8.彼氏、父親に挨拶する
病院に着いたのは朝の八時前だった。父さんは予想に反して――思いきり反して、元気だった。
「なんだ、まどか。こんな朝っぱらから。まだ面会時間じゃないだろ? 看護師さんたちにご迷惑なんじゃないか?」
「ばか親父ーーー!!」
同室の患者さんたちの迷惑にならないよう、あたしは父さんの耳元で声を殺して怒鳴った。ベッドの横に叔母さんが座って、同意するように頷いてる。
「もっと言ってやってよ、まどかちゃん。外出する時は薬を持ってってって、兄さんにいつも言ってるのに。昨日に限って忘れたなんてね」
「だってねえ、S木さんとこの息子さんがやっと試験に受かったんだ。祝いの席だよ? 薬を取りに帰るのも無粋だと思って……」
子どもみたいに口を尖らせる父さんをじろりと睨む。父さんは頭をかいた。まったく。あたしが高校生の時に、父さんは倒れて入院したことがある。それ以来いつも心臓の薬を持ち歩くよう言われてるのに。
「母さんがいたら怒鳴られるよ」
「大丈夫だ。美枝さんからまだ来るなって追い払われるよ」
父さんと母さんは仲が良くて、あたしはそんな二人を見るのが好きだった。母さんは、あたしが小学生の時に亡くなった。料理は下手だしマイペースな人だったけど、きれいで優しくて子ども心に自慢だった。
「ところで、まどか……その、ねえ」
父さんが咳払いする。叔母さんも顔を上げる。
「その……その、なんだ。その方は……どなたかな?」
二人の視線があたしを素通りする。困惑の視線をむけられて、店長はへらりと笑った。
◆
叔母さんとあたしは売店に行った。特に買う物なんてない。十分前、父さんが叔母さんと意味ありげに視線を交わして、叔母さんは「そうだ! まどかちゃん、病院の売店っていろいろ置いてあるのよ。叔母さんと見にいこっか?」とあたしをわざとらしく連れ出したのだ。店長は病室で父さんとふたりきり。一体なにを話しているのか。気になりすぎて落ち着かない。
「気になる? 兄さんたち」
「え……と。はい。正直めちゃくちゃ気になります」
「ははっ、そっか。まどかちゃん、あの人とお付き合いしてるの?」
「ええと…………まあ」
「ずいぶん派手な人だけど、お仕事は何をされてるの?」
「何って……」
キャバクラの店長で、あたしはその店でキャストのバイトしてます。なんてとても言えない。
「飲食関係の仕事を……」
「ふうん。けっこう年上みたいだけど、結婚とか考えてるの?」
「へっ?! いや……まさか! 就職だってまだなんだよ?」
「そうだね。まどかちゃんは帰ってくると思ってたけどな。兄さんも一人だし」
「……帰る……つもりだけど」
「あの人がこっちに来てくれるならいいけどね。もしまだ真剣なお付き合いじゃないなら……こっちでいい人を見つけてみたら? 兄さんもその方が安心すると思う。口に出しては言わないだろうけど」
「……うん……分かってる」
「ま、でも東京から仙台まで運転してくれるなんて、優しい人だとは思うけどね」
東京じゃないよ、大阪なんだ、と心のなかで訂正する。そう。優しい人だ。あたしが失恋したら愚痴を聞いてくれて、酔っ払ったあたしを介抱してくれて、大阪まで迎えに来てくれて、今度は仙台まで送ってくれた――なんの得にもならないのに。強引に見えても、あたしに無理強いしたことは一度もない。不安とかモヤモヤとかに押し潰されて見えなくなってたけど、そう――優しい人なんだ。
◆
病室の扉を開けると、店長も父さんも無言でうつむいていた。え、なんなのこれ、どういう沈黙? 店長はスマホをポケットに入れて、椅子から立ち上がった。
「ほな、お大事に」
「ああ、ありがとう。帰りも安全運転でね」
「待って! あたしも一緒にっ……」
店長はきょとんと首を横にたおす。
「どしたん? 連れてくだけ連れてきて置いてったりせえへんし。先、駐車場いってるし、ゆっくりしいや」
父さんと叔母さんに会釈して、あたしの手の甲に手を掠らせて、店長は病室のドアを閉めた。
「飲食店の店長さんなんだって? あの人」
「うん……そう。バイト先の」
「見た目と違って真面目な人だね」
「……うん。そうなんだ」
二人でなにを話したんだろ。あたしの視線を意に介さずに、父さんは笑顔になる。
「どうだ? 就活は順調か?」
「うん……まあ……安心してよ。こっちに帰るつもりだし。もう父さんに薬忘れさせたりしないからさ」
「帰りたいのか?」
「……かえり……」
あたしは言葉に詰まる。叔母さんの言うとおり、店長が仙台に来てくれたら――なんて絶対にあるわけない。店長は優しい人だけど、そういう優しさじゃない。卒業して離ればなれになるんなら、このまま別れた方がいいのかもしれない。色管でも色管じゃなくても――あたしがなにを望んでも、いつか別れる時が来るんだったら。
「別にこっちで就職しなくてもいいよ」
「ちょっと兄さん、またそんな強がり言って……ほんとは兄さんだって帰ってきてほしいんでしょ?」
「いや、強がりじゃないよ。ほんとにそう思ってるから。まどかが好きな場所で好きなことをしてくれるのが、ぼくは一番嬉しい」
「でも……父さんはこっちで一人だし……」
「一人じゃない。美枝さんもいるよ」
「ちょっとちょっと……兄さん? 大丈夫? 美枝さんはもう亡くなったじゃない。記憶が混乱してるの?」
「はは、大丈夫、亡くなったのは分かってるよ。だけどねえ、美枝さんはいつも心のなかにいるからね。朝起きたときも、夜眠るときにも、隣に美枝さんがいるような気がして。大切な人はどんなに離れても傍にいるんだ。まどかも同じだよ」
「だけど……あたしがこっちにいた方が……」
「そうよ、兄さん。いざって時も安心でしょ?」
「そうは言ってもね。仕事だって転勤があるかもしれないし、もしこっちで結婚しても今度は相手のご実家との兼ね合いもあるだろ? 先のことなんて分からないよ」
「まあ……それは兄さんの言うとおりだけど」
「だからね、まどか。きみが何かを選ばない理由に、ぼくを使わないで。ちゃんと自分の心と向き合いなさい」
あたしは何も言えなかった。心のなかを見透かされたようで。
「まどかの幸せを願ってるんだ。ぼくも叔母さんもね」
「……うん」
「須藤さん、車にいるんだろ? あまり待たせたら悪いよ」
「うん……もう行く。じゃあね。薬忘れないでよ。叔母さん、よろしくお願いします」
「ええ。あ……あのね、まどかちゃん」
「はい?」
「さっきの売店での話ね。叔母さん、いろいろ言ったけど……余計なことだったかも」
「……ううん。ありがと、叔母さん」
白い病室に二人を残して、あたしは駐車場に走った。
このあと、19時台に最終話も投稿します。