9.店長と別れた話
ドアガラスを軽く叩く。店長と目が合った。ドアを開けて助手席に座る。
「待たせてごめん」
「もうええの? もっとゆっくりしててええのに」
「先月も会ったばっかだし。また年末も帰るから大丈夫」
「そうか」
店長はエンジンをかけてアクセルを踏みこんだ。
「父さんと……なに話したの?」
「ああ……世間話」
「って?」
「娘を送ってくださってありがとうございますーとか。いえいえどういたしましてーとか?」
「それで? 飲食店の店長だって言ったんだ?」
「いやあ。なんか流れでキャバクラの店長ですうーって言うてもうたわ」
「へっ?!」
「あ、おまえがキャストなんもな。ごめんやで」
「嘘でしょ?!」
「いや、おれ嘘はよう言わんし。あ、それにお付き合いしてますーともな」
「い……言ったの?!」
「言うてもたなあ」
「……嘘でしょ」
「嘘なんかなあ」
あたしは運転席に顔をむけた。店長の視線はフロントガラスから動かない。
「おれたち、もう別れたんやっけ?」
「…………」
「まだ話す気になれへんか? ……ま、昨日の今日やしな。こんな状況やったし。しゃあないか」
「…………」
「せやったら……」
別れよか、と店長は言った。平坦な声だった。なに飲もか、ぐらいの軽いテンションだった。余裕ぶったいつもの横顔。目が少し充血してるのは徹夜の運転のせいだと思う。あたしはスカートの膝を見つめた。なんだ。店長のなかではもう答えが出てるんじゃん。だったら何であたしに聞くの。ばかみたい。色管とか就活とかもっと先の――先のこととか。いろいろ悩んでたのはあたしだけなんだ。ほんとに、ばかみたい。
「…………分かった」
「ほなそういうことで。今までありがとうな」
「……うん……ありがと」
スカートにぽたぽたと滴が落ちる。泣いても無駄だって分かってるのに――涙は勝手にあたしの両目から溢れてくる。
「あんな、帰る前に仮眠したいんやけど」
「……うん。徹夜だったもんね。あたしが運転しよか?」
「今のおまえは無理やろ? ラブホ寄ってもええ?」
あたしは首を縦にふった。掠れて声が出なかった。店長はカーナビを操作して、なにも言わずにハンドルを切った。
◆
店長は仮眠しなかった。
けばけばしいピンクのシーツの上であたしが泣き続けたから。
「なあ。なんで泣くん?」
「…………分かんない」
「なに考えてるん?」
「…………分かんない」
「自分のことやん? ほんまはあるんやろ? おれに言いたいこととか。腹んなかで思てることとか」
「…………言いたくない」
「ええから。言うてみいや」
ドスのきいた低い声にあたしは思わず目を上げる。店長と視線がぶつかる。見たこともない真剣な顔だ。
――本気なんだ。
今ここで話さなかったら、もう二度と話せないかもしれない。だけど心をさらけ出して拒絶されたら――傷が深すぎて一生抉れたままかもしれない。
「……怖い」
怖い。本音を言うのは怖い。怖い。別れるのも怖い。怖い。怖い。怖い。嫌だ。
「……騙されてたらって思うのが怖い」
「ああ」
「……卒業したら離ればなれになるのも怖い」
「ああ」
「もうやだ……」
口を開いたら止まらなかった。
あたしにばっか聞くけど店長だって自分の気持ち話してくれないじゃん! 好きって言ってほしかっただけなのにキレ気味に返されたし! 色管だって質問返しばっかだし! 店長だってずるい! 別れたくないよ! 卒業しても一緒にいたい! でもそんなの無理じゃん! 無理だったら諦めるしかないじゃん! どんなに望んでも無理なもんは無理じゃん! だったらあたしの気持ちなんてどーでもいいでしょ!
