32話 旦那様から奪いました
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「、、、、レス、セレス。」
その時、私は滴定の作業に没頭していた。
コックを慎重に慎重に開けて、試薬を一滴、一滴とフラスコ内の薬液の中に落とす。
薬液の色の変化がゆっくりになってきた。
もう少し、間隔をあけて落とした方がいい。
一滴、、、、、一滴、、、、
「セレス。」
はっと、私は叔父に呼び掛けられている事に気付いた。
今、肩も叩かれたような気がしたが、肩に叔父の手はない。気のせいだろうか。
隣に来ていた叔父を見上げると、叔父は私ではなく、後方を見ていて、その顔は少し妖しげに笑っていた。
「叔父様?」
「ああ、セレス。アーノルド君が迎えに来てるよ。」
叔父は私にはにっこりしてそう言った。
「旦那様が?」
私も後ろを向くと、部屋の入り口に険しい顔をしたアーノルドが立っていた。
ああいう表情は珍しい。
何かあったんだろうか。
「後は私がやっておこう。セレスはもう帰りなさい。明日は休みだろう?ゆっくり週末を過ごしなさい。」
「分かりました。では、失礼します。」
私は席を叔父と変わると、帰り支度をしてアーノルドと外へ出た。
アーノルドは険しい顔ではなくなっていたが、少し不機嫌なようだ。
「迎えに来るなんて、どうしたんですか?初めてですね。」
「妻を迎えに来ただけだよ。」
おや?
何だか、アーノルドが凄く不機嫌だ。
こんなのは初めてかもしれない。どうしたんだろう。
「、、、何か、お疲れですか?」
「、、、別に。」
「そうですか。」
とりあえず、今晩の告白も早々に諦めることにして、私は家路を急いだ。
子爵邸に帰ってからもアーノルドはむすっとしていて、夕食でもほとんどしゃべらなかった。
魔法塔で何かあったんだろうか。
夕食後、バートンに何か知っているかこっそり聞いてみたが、バートンも分からない、との事だった。
でも、気が立っている時に聞いても逆効果だろうし今晩はそっとしておく事にする。
明日は休みだし、明日の朝、事情を聞いてみよう。
、、、、この調子が続くなら明日の告白も無理だろうな。
自室に引き上げてから私はそう思った。
どこかにほっとしている気持ちもある。
、、、、、嫌だな。
こういう風にずるずる先延ばしするのが良くない事は知っているし、何より嫌いだ。
私は普段は、気の進まない仕事から手をつけるし、苦手な物から食べる質なのだ。
こういうのは、私らしくない。
最近、旦那様かっこいい、にも慣れてきたし、そろそろ顔もちゃんと見れそうだ。
明日の朝こそ、謝罪しよう。
違う、告白して、謝罪しよう。
私はそう決意して、お風呂に入った。
風呂で決意をより強固にしてから、寝間着に着替えて読書灯だけ付けて本を読んでいる時だった。
コンコン、
と部屋の扉がノックされた。
アーノルドの部屋と繋がっていない方の、部屋の入り口の扉だ。
こんな夜にマリーだろうか。
「はい。」
返事をしてショールを羽織り、扉まで行く。
「誰ですか?」
「俺、確かめたいことがあるんだ。」
扉の外からは、硬いアーノルドの声がした。
何だろう、怒ってる?
怒ってるというよりは、警戒している、というか、怖がっているというか、そんな感じだ。
私はそっと扉を開けた。
そこには、寛いだ服装のアーノルドが立っていた。
「、、、旦那様?」
アーノルドは傷付いた顔をしていた。
そして、さっと私の左手をとった。
やばいっ。
と思った時にはもう手を掴まれていて、もちろん、燃えていなかった。
「、、、燃えない。」
アーノルドはそうつぶやくと、ぐっと私の手首を掴んで引っ張ると強引に私の部屋へと入った。
バンッと扉が荒々しく閉められる。
「っ、、、、。」
びっくりして声が出ない。
掴まれた手首が少し痛い。
私はそのまま両手を捕られて、アーノルドに壁に押し付けられた。
「俺が気付かないとでも思った?」
アーノルドが切羽詰まった声で、詰め寄ってくる。
「ねえ、気付かないと思った?薔薇の様子が変だって事。ずっと顔が強ばってるし、俺と目を合わせない事も、やたらとどもる事も、気付いてないと思ってた?」
裏切られた、というような声でアーノルドが言う。
「あの、」
「呪いを解いたの?」
「、、、はい。すいません。」
私は消え入りそうな声で、そう言うのがやっとだった。
ああ、バレていたんだ、、、。
アーノルドを傷付けてしまったと後悔する。
やっぱり、勝手にキスした事はよくなかった。そういった事は、互いの合意の元するものだ。
たとえ、アーノルドが以前私を好きだったとしても、今はそういう気持ちがないなら、呪いを解くためにとお願いして、合意をとるべきだったのだ。
「いつ解いたの?」
「1週間ほど前です。」
「俺が帰ってきて寝込んでた時?」
「そうです。」
アーノルドは絶句した。
目に獰猛で妖しい光が宿る。
「それはひどくないか?自業自得とはいえ、夫が寝込んでいる時に?」
「、、、ごめんなさい。」
「くそっ。」
ぐっと、私の左手を握る手に力が入り、壁から浮かされたので、私は叩きつけられると思ってぎゅっと目をつむった。
「、、、、。」
叩きつけられる代わりに、左手はそっとまた壁に置かれた。
私が目を開けると、アーノルドは私の肩に自分の頭を預けてきた。両手が解放されて、アーノルドは私をきつく抱き締める。
え?
