルバイトに行くのが怖いって言ってたけど、具体的には何が怖いの?」
「えぇと……仕事内容は大体覚えたんですけど、お客さんに声を掛けられたときとか、他の人と一緒に作業するときがちょっと……。 女性ならまだ大丈夫なんですけど、大人の男性が相手だと頭が真っ白になっちゃって……」
「……なるほどね」
そう言って遥香は、カルテに目を落とすふりをして考え込んだ。
診察をする上で、ある程度は弥生の事情を知っているが、そう簡単に解決出来る問題ではない。
己の無力さに歯噛みしそうになったが、敢えて遥香は明るく告げた。
「天霧さん」
「はい……」
「1回、諦めちゃいましょう」
「え……?」
あっけらかんと言い放った遥香の言葉を受けて、弥生はポカンとしている。
しかし遥香は取り合わず、説明を続けた。
「天霧さんが怖いって思うこと、今は一旦そのままにしてて良いわよ」
「で、でも……」
「ほら、私は良く知らないけど、ゲームだって同じじゃない? 準備も出来てないのに、いきなり難しいのに挑戦したって、クリア出来ないでしょう?」
「それは、そうですけど……」
「だから、1歩ずつ行きましょう。 まず、バイトを辞めようと思わなくなったのは、凄く大きなこと。 それはわかるわね?」
「は、はい」
「良い子ね。 次に、大体の仕事内容は覚えたこと。 これも、とても大きな武器よ」
「そうなんですか……?」
「そうよ。 だって、仕事内容がわかってるってことは、何か聞かれても大抵答えられるってことじゃない?」
「それは……はい」
「でしょう? だから、お客さんを怖がる必要なんてないのよ。 どうしてもわからないことは、知ってる人に聞けば良いんだし」
「そうですね……。 でも、相手が大人の男性だと……」
遥香の説明に弥生は一定の納得を見せつつも、どうしてもその部分が引っ掛かる。
しかし、そのようなことは遥香も織り込み済みで、ニッコリと笑いながら口を開いた。
「そのときは、逃げちゃいましょう」
「に、逃げる……?」
「勿論、本当に放ったらかしにしちゃ駄目よ? でも、他の人にヘルプを頼むのは、悪いことじゃないと思うわ」
「でも、それだと店員失格じゃ……」
尚も消極的な弥生に向き直った遥香は、ビシッと人差し指を立てて問い掛けた。
「天霧さん、この場合1番迷惑を掛けちゃいけないのは誰かわかる?」
「……お客さんです」
「正解。 じゃあ、次の問題。 目の前でパニックになってる店員とスムーズに案内してくれる店員、お客さんにとって迷惑なのはどっち?」
「……パニックになってる店員です」
「はい、正解。 つまり、お客さんにとっては他の店員に代わってもらった方が、手っ取り早くて良いのよ」
「で、でも、毎回そんなことしてたら、他の店員さんに迷惑では……」
「そうね」
「そうねって……」
無責任にも思える遥香の物言いに、弥生は混乱しそうになった。
だが、当然と言うべきか、遥香の言葉には続きがある。
「それでも、ただパニックになるよりはずっとマシよ。 その代わり、代わってもらった人の仕事をするとか、何か出来ることがあれば、お返しすれば良いの。 あと、必ずお礼を言うこと。 そうやって、今は出来ることをしましょう」
「出来ることを、する……」
「そうよ。 それから、男の人と一緒に仕事をするのが怖いって言ってたけど、これに関しては上の人に相談すれば、何とかなるかもしれないわ」
「ほ、本当ですか?」
「絶対とは言わないけど、話を聞いてくれる可能性はあるわよ。 店側だって、従業員にはスムーズに仕事をしてもらった方が助かるでしょうから。 何だったら、私が説明してあげるけど」
「い、いえ、そこまでしてもらう訳には行きません。 私が自分で話します」
遥香の申し出を受けた弥生は、両手を胸の前でぶんぶん振り、全力で拒否した。
当然ながら、彼女を信用していないのではなく、いらぬ苦労を掛けたくなかったからだ。
それがわかっている遥香は苦笑し、すぐに自身の案を取り下げる。