「おまえかてキレ気味やん」
「だって! 店長が言えって言うから!」
「そうやなあ」
冷たい指先があたしの頬をぬぐう。店長の目が優しい。さっきは尖ったナイフみたいだったのに。
「おまえの気持ちはおまえのもんやし。別に全部話してくれんでもええけど。でもこうして話してくれた方がおれは嬉しい」
「……うそ。うざいとか思ってんでしょ」
「思ってへん。おれも怖いし」
「は? なにが?」
「は? っておまえ……おれだって怖いわ。おまえがなに考えとんのかとか。おれのこと好きかとか。ずるいのは分かってるけどな。こっちかて信じてもらえへんのは傷つくし。色管かって聞かれて正直アホかと思ったわ。んなわけあるか」
「あほって思ったんだ……」
「言葉の綾やって……いや、正直思たわ。イラっとしたし」
「イラっとしたんだ……」
「悪いな。おれも人間やからな」
唇を重ねられた。
「……なんで無理やて思うん? がんばって受験してええ大学入ったんやろ? バイトも勉強もようやって、ちゃんと望むもん手に入れてるやん。お前にベタ惚れな彼氏もおるんやし。なにが怖いん? これから先もそうしていけばええやん?」
「…………怖いよ。だって……無理なもんは無理じゃん。どんなにがんばっても、望んでも、無理なもんはあるじゃん。お母さんに会いたいって思ったら会える? 会いたいって言って会えるなら千回でも一万回でも言うよ。でも無理じゃん。父さんの心臓を治してくださいって言ったら治る? 無理でしょ。怖くても、誰かに言ってもどうしようもないこともいっぱいあるじゃん。相手を困らせるだけじゃん。あたしの気持ちなんて……どうでもよくない? 話したとこで何かが変わるなんて思えない」
「……せやなあ」
子どもにするみたいに、店長のおっきい手があたしの髪を梳く。何度も、何度も。だからあたしは子どもみたいに涙が止まらない。
「どうしようもないこともあるやんなあ。どうしようもないことは、どうしようもないからなあ。せやから……どうにかできることは一緒にどうにかせえへん?」
「……なにそれ」
静かに顔をのぞきこまれる。少し不安そうな、頼りなさそうな表情。年上の男の人もこんな表情をするんだって、あたしは初めて知る。
「おまえ一人で考えて、答えを出して、おまえの人生から一方的に締め出されるんは嫌や。ちゃんと関わらせてくれ」
フリーズするあたしを、店長は辛抱強く待った。よく待ってくれたと思う。だってこんなこと言われたの人生で初めてでなんて返していいのか分からない。我ながら面倒くさいことばっか言ってるのに、なんでそんなふうに言ってくれるの。あたしはそのまま口にした。
「なんでって……そんなん、好きやからに決まってるやん」
「……あたしも好き」
やっとフリーズが解けたあたしに、店長はまたキスをした。
◆
仙台を発ったのは、昼の遅い時間だった。
「よお寝たわ」
「うそ。ずっと起きてたじゃん」
「おまえもな」
店長はハンドルを握りながらすっきりとした顔をしてる。あたしはちょっと疲れた。
「夜には都内に戻れると思うし。ま、そしたらサヨナラってことで」
「……へ?」
「言うたやん? 別れよかって」
「だって……へ? さっきあんだけやっといて?」
「いや当分できへんしと思て」
「は? 当分って?」
店長はあたしを横目で見て笑う。
「別れよか」
今は、と言葉を続ける。
「……今は?」
「店、辞めるんやろ? 春になったら」
「うん……そのつもりだけど」
「おれと別れたら、もう色管とかぐちゃぐちゃ悩まんでええやん? その悩む時間、勉強とか就活とかに使いいや。おれも黒服に面目が立つし……オーナーにはバレてめたくそ怒られたけど」
「怒られたんだ……」
「あの人怒るとめちゃくちゃ怖いねん。ビビるわ。や……それはええねん。せやからな。春になって、おまえはうちのキャストやなくて、おれもおまえの店長やなくて。ただのおまえとおれでやり直さへん?」
「やり直す……?」
「飯でも食って、街歩いて、手でも繋いで。もいっぺん一から始めて、先のこととかも話し合って……あかん?」
「春まであと半年あるんだけど。それまでに……あたしに好きな人ができたら?」
「泣くほどおれが大好きやのに? 他に好きな男ができそうなん?」
「……意地悪。ほんとは店長に好きな人ができたらって聞きたかったの」
「おまえにベタ惚れや言うてんのに?」
あたしは無言で窓を見つめる。顔が熱くてたまらない。冷房入れた方がいいんじゃないの、この車。
「照れんなや」
「……照れてないし」
「新大久保にな、うまいネパール料理屋があんねん。現地にいるみたいなディープな店でなあ。いや、ネパール行ったことないけどな。どや? 春になったら?」
窓を流れる稜線に白い山が重なって見える。ネパール。ナナは毎日どんなものを食べてるんだろ。同じ食べ物もあるのかな。
「……うん。行ってみたい」
「美味いで。スチームモモとか」
「桃? 桃の蒸し料理なの?」
「いや、たぶんおまえの想像とはちゃう奴やわ」
パニプリ、ダルカレー、スクティサデコ……呪文みたいな料理の名前を店長が機嫌よくつぶやいてる。その声が心地よくて、だんだん眠くなってくる。まだ見たことのない料理を頭のなかで浮かべながら――あたしは目を閉じる。春になったら――店長と別れたあたしは、また店長と出会い直す。それから。それから? その先を思うと今はなんだか楽しみで――あたしは春が待ち遠しい。
■読者の方へ■
最後までご覧いただきありがとうございます!
まどかと店長は長編小説『サイコとおおかみ』にも登場します。今後の二人の話は、6-7話【おまわりさん?】で、まどかと初カレの話は、第二章【キャバクラ潜入】に出てきます。もしよければどうぞ(^^)
『サイコとおおかみ』
https://ncode.syosetu.com/n2710hz/
まどかと店長の話(……痴話ゲンカ?)を気に入っていただけましたら、ブクマや評価、ご感想などお寄せいただければ大変嬉しいです。
それでは皆さま、よい春を!
■おまけ■
まどか父と店長の病室での会話を、活動報告に載せています。
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/2158306/blogkey/3121475/