第11話 出会い(2回目)
翌日の朝、弥生はいつも通りの時間に起床した。
何も変わらない、平凡な1日の始まり。
しかしながら、彼女の中では確かな違いが生まれている。
大人の男性に対する恐怖心は、残念ながら払拭されてはいない。
それでも、ゲーム内で改善の兆しが見えたことで、現実でも何とかなるかもしれないと思い始めた。
まだ1歩を踏み出したばかり――と言うよりは、踏み出そうとしている段階だが、大きな変化だと言える。
緊張と高揚感を胸に秘めながらベッドを下りた弥生は、身支度を整えてからゴミを捨てに部屋を出た。
大してゴミは溜まっていないが、気分を一新させるつもりらしい。
軽いゴミ袋を持って階段を数段下りると、階下からコンビニ袋をぶら下げた少年が、上って来るところだった。
灰色の上下セットのスウェットにサンダル。
外出するにしては、かなりラフな服装だ。
それでいて、首周りにチェーンが見えていることから、服の下にネックレスを付けていることが窺える。
このアパートには天霧母娘しか住んでいなかったが、数か月前からこの少年も暮らし始めた。
とは言えほとんど接点はなく、今回のようにすれ違うことがあっても、会釈する程度である。
しかし、今日の弥生は一味違った。
少しずつでも変わろうと決意した彼女は、階段の端に寄りながら深呼吸して、僅かに震える口を開いた。
「お、おはようございます……」
その声は小さく、至近距離じゃなければ聞き逃しそうだったが、通り過ぎようとしていた少年には聞こえた。
足を止めた少年は顔だけで振り向き、小さく縮こまっている弥生に返事を返す。
「おはようございます」
抑揚のない平坦な声ながら、冷たいとは感じさせない。
そのことに弥生は安堵し、少年は再び階段を上り始めた――そのとき――
「……ん?」
「え?」
またしても立ち止まった少年が、今度は体ごと振り返った。
そのことに驚いた弥生はビクッと肩を震わせ、階段を踏み外してしまう。
体が傾き、浮遊感の後に襲い来る痛みを覚悟して強く瞳を閉じたが、そのときが訪れることはなかった。
「大丈夫ですか?」
「へ……?」
少年によって抱き止められた弥生は、間一髪で怪我をせずに済んだが、その代わりにパニック寸前。
初めてまともに見た少年の顔は非常に整っており、状況を差し引いても頬を朱に染めてしまった。
高い身長に無造作ヘアー。
どこかの誰かを思い出しそうになったが、このときの彼女にそのような余裕はない。
石像のように固まってしまった弥生をよそに、少年は彼女を安全な場所に立たせると、何事もなかったかのように立ち去った。
暫くカチコチのまま時が過ぎたが、時計の秒針が1回転する頃になって、ようやく弥生が再稼働する。
深く息を吐き出した彼女は、ひとまずゴミ出しを終わらせるべく足を踏み出した。
そうして無事に、ゴミ捨て場に袋を置いて部屋に帰ろうとしたが――
「あ……助けてくれたお礼を、言い忘れていました……」
いつかと同じセリフを口にするのだった。
「と言うことがあったんですけど、どうすれば良いでしょう……? 何かお礼はしたいとは思ってるんですけど……」
今日も皐月の病室を訪れた弥生は、その場に居合わせた理恵も含めた2人に、今朝の出来事を話した。
もしかしたら、大怪我をしていたかもしれないところを助けてもらっておいて、礼も言えなかったことを悔いている。
だからこそ弥生は真剣に、彼女たちから助言をもらおうと思っていたのだが、相談する相手を間違えた。
「弥生ちゃんにもようやく彼氏かぁ……感慨深いものがありますねぇ。 今日は、お赤飯を炊かないと」
「本当ね……。 わたしも母親として、この日を待ちわびていたわ。 孫の顔を見れるのも、そう遠くないのかもしれないわね」
薄っすらと涙を浮かべている――勿論ふりだ――皐月と理恵が、しみじみと呟く。
そんな2人をジト目で眺めていた弥生は、大きく嘆息してから言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「わたしは真面目に話しているんです。 ふざけるなら帰ります」
「ふざけてなんかないわよ。 わたしは、本当に嬉しいんだから。 ねぇ、皐月さん?」
「そうよ、弥生。 わたしたちは、貴女の素敵な出会いを祝福してるのよ」
「……本音は何ですか?」
『面白そうだから冷やかしたい』
「帰ります」
異口同音に発せられた失礼な物言いを聞いて、弥生は真剣に席を立つつもりだった。
だが、娘の行動を予見していた皐月が、機先を制す。
「待ちなさい。 そのまま帰ってどうするの? 何か良い案でも思い付いたのかしら?」
「それは……」
「からかったのは謝るから。 わたしだって娘を助けてくれた人に、お礼をしたい気持ちは一緒なのよ?」
