第10話 過去とこれから
空き缶や様々な物が散乱した古びた家に、男性の大声が響き渡る。
ゴミ、カス、役立たず。
その他にも聞くに堪えない罵声が、何度も何度も発せられた。
相手は蹲って震える幼い少女で、繰り返し暴力も振るわれている。
少女は必死に謝罪を続けているが、罵声と暴力は収まるどころか、激しくなった。
遂には涙を流すだけで何も言わなくなっても、男性は少女を責め続ける。
そのときになって、夜宵は気付いた。
「久しぶりに見ましたね……」
俯瞰的に惨状を眺めていた彼女は、ここが夢の世界だと確信した。
VRの世界で夢を見ることがあるのかわからないが、夜宵は間違いなく、かつての記憶を思い出している。
今から10年以上昔、小学校に入学する頃まで、彼女は父親から虐待を受けていた。
皐月が家にいるときは守ってもらえたが、彼女が働きに出て2人きりになると、日常的に心身ともに暴力を振るわれていた。
その頃から、ナンバープレートの数字を読み上げる現実逃避を始め、人とコミュニケーションを取るのが苦手となり、大人の男性が恐怖の象徴と化したのだ。
夜宵の実力には視力の良さも大きく関わっているが、それと同等以上に、幼少期の出来事が影響している。
父親の機嫌1つで暴力を振るわれていた彼女は、周囲の変化に過敏になっていた。
だからこそ、敵や味方のちょっとした動きも見落とさないのだが、それが良いことだとは言い難い。
夜宵の心が壊れ始めていることに気付いた皐月が、決死の覚悟で彼女とともに逃亡し、2人で生活するようになった。
それ以降は少しずつ立ち直り、今では普通に暮らせているものの、心に消えない傷が刻まれている。
これまでは、幼い頃の夢を見る度にうなされていた夜宵だが、今回は辛い気持ちはありながら、取り乱すことはなかった。
明確な理由は思い浮かばないまでも、漠然と感じるものがある。
すると、背後から光が満ち溢れ、悪夢の世界を白く塗り潰した。
振り向いた先には1人の人影があったが、顔は見えない。
しかし夜宵は、その人物が少年で、微笑んでいることがわかっている。
苦笑を浮かべた彼女は、少年の影に向かって手を伸ばし――2人を光が飲み込んだ。
意識を取り戻した夜宵の目に映ったのは、石の天井だった。
ここがどこか、自分はいったい何をしていたのか思い出そうとしたが、その前に声を掛けられる。
「良かった、目を覚ましたんだね」
声の方に視線を巡らせると、今にも泣きそうなジンが、すぐ傍の椅子に座っていた。
いつもは飄々としている彼が、このような姿を晒していることに夜宵は驚き、慌てて体を起こす。
「ジ、ジンさん、何かあったんですか? 大丈夫ですか?」
「それはこっちのセリフだよ。 試合が終わったと思ったら急に倒れて……本当に心配したんだからね?」
「試合……?」
ジンの言葉を聞いて、夜宵は少しずつ状況を飲み込み始めた。
ここは選手控室で、テーブルに寝かされていたらしい。
ベッドがないので、それに関しては文句ないが、寝顔を見られたのは不覚。
僅かに顔を赤らめた夜宵だが、ひとまずは話を進めることにした。
「し、心配を掛けてすみません。 わたしはどれくらい、意識を失っていましたか?」
「15分くらいかな。 体調はどう? 少しでも違和感があったら、言って欲しい」
「えぇと……特に何もないですね。 問題ありません」
「……本当に?」
「ほ、本当ですけど……」
立ち上がったジンに、至極真面目な表情で顔を覗き込まれて、夜宵はテーブル上でたじたじになった。
だが、ジンは意に介さず凝視を続け、夜宵は羞恥のあまり赤面している。
至近距離で見つめ合ってしばし経ち、いよいよ彼女の精神が限界を迎えそうになって――
「本当に大丈夫そうだね。 良かった……」
心底安堵したように息をついたジンは身を離すと、椅子に座り直した。
対する夜宵は呆然としていたが、我を取り戻すと急いでテーブルを下りて、ジンの向かい側の椅子に座る。
2人の間に気まずい沈黙が落ち、ビジョンから聞こえる試合中継の歓声だけが、やけに大きく聞こえた。
そのまま暫くは互いに無言だったが、躊躇いながらも口を開いたのはジンである。
「ごめん」
たった一言。
辛そうに目を伏せて絞り出された声には、途轍もなく大きな感情が含まれていた。
そのことを察した夜宵は瞠目し、次いで苦笑を浮かべて言葉を紡ぐ。
「ジンさんが謝ることなんて、何もありませんよ」