「ふふ、偉いわね。 あ、でも、駄目だったからって落ち込まないでね? そのときはまた、一緒に解決策を考えましょう」
「はい……有難うございます。 とても気持ちが楽になりました」
「それは良かったわ。 じゃあ、今日はここまでね。 いつもの薬は出しておくから、ちゃんと飲むのよ? あ、どうしても辛くなったら我慢せず、診察日じゃなくても私に相談してね」
「わかりました。 失礼します」
席を立った弥生は、丁寧に一礼してから診察室を出る。
本当に上手く行くのか不安はあるものの、遥香と話して光明が差したのも事実。
ドアが閉まるまで遥香は笑顔で手を振っており、改めて彼女の優しさを感じた。
微笑を浮かべた弥生は、併設された薬局で薬を受け取り帰路に就く――ことなく、病院に戻る。
そのままエレベーターで上の階を目指し、目当ての病室の前まで来た。
中からは楽しそうな声が聞こえて来て、病院内とは思えない明るい雰囲気を感じる。
そのことに苦笑をこぼした弥生は、軽くドアをノックし、中に入った。
「失礼します」
「あら、弥生ちゃんじゃない。 今日も良く来たわねぇ」
「おはようございます、理恵さん。 私は一般的な社会人と違って、時間がありますから……」
「そんな卑下しないで。 時間があろうがなかろうが、見舞いに来る人は来るし、来ない人は来ないのよ」
「そう言うものでしょうか……。 有難うございます」
「まぁ、偉そうに言ってる私が、ろくに親の顔を見に行ってないんだけどねぇ。 あはは」
「えぇと……あまり笑えないんですけど」
「ほら、向こうからも特に連絡ないし、お相子ってことで。 それに比べて、弥生ちゃんは良い子ねぇ。 よしよし」
「あの、私これでも成人してるので……」
「もう、照れちゃって。 可愛いわねぇ」
弥生の頭を撫でながら、楽しそうに笑う若い女性看護師、理恵。
子ども扱いされた弥生はジト目になりつつも、暖かな気持ちになっている。
底抜けに明るい理恵には、いつも元気をもらっていて、弥生は密かに感謝していた。
調子に乗りそうなので、口に出しては言わないが。
未だに頭を撫で続ける理恵をどうしたものかと思っていると、近くのベッドから控えめな笑い声が聞こえた。
そこには――
「笑わないで下さい、お母さん……」
「ふふ……だっておかしくて。 2人は仲良しで良いわね」
「絶対からかってますよね……?」
「さぁ、何のことかしら?」
「そんなニヤニヤして、誤魔化せてませんから」
「誤魔化すつもりなんてないもの」
「もう……」
弥生をそのまま成熟させたような、美しい女性の姿があった。
2人の会話を聞けばわかるだろうが、弥生の母親で天霧皐月と言う。
淑やかに笑う姿は様になっているが、あまり顔色は良くない。
そのことに弥生は、内心で辛く思いながらも、努めて表には出さずに言葉を紡いだ。
「着替えを持って来たので、入れ替えますね」
「いつも悪いわね」
「別に大したことはしてませんから、気にしないで下さい。 それより状態はどうですか? 先生は何て言ってるんですか?」
「うーん……忘れちゃった」
「……帰ります」
「テヘッ☆」と言った感じでのたまう母親を見て、弥生は半ば本気で帰ろうとした。
しかし、寸前で態度を改めた皐月が、慌てて引き止める。
「待って待って、入院してる母親を見捨てるなんて酷くない?」
「お見舞いに来た娘をからかうのは、酷くないんですか?」
「まったく、相変わらず冗談が通じないんだから……」
「それで、先生はどう言ってるんですか?」
「せっかちねぇ。 確か、来週くらいには退院出来るって言ってたわよ」
「来週ですか……。 必要な物を買い足しておくので、リストにして送ってくれますか?」
平静を装っているつもりだが、皐月の言葉を聞いた弥生の機嫌が良くなったのは明らか。
幼い頃から弥生を女手一つで育てて来た皐月は、無理がたたって倒れてしまった。
長期の入院が必要となり、皮肉にもそのことが切っ掛けで弥生はアルバイトを始め、引きこもりから脱却したのだ。
