黒翼
「アクアフィーナ……」
沈んだ顔のリャマを励まし、セリカは再び王子に会うことにした。
来た道を戻るよう説得しなければ。
天幕の外に出ると、日光が目に突き刺さった。睡眠不足のときに何より辛いのは、この照り付ける太陽だ。
セリカはふと、大空に視線を奪われた。
――何か、飛んでいる……? 飛行型の魔物!?
大急ぎで精霊を呼び出し、空の一面に結界を張る。
奇妙な魔物は、行く手を遮る半透明の魔力による壁に、ばっさばっさと大きく翼をはばたかせて、その場に滞留した。
「撃ち落とします。頭上に注意してください」
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ!」
リャマが制止した、そのとき――
なぜか、魔物は馬上から白旗を振った。
リャマが、ぶ、と吹き出し、慌てて懐から取りだした扇子で口元を覆う。
どういうことかと問うように見つめると、リャマは呆れたように言った。
「……ねえ、あなた、白旗を振る魔物なんて見たことあって?」
「ありません……」
「そうよね。あれは魔物じゃないわ。ライネスの伝統魔法よ。とりあえず、結界を解いてあげてくださる?」
言われたとおりにすると、魔物は空地を見つけて、器用に着地した。
ばさりと翻した翼が、光の粒子になって、溶けて消える。
あとに残ったのは、ごく普通の馬と、騎手のレゼクだった。
「ペガサス……では、ありませんよね」
もしもそうであれば、相当に貴重な精霊だ。
乗っていたレゼクもこれには苦笑いをする。
「まさか。私の魔術だよ。馬に翼を生やして飛ぶ魔法、【黒翼】だ。必要な練度が高すぎるから、一般兵には適用できなくて、貴族のお遊びになってしまった伝統魔法だよ」
「久しぶりに見ましたわ、殿下の【黒翼】。相変わらずカッコつけだけはお上手ですのね」
「ああ、君の毒舌も久しぶりだね。元気そうで嬉しいよ、リャマ。あと、一個訂正させてもらってもいい?」
「なんですの?」
「私、全然かっこつけてないから。……ねえ、何かな、その、『嘘ばっかり』みたいな目つき。だいたいねえ、私は王子だよ? このぐらいで照れてたら生活できないって」
「つけてましたわよ? すーっごく得意げな顔してらっしゃいましたもの。えーえー、そうですわね、殿下の【黒翼】は他の方と比べても格段に見た目だけはかっこいいですものね。靴に羽根を生やして跳躍する【浮遊蹄鉄】の方がずっと省エネで早いのですけれど」
セリカはついふふっと声に出して笑ってしまった。
レゼクはきまり悪そうに「笑われちゃったよ」と言いながらリャマをにらんでいる。リャマは笑いつつ、じゃれるのは控えたようだ。
「ありがとうございます。今は一人でも多くの手を借りたいところでした。行きましょう、アクアフィーナ様が待っているはずです」
***
アクアフィーナは要塞に取り残されて、たったひとりで、泣きじゃくっていた。
「……ひっく、ひっく。ひどいよ……」
アクアフィーナは誰よりも、軍を辞めることだけを夢見ていた。
それなのに、最後の一人になるまで戦って死ななければならないなんて。
これほどの不条理があるだろうか。
全部、全部、アクアフィーナが精霊に祝福されたせいだ。
こんなに高い魔力がなければ、こんな目に遭わずに済んだのに。
どうしてアクアフィーナは、普通の少女に生まれてくることができなかったのだろう。そう思うと、涙が無限に流れてきた。
全軍が撤退してから数時間あまり。アクアフィーナは疲れと眠気でときどき結界をとぎらせつつ、敵が侵入してくるたびに、ハッと目を覚まして対処していた。
精霊に愛された聖女は、ひとりで戦場を変える力を持つ。だからアクアフィーナは、いつまでも死と隣り合わせの戦場に行かされるのだ。
こんなにも強い呪いが、他にあるのだろうか。
うつらうつらと、夢うつつで絶望に浸っているアクアフィーナが、次にハッと目を覚ましたとき、すぐそばに黒いドレスの少女がいた。
「……トルエノ!? どうしてここに……」
「一緒に、逃げましょう」
アクアフィーナは疲れで頭が呆けていたが、それでも怒りでいくらか元気を取り戻した。
「何を言ってるの!? 元はと言えばあなたがどこかに逃げてしまったからこんなことになったんじゃない!」
「ここにいても死ぬだけ」
「逃げられるものならとっくに逃げてるわよ!」
アクアフィーナはいまいましげに自分を閉じ込める檻に触れる。
彼女はその魔術拘束を見て、すべてを察したようだった。
指輪が浮く魔法陣に近寄り、あっという間に消してしまう。
解放されたアクアフィーナは、安堵と驚きと喜びで、感情がぐちゃぐちゃになった。
「あ……ありがとう……」
「魔石を持っていきましょう」
トルエノがすたすたと道を行く。
「ま、待って……っ」
アクアフィーナは慌てて後を追った。
駐屯地の廊下を渡り、大聖堂のある区画を目指す。
「あった」
魔石はまだ途方もないほどの大きさを保っていた。アクアフィーナがあれだけ精霊術を連発した後だというのに、まったく目減りしていない。
アクアフィーナは改めて魔石を持ち出す作戦の有用さを実感した。
アクアフィーナとトルエノはどちらも力の強い聖女だ。持てるだけ持って外に出れば、魔物がうろうろしていてもなんとか切り抜けられるかもしれない。
「下がって。もっと。……もっとよ。扉の外まで」
アクアフィーナがトルエノの命令にわけもわからず従うと、彼女はふっと、宙に浮いた。
ドレスの裾からインクで塗りつぶしたような真っ黒な瘴気があふれ出てきて、でたらめな生物状になる。
水棲の軟体動物のようでもあり、子どもが落書きした悪夢のようでもある奇妙な瘴気は、虫のようなうるさい羽音を立てて、魔石を一息に呑み込んだ。
アクアフィーナは驚きのあまり、しばらく口も利けずに震えていた。
禍々しい魔力の波動は、決して人間には出せないような種類のものだ。
ようやくアクアフィーナは、彼女の正体に思い至った。
――人型擬態の魔物……!
振り返ってみれば、おかしな点はいくつもあった。
「……ああ、そう、そうだったの……」
アクアフィーナたちが来たころを境に、急に発生するようになったイリスタリアの魔物大量出没事件。
魔力が強い人間を急に迎え入れた弊害かと思っていたが、そうではなかったのだ。
「あの魔物……全部、全部あなたが連れてきたのね?」
トルエノは答えない。
しかし、アクアフィーナはすでに確信していた。
出会いのころから、トルエノは少し変わっていた。
口が利けない不思議な少女。魔物に襲われていたところを偶然助け出し、声が出ないならと、精霊術をかけ、使い方を教えてあげた。
それが禁忌とされる【魅了】の術の亜種であることは、アクアフィーナも知っていた。でも、口が利けない少女に、他人と『つなが』る精霊術を教えるのが悪いことだとは、どうしても思えなかった。
トルエノが喋れるようになったとき、アクアフィーナは自分のしたことに誇らしささえ感じたのだ。人助けをしたのだと、信じて疑わなかった。
魔物だと知らなかっただなんて、言い訳にもならない。
あの行為が、トルエノに人の心の秘密や弱点を教えてしまったのだ。おそらくそれでトルエノは味を占めたに違いない。