抱き締める力は強いけど、痛いという程ではない。でもぎゅうっと狂おしく抱き締められて、心臓がドキドキする。息が止まりそうだ。
寝間着越しにアーノルドの体温が伝わってきて、顔が熱くなる。
「、、、、、、こんな形で触れても嬉しくないよ。」
アーノルドは苦しげにそう言った。
羽織っていたショールは、部屋に引っ張り込まれた時に落ちてしまったので、アーノルドの息が直に首にかかる。
「ひどいよ。せめて、言って欲しかった。一言、相談してくれてたら、俺だって、、、。」
「ごめんなさい。」
「好きなことくらい知ってたし、、、でも、何も言わないのはひどいと思う。俺、夫なんだよ?」
「ごめんなさい、勝手に唇を奪ってしまって。」
「今さら、謝られても、、、、、勝手に奪った?」
アーノルドが私の肩から顔を上げた。抱き締めていた腕が少し緩む。
「同意を取るべきでした。」
「ちょっと待って、薔薇、勝手に奪ったの?」
「はい。」
「どうやって?」
「寝ている時に、、、。」
何だか話が噛み合っていない。
勝手にキスした事を今、怒っていたのではないのだろうか。
「え?でも、薔薇がお願いしたらキスくらいしてくれるだろう?呪いのためだし、、、、。」
「確かにお願いするべきでした。本当にごめんなさい。好きなんだと気付いて、動転したまま、とりあえず呪いを解いておこう、と行動に移してしまいました。」
「気付いて動転って、前から好きだろ?、、、、、あれ?薔薇は、、、、誰からキスを奪ったの?」
「え?旦那様から。」
私の返答にアーノルドは完全に固まった。
どれくらい固まっていただろう。
やっとアーノルドは口を開いた。
「、、、、、俺から?」
「はい。」
「え?俺、薔薇とキスしたの?」
アーノルドは自分の唇に手をあてる。
そんな事をされると、キスした時の感触を思い出してしまって顔が熱くなる。
「はい。私が、勝手に。その事を怒っていたのではないのですか?」
「いや、えっ、え?どうしよう、いろいろ追い付かないよ、薔薇。」
「ですから、旦那様が薬で眠っている時に、私が勝手にキスして呪いを解きました。」
しーん、と2人の間に沈黙がおりた。
「、、、、ちょっと待って、薔薇は、俺の事が好きなの?」
「はい。」
「、、、、嘘。」
アーノルドの頬が赤く染まる。
嬉しそうに見えてしまうのはきっと、私の願望からなのだろう。
「すいません、旦那様はもう私を好きではないのに、タイミングが悪かったですね。」
「え?何言ってるの?」
アーノルドは少し険しい顔になった。目が強く光る。
「ですから、貴方は私の事を前のように好きではな、」
そこで、私はアーノルドにキスで口を塞がれた。
「ん、、。」
アーノルドの左手が後頭部に回されて、大きな手でがっちり顔が固定される。
がっちり固定しているのに、キスはすごく優しくて、しかも前に私からしたキスとは全然違う。
同じ触れてるだけのキスなのに、何だか熱い。一旦、離された後も角度を変えて、唇でほんの少し食みながら二度、三度とキスされる。
頭がぐるぐるして、息が止まり、食まれる度に愛されてるような気持ちになる。
アーノルドの右手はまたきつく、私を抱き締めた。
何度目かのキスの後、アーノルドは顔を離すと私を真っ直ぐ見て言った。
「好きだよ、愛してる、セレス。」
私はびっくりしてアーノルドを見た。
「俺がもう君を好きじゃないなんて、馬鹿なの?どうしてそうなるの。」
それを聞いて、気持ちがゆるゆるとほどけるのが分かった。
ほっとしたからか、嬉しいからか、瞳が潤む。
「最近は、前ほど鬱陶しくなかったので。」
そう言った私の声は甘い涙声で、そんな声が自分から出た事に私は驚いた。
アーノルドが私の頬にそっと触れる。
「鬱陶しいなんて、ひどいな。」
そう言いながら、愛しそうに私の頬を撫でた。