プロローグ(2/3)
「私と同伴でパーティに出るときは、もうちょっと身ぎれいにしてって、いつも言っているよね? どうしたの、その目の下のクマ」
「ここ三日ほど激戦が続いていたもので」
「君が戦う必要はないって、いつも言っているじゃないか」
「目の前で魔物に襲われている人たちを見過ごすことはできません」
「だからさ、君が出ていく必要性の話をしてるんだよ。貴族令嬢の命と、平民の命。どっちが重いか、考えるまでもないじゃない? 平民なんて何人死んだっていいじゃないか、君が大怪我をする方がよっぽど損失だよ」
「私は、平民の命が失われるのを黙認できません」
ハイスベルトとのやり取りは、いつも平行線だった。
「セリカには自分が貴族令嬢だっていう自覚がないの? 髪の毛もいまだに伸ばしてくれていないし――」
ハイスベルトがセリカの髪に手を伸ばす。肩につくかつかないかの長さの毛先に、指先が届きかけ――
触れられたくない。
そう思ったセリカはとっさに、その手を叩き落としてしまった。
「……失礼。整髪料で固めてあるので、触れると手袋を汚してしまいます」
見え透いた嘘を述べるセリカを、王子がにらみつける。周囲もざわめいた。
「なあに?」
「また、王子殿下と大聖女様が……」
「まあ、またなの?」
ひそひそとした噂が切れ切れにセリカの耳に届く。
王子ハイスベルトとその婚約者の不仲は有名で、こうしてもめ事が起こるのも、一度二度のことではなかった。
ハイスベルトは周囲をはばかってか、少し声をひそめて、セリカにささやきかける。
「……調子に乗るなよ、セリカ。お前が大聖女などやっていられるのは、私の婚約者だからだ。私がお前との婚約を破棄すれば、お前は終わりなんだよ」
またその話か、とセリカはうんざりするとともに、一切の思考を止めた。彼は好きなだけ放言すれば満足するので、口を挟まずにじっと黙っているのが一番いいのだ。
「お前はどうして戦場に出たがるの? そんなに自分の力を誇示したい? 大したことないくせに思いあがるんじゃないっての。貴族令嬢だよ? 怪我などさせるわけにはいかないから周囲が必死にバックアップしているんだ。それを実力だとでも勘違いしている? 傑作だなぁ!」
遊び好きで享楽的なハイスベルトは、よく陰で無能だと囁かれている。本人もそのことを知ってか知らずか、セリカが褒められるようなことがあると、必ず激しく嫉妬し、セリカがいかに出しゃばりで嫌な女かをとくとくと説教してくるのだった。
小言を聞き流すうちに、睡魔がまたやってきた。
セリカは三日寝ていない。
ここ数日、魔物の進軍が激しくなっていて、その対応にずっと追われていた。王子がこうして呑気にパーティなどをしている今も、前線は血を流しながら戦っている。一刻も早く戻りたい、戻って戦いたい、というのがセリカの偽らざる本音だった。
それでもセリカが前線から一時退却し、ハイスベルトのパーティに出席したのは、彼との婚約が大事だったからだ。
――今から五年も前のこと。
セリカはこの王国で初めて起きた魔物の襲撃事件で、聖女として周囲を率いて戦い、勝利をおさめた。
しかし、魔物の襲撃はその後も相次ぎ、王国はたちまち火の海と化した。
それもそのはずで、イリスタリアにはセリカが現れるまで、一人も聖女がいなかったのである。
聖女不在の事実が明るみに出ると、王国は騒然となった――なぜ危険な状態を野放しにしておいたのか。国民は王を激しく責めたてた。
聖女を育成し、強力な軍隊を持つことは、魔物から国を守るために一定の効果を上げる。
しかし、まったく逆に、魔物が好むような、魔力の高い魔術師や聖女を置かないことで、国内を平和に保つ方法もあることを、ほとんどの国民は知らなかったのである。
魔物は強い魔力を持つ人間に惹かれる。かつて栄えた強力な魔法大国はすべて例外なく魔物の襲撃で滅んでいた。
魔法を禁じ、魔力の高いものの入国を制限してきたイリスタリアのような国の方が、不思議と長い歴史を残していたりするのだ。
国王は排斥主義を取っていたにすぎなかったが、王国民は国王の失策を激しく非難した。聖女の育成を怠り、魔法技術で大きく後れを取った原因は、国王の無能のせいである、と。
加速するバッシングを鎮め、王国にも強力な聖女がいるのだと喧伝する必要が出てきたとき、国王はセリカの名声を高めるために、自分の息子を利用した。ハイスベルトの婚約者とすることで、箔をつけたのだ。
王子が未来の妃をあちこちで紹介して回ったおかげで、セリカは大聖女として認知されていき、救世主のアイコンと化すことで、国内のパニックは落ち着いていった。
それ以来、セリカはずっとハイスベルトの言いなりだった。
なにしろ、彼に振られたらセリカは後ろ盾を失い、大聖女ではいられなくなる。
それにハイスベルトだって、好きでもない女性と結婚を強制されるのは嫌だろう。そう思うと、彼に申し訳なくもあった。
「……ねえ、ちゃんと聞いているの? 私は君が心配だから言ってるんだよ。前から何度も言ってるよね? 大聖女の仕事は現場に出て戦うことじゃない。君にはもっと他にすべきことがある、って」
それは一理ある、とセリカも思う。
だからといって、今こうしてパーティをするのが正しい大聖女の仕事だとは、どうしても思えないのだが。
ハイスベルトは昔からこういう男だった。
戦争はすべて部下任せで、自分は外交と称し、パーティ三昧。
パーティで強国とのコネクションを作るのももちろん大事なことだが、ハイスベルトはそうした仕事もしようとしない。国内の治安状況を知ろうともしない上に、セリカがいくら援軍を要請しても、ろくに連れてきてくれたことがないのだ。
いつしかセリカも理解していた。パーティが仕事というのは言い訳で、ハイスベルトはただ単に、楽しく遊んでいたいだけなのだ、と。
危険な場所から離れた王都で、着飾って談笑することに命をかけているこの男のことが、セリカはどうしても好きになれないでいる。
たくさんの王国民が魔物に襲われて苦しんでいるのに、助けにいこうとは思わないのだろうか。
セリカは戦場に置いてきた部下たちのことを思うと、とても楽しめる気分にはなれなかった。
ハイスベルトは白けたように聞き流しているセリカの表情に気づくと、引きつったような笑みを浮かべてみせた。
「あーあ、つい熱くなっちゃったよ。君みたいな馬鹿には何を言っても無駄なのにさ! まったく君ときたら、本当にかわいげがないよね」
ハイスベルトは世間話のついでにセリカをからかい、彼女にいかに魅力がないのかを他の令嬢と比べて語ったあと、ふいにある少女に目を留めた。
「ほら、ご覧よ、ライネス王国の聖女アクアフィーナだ」
ハイスベルトが視線をやった先に、ぱっちりとした大きな瞳の少女がいた。雪のように白い肌と淡い赤褐色を帯びた金髪の、小柄な娘だ。
微笑んだときの愛らしい表情に、誰もが見入っている。
「同じ聖女なのに、どうしてこうも違うのかな? 彼女が精巧な陶磁器の人形だとしたら、君はまるで病気持ちの野良犬じゃないか」
からかい口調のハイスベルトに、セリカはむっとしたまま押し黙る。言い返したいことはたくさんあったが、言えば言うほどハイスベルトはむきになるのだ。女が男に意見をするものではないと何度責められただろう。