救血条約 〜囚われの妹を救うため、僕は吸血鬼の道を行く〜
……ヤァ。忌々しくも明るい朝だっていうのに、ずいぶん暗い顔をしているんだネ。郵便受けの新聞を取って戻るのがそんなに憂鬱かイ?
あぁ、あぁ。そんなに構えなくても。しゃべるコウモリがそんなに珍しいかイ? こんな弱々しいコウモリが怖いのかイ?
くだらないネ。どうであるにせよ、キミのすることは変わらないじゃないカ。
キミは、ボクを助けるだけでイイ。
ボクはキミの妹を奪った吸血鬼の、その仲間ではあるけれど。それもやっぱり関係ナイ。
今はコウモリの姿のボクだから。景品のぬいぐるみを持ち帰るくらいの気持ちで、ボクを家に入れてくれればイイ。
……おいおい。そう睨むなヨ。話はまだ途中じゃないカ。
ボクは吸血鬼。キミら人間なんかより、吸血鬼のことはよく知ってル。だからサ、キミがもし、助けてくれるっていうのなら。
この『生血』のジュディ・ウエストが、キミの復讐案内人になってあげヨウ。
人には、寿命がある。
そこに疑いを持ったことはなかったし、また、それは僕に限った話ではない。
「ありがとうございましたー」
あのおじさんはこの先、何年生きられるだろう。
あのおばさんは終活ノートを買ったから、あと一年くらいかな。
あのお兄さんは、高いお肉を山と買って、最後の晩餐をするつもりかもしれない。
計画的に人が死ぬこの世界では、スーパーのレジで人の余命を予想することが、遊びとして成立してしまう。珍しくスーパーへ買い物に来たから試してみたけれど、とても後味が悪い。ふと、店内のBGMの音量が小さくなって、閉店時間のアナウンスが流れる。もうすぐ午後三時らしい。くだらないことに、貴重な昼間を使ってしまったなぁと思う。
主婦の波に乗って外に出ると、冬の冷たい風と、黒塗りの宣教車が垂れ流すありがたーいお言葉。
『偉大なる吸血鬼様は、今日も我ら人の子を見守り、夜を退けてくださいます。日々感謝を忘れずに過ごしましょう。俗世からの解脱、奉血のその日まで』
道行く誰もが足を止めて、車のケツを拝んでいる。その先には、現代的な住宅街と人間を見下ろす、夜色の古城があって。この光景は、生まれた時から変わらない。
僕の世界は最初から、吸血鬼に支配されていた。
◇◆◇
救血条約。
歴史すら喪われるほどの遥か昔から、唯一風化することなく残り続けている、人と吸血鬼の条約。
曰く、全ての人に寿命を定むべし。
曰く、寿命に達したものは吸血鬼に血を捧ぐべし。
曰く、人は昼にのみ生きるべし。
この日本に限らず、全世界の人間が、生真面目にこの条約を守っている。
吸血鬼から来る血の要求に見合うよう、役所が生まれた人間一人一人に寿命を定め、出生の翌日には赤紙という余命宣告書が届く。そこに記された日が来れば、人は我が身を吸血鬼に捧げねばならない。今ではそれは『奉血』と呼ばれ、とても素晴らしいこととされているけれど。
僕の妹であるマドカも先月、わずか十歳で寿命を迎え、笑顔で『奉血』に出て、当たり前に帰ってこない。なんと呼ぼうと、つまりは死ぬということだ。
まるで養豚場の豚のような扱いだといえばそれまでだ。吸血鬼の生活圏である夜には、外出の一切が禁じられ、人は太陽が沈み始めると、畜舎へ追い立てられる家畜よろしく家へ帰らねばならない。
これだけの代価を払って、人が吸血鬼から得るもの。
それは、夜を退けること。
「大したことじゃあ、ないけどネ」
僕の学習机に置かれた鳥カゴの中で、一匹のコウモリが言う。
「夜と昼じゃあ世界が違うダロ。昼は顔も見せないイヤラシイやつが、夜闇のなかでうぞうぞしてル。ボクら吸血鬼は、キミたちを家に押し込めて、自警団をしているだけサ」
中性的な声色、外国訛りの口調。人語を操るだけでも不可解なのに、性別すらも不可解なそのコウモリは、どうも吸血鬼であるらしい。
「その話は、何度も聞いた」
グロテスクな翼をはたはた振って、大仰に喋るのを僕が遮ると、コウモリは牙の並んだ口を不満げに結んだ。
「僕は最後に確認したいんだ。本当に、夜の方が吸血鬼の城には近づきやすいのか。そして、まだ僕の妹が生きているっていうのは、本当なのか」
「あぁ……」
最後、と自分で口にすると、喉が張り付くような思いをした。それでも僕は毅然と、コウモリを見下ろして言う。
コウモリはしばらく呆けた顔をしていたけれど、やがて黒い瞳をぐりんと回した。
「あぁ、ついに決心したんだネ! そうかそうか、それで珍しく買い物なんてしてきたんダ!」
「そうだよ。僕はあの城に妹を助けに行く。だから、早く答えるんだ」
「わかってるヨ。キミのヤル気にはちゃんと応えなくちゃあネ」
気取ったふうに、自分の翼で自分をくるむコウモリ。プレゼン前にスーツの襟を正すセールスマンに似ている。
「まず、夜の方が城に近づきやすいのは本当サ。だって、夜には警備の人間がいない。吸血鬼も、夜に人間は出てこないからって、ロクに人間を見張らなイ」
吸血鬼というのは、本当にふざけた奴らだから、安心していいヨと、そうコウモリは続けた。そしていつも通りに、吸血鬼のことを揶揄する。