「わたしだってそうよ。 大好きな弥生ちゃんを、助けてくれたんだからねぇ」
「だったら最初から、真面目に聞いて下さい……」
「そこはほら」
「お約束ってやつよ、弥生ちゃん」
「本当に、この人たちは……」
全く納得は出来ないものの、ようやく2人からアドバイスをもらえそうだと判断した弥生は、浮かしかけた腰を椅子に戻した。
相変わらず面白がっているように見えるが、流石にもうふざけはしないだろう――たぶん。
一抹の不安を抱えながら、1つ咳払いして場を仕切り直した弥生は、改めて2人に問い掛ける。
「それで、何か案はありますか? ほとんど予算はないですし、そもそも高価な物は受け取ってもらえない気がします」
「うぅん……やっぱり形に残る物より、食べ物とかの方が良くない? 相手の趣味もわからないし、何か物をもらったら、使わないと悪いって気分にさせちゃうかもだし」
「まぁ、確かにそうですねぇ。 食べ物なら、フルーツとかお菓子セットかなぁ?」
「それも考えたんですけど、予算を考えるとあまり良い物が買えそうにないんですよね。 値段の問題ではないと言っても、あまりにも安物を贈るのはちょっと気が引けます……」
「無難なのは、洗剤セットとかタオルセットだけど……」
「味気ないですねぇ」
それから暫くは、ああでもない、こうでもないと議論が続いたが、妙案を思い付いた皐月が弥生に問い掛けた。
「そうだ弥生、今夜の晩ご飯は何かしら?」
「晩ご飯ですか? 肉じゃがでも作ろうかと思っていますけど……」
『それだ!』
「き、急に大きな声を出さないで下さい、2人とも。 どうしたんですか?」
同時に指をビシッと突き付けて来た皐月たちの迫力に、弥生は身を仰け反らせた。
しかし、皐月と理恵は弥生を放置して、コソコソと相談している。
何を話しているのかと首を傾げながら、弥生はひとまず様子を見ることにした。
すると暫くして、結論が出たらしい。
皐月と理恵がニコニコ――ニヤニヤかもしれない――笑いながら、弥生に向き直った。
正体不明の悪寒を感じた弥生だが、皐月は気にせず言い放つ。
「その肉じゃが、多めに作りなさい」
「な、なんでですか?」
「もう、わからないの? 助けてくれた子って、お隣さんなんでしょ? お裾分けってことで、ご馳走すれば良いじゃない」
「え……!? だ、駄目ですよ。 わたしの料理では、お礼になりません」
「そんなことないわよ。 弥生ちゃんの手料理なら、お金払ってでも食べたい人はいるって」
「理恵さん、わたしの料理食べたことないですよね……?」
「あはは。 細かいことは気にしない、気にしない」
「細かくありません……」
「でも現実問題、お金を掛けずにお礼をするなら、良い方法だと思うわよ? むしろ、1人前作るより2人前作る方が、経済的じゃない?」
「お礼をするのに、経済的かどうかとか考えたくないんですけど……」
「でも、お金ないわよね? 弥生がゲーム機とか買っちゃったし」
「う……」
痛いところを突かれた弥生は、胸を押さえて呻いた。
勿論、皐月が本気で責めている訳ではないのはわかっているが、効果は絶大である。
「わかりました……。 でも、本当に大丈夫でしょうか……」
「相変わらず心配性ねぇ、弥生ちゃんは」
「そう言われましても……。 味覚なんてその人によって違いますし、わたしの味が口に合うかどうかなんて、わかりません……」
「安心して、弥生。 長年食べて来たわたしが保障するけど、貴女の料理の腕は一流よ」
「それは、お母さんが駄目過ぎるだけでは……」
「何か言った?」
「……何でもありません」
普段は温厚な皐月に睨まれた弥生は、即座に言葉を引っ込めた。
理恵が大笑いしているが、ここは無視する。
退路を塞がれた弥生は溜息をついて、腹を括った。
「じゃあ今日の帰りに、少し良い食材を買って帰ることにします」
「うんうん、それが良いわ」
「弥生ちゃんの手料理が食べられるなんて、その子は幸せ者ねぇ」
「もう、茶化さないで下さい……。 では、そろそろ行きますね」
「えぇ、またね。 あ、無理して毎日来なくても良いのよ?」
「そうよ、弥生ちゃん。 何なら、その子とデートでもして来たら?」
「まぁ、それは良いわね。 弥生、是非そうしなさい」
「またそんなことを言って……。 失礼します」
2人の軽口をスルーして、弥生は病室を出た。
それまでは不満そうにしていたが、皐月が何だかんだで元気そうなことに、微笑を浮かべる。
助けてもらった礼として手料理を振る舞うのは、彼女にとってかなりハードルが高いが、こうなったからにはやるしかない。
自分に喝を入れた弥生は、まずはアルバイトに精を出すべく歩み出した。




