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【磯下美坂、人身事故で死亡】


 4月2日早朝、シンガーソングライターの磯下美坂(26)が人身事故で亡くなった。防犯カメラの映像や目撃者の証言によって、磯下は自ら線路に飛び込んだことが判明している。また、磯下本人が遺した遺書にも自殺をする旨が書かれていた。

 磯下美坂は自ら作詞・作曲をして、ピアノの弾き語りを中心とした演奏を行うシンガーソングライターであった。昨年の9月8日には活動開始5周年記念アルバム『i』が発売されていた。また、死亡前日の4月1日は『i』の全国ツアー最終日で、武道館ライブが敢行されていた。人気絶頂にあり、さらなる期待が持たれていたこともあって、音楽業界からは磯下の死を惜しむ声があがっている。


 ――四月二日付 某新聞夕刊より

「美坂さん! ライブ前だっていうのに、またですか!」

「ライブ前だから、なんですよ」

 担当ディレクターの言葉を笑い飛ばして、コンビニで買った緑の瓶を傾けた。甘味と渋みが舌の上を転がり、アルコールの香りがふわりと鼻に抜けていく。

「無理をしてるなあ、とは思いますけどね」

「自覚しているのであればやめてくださいよ」

「それは無理です」

 あっけらかんと答える私に、彼は呆れたようにため息をつく。垂れ目がさらに下がって、ハの字を書いているみたいになった。

「まあ、それのおかげなのか、毎回ライブは大成功を収めてますからね……今日もお願いしますよ?」

「任せてくださいって」

 とん、と軽く胸を叩いてみせれば、ちょっとだけ安心したような表情になって、彼はいなくなった。

 鏡を覗く。頰が化粧をしていても分かるくらいに赤くなっていて、二重の釣り目は伏せられることなく前を向いている。くるっとパーマをかけた後ろ髪に、アップにした前髪。額までしっかりと見える顔には、自信に満ち溢れた明るい表情がある。

 本当に、いつもの私ではなくなってしまった。

 普段は冷え切っている心までもがほんのり温まってきて、様々な感覚が曖昧になっている。

 多分、酔っているということは周囲が遠ざかっていると錯覚することなのだろう。見えるものも、聞こえるものもすべて。だから近づこうとして大股になる。聴覚が敏感になり、声も大きくなる。……そんな気がする。だから、お酒はときにいい薬になるのだ。いつも、物事を拾い上げる耳も、周りを知るための目も、すべてを閉ざそうとしているから。

 内容量三〇〇mlの小瓶を空にした。ラベルの隅に見える『清酒』の文字を一瞥する。

 これでもう大丈夫。私は一人ではなくなった。

 飲酒したときにだけ現れる饒舌で陽気な私が憑依して、普段の私は心の奥底に残った冷たい場所に押し込められている。ついさっきまでは後者が体の主導権を握っていたというのに、担当ディレクターと話すときには、すっかり前者が表立っていた。冷たい私は、少しだけ遠い世界を、なにをすることも出来ないまま眺めているだけ。

 これでいい。そう分かっているのに、いつもの私は空疎な思いを抱えて持て余している。

「美坂さん、そろそろです」

 スタッフさんが扉を開け、声をかけてくる。

「はーい」

 陽気な私が、臆することなく楽屋を出て、向かった先は舞台袖。深呼吸をして、最後の声出し。喉を開け、お腹から音を発するかのように。

「――大丈夫だよ」

 後ろからプロデューサーさんの声がした。

「美坂なら、やれる」

「もちろんですよ。最高のライブにしてみせます」

 そう口が勝手に答えたところで「お時間です」と声がして。

 手で持ち上げられた暗幕の向こうへと、一歩踏み出した。


 スポットライトが差してきて、輝かしい表舞台へと招待する。光に導かれるように階段をのぼると、そこには。

 ――ほら、見えた。客席で待ってくれているファンのみんなが。

 歓声が渦を巻き、満ちあふれる世界に飛び込んで。

 眩い光の中、待っていてくれた相棒のピアノに近寄り、近くのマイクを手に、叫んだ。

「みなさんこんばんは、磯下美坂です!」

 最新アルバムをひっさげた武道館ライブが、今、始まる。


 陽気な私が、導入にぴったりなアップテンポの曲を弾いている。喉から、腹から出る歌は、お世辞にも綺麗とは思えない声だったけれど、観客席はおおいに盛り上がっている。それならいい、とばかりに陽気な私は満面の笑みを浮かべ、演奏を続けたままほんの少し体を捻ってファンのほうを見る。本来の私が目を背けたいと思っていることなんて、知らないふりで。

 ……本当に、どうして私が音楽業界で五年もやってくることが出来たのだろう。なにもかもが怖くて、すべてのものを恐れながら生きている私が、こんな輝かしい場所で、たいしてうまくもない演奏と歌を披露しているなんて。

 ファンの人たちは、みんな親切だ。動画サイトにミュージックビデオを載せれば、嬉しいコメントばかりが寄せられる。シングルやアルバムを出すたびに、SNSには『今回の円盤も神曲しかない』とか『フライングゲットできた! やった!』とか、そんな投稿がよく見られた。そしてなぜか、いわゆるアンチコメントというものを見かけることのないまま、私はここにいる。

