恋の魔法
「はい。実家に戻ろうかと思っているのですが」
「あーいいねぇ。少し休みを取るのも大事なことだよ。戻ったあとは、どうするとか考えてる?」
「今、実家は没落寸前で……それというのも私が殿下から婚約を破棄されてしまったせいなのですが、戻って、力になれることがあるなら何でもするつもりです」
「立派な心がけだね! 確かにそれはとても大切なことだよ」
レゼクは「でも」と言い、すっと距離を詰めてきた。
内緒話ができる近さにまで顔を寄せてきたので、セリカは反射的に避けてしまいそうになった。
かろうじて堪えたのは、王子相手に露骨な拒絶の動作をするのはどうかという自制心が働いたせいだった。
「な……何でしょうか?」
「私は君が欲しくなった」
セリカはぎょっとした。
笑顔でなんてことを言うのだろうと思ったが、レゼクはそんなセリカの様子に気づいていないようだ。
「ここ三日間、君の仕事ぶりを見せてもらった。はっきり言えば、君はうちから出て行ったあの三人を合わせても足元にも及ばないくらい強い」
「え……まさか、そんなはずは」
お世辞にしても言い過ぎだろうとセリカは思う。
「私の言うことが信じられない? これでも私はもう何年もライネスの戦場にいるんだよ。けど、君ほど訓練を積んだ聖女は見たことがない。この国には長く君以外の聖女がいなかったそうだけど、それも納得だ。君さえ側にいてくれたら、あとは何もいらない」
熱っぽくささやくので、セリカはもう少しで口説かれているのかと勘違いしそうになった。
「君の望みは実家の復興? なら、ライネスに来るといい。ご両親ともども叙勲叙爵の雨あられで迎えようじゃないか。ほかに望みは? 何でも言ってくれていいよ」
セリカは一体何の冗談なのかと思っていたが、レゼクはいたって真剣な顔つきをしていた。
「君に選ばれるためなら、何でもしよう。どうしてほしい? 言ってみて」
セリカはふと、人の気配を感じた。複数人から様子を窺われているような、そんな気がしたのだ。
見れば、レゼクの後ろに、ハイスベルトとアクアフィーナが立っている。
「殿下、後ろに……」
「仲がいいんだねえ、君たち」
ハイスベルトの嫌味ったらしい声かけに、レゼクの顔から一切の微笑みが消え失せた。
「その女に目を付けたの? まぁ、私が三人も引き抜いちゃったからね。誰でもいいから引き抜きたいって気持ちは分かるけどさ、その女は止めておいた方がいいんじゃない? 私は五年も我慢して付き合ったけど、やっぱりダメだったよ」
セリカにしてみればいつもの罵倒。今更何も感じはしない。
言い返してもよかったが、それではアクアフィーナのためにセリカが悪役を引き受けた意味がなくなってしまう。
自然と無言になったセリカとハイスベルトを交互に見やってから、レゼクはハイスベルトに向き直った。
「ハイスベルト君……それはないだろう? 浮気をして捨てた人間の言うこととは思えないな。どう考えても百パーセント君の行いが悪いのに、相手のせいにしてこき下ろすのはみっともないよ」
「だって事実だし……私だってそんな女と婚約させられなきゃ浮気なんか考えもしなかったよ。かばう意味が分からないね。ああ、なに? 君、もしかしてその女に惚れちゃったとか?」
ハイスベルトは心底いやらしい笑い声を立てた。
「あっははは、そうなんだぁ、へえ、変わった趣味をしてるんだね。アクアフィーナに振られたから別の聖女で手を打つにしても、ランクが下がりすぎてて可哀想になってくるよ」
「……誰が誰に振られたって? さっきから何を言ってるんだ?」
「とぼけないでよ。君、好意を寄せてきたアクアフィーナにずいぶんいい顔をしていたのに、結局は『庶民だから』って何かと馬鹿にしてたせいで、アクアフィーナに見切りをつけられたんだろう?」
「全然違う」
レゼクの低い声に、アクアフィーナがかすかに身じろぎをする。
