兎の子—総括警備保障株式会社—
近年、日本の犯罪検挙率は下降の一途を辿っていた。
理由をあげればキリがないが、その中で最も大きな障害となっているのは————法の壁。
法の番人が法によって縛られる。その皮肉めいた現状を打開するため、『彼ら』は生まれた。
曰く、法を用いて法から外れるもの。
曰く、庇護とともに枷を捨てたもの。
曰く、法の諜報機関となるもの。
護るために、捨てた。
そんな————ありふれたバカ達の物語。
『————徹ッ!』
無線のインカム越しに響いた声と同時、弾かれたように黒宮は地面を蹴った。薄暗い裏路地から大通りへと踊り出し、勢いを殺すことなくビルの角を曲がる。
人の波をかいくぐりつつ周囲に視線を飛ばして————明らかに異常な様子で走っている中肉中背の男。黒のスーツにアタッシュケース。年の頃は三〇代。
「……目標確認。今日って制圧許可出てましたっけ?」
『心配するな。多少手荒になっても揉み消せるのがウチの強みだ』
ただし先に手は出すなよ。もはや決まり文句となった注告に「りょーかい」とだけ返事して、イヤホンをワイシャツの襟の中へ。前方、歩道を駆ける黒ずくめの後ろ姿へ意識を集中させる。
距離は目測二〇〇メートル弱といったところか。
黒宮は加速しつつ脳内で周辺地図をさらい、小さく舌打ちを零す。このまま直線で逃げられれば幹線道路との交差点がそう遠くない。交差点までの距離と彼我の速度差を感覚で計算して————若干足りない。
仮に信号の変わり目とかち合えば逃げ切られる可能性は高く、何よりそんな交通量の激しいところで信号無視などされようものなら。その先はあまり考えたくなかった。
「……くっそ」悪態とともに一度大きく息を吸って、「おい止まれそこの痴漢!」
あえて高らかに叫ぶと同時、さらに加速。このような状況を想定したランニングシューズにスポーツウェアなので足元に不安はないが、流石に限度というものがある。こんな全力疾走、そう長くはもたない。
だからこそ、
「————ッ!?」
そのハッタリはなんとか上手く作用してくれたらしい。驚いたように振り返った男は息を呑む。焦りの滲む表情で辺りを見回して、手近な路地へ入っていった。
「こちら黒宮、竹下一丁目交差点路地にて確保予定。念の為先回りお願いします」
一度イヤホンをつけ直し、それだけ言い残して男を追う。
男は角を曲がって姿を隠したことで安心したのか、足を緩めていた。黒宮の足音で慌てたように加速するがもう遅い。
もう少し運動しとくべきだったな、オッサン。
男も逃げ切れないことは悟ったらしい、迎え撃つように足を止めアタッシュケースを構える。
「ああああッ!!」
素人が何をデタラメに振り回したところで簡単に当たるものでもない。むしろ、何かを手にしているということで生まれた慢心は隙を大きくさせるだけだ。
テレホンパンチ並に大振りされたアタッシュケースを潜り抜けるように屈んで避け、振りぬいた腕を逆に掴み取る。意外に硬い感触。武道か何かをかじっている経験はありそうだ————なら、
「受け身はとれよ?」
一応の忠告。そのまま足を払い、一本背負いの要領で跳ね上げる。
ドンッ!と言う派手な音とともに男はアスファルトへと叩きつけられた。
「はい確保、と。……おーい大丈夫?生きてるよな?」
武道経験者とはいえ素人相手だ、それなりに手加減はしたつもりだがやりすぎたか、と少しばかり不安になって声をかけてみるが男は答えない。まあ小さく呻いてる声は聞こえたのでよしとする。アスファルト相手ではダメージを殺しきれなかったのだろう。かと言って無傷で立ち上がられても困るので、若干やりすぎ気味の及第点といったところか。
「お疲れい!……ってうわ、なにこれ。どういう状況よ」
背後から響いたヒールの音に振り向くと、スーツ姿の女性がのんびりと歩いてくるところだった。一見するとどこかの大企業の社長付秘書と言われても納得できそうな雰囲気を放っている彼女だが、黒宮を見る表情は秘書云々の前に女性としてどうなんだというレベルまであからさまに歪んでいた。
「いや、確保しようとしたら暴れたんで。軽めに投げたつもりだったんですけど、どうも少しやりすぎちゃったみたいです」
「あっちゃー……、これしばらくはまともに喋れないんじゃないの?あんたの加減って加減じゃないからねえ、もうちょっと一般レベルまで落としてあげなさいよ若ゴリラ」
「人をバカそうなあだ名で呼ばないでくださいよ。そもそも、峰さんがもっと早く先回りしてくれてれば穏便に挟み撃ちできたでしょうに」
「無茶言うんじゃないわよ、こっちはヒールだっての」
倒れ伏した男を指でつつきながら、いっそ開き直った態度で堂々と峰岸亜貴はそう言う。
「ていうかなんでヒールなんすか、絶対追跡に向いてないでしょそれ」
「しょーがないじゃない。もともとあたしは『釣り』要員だったんだし。こんな美人ほっといてわざわざ違うの狙うなんてこいつも物好きよねえ」
