雌鶏
【魅了】の術を仕込んでいた囮から、仕込みが取り除かれたことは、かけた術者本人にも即座に伝わっていた。
コウモリ型の使い魔を通し、一部始終を観察し終わったトルエノは、ぐしゃっと魔力のつながりを握りつぶして、回線を断ち切った。
せっかく洗脳して魔石を集めさせていたのに、うまく行く前にダメになってしまった。トルエノの落胆は相当なものだったが、しかし、収穫もあった。
なかなか結界のある城から動こうとしなかった『めんどり』が、やっと警備の薄いところに移動したのだ。
――あのめんどり。ひと目見た時からおいしそうだと思っていた。
トルエノは空間を渡ると、音もなくめんどりの後ろに忍び寄った。
***
「リンテがまだ戻っていない、ですって?」
セリカが報せを受けたのは、もう日が暮れようとしている時間帯だった。
「はい。局まで郵便を預けに行くと言って、お出になったきりで」
リンテには、母親宛てに手紙を書いて出しに行くようお願いしたが、その作業にこれほど時間がかかるとは思えない。
嫌な予感がしたセリカは、局まで迎えに行くことにした。
馬に飛び乗り、暗くなりかけた道を急がせる。
いくらもいかないうちに、砂利道の途中で打ち捨てられた小さな馬車を見つけた。
リンテが乗っていたものに違いない。
馭者はいないのかと思いながら近寄ってみて、ぎょっとする。
座席には、大量の血しぶきが飛んでいた。
一緒にいたであろう、馭者や従者の姿すら見えない。
「リンテ……!? どこにいるの!?」
事故にでもあったのかと思い、あたりにリンテがうずくまっていないか探して回ったが、見当たらない。
「リンテ、リンテ!? いるなら返事してちょうだい!」
いよいよリンテの姿が見えないと分かるや、セリカは精霊に探してもらうことにした。
「枝の燭台、牧羊の鈴、小夜啼鳥の銀の先触れ」
わずかな痕跡を頼りに、妹の捜索をしてもらえるように、精霊に促す。
「白銀月にこそ黄道はあれ」
リンテの反応は、はるか彼方にあった。
少しずつ移動しているが、郵便局の方になど向かってはいない。
嫌な予感が的中した。やはり、妹の身に何かが起きたのだ。
遠ざかっていく妹の気配に、セリカは全力で後を追うことを即座に決定した。
***
計画はうまく行かなかったけど、おいしそうなめんどりは手に入った。
トルエノは上機嫌だった。
トルエノの狙っていためんどりは、すっかりトルエノの術にはまって、おとなしく彼女のあとをついてきている。
便利な術があったものだと、トルエノは満足を深めた。
めんどりに言うことを聞かせる魔法があればいいと、ずっと思っていた。
だってめんどりたちはとても警戒心が強くて、一匹でも間引こうものなら、すぐにパニックを起こすのだ。
これさえあれば、めんどりに騒がれることなく、一匹ずつ、好きなときに間引くことができる。
トルエノはめんどりを連れて、農民から接収した家屋に近づいていった。
そこが今夜のイリスタリア軍聖女の宿だと、あらかじめ教えられていたのだ。
イリスタリア軍は現在、駐屯地にほど近い村に新たな【異界の門】が現れ、その対応に動いていた。
――門を開けた張本人がトルエノだとも知らずに。
トルエノの帰還が知れ渡るや、二人の少女が飛び出てきた。
アクアフィーナとリャマだ。
「トルエノ、どこに行っていたの!?」
「そうよ、わたくしたちにだけ戦わせてひとりで……」
二人はトルエノに詰め寄ろうとしていたが、トルエノが連れてきためんどりを見るや、凍りついたように立ち止まった。
「……その子は誰?」
「【魅了】の術を使ったの?」
隠しても仕方がないことなので、トルエノはうなずいた。
すると二人は血相を変えた。
「ねえ、トルエノ。それ、むやみに使ってはならない禁呪ですのよ、教えましたでしょ?」
「そうよ。魔物に盗まれたら、大変なことになるのよ」
魔物には、心がない。
心がないから、人の心を理解できず、心を惑わせる術が使えない。言葉も話せず、人の言葉が書かれた書物の内容を理解することもない。
しかし、魔法の法則を『理解する』ことはできる。
人の心を操る術が禁忌とされるのは、魔物が魔法の法則を通して心を学習してしまう可能性があるからだ。
するとどうなるか――
「魔物が【魅了】の術を覚えると、ただの強い猛獣だったころとは比較にならないほどの人間を罠にかけて食べるようになるのよ」
トルエノは小さく首を振ると、アクアフィーナたちに向かってにっこりとほほ笑んだ。
「分かってる。他の魔物には、決して見つからないようにする。それにこの子、怪我してる。治したいけど暴れるから、大人しくなってもらった」
二人はあからさまにホッとしたようだった。
「それならいいけど……」
「わたし、大丈夫。アクアフィーナと、約束した。絶対に、破らない」
アクアフィーナがトルエノに【魅了】の術を教えてくれたとき、この術は決して他の魔物に見られないようにすること、そして、危害を加えるために他人に使わないことを約束させられた。
だから、トルエノはアクアフィーナの言いつけを守って、ずっと使わないできた。
――魔物の目の前と、アクアフィーナが親しくしている人間には。
トルエノには『他人』の概念がよく分からない。魔物にとっては、自分以外の個体はすべて『他人』だ。
だからトルエノは、イリスタリアに来られたことが本当に嬉しかった。
アクアフィーナにとって、イリスタリアの国民は全員『他人』に違いない。
「明日はちゃんと、一緒に戦う。今日はごめんなさい」
「……反省したならいいわ」
「寝る前に少しでも魔石作っておいてちょうだいね」
魔石。
トルエノの一番好きな食べ物だ。
めんどりが卵を産むように、精霊つきの人間は次から次に魔石を生み出してくれる。おかげでトルエノは、飢えに苦しむことがなくなった。
アクアフィーナたちは卵をうむめんどりだ。だから、食べたりはしない。
しかし――
トルエノは自分が連れてきためんどりの顎をつかまえて、とっくりと観察した。毛並みがよく、栄養状態もよさそうだ。きっと肉質もやわらかくて瑞々しいのだろう。
イリスタリアはいい国だ。精霊のついていない、野生のめんどりが豊富に生息している。飼い主がいないから、盗んでも誰からも怒られない。まるまると太ったおいしそうなめんどりがそこら中にうようよしているなんて、夢のようだ。
イリスタリア軍に集まっている聖女見習いの少女たちのように、たまごを大きく育ててくれたらもっといいが、産まず、育てないめんどりだって、食べればおいしい。
***
セリカは馬を飛ばしに飛ばして、本来なら一日かけて進む距離を夜半に駆け抜けた。
しかし、妹との距離は引き離されるばかりで、ちょうどイリスタリア軍の駐屯地のあたりまで遠ざかってしまっている。
――たったの数時間で、なんていう移動距離なの?
ますます嫌な予感がする。
馬術に関しては人一倍自信のあるセリカだって、一日でこの距離は走破できない。
では、妹はどうやって連れ去られたのか。
得体の知れない力が働いていることは確かだ。
――どうか無事でいて……!
今にも倒れそうな馬を水場で休ませながら、セリカには祈ることしかできなかった。




