追憶のフライパン
オレ様はフライパンである。
名前はまだ無い。
まぁ、フライパンだから当然なのだが──。
フライパンであるオレが、なぜ話しているかというと、ちょっとした事情がある。オレ様の持ち主である、ばあさんの命が危うくなってしまったのだ。ばあさんを守らねぇと!
「あらあら、どちら様?」
「オレか? オレ様はフライパンだ」
ばあさんを助けようとしたオレの体は、人間の姿になっていた。コックコートを着た、渋めのイケてるおじさんに。
これは神のいたずらか、それとも悪魔の仕業か? なんだっていいさ。生い先短いばあさんのそばにいてやれるなら。
フライパン擬人化ファンタジーによる、心も体も温まる……かもしれない物語。
オレ様はフライパンである。名前はまだ無い。
まぁ、フライパンだから当然なのだが──。
ただのフライパンが、なぜこうして話しているかというと。
それは最近人気の擬人化というヤツだ。詳しくは知らないが、船とか城とか刀とか馬とか、いろんなものや生き物が擬人化されて人気になっているらしい。
ついには調理器具のひとつであるフライパンも擬人化され、ダンディなおじさまとして表現されたわけである。使い込まれた鉄のフライパンであるオレ様は、ワイルドでイケてるおじさんなのだ。
……なんて理由だったら、良かったんだけどな。実際のワケは、もう少し切実だ。
フライパンであるオレ様には、主とも言うべき持ち主がいる。長年の感謝と敬愛を込めて、オレ様はその人を、『ばあさん』と呼んでいる。ばあさんと呼ぶぐらいだから、それなりにまぁ、お歳を召した女性だ。
ばあさんはオレ様をずっと愛用してくれている。そのことは本当に感謝している。オレ様は調理器具だからして、使ってくれる人がいなければ、ただの置き物でしかないからな。
だから安心していたんだ。その日も安全に使ってくれるものと思い込んでいた。
ばあさんはオレ様をガスコンロに置き、火をつけた。そこまではいい。いつも通りだからな。その後がまずかった。
「あらあら、洗濯物を干すのを忘れていたわ」
ばあさんはオレ様を放置プレイ、いや、ほったらかしにしたのである。
鉄のフライパンであるオレ様に火をつけたまま、ふらりと庭に出ていってしまった。しかも火は強火。どんどん熱くなっていくオレ様。
あちゃちゃちゃ! ばあさん、何しやがる!!
すっかり熱くなったオレ様の鉄の体は、ぼうっと火が燃え上がってしまった。
ばあさん、燃えてるぞ! フランベのつもりか!? シャレにならないから早く火を消せ!!
その時はただのフライパンだったから、オレ様の声がばあさんに届くわけがない。
ばあさんはのんきに庭で洗濯物を干している。ふふふん♪ と妙な鼻歌まで歌っていやがる。燃え上がった火は、だんだんと強くなり、天井に届きそうだ。
ヤバい……。このままでは火事になるぞ。火事になったら、ばあさんのスピードでは逃げられない。あたふたしてるうちに、炎と煙にまかれてあの世行きだ。
百歩、いや、一万歩ゆずってオレ様はどうなってもいい。所詮はただのフライパンだからな。
だが、ばあさんは駄目だ。ばあさんだけは守らねぇと。オレを長年大事に使ってくれたばあさんだ。オレ様にとって、大切な人なんだ。
オレは、オレ様は、ばあさんを守るんだ。なにがなんでも、ぜったいに。
ばあーさぁ~んっっっ!!!
力いっぱい、ばあさんを呼んだ瞬間。オレ様の体に、ちょっとした異変がおこったのだ。
「あらあら、どちら様?」
庭から戻ってきたばあさんが、にっこりと笑った。
「ばあさん、火がつけっぱなしだったぞ! 危ねぇじゃねぇか」
「あらあら、まぁまぁ。すっかり忘れてました。最近忘れっぽくてねぇ」
「気をつけろよ。オレ様がガスの火を消してなかったら、どうなっていたことか」
「ご面倒おかけしました。それであなた様はどなた?」
「オレか? オレ様はフライパンだ」
ばあさんは、きょとんとした顔をしている。
「あらあら、まぁまぁ。最近のフライパンは、人間みたいな姿をしてるのねぇ」
「にんげん……?」
食器棚のガラスに映るオレ様の姿。ばあさんが言う通り、フライパンではなく、人間の姿をしている。コックコートを着ていて、シブくてイケてるおじさんだ。
「オレ、人間の姿になってる……?」
ばあさんを助けたいと思ったオレ様の願いを、神様が叶えてくれたんだろうか? それとも、悪魔の気まぐれか?