「……ちなみに、マジで狙われてたらどうするおつもりだったんで?」
「痴漢にあった女性がたまたま持っていたもので反撃しても正当防衛だと思わない?」
ニッコリ笑顔で懐からライターを取り出す峰岸。
焼くのか!?焼くのかそれで!黒宮は震え上がった。男の狙いが彼女じゃなくてよかったと心底思う。危うく街中で人体放火事件が起きるところだった。
「あ、来た。おーい!課長こっちこっちー」
黒宮のドン引きをよそに、のほほんとした声の峰岸が大通りに向かって手を振る。そちらから歩いてくるのは年齢も服装もちぐはぐの男が二人。
課長、と呼ばれた一際大柄な男が手を挙げて応える。
「おう、お疲れさん。徹もな。よくやった」
「……うす、お疲れ様です」
「そこに倒れてんのが奴さんか?」
「はい、まあ。一応手加減したんですけど……」
事情を掻い摘んで話すと、課長は腕を組んで思案げに目を閉じた。
「……まあ、そういうことなら仕方ないだろ。死んでないならなんとでもなるしな」
考え込んでいたのも数秒で、あっさりと大雑把な結論に落ち着いた。この雑さ具合からも分かるように、課長本人も何かと実力行使が多い。本家ゴリラ、などと課内で囁かれる所以である。
「松、確保連絡。無力化してあるから連行人員だけで十分だと伝えておいてくれ」
課長は背後に控える細身の男にそう告げる。顔立ちも若いため学生のようにも見える彼、松枝優斗が携帯を操作しだすのを尻目に、もう一度呻く男に目を向けて、
「にしても……、徹なにした?表、結構な騒ぎになってたぞ」大通りへ向けて背中越しに指を向ける。
「あー、えっと。あのまま逃げられると幹線道路にぶち当たりそうだったんで、ちょっと派手に声上げました」
「だからか、まあ騒ぎになったところで困るほどのものでもないが……」
できる限り目立つ行動は避けろよ、と軽めに小言を食らう。黒宮は首肯することで大人しく小言を受け取った。
後は連行人員が到着するのを待つだけとなり、場に緩んだ空気が漂う。ちょうどそのタイミングを見計らったかのように、倒れていた男が起き上がった。そのまま逃走しようとするところを黒宮が伸ばした足に躓き転倒する。
コメディ映画のお手本としてそのまま使えそうなほど綺麗に転んだ男は尻をこすりながら後ずさり、ビルの壁面に背中がついたところでようやく止まった。
「あーあ、お前そんなことしたらスーツ使い物にならなくなるよ?」呆れて溜息を吐く黒宮。
「……ぅ、くそっ!なんだ、なんだよ!俺がなにをしたって言うんだ!お前ら————ッ」
「ハイハイ、そんなお決まりのセリフいいから。なんだったら被害女性連れてくるけど?」
男の抗議は退屈そうな峰岸の声に封じられる。わざとらしい欠伸の演出付きだ。
「あんたが痴漢したって証言も証人もいるんだし、さっさと諦めちゃった方が楽だと思うわよ」
「警察の私服捜査は禁止されてるはずだッ!」
「あら残念。小賢しーくお勉強してるみたいだけど、あたし達警察じゃないのよね」
「なんっ……、なにを」
「はい名刺。こーゆー者です、よろしくお願いしまーす」
ちゃらけた口調と共に峰岸が名刺を放る。『総括警備保障株式会社』と書かれたそれに、男は目を白黒させた。
「そういう事だから、あたし達は服務規程も囮捜査の規制もなーんもなし。残念だったわね変態オヤジ」
うわ、えげつねえ。黒宮は慄きながら呟く。
うら若い女性、それも顔立ちの整った美人に面と向かって変態呼ばわりされたらそれはもう響く。刻まれたココロの傷はしばらく癒えることはないだろう。同情しつつこっそり合掌。
男は全てを諦めたようにがっくりとうなだれた。
————総括警備保障株式会社。
三年ほど前に発足したまだ若い企業。それが黒宮の勤める『会社』だった。
週休二日。月給制。給与は可もなく不可もなく————正直に感想を述べれば少し物足りない。だが表立って文句を言うほどでもない。そんなありふれた会社。
唯一ありふれていない点といえば————、
「……来たか。流石、お早いご到着だ」
近づくサイレンの音に、課長が顔を上げる。
赤色灯を回した白と黒のセダン。見慣れた車が滑るように黒宮達の横で停車する。
「ご苦労様です、そちらが?」
「ああ、そうだ」
セダンから降りてきた警官の会釈に頷きを返して、課長は気力のなくなった男の襟首を掴み上げた。
「コイツが今日の『商品』だよ。しっかり届けてくれ」
「はい、確かにお預かりいたします」
口端を吊り上げるように笑った課長の言葉に警官は苦笑いで応え、男に手錠をかける。
後部座席に男を詰め込んだパトカーは、手馴れた様子で去っていった。
その後ろ姿を見送って、黒宮は呟く。
「————本日も、ご利用ありがとうございました」
週休二日。月給制。給与は可もなく不可もなく。そんなありふれた会社。
唯一ありふれていない点といえば————顧客は唯一ただ一人。
民間にありて警察を代行する者、それが彼ら————総括警備保障株式会社。