金銭面に余裕はないが、皐月がこれまで貯蓄して来た分で、辛うじて凌いでいる。
そんな中で最新ゲーム機である、バイザー型デバイスを購入することに弥生は大きな躊躇いがあったのだが、これまでろくに使ったことのないお小遣いを総動員することで、自分の中で折り合いを付けた。
何はともあれ、今後は母に頼り切ることなく協力して、また2人で暮らせることを喜んだ――のだが――
「あ、それなんだけど、あの部屋は貴女がそのまま1人で使いなさい」
「え……? ど、どうしてですか?」
「ほら、元々あの部屋って、2人で住むには狭いじゃない? だから私は、実家に住もうかと思ってね。 今はあそこ、誰もいないから」
「それなら私も……」
「駄目よ。 弥生はここでの診察があるし、折角バイトにも慣れて来たところでしょう? 今はその生活リズムを保つようにしないとね」
「でも……」
皐月に説き伏せられても、弥生は首を縦に振れない。
彼女にとって、皐月は唯一の肉親。
そうでなくとも、心の支えになっていた人物からいきなり突き放されたように感じて、弥生は泣き出す1歩手前だった。
そのとき――
「大丈夫よ」
「……! お母さん……」
ベッドから体を起こした皐月が、弥生を優しく抱き寄せた。
顔を胸元に埋めながら、母親に優しく背中を撫でられ、弥生を思わず涙ぐむ。
そんな我が子を微笑を浮かべて見つめ、皐月は言い聞かせるように語り掛けた。
「そんなに遠くに引っ越す訳じゃないんだから、会おうと思えばいつでも会えるわよ」
「そうですね……」
「会えなくても連絡は取れるんだから、寂しいことなんてないわ」
「べ、別に寂しい訳では……」
「はいはい。 とにかくそう言うことだから、わかったわね?」
「……はい」
皐月の言うように、会おうと思えばいつでも会えるのだ。
それにもかかわらず大袈裟に悲しんだことを、弥生は今更ながら凄まじく恥じた。
真っ赤になったのを見られないように、母親の胸に顔を押し付けていたが、それはそれで恥ずかしい行為。
そんな弥生の姿に皐月は苦笑を浮かべると、次いでニヤリとした顔付きになった。
そして、爆弾を炸裂させる。
それはもう、楽しそうに。
「私もそのうち、孫の顔は見たいしね」
「……は?」
「私が一緒だと男の人を呼び難いでしょうし、そう言うことも出来ないじゃない?」
「ち、ちょっと……」
「あ、でも、ちゃんと計画的にね? 避妊するときは避妊して……」
「帰りますッ!」
普段からは考えられない大音声で宣言した弥生は、脱兎の如く逃げ出した。
それでもドアを乱暴に閉めない辺りは、真面目と言うか何と言うか。
娘の可愛い反応に皐月がクスクス笑っていると、それまで黙って事の成り行きを見守っていた理恵が、苦笑交じり口を挟む。
「良かったんですか?」
「えぇ、来るべきときが来ただけだから。 弥生も20歳になったんだし、そろそろ親離れしないといけないわ」
「親離れねぇ。 私には、皐月さんが子離れしようとしてるように見えましたけど」
「……痛いところを突くわね」
「あはは、図星ですか」
「弥生には内緒よ?」
「さぁて、どうしましょうねぇ」
「意地悪な人ね……」
「冗談ですよ、冗談。 それより早く元気になって、弥生ちゃんを安心させて下さいね。 あの子、気丈に振る舞ってますけど、いろいろ抱えてるみたいですし」
当初はふざけた雰囲気だった理恵だが、最後の言葉には弥生への確かな気遣いがあった。
そのことを察した皐月も真剣な面持ちで、自身の思いを述べる。
「わかってるわ。 本当はあの子を1人にするのは不安なんだけど、いつまでもそうは言ってられないし。 私がこの先も、傍にいてあげられるとは限らないんだから」
「もう、またそんなこと言って。 皐月さんだってまだまだ若いんだから、無理さえしなかったら大丈夫ですよ」
「……ふふ、そうね」
その言葉を最後に、病室に静寂が訪れる。
徐々に日が高くなりつつあり、暖かそうに見えるが、今日は少し冷えるらしい。
愛しい我が子が風邪をひかないことを祈りながら、皐月はそっと瞳を閉じた。