「でも、俺のせいで夜宵さんが……」
「気にしないで下さい……と言っても無理かもしれませんけど、本当にジンさんが悪い訳じゃないです。 わたしが自分の問題を話していなかったのが、原因ですから」
「夜宵さんの問題……?」
「リアルに関することですし、聞き苦しい内容かもしれませんけど……それでも良ければ話します」
「……夜宵さんが良いなら、聞かせて欲しい」
「わかりました」
真剣な面持ちのジンに、夜宵は自身の過去を、話せる範囲で話すことにした。
本来なら会って間もない人物に話すことではないし、何なら梅子や武尊も知らない。
唯一、担当医の遥香にだけは、診察の関係で事情を伝えている。
しかし、彼になら教えても良い――いや、知って欲しいと思った。
それが何故かは判然としないが、夜宵は素直にそう感じている。
不明瞭な感情を抱きながら、目を閉じて深呼吸した夜宵は、意を決して語り始めた。
「わたし、父親に虐待されていたんです」
「……!」
「あ、幼い頃の話なので、今はもう大丈夫ですよ」
「……そうなんだ」
突然の告白にジンは息を飲んだが、過去のことだと知って、ひとまず安心したようだ。
とは言え、虐待されていた事実に変わりはないので、顔は強張っている。
そのことに夜宵は気付きながら、敢えて淡々と続けた。
「結構酷いことを言われましたし、痛い思いもしましたけど……詳しく話すのはやめておきますね」
「わかった……」
「それで、そのことが原因で大人の男性が怖くなって、今でもまともに話せなかったりします」
「……なるほど」
「試合中におかしくなったのは、たぶん過去の記憶がフラッシュバックしたからでしょうね。 いつも、暴力を振るわれていたので」
「……」
話を聞けば聞くほど、ジンの表情は暗くなった。
そのことを申し訳なく思うと同時に、夜宵は自分が意外とすんなり話せていることに驚いている。
理由を考えたが、答えは今から告げようとしていることと同じだった。
「ジンさん、有難うございました」
「え……?」
椅子に座ったままペコリと頭を下げた夜宵を、ジンはあらんばかりに目を見開いて見つめる。
あまりにも間の抜けた様子に、思わず苦笑を漏らした夜宵は、今の本心を明かした。
「ジンさんがアドバイスしてくれたお陰で、あれだけ怖かったのが平気になりました。 今回は最後に倒れちゃいましたけど、次からはもう大丈夫だと思います」
「いや、俺は……」
「それに今だけ……ゲームの中だけかもしれませんけど、大人の男性に対する恐怖心が、少なくなってる気がするんですよね。 サムライのわたしだからだとしても、大きな進歩だと思います。 だから、お礼を言わせて下さい、有難うございました」
「夜宵さん……」
優し気な笑みで気持ちを伝えた夜宵は、先ほどよりも丁寧に頭を下げた。
そんな彼女をジンは直視出来ず、辛そうに目を逸らしている。
いくら非がないと言われようと、それどころか礼を言われようと、夜宵が倒れる切っ掛けを作ったことは確かだ。
普段は割り切りが良い性格のジンも、こればかりは全てをなかったことに出来ない。
懊悩しているジンを夜宵は困った様子で眺めていたが、ふとあることを思い付いた。
「わたしは気にしてませんけど、ジンさんは自分が悪いと思ってるんですか?」
「……そうだね」
「じゃあ、お願いを1つ聞いて欲しいです」
「お願い……?」
胡乱気な目を向けて来るジンに頷いた夜宵は、少し照れたように目を泳がせながら要求を述べた。
「その……笑って下さい」
「……は?」
「わたし、ジンさんの笑顔が好きなので。 そんな暗い顔は見たくありません」
「そう言われてもね……」
「お願い、聞いてもらえませんか……?」
「……しょうがないな」
夜宵に押し切られたジンは、ややぎこちないながらも、笑みを作った。
本音を言うとまだ整理出来ていないが、これ以上彼女を困らせたくないと言う気持ちが、上回っている。
ジンの笑顔を見た夜宵は、満足そうに微笑をこぼした。
彼女の優しさに触れたジンは、気恥ずかしさからそっぽを向いたが、このままやられっ放しで(?)終わる少年ではない。
「それにしても、夜宵さんって意外と情熱的な人なんだね」
「情熱的?」
「俺の笑顔が好きだなんて、ほとんど告白みたいなものじゃない?」
「え……!? い、いえ、わたしは決してそう言う意味で言った訳じゃ……!」
「でも、好きなんだよね? 良かったら写真でも撮る?」