「だって知ってるかイ? 吸血鬼の二つ名っていうのは、好きな血の種類だったり、飲み方のことなンダ。人間で言えば、闇鍋の田中、雑草の小栗みたいなものサ」
例えば、この街を支配する吸血鬼、リィン・ゼモリーノは『浴血』を名乗っているのだが。彼女は、人の血で大浴場を満たして、それに浸かりながら血を啜るのが好きなのだという。何十人という人間をそのために殺すというのだから、全くふざけた話だった。
「妹が生きてるのも本当サ。浴血は浴血であるために、一回の食事でたくさんの人間を使ってしまうからネ。予備もたくさん抱えたがる。この地域の奉血は、だから一ヶ月くらい早めに設定されてるンダ」
キィキィと愉快そうなコウモリを、僕は握りつぶしてしまいたかった。僕の可愛い妹を奪った吸血鬼の仲間であるくせに、何を第三者みたいにと。
けれど、その怒りは喉奥へとしまい込む。せめて妹を助け出すまでは、こいつを利用する必要があった。
妹が奉血に出て、明日で一ヶ月。
「道案内は任せていいんだよな」
「ウン、任せてくれヨ。生血のジュディ・ウエストの名に誓って、キミを夜へと導こウ」
「……嘘だったら、許さないぞ」
「ひどいナァ。吸血鬼の名前って、そんなに安くないのに」
結局、胡散臭さは拭えなかったものの、だからといって、立ち止まるわけにもいかない。
鳥カゴを持ち上げると、金具が擦れてかちゃんと鳴った。そして、今日買ってきたあれこれをしまったショルダーバッグを肩にかける。
スマホ、懐中電灯、そして大ぶりのカッターナイフ。初めての夜に万全の備えをしたつもりなのに、初めてだからこそ何を持っていっていいのかわからなかった。だから、空いたスペースには妹の好きなチョコレート菓子を詰めた。
「ほら、行くヨ。夜は短いんだ」
「……わかってる」
不本意ながら、コウモリに急かされるまま出発することにした。
そぉっとドアを開けて、自分の部屋を出る。廊下を歩き、玄関へ向かう途中に両親の寝室を横切れば、父さんも母さんも死んでるみたいに眠っている。僕がどんな覚悟で今いるのかなど、知りもしないで。それはそうだ。結局、うちの家族で妹がいなくなったことに泣いたのは僕だけで、その僕だって、最初は笑ってさえいた。
奉血の前日、みんなで妹の門出を祝って、ケーキを食べて、僕はちょっとしたマニキュアをプレゼントに贈った。そして次の日、そのマニキュアをつけた妹が、白スーツに赤ネクタイをしたレッドクロスの職員に連れ去られるのを見送った。良かったね、幸せだねと。お互いに笑い合って。
妹に贈ったマニキュアは、そのほとんどが使われないまま、空っぽな妹の部屋で埃をかぶっている。
「ネェ」
「……なんだよ」
「そんなに両親が憎いんなら、せめてボクが血でも吸ってやろうかイ?」
「意味わからないこと言うな、このっ」
「あっとと。なんだい、ほんの冗談ダロ」
「冗談になってないんだよ」
たしかに、妹の奉血を阻止しようとしなかった両親に思うところはある。でも、それを言ったら僕も同じだ。僕が睨みつけていたのは、両親たちの、その奥に根付いたもの。救血条約。吸血鬼のための条約。
あんなもの、吸血鬼が作り出したに決まっている。
だから僕は今日、妹を助け出すことで、吸血鬼にささやかな復讐をしてみせる。
僕は両親に背を向け、足早に玄関へ向かう。ないまぜの使命感が、指の先までみなぎっていた。玄関ドアの前に立つと、興奮に伴う心音が耳につく。すりガラスの向こうは、底抜けに真っ暗だ。
救血条約があるために、夜にはオートロックがかかって開かなくなるドアも、今日は違う。
「ほら、ボクの出番だロ」
促されるまま、鳥カゴの出口を開く。コウモリがパタパタと飛び出して、ドアノブにぶら下がると、まるで最初から鍵などかかっていなかったかのように。玄関ドアがゆっくりと開き始めた。
――この先に、夜がある。
今まで、窓の内から眺めることしかできなかった夜だ。日の光がないだけで、人の姿がないだけで、あんなにも不気味で神秘的に映った夜の街が、この先に待っている。
忍び入ってきた夜の冷気が、身体をぶるりと震わせた、
「ようこソ。夜へ」
コウモリは、夜空に光る三日月のように、口を歪めて僕を歓迎する。その後ろから、今度は本物の月の光が手を伸ばしてくる。
それに誘われるように、僕は一歩を踏み出し。
がっ、ちゃん。自転車のギアを変えたような、大仰な音が頭に響いた。
「……は?」
目の前には、夜の街が広がっている。
日の光のない街並み。人の姿のない街並み。それゆえに、不気味で神秘的な街並み。
そのはずだったのに。
その街並みを、四足の獣が我が物顔で歩き回っている。一匹や二匹じゃない。住宅街の細い車道に広がって、狼の群れが歩いている。
狼。いや、あれは本当に狼なのだろうか。
蒼い毛並みの一本一本が、ばちばちとスパーク。帯電する狼なんて、ゲームの中でしか聞いたことがない。
あまりに得体が知れなくて、一度家に戻ろうとした。しかし、玄関のドアはもう閉まっていた。
「後戻りだなんて、寂しいことするなよナ」
手元の鳥カゴに自分から帰ってきて。生血のジュディ・ウエストが、キィキィと笑っている。
「言ったロ? 『ようこそ、夜へ』ってサ」