「フライパンさん、はじめまして」
何を思ったのか、ばあさんはオレ様に向かって丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、じゃねぇよ。オレ様は、ばあさん愛用の鉄のフライパンだぜ。毎日会ってるじゃねぇか。台所でな」
「台所で……? そうだったかしらねぇ?」
「忘れてるのかよ……」
「最近、忘れっぽくてねぇ」
ばあさんは頭をかきながら、はずかしそうに笑った。
最近のばあさんは、いつもこんな感じだ。記憶が曖昧なようで、大切な思い出も、すっぽりと抜け落ちてしまっている。足腰も悪くなっているらしく、調理中に、「どっこいしょ」と座ってしまうことも多い。
たぶんきっと、ばあさんの先はそう長くない。のんびり、ゆったり作る料理に気長につき合いながら、ばあさんが今日にも倒れてしまわないかと、ずっと心配していた。
「鉄のフライパンだったら、『てっちゃん』さんね。てっちゃんさん、一緒にお茶でも飲まない?」
「て、てっちゃん……?」
「だって、あなたは鉄のフライパンなんでしょう?」
オレ様に妙なあだ名をつけたばあさんは、のほほんと笑っている。どこか懐かしさを感じる、ばあさんの笑顔。ばあさんの笑った顔が大好きだ。なぜならばあさんはフライパンであるオレ様に、にこにこと笑いながら、優しく話しかけてくれていたからだ。
「フライパンさん、今日も黒光りしてステキねぇ。きれいにお手入れしてあげるわね」
「やさい炒めがとっても美味しくできたわ。ありがとうね」
「久しぶりにオムレツを作ってみるわ。上手にできるよう、見守っていてね」
「今日もありがとう、フライパンさん。また明日もよろしくね」
ばあさんの優しい笑顔は、オレ様の希望で、存在する理由だった。ばあさんのためなら、オレはなんでもしてやるし、何にだってなってやる。
オレ様を人間の姿にしたのは、神様なのか悪魔なのか、それとも悪霊や妖怪なのか。奇跡なのか、一時の気の迷いなのかはわからない。だが、なんだっていいさ。そいつらに感謝するよ。これでばあさんの晩年に、少しだけ寄りそってやれるのだから。
「ばあさん、茶ならオレ様がいれてやる。だからそこの椅子に座って待ってろ」
「あらあら、お客様にそんなことしていただいていいのかしら?」
「だから、お客様じゃねぇっての。……まぁ、なんだっていいさ。ばあさんと一緒にいられるならな」
こうしてオレ様は、フライパンでありながら、人間の姿を得た。
さぁ、ばあさんのために茶を……あれ? お茶ってどうやっていれるんだ?
「なぁ、ばあさん」
「なぁに、てっちゃんさん」
「『さん』はいらねぇ。てっちゃんでいい」
「わかったわ、てっちゃん」
「あのさ、茶ってどうやっていれるんだ……?」
「あらあら、まぁまぁ。てっちゃん、お茶のいれ方、わからないの?」
「すまん……」
ばあさんがお茶をいれるところはいつも見ていたし、簡単にできると思っていた。でも見ているだけと、実際にやるのは違うものなんだな……。オレ様はフライパンだし、フライパンを使った料理なら自信あるが、フライパンで茶をいれたことは一度もない。茶のいれ方とか、これから覚えていかないとな。
「てっちゃん、お茶どうぞ」
「すまねぇな、ばあさん」
「お茶菓子もあるわよ。どうぞ」
「おう。ありがとな、ばあさん」
……って、おいおい。ばあさんを労ってやるつもりが、これじゃあ逆だよ、もてなされてるよ。このままじゃ、人間になった意味がない。どうにかしないと。
「そうだ、ばあさん。フライパンでなにか作ってほしいものはあるか? 何でも作ってやるぜ!」