ある乗務
ある日の蒸気機関車乗務員の乗務。坂道にあえぎ、涼風に吹かれる、さまざまに移ろう運転台の中に一コマ劇場
「遠方、進行!」
萩野さんの老いてなおも力強い信号喚呼。機関車の激動と排気ブラスト、給水ポンプの指示器、レールの継ぎ目の音。そして汽笛も吹いた。それらに負けず運転台に堂々の声が渡る。負けじと喚呼をする。
「遠方進行!」
遠方信号機の黄色い腕木が斜めになっていることを確認し、確かに間違いがないか指をさして確認する。轟々の声を立てて激しく振動する機関車から信号を読むのは、いつだって緊張するものだ。ただ一回の信号の読み違いが、多くの人の財産や生命を棄損してしまいかねない重大な事故につながる。機関士と機関助士にはそれだけの責任がある。機関車は、決して機関車で完結するものでなく、列車という巨大なものを動かすエンジンであり、鉄道というさらに巨大な社会を形成する一単位であり、それを操縦する者は相応の責務がある。士職たるの誇りともいうべきは、その責務の重さから成り立つのであるから、気合も入ろうもの。
信号を読み終えたら定位について圧力や罐の調子を見る。自動給炭機の調子もいいので、罐は調子よく均質に燃えている。ストーカにホールもつかず、そしてこのところはしばらく勾配の変化もほぼないので補助投炭もあまり要らず、いっそ快適といえるのは幸いだ。煙は白く、小気味の良いポンプの音。機関車はありとあらゆる部品からありとあらゆる音を立てつつ轟々と走ってゆく。
「本線場内、進行!」
助士席からは見えにくい信号なので機関士関の後ろから身を乗り出しつつ、こちらも喚呼する。一番背が高く見える信号が本線場内だ。場内が複数ある駅の通過が一番怖い。投げ出されそうな振動にくじけず返す。
「本線場内、進行!」
「通過、オーライ!」
「通過、ラァイ!」
駅の構内に進入する。ホームに並ぶ人、人、人。その波を高速で置き去りにする。何か投げ込まれないか、誰か飛び込まないか、何か巻き込まないか。それらを意識してずっと見る。どのみち駅で投炭するような加速はしないので、機関助士は列車の全体を把握して機関士に伝えるものだ。
「本線出発、進行!」
「本線出発進行!」
隣接線にはこちらの通過を待つ普通列車が出発に向けてもうもうと煤煙を流しどうどうと蒸気を噴いて、準備を万端にしている。
機関車はホームを置き去りに軌道を駆け抜ける。列車の把握のために後方監視ぬからず、列車の最後部がホームを離れてゆくまで見送る。離れた。
「後部オーライ」
「後部オーライ、ヨシ。はい定時ィ!」
「はい!てーじ!」
ブレーキで抑速していたのを解いてエアがBPにこもる音。焚口を開き様子をうかがう。勾配が近い。幾分かホールのすきやすい罐なもので、慎重に調子を見てやらねば。うん、いまは悪くない。
「あげてくぞ、蒸気しっかり上げとけよ」
加減弁は満開で、逆転機をさらに大きく取って、列車をさらに加速させる萩野さん。蒸気を下げないように、自動給炭機をホールがすかない程度に全力で回す。それでは火室に均等にまかれるだけで勾配でほしい火床にならないから、補助投炭をせねばならない。自動給炭機がある機関車は、ない機関車に比べて炭水車の石炭皿から焚口までの距離が半歩ほど大きい。この半歩が、小さな、呪わしい、意に沿わないこの躯には大きい。片手スコップをしかと握りしめ、だだっ広いに石炭を放る。ただ放れば、全力で走る排気ブラストに石炭が吸い上げられて煙管が詰まってしまう。それを前提として厳しい投炭演習に耐えてきた。一粒の石炭でもこぼしたら減点、火床の厚みが1センチでも違えば減点。そのような厳しい教育を乗り越えてきたからこそ、この激動の運転台で、よどむことなく投炭できる。昔9600をあつかっていた時に手を滑らせてスコップを放り込んでしまって、たいへんなめにあったこともあった。萩野さんに指名されてからも、焚口にワンスコを突き当てて手を切ったこともある。それでも、やれる、やらねばならぬの気概で乗務員としての責務を全うせん。
轟然。
圧力計の指針は16㎏平方センチあたりを緩徐に行き来し、シリンダ圧力計も激しく針を振り、駆ける。しかし勾配にミリミリと速をを吸われてゆくのが、助士の位置でもわかる。機関車が全力を出せるおぜん立ては整った。侭いい天気、いい燃料、正しく管理された水位、そしてこれ以上なく上がった蒸気。萩野さんがアシを取り戻すためにリーバーをさらにとる。ズッと蒸気がとられる。水位を確認し、ポンプの送り速度を変える。機関車は答えて鈍く速度を保って進もうとする。
45km/hくらいまで落ちながら、なおも驀進する機関車。重量のある機関車が、轟と煙をあげて坂を驀せんと走るさまは、はために見るにはきっと格好いいだろうけれど、内からは汗と油と煤の労苦が結晶となっている。へし折らんばかりに歯を食いしばって、命を燃やすような錯覚にもにた感とともに全力を振り絞って、石炭を火室にくれてやる。油と煤が混じった煤煙の匂いが運転台まで流れてくる。機関車も人間も一挙に燃え散る。人車一体の境地とは斯くのごとく。
萩野さんが汽笛を踏む。前燈の発電機のバルブをさっと開いて転倒させるとともに、給水を増やす。間髪入れずにザっとトンネルに機関車は突入する。排気がトンネルの覆工に沿って渦巻き、煤煙が運転台の下から巻きあがって入り込んでくる。長いトンネルとはいえ、もう勾配もこのトンネルでしまいだ。トンネルの半ばで下りになる。そうなってしまえば一気に駆け下ってしまえる。
「はい、閉める!」
「しめーる!」
ポンプを止めて、インゼクタでの給水に切り替える。勾配は越えた。ようやっつっと席につける。席に置いた水筒から水をのみつつ、前方を注視する。遠くにうっすらと見えるトンネルの出口とそれに照らされた軌条。この光景が好きだ。やり遂げた。あとはほぼ流してゆけるはずだ。光が一挙に近づく。抜けた。萩野さんはブレーキに手をかけて前を見たまま、力強く言う。
「よくやってくれた。あと、ブロもう少し上げ」
ブロアのバルブをあけ発電機のバルブを閉める。席に戻って油まじりの涼風を躯に受けて、冷水を口に含むこんな快感はほかの何にも代えがたい。機関車は心地よさそうに運転台を激動に振りながら駆け下ってゆく。
到着駅に近くなってきた。交代のために火床を整理する。今日はクリンカもほぼなく、灰もいい石炭だからか難もなく落ちるぶんしかない。石炭の質は戦争が終わってから粉方、ずっと上がってきている。でも、古参の人たちは戦争前の方がよかったとも言っていて、その時代に乗務していたらと思うこともある。けれど、今後きっともっとよい日がくると信じて、電化という未来からは目をそらして、蒸機の機関士を目指したい。機関助士になって、なおさら機関士になる夢は高じてきた。省線時代の黒い詰襟の羅紗服に身を包み、右手をブレーキにかけた萩野さんはとても頼もしく、大きい存在に見える。いつか、この自分もそうなるのだ。
「場内!進行!」
「場内進行!」
「到着は6番!」
「到着6番!」
だから、今は萩野さんと一緒に乗務して、その背の力強さの根幹を、もっと知りたい。