ニルヴァーナ
人類が、故郷の星の記憶も薄れてきた頃の話。
偶然からそれは生まれた。
ある科学者が実験の最中に、無機物から細胞分裂まで行う生物の合成法を見つけ出してしまった。
それから数百年が過ぎ、数多の生命が生み出され、そして用が終われば処分されていった。
その頃には創造主はオリジン、被造物はスレイブと呼ばれていた。
6547番目の人工生命体であるユグラの少年アルファと少女ミコトの処理が決定したとき、彼らは同じスレイブのカイルによって助けられた。
カイルは処分されるスレイブを助けて回るレジスタンス活動を行っていた。
生命創造主たるオリジンは彼らを逃さなかった。
オリジンの追っ手により、彼らは絶体絶命の窮地に陥った。
その時、突然その場に割って入る者がいた。
その異形はイドとだけ名乗った。イドは彼らに力を与えた。
それは殺した相手の生命を力に変えて自分に取り込む力だった。
ただ、嘆いた。その理不尽さにではない。恐れで足が動かなかったからだ。それは生まれてはじめて知った感情だった。
人々が次々と狩られていく。私たちの創り主の放った獣に一方的に蹂躙されている。しなやかな筋肉と銃弾を弾くほどの強靭な体毛は光を反射して、率直な感情としてほんの一瞬、おぞましいほどに美しいと感じた。口から二本の牙を覗かせているその獣は、かつて地球に生息していたものだろう。それらもきっと知らないのだ。用が終われば始末されることに。
「逃げろ!」とカイルの怒号が飛んだ。その強い響きで私はやっと我に返った。私と同様に呆然としていたミコトの手を引いて、一緒に逃げ出した。
その時だった。獣のうちの一体がこちらに気が付き、猛然と走ってきた。私達の足では逃げ切れず、死を覚悟したとき、ミコトが私を突き飛ばした。
振り返ると、ミコトが獣に組み敷かれていた。ミコトが何かを叫んだのとほぼ同時に、獣の牙がミコトの肩口に突き刺さった。
私はただ叫ぶしかなかった。どうにかなるとも思っていない。ただそうしないと正気が保てなかったからだ。
獣が再度ミコトに牙を突き立てようとしたときだ。獣が上顎を跳ね上げて飛び下がった。振り返るとカイルがライフルを構えている。
「早く!」と、カイルが促した。私は瀕死のミコトを担いで逃げ出した。
まだ獣が三匹ほど追ってきている。カイルが殿をつとめた後、天井にグレネードを発射し、天井が崩れきる前に通路に飛び込んだ。
シェルターまで落ち延びて、どうにかミコトの応急処置をした。だが予断を許さない状況には変わりがなかった。
表の出入り口は先程の機転で塞ぎ、追手はまだやってくる気配はない。しかし、上空では追跡者の一隊の挺が空爆を続けていて、シェルターに鈍い衝撃を与え続けている。
周りには数十人の亡命者がいた。怪我をしているものも少なくない。
ミコトの汗を拭いながら私は言った。
「早くミコトを処置しないと……」
「分かってるよそんなことは! 逃げ道を今探してるんだよ」
カイルは苛立ちを隠そうとしないまま、必死で施設の端末で逃走経路を探っている。
私は彼に助けられた時からずっと頼りっぱなしだ。自分の無力さが腹立たしくなる。
「見つけた。このルートで奴らの知らないポートがある」
カイルが先導し通路を進んでいった。
救命艇は幸いなことに無事だった。と、その時だ。ポートの入り口が粉々に吹き飛ばされた。
既に獣の一団が出口を固めている。その中から見知った男が出てきた。
「どうも、ご無沙汰しています……」
「先生……」と呟いた。
私達にとって見知った顔だった。私達がいた惑星の検疫担当医官だったファーネル博士だ。
「どうやって先回りした!」
カイルが叫んだ。
「別に変わったことはしてません。彼等が居るところは私たちには必ず分かりますので」
「発信機の類は徹底的に調べたはずなのに」
「あなたには分からないでしょうが、別に機器類を彼等に埋め込んでいるわけでもないのです。特定の配列のDNAにのみ反応するレーダーでですね、まあそんなことはいいです」
極めて事務的に淡々とファーネルは言った。
「あなたたちはここで処分します」
なんの感情も感じられない。
「どうして僕たちを放って置いてくれないんですか」
「私としても別段強い関心もないですが、上からの命令なので」
彼等は何かの流出を恐れているのかも知れない。だがそんなことは私達にはどうでも良かった。ファーネルが合図をすると、獣が一斉にカイルへと襲いかかりなす術なくカイルが引き裂かれた。人々が逃げ惑うが、一人残らず食い殺されていった。絶望感とともに様々な思いが去来した。
私は何故奴隷として生まれてきたのだろう、と。創造主だけがオリジンであり私もミコトも、私たちを助けたカイルも全てスレイブだ。名前の通り単なる奴隷だ。それが自分の意思ではなく、ただ彼等の目的のためだけにあるのなら、それでも良く、せめて私という意思など感じさせないようにして欲しかった。彼等が私に、私という意思を残したまま創ったことに、彼等の強い悪意を感じた。予め目的達成後に廃棄されることが決まっていたのなら、私に何かを感じさせる事になんの意味があったのだろう。せめて一欠片だけでも、生まれてきたことの意味を知りたい。そう思ったときだ。
