魔王
王国が滅び、人口が減ると、不思議と魔物は弱体化することが知られている。
そしてまた人が『支配の王冠』を取り戻し、繁栄すると、魔物は後を追うように強くなるのだ。
そのきっかけは、やれ人類側の魔法学の過度な発達であるとか、大気に満ちる魔力量の飽和であるとか、様々なことが論じられていたが、どれも裏付けは取られていなかった。
しかし、今。
アクアフィーナが目にしている光景は。
トルエノはもう、従来の魔物を完全に超越している。
言葉を話し、魔物を統率する魔物は――【魔王】と呼ぶにふさわしい。
人間を倒す過程で、精霊術を身に着け、魔物に【つなが】り、命令する個体が生まれる。
そうして人類に対抗する術を得た魔物が【聖地】を破壊し、【支配の王冠】を手にすることで【魔王】となり、王国は滅亡するのだろう。
「この国が滅びるきっかけは……私が作ったのね……」
「アクアフィーナ様、危険です。こちらに来てください」
セリカの呼びかけに、アクアフィーナは首を振る。
「行けないわ……私、とんでもないことをしてしまった……!」
セリカは不可解だと感じたのか、アクアフィーナの言葉に眉をひそめたが、すぐに気を取り直したように魔術を使おうとした。
それを阻むように、黒いドレスが形を変えて急降下し、セリカに無数の刃を突き付ける。
「あなたの相手は私」
剣と盾で武装した魔物たちは、セリカを避けて、後ろに続く部隊に殺到した。
セリカが剣を抜き、油断なくトルエノに向かって構える。
トルエノの刃がセリカを狙って断続的に振り下ろされるのを、セリカは床を転げて回避した。
繰り出される鎌のような魔術の刃は、剣にまとわせていた強化の力ではじき返し、後ろに大きく跳ぶ。
「アクアフィーナ」
トルエノの呼び声が、動揺しているアクアフィーナの耳に届く。
「記念碑を壊して。わたしの名前をそこに刻んで」
「させない……っ!」
セリカの投擲した魔力は蜘蛛の網のように広がり、記念碑をべったりと覆い尽くした。
それが隙となったのだろう。
トルエノの刃が、セリカの足首を貫いた。
くずおれた彼女に、トルエノの刃がすべて重ねられ、振り下ろされる。
すべてを防ぎきれなかったセリカは、あちこちから出血することになった。
満身創痍のセリカに、トルエノがとどめを刺すようにして大きな鎌を突き立てる。
セリカは間一髪のところで剣で防いでいたが、トルエノは顔色も変えずに淡々と、次の振り下ろす刃を空中に溜め始めた。
アクアフィーナは見ていられなくなった。
ふらり、と立ち上がる。
魔術の粘糸で固められた記念碑に近づき、糸を払った。
手をかざすと、記念碑の使い方が分かった。
「我、ここに新たな名を刻む。我が名は――」
アクアフィーナはごくりと唾をのんだ。
頭がズキズキして、緊張で喉が渇く。
一瞬、トルエノの微笑みが脳裏をよぎった。
「――我が名は、アクアフィーナ。我が友、炎の魔神イフリートを、聖地の守護神に」
その瞬間、瓦礫と化していた駐屯地に、急に新鮮な魔力が吹き込んできた。
トルエノはすべての魔術をキャンセルされ、床にどさりと落ちる。
「なぜ……?」
打ち付けた身体を痛そうに起こしながら、トルエノがアクアフィーナに悲しそうな声を出す。
「あなたは、憎くはないの……?」
アクアフィーナは心臓を鷲掴みにされたような苦しみに耐えた。
一緒にこの王国を滅ぼそう。
トルエノがそう言い出したとき、確かにアクアフィーナは、それもいいな、と思ってしまったのだ。
「この国の王子はあなたを見殺しにしようとした」
「そうよ。憎いわ!」
「だったら、どうして……」
「私のせいなのよ! あなたをそんな風にしてしまったのは! だから私は――!」
トルエノは友達だった。みんなが気味の悪い子だと言っても、アクアフィーナはそうは思わなかった。
人と違うから、変わっているから。だから何だと言うのだ。アクアフィーナだって、強すぎる魔力のせいで、人から数えきれないくらい差別されてきた。嫌な目にも遭った。
トルエノに親切にすることで、自分自身も慰められたような気持ちになれた。
様々な記憶がよみがえってきて、アクアフィーナは喉が詰まった。
アクアフィーナはいつしか、泣きながら【治療】の精霊術をセリカにかけていた。
セリカの無事を確認し、アクアフィーナはーー
持てる力のすべてを使って、トルエノを倒すことにした。
「【招来】、我がかけがえのない友ら、炎の守護神イフリート、湖水の貴婦人ヴィヴィアン、鍛冶神テムジン、花女神サクヤ姫、土地公ツディシェンよ!」
アクアフィーナは誰よりも精霊に愛されていると言われてきた。
「汝ら持てる力のすべてで我が命果たすべし」
ひとりひとりが途方もない力を持つ精霊だ。
おびただしい量の魔石を飲み込んだ新生の魔王だって、全員をぶつければ、きっと無事では済まない。
「アクアフィーナ……? やめて……何を」
トルエノが目を見開いているのは、何よりも、アクアフィーナに裏切られたからなのだろう。
アクアフィーナは構わずに命じた。
「灰燼に帰せ!」
トルエノは、逃げることも忘れたように、ショックで立ち尽くしていた。
突然トルエノの足元に緑の大地が出現し、空間が歪んで、彼女の身体が不自然なほど小さくなり、豆粒ほどになって消えかけた。
空間の縮小から脱出し、必死に手を伸ばすトルエノに、今度は灼熱の炎が収束し、叩きつけられた流水でトルエノの手足が切られて吹き飛んだ。
体中に樹木が根を張り、不気味な花を咲かせてトルエノから魔力という魔力を吸い上げる。
最後に無数の刀剣が、トルエノの体を寸刻みに小さくしていった。
絶叫するトルエノに、アクアフィーナは力負けして、すべての精霊を一度帰す。
――倒しきれなかった……!
トルエノはまだ動けていない。今のうちにとどめを刺さなければと思うのに、アクアフィーナにはもう魔力が残っていなかった。
セリカが音もなくトルエノの背後に忍び寄ったのはそのときだ。
彼女はアクアフィーナに、何もするなとでもいうように首を振ってみせ、次いで、大きく剣を振りかぶった。
トルエノは床に切り伏せられ……
身を起こそうとして、すぐに努力を放棄した。
それは、諦めた、というより他のない動作だった。
抵抗しようと思えば、今の潤沢な魔力量を誇るトルエノなら、セリカとアクアフィーナふたりを同時に相手にして戦っても、決して負けはしないだろうに、なぜか彼女はそうする気がないようだった。
「……そう、ね。アクアフィーナ。あなたのせい、よ……」
トルエノの声は震えている。
まるで人間が泣いているかのようだったが、魔物が泣くなど聞いたことがない。
擬態型として、人の真似をしているのだろうか。
それとも――
「人の心なんて、知りたくなかった……人間なんか、嫌い……弱いくせに、誰かを、犠牲に、して、生き延び、る……」
セリカはもう一度剣を振り下ろした。
倒すまで何度も何度もそうするという確固たる意思で、トルエノを切り刻み続けていく。
アクアフィーナは途中で耐えられなくなって目を逸らした。
長い作業の末、トルエノのすべては魔力へと還元されていった。
――このときを最後に、トルエノらしき魔物は報告されていない。




