キッドナップ・ヴァージン
霧島雅孝は人生で初めて、見知らぬ女の子を誘拐した。
霧島雅孝はいつもの様に金がなく困っていた。そこに現れたのは、スーツを着て髪を整えた男性が一人。
その男を霧島は知らない。
男は、霧島に一枚の写真を差し出した。
写真の中には可愛らしい少女が一人。霧島に笑顔を向けていた。
男は写真を差し出した後、こう続ける。
「その子を誘拐して欲しい」
流石の霧島もそんな事は出来ないと断ろうとするが、前金である金を握らされ、あろう事かその日のうちに使い切ってしまう。
霧島は止む無く女の子を誘拐。
しかし、女の子の家に電話をかけ身代金を要求すると女の子の表情が変わりだした。
一体何故が起こったと、言うのだろうか?
霧島雅孝は、震えていた。それが緊張から来る震えなのか、それとも達成感を感じての震えなのか。自分でもよく分からなかった。
だけども、自分が生きて来た二十六年間の中で、一番とんでもない事をやってしまったと言う実感だけは、嫌と言う程あった。
目の前には、この県内で知らない人はいないと言う程のお嬢様学校の制服を着た女の子が、手足を椅子に縛られ、口はガムテープで塞がれ項垂れている。それを足元に転がした、茶色のランドセルに付けられたよく知らないキャラクターの視線に、咎められていると感じ怯えるぐらいに。
霧島雅孝は、人生で初めて、見ず知らずの女の子を誘拐したのだ。
※ ※ ※
霧島と言う男は、歳の割にはずいぶんと草臥れた男だった。
誰もが同情にも似た感情を向けたくなる程、彼の取り巻く環境は良いものではなかった。両親の離婚を切っ掛けに彼の人生は斜陽の様に傾き始める。霧島自身の言葉を借りるならば、運が無かった。それに尽きた。
こんな歳になってまでも定職にも就けず、日雇いで稼ぐ金は文字通り泡銭の様に消えていく。
昨日もそうだ。
霧島は早速手に入れた金を早々に泡に変えて、空になった財布を見つめていた。
運がなかった。そんなため息すら、彼の口からは出てこない程、彼には金がなかったのだ。腹が減ってはため息をつく元気すらなくなってしまう。自分が人間らしいのはそこだけだと思いながら、彼は財布を開いたまま公園のベンチに横になった。
そんな時だ。彼が一人の男に声を掛けられたのは。
「お金がないの?」
見知らぬ男は、フレンドリーな口調で彼に声を掛けた。男は見窄らしい格好をしてる霧島とは対照的に、パリッとした白いシャツが目立つ小綺麗なスーツに身を包んだ四十ぐらいの男性。見た限りでは、霧島に話しかける事すら躊躇うタイプの人間のはずだ。
しかし、男は寝そべる霧島の足元に我が物顔で座り込むと、彼に笑顔を向ける。その異様さに身を竦めるのは霧島の方だった。
「困ってる?」
だが、そんな事などお構いなしに、オールバックに髪型をきっちりセットした小綺麗な男は彼に話続けた。霧島は、そんな異様さに声も出ずに、ただ頷く事しか出来ない。
「そっか。お金がなくて困っているんだ?」
まるで確認する様な男の言葉に、いよいよ霧島は恐怖を覚えていた。
霧島は、見かけによらず随分と臆病な性格をしていた。顔はゴロツキの様に目が鋭く、眉も産まれつき薄い。肌の色は濃く、身体の大きさは属する平均を優に超えている程の大男。まるで外見だけは野生のクマの様な男である。
しかし、彼はクマではない。残念ながら、人間だ。圧倒的に飼い慣らされた方の人間だ。本能のまま、野生のままに威嚇も攻撃も、まして逃げる事すら出来ないでいるのがいい証拠と言えるだろう。
怯える霧島をよそに、男は鞄から一枚の綺麗な写真を取り出して彼に差し出す。恐る恐る霧島が受け取ると、そこには一人の可愛らしい女の子の姿が写っていた。
「可愛いでしょう?」
男は満足げに笑う。
それがただただ怖かった。こう言うタイプの変態は度々見かけるが、自分には縁がないと思っていただけに、霧島は震える体を起き上がらせると必死に頷く。そうしないと、今にも殺されそうだと思ったからだ。
彼が赤べこの様に首を振る様を見て、男は更に満足そうに笑った。
「可愛いよね。その子の家、とてもお金持ちでね、所謂お嬢様なんだ。家なんて凄いよ。何処から見ても、豪邸だ」
写真に写る笑顔の女の子の情報をこれでもかと詰め込んでくる男に、霧島は更に顔を困惑させる。
確かに、写真の中で笑う女の子は一般的に見て可愛いと、彼も思う。でも、それはチワワや三毛猫を可愛いと思う感情と大差はない。要は興味が湧かない可愛さなのだ。だから、それ以上の情報を聞いたところで霧島にはどうしようもなかった。
「頭も良くて、頑張り屋さんで、リーダーシップにも溢れていて、将来有望間違いなし。お母さんも美人なんだよ」
そろそろ何か相槌を打った方が、いいのだろうか。
霧島は迷いながら男の顔色を伺うが、丁度その時目があってしまった。びくりと体を震わせる霧島に、男は人懐っこい笑みを返す。
「お金、困ってるんだよね? 三百万あったら、足りる?」
「え?」
突然の大口の金額に、霧島の喉が声を上げた。