「と、撮りません……! す、好きと言うのは言葉のあやと言いますか、好感が持てると言う意味であって、その……れ、恋愛感情がどうとか、そう言うことでは……」
全身であたふたしながら必死に弁明する夜宵を、ジンはニヤニヤと眺めた。
笑顔と言えば笑顔だが、彼女が求めているものではないだろう。
気が晴れたジンは、ほとんど目を回す1歩手前になった夜宵を見て、楽し気に口を挟んだ。
「ごめんごめん、からかい過ぎたね。 夜宵さんが、そう言う意味で言ったんじゃないのはわかってるから、安心して」
「そ、それなら良いんですけど……」
「でも、俺は嬉しかったよ。 有難う」
「どういたしまして……」
憔悴した様子の夜宵に、苦笑を見せたジン。
このときには彼もいつもの調子を取り戻しており、ぐったりしながらも夜宵は安心していた。
しばしの間、静寂が選手控室に充満したが、先刻と違って穏やかな空気である。
そのことに2人がホッとしていると、突如としてある疑問がジンに湧いた。
聞いて良いものか悩みながら、最終的には好奇心に負けたらしい。
「そう言えば、夜宵さんって大人の男性が苦手だって言ってたけど、俺とは最初から結構普通だったよね?」
「うぅん……挙動不審だったので、普通とは言えないかもですけど……まぁ、そうですね」
「なんで俺は大丈夫だったの? もしかして、特別な感情があったからとか?」
この期に及んで余計な一言を付け足したジンだが、ある意味本調子に戻った証拠だ。
またしても夜宵の慌てた姿が見られると、彼は期待したが――
「なんでと言われましても……。 ジンさんは男の子であって、大人の男性ではないですから」
「何を当然のことを?」と言わんばかりの夜宵から反撃(?)を受けて、ジンは言葉を失った。
悪気がないのは、間違いないだろう。
彼の実年齢も知らないはずだ。
しかし、子ども扱いされているように感じたジンは、割と深刻なダメージを受けている。
急に黙り込んだジンを、夜宵が不思議そうに見守っていると、ギリギリのところで立ち直った彼が、力強く宣言した。
「そうか……。 だったら、いずれ認めさせるよ」
「あの、ジンさん……?」
「わからなくて良い。 いや、むしろその方が良いな。 これは、俺の問題だ」
「何だか良くわかりませんけど……頑張って下さい?」
「言われるまでもないよ」
断っておくと、ジンは夜宵に好意を持ちながら、それが恋愛感情だとは断言出来ない状態である。
しかし、1人の少年――ではなく、男としての尊厳を守る覚悟を固めた。
具体的なことは、何も決まっていないが。
頭上に大量の疑問符を乱舞させている夜宵をよそに、今後どうしたものかジンが考えていたそのとき、逆襲の手立てが脳裏を過ぎる。
こう言うところが子どもっぽいとは、気付いていない。
「ところで夜宵さん、これを見て」
「これは……?」
ウィンドウを呼び出したジンは画面を拡大し、夜宵と2人で見える位置に移動させた。
そこには様々な写真や文章が映っており、まるでインターネットニュース。
おおよその見当を付けながら夜宵が尋ねると、ジンは心底嬉しそうに口を開いた。
「【ネオス・アルカディア・オンライン】通信。 通称、NAO通信だよ。 このゲームに関する、いろんな記事が載ってるんだ」
「やっぱりそうなんですね。 それで、何か面白い記事があったんですか?」
「うん、これだよ」
ジンが少しページをスクロールすると、そこには――
「……何ですか、これは……?」
「どうやら、さっきの試合を取材していた人がいるみたいだね」
愕然とした夜宵と、喜色満面なジン。
対照的な2人だが、見ている記事は同じものだ。
「『最強の美少女サムライ現る!? その名は夜宵!』……だって。 タイトルは安直だけど、写真は良いよね」
「良くありません……」
ノリノリなジンは楽しそうに記事を読んでいるが、夜宵は頭を抱えてしまった。
冒頭にはジンが読み上げたタイトルがでかでかと書かれており、写真は【飛燕翔閃】を放ったところを使われている。
非常に凛々しい表情で、今の彼女とは似ても似つかない。
頭が痛くなりそうではあるが、気にならないと言えば嘘になる。
のろのろとした動作でウィンドウに目を戻した夜宵は、気が進まないながらも、きちんと記事を読むことにした。
変なことが書かれていないか心配だったが、意外にもと言うべきか、内容は普通である。
若干脚色されてあったり、彼女の容姿を褒め称えている箇所が多いものの、それ以外は起こったことをそのまま書いていた。