 みんな、優しい。この世界に入るきっかけをくれたプロデューサーの松田さんも、販促等の面で支えてくれるディレクターの水上さんも、その他大勢のスタッフの皆さんも、曲の収録の際に一緒に演奏してくださる方々も、ファンのみんなも、そうでない人々も。

 だから、私も精いっぱいそれに報いなければ。できる限り最高のものを提供しなければ。

 普段の私では、そんなことはできない。いくらやっても満足いかないし、大勢の前に立ってしまったら、体が震えてまともな演奏なんてできやしない。自信なんてあるわけがない。だから、自分を偽る。もう一人の私を呼ぶ。そのことを事務所の人は知っているから、本番前の飲酒も許してくれる。

 演奏が終わった後も、口が勝手にしゃべっている。曲には背景となる出来事があったり、私の想像や発想元となるものがあったりするから、饒舌な私はそれに関する話題を的確な言葉に変えて会場を盛り上げるのだ。

 トークは今までのライブの中で一番滑らかで、様々な話題が出てきては泡がはじけるように消えて、曲へのつなぎに変わっていく。それを、夢の中の出来事を眺めるように、普段の私は見ている。

 失敗しないでね、変なこと言わないでね、とハラハラしながら。

 そして、ああ、陽気な私も分かっているんだなと、しんと冷えた心の奥底で思いながら。


 今回は『i』という名の最新アルバムを主軸に、第一部は『iを振り返って』、第二部は『iを探し求めて』、第三部は『iを込めて』というテーマでセトリが組まれている。選曲は、全て私だ。これでいいのか迷いながら決めて、松田さんに『大丈夫、これがいいと思うよ』と太鼓判を押された曲たち。

『今までで一番力のある楽曲が集まったアルバムだからね。みんな、喜ぶよ。これでライブなんかやったら、すごいことになりそうだなあ』

 そう言って愉快そうに笑った松田さんの予想は当たり、『i』はファンでない人までもが購入してくださるような、多くの人に愛されるアルバムになった。動画サイトに載せた一部の曲では『これのおかげで過去が昇華された気がした』なんてコメントがつき、目を丸くしたものだ。そして、今回のライブは過去最多の動員数を記録してしまった。

 どうしてこんなに人気になってしまったのだろう。自分の過去をえぐり取ったような、現在を顕微鏡でよく観察してみたような、そんな作品ばかりだというのに。暗い部分ばかりを曲にしたというのに。彼の言う『力のある楽曲』の意味もよく分かっていないのに。

 こうなるなんて、思っていなかったのだ。少なくとも、私自身は。

 けれど、予想外のことに固まっている本人をよそに、松田さんや水上さんたち、そして事務所の人々は大喜びしていたっけ。

 ――ああ、客席にいる人々は想像もしないのだろう。演奏中に私がこんなことを考えていることなんて。

 皆が見ているのは張りぼての私だ。酔った時にしか訪れない、作り物の「磯下美坂」だ。けれど、それが私の本来の姿なのだと、皆は信じて疑わない。

 いや、そう見えてほしいから、精一杯繕っているのだけれど。

 だけど――。

「それじゃ、次の曲に行くよー!」

 ああ、明るく叫ぶ陽気な私との温度差が激しすぎる。

 楽しげなタイトルコール、ピアノが奏でるポップなメロディ、あふれでてくる歌声に、あがっていく会場の熱量。すべてが他人事だった。体が火照りそうなほど暑くて、だからこそ、胸の奥はどこまでも冷たく感じる。

 手が、今までにやったことのないアドリブを勝手に入れてくる。客席に向かって「みんなも!」と一緒に歌うように呼び掛けている。さざ波のように、私が一生懸命心をえぐるようにして作った歌詞が響いている。

 苦しい。そして、怖い。

 第一部は『iを振り返って』――私の過去を振り返っている曲を集めた、傷に塩をもみこむような、そんなテーマだ。曲調はどれだけポップでも、あるいは優しいバラードでも、そこに在るのは、理想を掲げながらも追いつけずに屈することしかできなかった日々。あるいは、盲目的になにかを追いかけ続けた結果、なにも得られず、他の大切なものを失ってしまったという、どうにもならない現実。そして、それが分かっているのに何度も繰り返してしまう、救いようのなさ。

 そんな、見ていて楽しくはないものなのに、松田さんは『だからいいんだよ』と言った。

『だれしも、挫折を味わったことはあるだろう? 俺だってそうだ。個人的なことのようで、みんなに共通していることなんだ。だから、この曲たちは万人に受け入れられるんだよ』

 みんな経験しているなら、古傷をぶり返されてしまうような、そんないやな気分にならないのだろうか。

 不安が募る。非難の声が飛んでくるんじゃないか、と。

 今までアンチコメントがないというのは、あくまで「今まで」――過去の話だ。いつ不平不満の言葉が投げかけられたっておかしくない。ライブをやっている今この瞬間さえ、突然誰かが怒り出して退場していったっておかしくはない。

 未来が、怖い。

 少しでも私は、よりよい方へと舵を切ることが出来ているのだろうか?


 そんな思考とは関係なく、体は勝手に動くしライブは進んでいく。未来は勝手に過去へと変わっていく。私は過去になることなんかできなくて、今に置き去りにされたままなのに。

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[良い点] 丁寧な描写にあっという間に読み終えました〜 あらすじが上手く活用されて、主人公に何が起きたのか、起こるのか、しっかり気になる!(笑) 主人公視点なのにどこか客観的で、続きも俯瞰で読めそう…
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