獣の一団が吹き飛ばされてきた。何かの事故でも起きたのかと思ったが、そうではなかった。ポートの向こうから誰かが歩いてくる。ファーネルの表情に明らかに動揺が見られる。彼にも想像していない事態のようだ。
「やっと、見つけたぜ」
現れたのは、異形としか呼びようのないものだった。だが見覚えがあった。私はその異形を知っていた。脱出後のカイルたちとの生活の中で参照していた地球の歴史の記録に載っていた。その形が非常に独特で印象的だったからだ。それは神と呼ばれていた。オリジンと呼んでいる我らの創り主や、原初の人類を創ったもの、超自然存在も神と呼ばれていた。その異形がどちら側に属するものかははっきりと覚えていない。
その異形の主だった姿は、私やオリジンといった人間の系の生物に似ていた。浅黒い肌に黒く束ねた長髪、筋骨隆々の青年の体躯だ。ただし明らかに人間と異なるものがあった。正面と左右からなる三つの顔に六本の腕と三メートルはある体躯を備えていた。正面の顔が怒りを示していた。その視線には対照への慈悲など一切感じさせることがない。一方左側の顔は、最愛の人の死に立ち会ったかのような悲しさを示し、右側の顔からは何の意思も読み取れないほどに虚無を示していた。
なぜそんな超自然存在の様なものがここに居るのかは知らない。ただ、何かを期待しないではいられなかったが、異形を救い主だとそのまま受け止めることが難しかったのは、その三つの表情から統一的な彼の意思を何一つ読み取れなかったからだ。それぞれの表情が暴風雨と静寂とを同時に示していた。そして何よりもその異形は強すぎた。獣は悉く狩られていった。異形がどこからともなく剣のような武器を取り出し、薙ぎ払ったかと思ったら炎を意のままに扱うなど、古の神のような振る舞いを見せていた。
やがてファーネル一人になった。
「何故お前がここにいる……?」
「罠を張ってたのがお前らだけだと思ってたら大間違いだってんだよ。これでオリジン共の居場所が分かる」
ファーネルは咄嗟に銃を取り出し銃口を咥えたが、引き金を引く前に異形がファーネルの首をもぎ取っていた。
嵐のような光景だった。時間にして一瞬でも、光景は心に焼き付いていた。異形も恐らくオリジンに類する何かなのだろうか、と考えていた時だった。
「俺を奴らと一緒にするんじゃねえよ」
まるで心を読んでいたかのように言った。実際に読まれていたかどうかは分からないが、そうだと言われても納得しただろう。
「オリジンどものモルモットか……」
答えた後に私の存在に気づいたようだった。オリジンではないなら、やはり神か何かなのだろうか、と思ったときだ。
「イド」とその異形は名乗った。
「お前等の言葉で一番本質ついてそうなのがソレだ。意味は適当に調べとけ。意味について答える気はない」
イドは始めから私達に関心を寄せた感触はなかった。実際彼が用事があったのはファーネルだけのようだった。助けられたという予感は全く無い。事実、私とミコト以外は皆死んだ。ミコトも息も絶え絶えで、このままでは死んでしまう。イドに縋るしかなかった。
「お願いします。どうか私達を助けてください……」
イドは視線をこちらに投げたまま暫く考えていた。
「知ったことじゃねえ、と言いたいところだがな」
と、思案していた。私は幽かに希望を感じたが、次の一言で突き放された。
「だがそっちの死にかけは、俺にはどうにもならんな」
私は藁をも縋る思いで言った。
「お願いします。僕はどうなってもいいです……彼女だけは助けてください……」
「どうなっても、だと? じゃあ死ねるか、ここで」
愚問だ。私は考えるより先に答えた。
「当然だ!」
「だったらお前の命をそいつにやれるか」
イドは私を見下ろして言った。もう彼はあざ笑うような表情ではない。先程のファーネルを殺すとき以上の、静かな怒気を秘めていた。
私はそれを真正面から見据え、答えた。
「出来る」
暫く沈黙が続いた。ミコトの苦しげな息遣いだけが響いた。やがてイドが口を開いた。
「これからお前に示すのは、オリジン共がやってることの逆だ。何かしらで奴等はお手軽に命を創る方法を手に入れた。今じゃいくらでも量産できる。だったら逆の発想だ。奴等が創るというのなら、奪えばいい、命をな」
「奪う……。そんな事が可能に?」
「実験でもしなけりゃ信じないか?」
「いや……」彼が言うことを信じるしかなかった。
「後一度だけ聞くぞ。覚悟は良いな?」
「私は静かに頷いた」
イドは私の眉間に指を突き刺した。頭の中に直接焼けた鉛を注ぎ込まれるかのような激痛が走った。頭の中で何かを動かされていた。自分の中で不動の基準となっていたなにかが動いている、善悪や生死の境界が動いているかのような。視界の端に映った獣の死骸が、死体ではない何かに見えた。死の恐怖すら薄れるような、そんな頼りなさを感じた。
唐突に指を引き抜いた。
「これでお前が誰かを殺せば、その生命はお前のものになる、逆に自分の命をいくらか譲渡も出来る。そいつに幾らか命を分けることも出来る。やり方は好きにしろ」
私は迷うこと無く、息も絶え絶えのミコトの手にナイフを持たせ、私の手首を切らせた。血が吹き出すと同時に、彼女へと何かが流れ込んでいくのを感じた。