得意げなハイスベルトの隣で、アクアフィーナは青くなって下を向いていた。
「まさかとは思うけど、アクアフィーナがそう言っていたの?」
「ハ……ハイスベルト様! もう行きましょう? 私、レゼク様とは会話もしたくないんです」
アクアフィーナがハイスベルトの背中を押す。
「待った。アクアフィーナが私に【魅了】の術を使おうとしたのは事実だし、それでも、大事な聖女だからとなぁなぁで許したことは確かだけど、それがどうねじ曲がれば振られた話につながるんだ?」
青くなって震えているアクアフィーナは、後ろめたいことでもあるのかと思わせるのに十分だった。
「【魅了】……だと?」
「対象に強い愛情と独占欲を喚起する……ありていに言えば『恋の魔法』かな」
ハイスベルトは驚いている。
セリカも内心でひどくショックを受けていた。
人の心を魔法で変えるのは、昔から大罪とされている。発覚すれば、王妃であっても死刑になりかねない。イリスタリアでも、過去に一度だけ、呪いを使ったとして王妃が処刑された。
アクアフィーナは思わず守ってあげたくなるような、可憐であどけない少女だ。
少々素行が悪いらしいとは昔エリザベートから聞かされていたが、まさか、それほど悪質な行動に及んでいたなんて。にわかには信じられない出来事だ。
「私はね、ハイスベルト、アクアフィーナがまた何かやらかすんじゃないかと心配して、一応は様子を見にここまで出張してきたんだよ。でも、必要なかったみたいだね」
レゼクのとげとげしい発言に、アクアフィーナがびくりと肩を揺らす。
「嘘つきで自分が一番可愛い者同士、お似合いじゃないか。いつまでも仲良くね」
レゼクは言うだけ言うと、セリカに微笑みかけながら手を差し出した。
「行こうか。邪魔が入らないところで、ゆっくり話をさせてもらいたいからね」
セリカはつい手を取ってしまい、流されるままにその場を後にする。
早足のレゼクについていくのは大変だったが、背中からも強い怒りを感じて、セリカは声をかけるのをためらった。
しばらく歩いて、先に沈黙を破ったのはレゼクのほうだった。
「本当にすまない。巻き込むつもりじゃなかったんだけどね」
「いえ、私は別に……でも、よろしかったのですか? アクアフィーナ様の機嫌を損ねないように、とのことでしたが……」
最後の方には、アクアフィーナは完全に恐慌状態になっていたと思う。
「本当だな、私の我慢が足りなかった。笑って流しておけばよかったものを、わざわざ国同士の関係を悪くするようなことを言ってしまったわけだ。情けない」
レゼクが悔しそうに言うので、セリカは彼の肩を持ちたくなった。
「そんなことはないと思います。先に失言を重ねていたのはハイスベルト殿下でした。私がレゼク殿下の立場でも、彼らの良識を疑い、反論していたでしょう」
「そう言ってもらえてありがたいよ」
レゼクは疲れているようだった。
「今日はちょっとやらかしちゃったけど、アクアフィーナたちにはまた後日フォローを入れておくことにするよ。私としても、君がいなくなったあとのイリスタリアが滅亡したりしたら気分が悪いからね」
「恐ろしいことをおっしゃいますね」
「だって事実だからねぇ。彼女たち、なかなか働いてくれないからさぁ。私も苦労したんだよ」
レゼクのうんざりしたような言葉の終わりごろ。
遠くで立て続けに女性の悲鳴が上がった。
来た道を振り返り、耳を澄ませる。再度あがった悲鳴に、レゼクも眉をひそめた。
「……今の悲鳴はアクアフィーナか?」
セリカはさらに耳を澄ませ、そこにハイスベルトのものらしき怒鳴り声を聞きとった。
言葉までは聞き取れないが、どうも、ハイスベルトがアクアフィーナに罵声を浴びせているように聞こえる。
セリカはとっさに走り出した。
「ほっときなよ!」
「少し様子を見るだけです!」
ハイスベルトが癇癪持ちなのは、セリカが一番よく知っている。もう縁が切れた相手とはいえ、放ってはおけなかった。