試合が終わってすぐに掲載されたようなので、小細工する時間がなかっただけかもしれない。
致命傷は免れたと思った夜宵は大きく息を吐き出したが、別の記事が目に入った瞬間に、頬を引きつらせた。
「ジンさん……どう言うことですか……?」
「どうって……あぁ、試合が終わったあとに、インタビューされたんだよ。 夜宵さんのことがあったから、すぐに切り上げたけどね」
「この際、経緯はどうでも良いです。 内容について説明して下さい」
「説明と言われても、俺にだってわからないよ。 サッサと終わらせたかったから、適当に答えただけだし」
「適当過ぎるでしょう……」
「別に、放っておけば良くない?」
「そんな簡単に……もう良いです」
今度こそがっくりと崩れ落ちて、机に突っ伏す夜宵。
彼女が読んだ記事のタイトルは、『熱愛発覚! ジンにパートナー誕生!』だ。
内容はあることないこと――どころか、ほとんどがないことないことで、2人の馴れ初めまで捏造されている。
唯一真実だと言えるのは、ジンが夜宵をパートナーと呼んでいることだけだ。
この短時間に様々なことが起こった夜宵は、いよいよもって泣き出しそうである。
そんな彼女を見て、やり過ぎたと反省したジンはウィンドウを消して、元気付けるように声を発した。
「まぁ、ここはプラスに考えよう。 今日の1戦と、このデマのお陰で、夜宵さんは一気に有名プレイヤーの仲間入りだよ」
「わたしは有名になんて、なりたくありませんでした……」
「俺は嬉しいけどね。 夜宵さんの凄さを、皆に知ってもらえて」
「ジンさんの期待に応えられたのは、良かったですけど……。 でも、何か違うと言いますか……」
尚もブツブツ文句を言う夜宵に、ジンは苦笑を滲ませる。
そこで、後回しにしていた話題を持ち出すことにした。
「それより夜宵さん、確認してみたら?」
「確認って……何をですか?」
「試合の報酬。 ドロップアイテムはないけど、アルムが増えてるはずだよ」
「あ、忘れてました。 どれくらいもらえてるんでしょう」
アルムとは、ゲーム内通貨の名称である。
ジンの言葉を聞いた夜宵は、どことなくソワソワしながらウィンドウを操作した。
そして、所持金を確認したのだが――
「……」
「……夜宵さん?」
「ジンさん、これ、何かの間違いじゃないですか……?」
「俺は別に問題なかったけど、どうかした?」
「多過ぎません……?」
「そう? 別に普通だと思うよ」
「これが普通なんですか……」
金銭感覚の違いに唖然としつつ、夜宵は改めて所持金を数える。
実際、金額的には法外な訳ではないが、金欠がデフォルトな彼女にとっては、大きな収入だ。
戸惑いはありながらも、徐々に喜びが勝って来た夜宵。
そんな彼女に対してジンは、ズバッと核心を突く。
「夜宵さんって、あまりお金持ってないの?」
「う……すみません……」
「いやいや、謝らなくて良いんだけど。 今後の方針にも関わるから、どうなのかと思って」
「……具体的な額は言いませんけど、少ない方だと思います」
「なるほどね」
そこで言葉を切ったジンは、おとがいに手を当てて何やら思案し始めた。
彼が何を考えているのかわからない夜宵は小首を傾げていたが、やがて答えを出したジンが邪悪に笑う。
嫌な予感がした夜宵が問い詰めようとすると、その前にジンが強引に話を締め括った。
「疲れてるだろうし、今日はここまでにしようか。 明日も同じくらいの時間にイン出来る?」
「大丈夫ですけど、何をするつもりなんですか……?」
「それは明日になってからのお楽しみ……と言いたいところだけど、また何かあったら困るから話しておこうか。 夜宵さんが良ければ、明日もコロシアムに来ようと思う」
「そんなに心配しなくても、もう平気ですよ。 1種のリハビリにもなりますし、わたしも来たいです」
「なら決まりだね。 あ、デイリーは先に済ませようか」
「そうしてもらえると、助かります」
「オーケー。 じゃあ……今日は本当にごめん、それと有難う。 また明日」
一息にそう言うと、ジンは返事も聞かずログアウトしてしまった。
あっと言う間の出来事で、夜宵は目をパチクリさせて見送ったが、彼が照れ隠しをしていたのはわかっている。
1人になった選手控室で苦笑を浮かべた夜宵は、ドレスに着替え直してから自身もログアウト画面を呼び出し、現実へと帰って行った。




