第2話 出会い
本来であれば、ここにいるはずのない人物。間違いなくアメリカの大地にいるはずの奏音が目の前にいるということに脳の理解が追い付かない藁谷は、きょとんとした表情になる。そして目の前にいる奏音は、サインを書き始めた。あの日と同じように。
「あれ?え?グローブ?」
そして自身が持っていたグローブがないことに気付いた藁谷は、呆然として目の前の奏音を見つめる。自身が白昼夢を見ているのかと思った藁谷は、動けずにいた。
「よし、書けた。あまりグローブにサインは書いたことがないから時間かかっちゃった」
言葉も出ないまま、差し出されるグローブをそのまま受け取ってしまう藁谷。受け取ったグローブはあの日気付いた通りの鏡文字のサインであり、奏音の台詞も変わらなかった。この鏡文字の真意を聞くべきかとも思ったが、その前に藁谷は声を荒げる。
「あの、こんな貴重な物は受け取れません」
「いやいや、ただの予備のグローブだし貰っちゃって良いよ。その代わりと言っては何だけど、うちに来て甲子園優勝を目指して欲しいね」
甲子園優勝。まだ高校野球を知らなかった時の藁谷は、この時に素直に頷いていた。そこがどんなに遠い場所で、この人がどれほど凄い人なのか、藁谷は分かっていたようで全然分かっていなかった。
ここまで来て、藁谷は過去の世界に戻っているか、夜中に白昼夢を見ているのかの2択まで脳内で選択肢を絞っていた。そしてそのどちらでも、藁谷の取る行動は変わらなかっただろう。
「……はい。必ず甲子園で、優勝して来ます」
初めてこのグローブを受け取った時は、あまりの嬉しさに藁谷はペコペコと頭を下げるだけだった。しかし今は受け取ったグローブを左手に着け『もしも時間が巻き戻っていたら』ということに思考を巡らせていた。
そのため、お礼をしっかり言うのを忘れていたと気付いた時には、既にグラウンドから結構な距離が離れてしまっていた。そこで振り返ると、奏音も鞄を背負い立ち去ろうとしている。
藁谷はもう一度、大きな声で奏音に対してお礼を言い、左手に着けたグローブを左右に振る。すると奏音は笑って白球を取り出し、藁谷に向かって投げ、藁谷はその球をしっかりとキャッチした。
藁谷は家に戻るまでに、日付や時刻を確認する。すると確かに時は巻き戻っており、中学3年生の夏休みの真っ最中だったことが分かった。ここから湘東学園に入るまでの間、自身は湘東学園へ入るための受験勉強を必死にやっていたことを思い出す。案外偏差値の高かった湘東学園の受験を突破するために、費やした勉強時間。それを今度は、野球のために費やせると藁谷は思った。
高校3年間、自身を苛め抜いて作ったはずの身体は、今の藁谷にはない。そのためか、幾分身体が重く感じており、前のような速球を投げることは出来ないだろうなと自覚する。最も藁谷の最高球速は高校3年生だとどこの弱小校にも1人はいるエースの最高球速である125キロほどであり、速球派投手ではなかった。
日付はちょうど3年前を示している。ここから1周目の時と同じように筋トレや練習をしても、同じような結果が待っていると考えた藁谷は、その日に左投げ用のグローブを買って来る。
「結局、何で鏡文字になっているのかは聞けなかったけど……たぶん冬合宿の時に、奏音さんとはまた会える」
未来の記憶と知識。それがあるというのは大きく、藁谷は活用することを躊躇わなかった。まだ身体が出来上がっていない状態で、それでも投げてみた左での投球は、目測で110キロも出ていない。当然変化球は使えないし、コントロールも右と比べると格段に悪い。
それでも、藁谷は自分にはこれしかないと考えた。湘東学園の監督は極度の左右病であり、ベンチに必ず1人は左投げの投手を入れないと落ち着かないのだろう。その思考に至った時、藁谷は自身が左投げになることでその未来を変えようと決意したのだ。
少なくとも、自身がベンチに入れば未来は変わる。自身が試合に出ることが出来れば、何かは変わる。最終年度は、春も夏も甲子園にすら届かなかった。1年生の時も2年生の時も、先輩達は夏の甲子園に出ていたのにも関わらず、藁谷の代になると途端に甲子園は遠のいた。
……そして、凄かった1つ上や2つ上の先輩達の代でも甲子園優勝には届かなかった。特に藁谷が1年生の時の3年生の代は、惜しいところまでは行っている。しかしあと一歩が届かなかった。今しがた宣言したばかりのことだが、それがどんなに遠いことなのか、藁谷は今一度把握をする。
高校に入るまでの半年間を、藁谷は左投げの練習に費やした。毎日投げる、ということはしなかったが、湘東学園で行っていた基礎トレーニングやメンタルトレーニングを取り入れ、着実に球速とコントロールを伸ばす。
しかし湘東学園入学までの間に120キロには届かず、115キロを超えるのがやっとであった。受験を無事突破し、藁谷はもう一度、2回目の湘東学園の入寮日を迎える。
その当日。予定通りに起きてしまった藁谷は1時間ほど時間を潰して母親から叫び声が自室に届くのを待つ。結果として藁谷は、1回目の時と全く同じタイミングで湘東学園の寮の門を潜った。