撤退
トルエノは、人に姿を変える、という、珍しい性質を持った魔物として生まれた。父や母は知らない。魔物は生殖に頼らず、魔力からひとりでに生まれてくる。
生まれてからずっと、魔物としての本能に従い、人間を誘い込み、騙して食べて生きていた。
大して長い生でもなかったように思う。
トルエノはすぐに噂をききつけて駆けつけてきたライネス軍に囲まれ、追い詰められることになった。
山奥の村で追い込まれ、退治されかけていたトルエノを救ってくれたのは、先ほどまでトルエノを追い立てて殺そうとしていたはずの、アクアフィーナ自身だった。
彼女は、トルエノの擬態に惑わされたらしい。
口のきけない無害な少女だと誤解したのか、精霊術を使ってトルエノに『つなげ』てきた。
――これでお話ができる? 私はアクアフィーナよ。あなたは?
そのときの感覚は筆舌に尽くしがたい。
それは、トルエノが初めて触れた、人の『心』だった。アクアフィーナが触れてくれたから、トルエノは知ることができたのだ。
人の悲しみ、楽しみ。そして、喜びを。
アクアフィーナだけは特別。
だから、トルエノはじっと闇に潜んで、彼女を見守っている。
***
明朝、王子は不機嫌な態度でアクアフィーナのいる軍司令部に姿を現した。
「おい。なぜ攻撃が止まっている?」
アクアフィーナがゆらりと焦点の怪しい目を王子に向ける。一睡もしていない彼女は、くっきりと濃いクマを作っており、涙袋がはれぼったく見えるほどだった。
「さっきから防衛しかしていないじゃないか! 魔石がもったいないだろう!? 無駄遣いはやめてとっとと魔物を掃討しろ!」
王子はあたりを見渡して、アクアフィーナしかいないことに眉をひそめた。
「トルエノとリャマはどうした!?」
アクアフィーナはぼんやりと頭を巡らせ、ゆうべ生き残りの騎士団員が持ち帰った報告を無機質に思い浮かべた。
もはや感情も死んでしまうほど、アクアフィーナは疲れていた。
アクアフィーナに代わって、すっと前に出たのは、騎士団長だった。
「殿下、ご報告いたします。聖女のトルエノ様は逃走。リャマ様は重傷で意識不明。騎士団は精鋭が半壊しました」
「はあっ……!? 他の連中は!? 攻撃に出られるメンツがひとりもいないわけじゃないだろう!?」
話を聞きつけてか、魔術師長がそばに寄ってきた。彼もアクアフィーナと同じような顔つきをしている。聖女に魔力を供出し続ける魔術師隊の面々は、騎士団長などに比べても疲労の度合いが段違いに高い。
「何名かは回せます。殿下が魔術師隊を率いて、前衛で指揮を行ってください」
「はあ!? なんで私が!?」
「籠城してても敵は倒せない。ごもっともです。しかし動ける指揮官が不足しています。この場でもっとも強力な魔術師で命令に慣れているのは、殿下、あなたです」
「ふざけるな、魔術師を前に出す馬鹿がどこにいる!? お前が前に出ろ!」
「では、殿下に要塞の防衛魔術すべてを管理できますか?」
ハイスベルトは舌打ちして、アクアフィーナに怒鳴りつける。
「お前はなぜここにいる!? 大聖女なら最前線に出るべきだろう! セリカはいつもそうしていたぞ!」
アクアフィーナはわなわなと震え出した。
屈辱で涙さえ浮かんでくる。
「私は! 一晩中! この城の大結界を維持していたんですよ!?」
「セリカなら三日四日は文句も言わずに戦っていた」
「朝までのうのうと寝ていた人がよくも……! 元はといえばあなたが……!」
アクアフィーナがぎゃんぎゃん怒って声を荒げるのをハイスベルトは一切無視して、周囲に語りかける。
「誰か、攻撃用の部隊を指揮できるものはいないのか? 防御だけじゃいずれ突破される」
誰も手を挙げないのを見て、ハイスベルトは失望したように酷薄な目つきであたりを睨みつけた。