「三百万あったら、足りる? 困るの、無くなる? 嬉しい?」
「そりゃ、まあ、そうでしょうね……」
何処か他人事の様な口調も無理はない。
金額のデカさに、頭がついてこない。現実味がない金額の何が足りなくて、何が足りるのか。泡の様に消える金しか持った事がない霧島は、到底想像などつかないのだから。
しかし、これはまた本番でもない。次の言葉に、霧島は更に震える事になる。
「じゃ、三百万。三百万円、君に払うからさ、その子誘拐してよ」
男は写真を指さしながら薄笑いを浮かべたのだ。今度こそ、霧島は声すら挙げれずに震えて怯えた。
だがしかし、それがいけなかった。
霧島の言葉がない事を肯定と受け取ったのか、男は早々に霧島に有難うと言うと、彼の手を握る。
「これは成功報酬とは別に準備金として渡すから、好きに使って。詳しい話と誘拐しやすい場所と時間は、その写真の裏に書いてあるから」
男の手が離れると、霧島の大きな手の中には五枚の万札が大小の皺を作って収まっていたのだ。その枚数の多さに、霧島の目は釘付けになってしまう。
これがまた、いけなかった。
何回数えても五枚である事に驚いていた霧島だったが、漸くこの金を受け取ってはいけない事に気付き顔を上げる。霧島は誘拐なんてしたく無い。出来るわけがない。頼まれても困ると、突き返さなければならない。そう思っていたのに。
顔を上げた霧島の視界には男の姿は何処にもなかった。突き返す相手を無くした金は、寂しそうに霧島の方をただ静かに見つめていた。
霧島は時折、自分の馬鹿さ加減が嫌になる。
賢くはお世辞にもない方だと自分でもわかっている。だけども、こんなにも馬鹿だったとは。そう気づく時があるのだ。
それが、まさに今だった。
この金は使ってはいけない。あの男を探して返さなければならない。そう思っていたのに。霧島は刹那的に生きる事しか知らない。まさかその日のうちに五万全てを使い切るだなんて、誰が予想していただろうか。そして、彼自身も。
空になった財布を見て、霧島は泣きそうになる。
もう、彼には選択肢が残っていないのだ。やるしか、ないのだ。
誘拐を。
※ ※ ※
霧島は、そっと女の子のランドセルについたマスコットキャラクターを、裏に向ける。屈んだ瞬間、マスコットキャラクターではなく項垂れて涙を流している女の子の顔を見てしまったが、それは裏を向ける事は叶わない。
罪悪感はある。けど、どうしようもない。上手く励ましてあげたい気持ちがあるが、誘拐した自分がそれをしていいのか、霧島は迷いに迷った。
しかし、ぽたぽたと床に落ちる涙の音は、どうしようも無く彼の良心を掻き立たせる。霧島は極力笑顔を作り、なるべく明るい口調を心がけて女の子の肩を叩いた。
「大丈夫だよ。殺したり、しないから。怖くないよ」
自分でも流石にこれはと思ったが、これ以上の言葉が霧島の中の辞書にない。
「君のパパとママがお金をくれたらね、直ぐに返してあげるから」
女の子はその霧島の言葉にはっと顔を上げた。
安心してくれたのかな? そんな都合のいい彼の希望は簡単に打ち砕かれる。女の子は信じられない物を見る様な目で霧島を見た。それはそうだ。自分を誘拐した男の言葉に安心も何も無いだろうに。
しかし、霧島はそんな事すら思いつかない。もしかして、自分の言葉を嘘だと思っているのだろうか。そんな不安が正解の顔をして横切った。
「本当だよ! ほら、今から俺がパパとママに電話をかけるから、見てて!」
霧島は女の子を安心させようと、取り上げた女の子の携帯から彼女の自宅番号に電話掛ける。番号は写真の裏に書かれていた。これで合っているかと何度も確認もした。しかし、残念な事に霧島は、その下に書かれた注意事項を全く読んでいなかった。
決して、家には電話をしない事と書かれた注意事項を。
電話は幸いすぐに繋がった。若い女性の声が聞こえて来る。霧島は女の子を少しでも安心させたくてスピーカーに切り替え話しだした。
「もしもし、今お時間よろしいでしょうか?」
誘拐の電話だと言うのに、随分と間抜けな文句だ。しかし、勧誘の電話のバイト以外で電話などしたことが無い霧島には、それ以外の文句が出てこない。
『……誰方ですか?』
電話の向こうの女は静かな声で聞き返す。だか、それに素直に答える事は叶わない。霧島は息を吸い、呼吸を整えて口を開いた。
「お宅の娘さんを誘拐しました。無事に返して欲しければ、お金を下さい」
『えっ?』
電話向こうでは明らかに困惑した声が聞こえる。しかし、それが普通だと言われればそうだろう。なんせ娘を誘拐されて驚かない母親なんていないのだから。
「伝える場所に娘さんがいるので、お金と交換します。場所は……」
霧島は素直に今の場所を伝えた。
金額も言わずに電話を切り終わると、霧島は満足した顔で女の子を見る。しかし、女の子の顔は恐怖に歪んだままだった。
息苦しいのかな。そう思ってテープを取ってあげれば、女の子は震えた声でこう言った。
「今の、誰……? 私の家にお母さんなんて居ないのにっ」
次に震えるのは、霧島の番だった。