「チッ、もういい。よくやったよ無能どもが」
ハイスベルトは騎士団長に向かって強い口調で命じる。
「撤退だ。【撤退】の信号を撃て」
ざわり、と、あたりに動揺が広がった。
「現時点でわが軍はこの駐屯地を破棄。撤退する」
アクアフィーナは聞き捨てならないというように、ハイスベルトに詰め寄った。もはや結界を維持している場合でもない。
「どこに逃げるっていうんですか!? ここよりも大きな魔石がある防衛拠点なんてないですよね!?」
「セリカだ。セリカを見つけだして戦わせる。あいつの戦績なら、この程度、防げないわけがない。そうだよな?」
話を振られた騎士団長もまた動揺していた。
「確かに、セリカ様なら戦えるでしょうが、しかし――」
「とにかく、あいつにやらせよう。すべての責任を負わせて、戦争が終わったら――戦犯として処刑してやるさ」
騎士団長や魔術師長が一斉に顔色を変えるが、王子に進言できるものは誰一人としていない。
「……処刑についてはまたあとで議論の余地があるかと思いますが、この場を切り抜けるにはセリカ様が必要だという話には同意いたします」
「だろう? 決まりだ。私たちは全員撤退する。――アクアフィーナ」
ハイスベルトはにこりと人のよさそうな笑みを浮かべてみせた。それは、かつてアクアフィーナが好きになった笑顔だった。甘い言葉で巧みに取り入ろうとする美しいハイスベルトの本性も知らずに、無邪気に恋をした。
「お前は殿としてこの城を死守するんだ」
しかし、真実のハイスベルトは、非情な男だった。
「全軍が撤退するまで、逃げることは許さないよ。逃げたら、お前も第一級の脱走兵として地獄の果てまで追い詰めて処刑してやる」
アクアフィーナは涙を浮かべながら訴える。
「そんな……! 私がセリカさんと合流するのが一番確実なっ……」
彼はアクアフィーナを無視して、指輪を取り出した。
それを、中枢部の中央にある、魔術を増幅するための魔法陣の上にセットする。
何をしようとしているのか察したアクアフィーナは、口を手で押さえた。
「婚約指輪を使った誓約魔法……!?」
「ご名答。婚約のときの書類に細工がしてあったんだよ。気づかなかっただろ? 元は生意気なセリカに首輪をつけるための術式だったけど、まさかこんな形で役立つとはね」
王子の使った魔法がアクアフィーナを結界の壁に閉じ込める。
アクアフィーナは一歩も動けなくなった。
「拘束がある限り、お前は死ぬまで大結界を維持し続けるしかないわけだ。せいぜい名誉のある戦いぶりを見せてくれよ? ――さあ、全軍撤退だ!」
反抗的な目つきの騎士団長に行先を阻まれ、ハイスベルトは瞬時に機嫌を悪くする。
「なんだその目は? 私に逆らうなら、まずはお前から魔物の群れに突っ込ませてやってもいいんだよ?」
「ぜひご命令ください。その方がどれだけマシか」
「へえ、お前、自分のくだらない正義感で、助かるかもしれない王国民も大勢巻き添えにしようってわけ? お前がそのポストにいる理由はなんだ? 正義感で自死するためか?」
王子はさらに声を張り上げた。
「王国民を守るためだろうが! はき違えるな!」
騎士団長はそれ以上なにも言い返さなかった。
静かに伝令兵に告げる。
「……【撤退】の信号を撃て。全軍すみやかに撤退しろ」
「そんな……! 嘘でしょう!?」
絶叫するアクアフィーナから目を逸らし、黙々と撤退の準備を進めていく。
ぞろぞろと人が去っていく司令部で、指輪の作った檻に囚われ、立ち尽くしたまま、アクアフィーナは静かに涙を流し続けた。
「ひどい……! こんなのって……!」
朝までに、きっとリャマたちも戻ってくる。
そう信じて不眠不休で結界を張り続けたのに。
死ぬまで続けろだなんて――!




