第1話 絶望の日
高校3年生の夏の大会。最後の大舞台に立つ権利を貰えるのは18人しかいない。毎年50人ほどの野球部員が入って来る湘東学園では、逆に言えばベンチにすら入れない人が半数以上いる。
藁谷が入学してから2年と数か月。藁谷は練習しない日はなかったぐらいに毎日練習に励んだ。時々2軍に上がり、練習試合にも出た。しかしながら、最後の最後まで1軍に上がることは1度も出来なかった。
最後の夏、全日本高校選手権大会神奈川県予選。そのベンチ入りメンバー、背番号18番の子の名前が呼ばれた時、藁谷の夏は終わった。藁谷が膝から崩れ落ちたのと同時に、同じく1軍当落線上におり、ベンチ入りメンバーの名前として呼ばれなかった人達が泣き崩れる。地面に座り込むまではいかなかった者も、涙を堪えて両手をグッと握りしめる。
最後に名前を呼ばれた者は、監督に従って別室へと移動をする。その後、その場に残っている3年生達は移動させられた。背番号19番と20番は、3年生には与えられない背番号だと決まっていたからだ。
泣き崩れた者、悔しさで顔を歪ませる者、そして藁谷も、重い足取りのまま寮の部屋まで戻る。ベンチに入れなかった3年生達はこれから今後の進路について決めて行かなければならないが、その前に彼女達は自身の気持ちを整理しなければならない。
元から諦めていた者、それでも僅かな希望に賭けていた者。そういった者は早ければ翌日には落ち込むことを止め、後輩への指導を再開するだろう。しかしながら自身こそが世界の主人公だと思っていた者、最後の最後まで信じて自身を追い込んで練習に励んでいた者達は、そう簡単には気持ちの整理が出来ない。
メジャーであり得ない記録を打ち立て続けている、最早世界一有名な人と言っても過言ではない奏音から直接グローブを受け取った藁谷も、寮の自室のベッドの上でずっと三角座りをしていた。ずっと天井の1点を見つめながら、彼女は考えていた。
何で私は、左投げじゃなかったんだろう。
藁谷と同じ世代には、珍しく左投げの投手がいなかった。一つ下の2年生の世代に左投げが1人いるが、彼女はそれほど凄い投手ではない。彼女よりも凄い右投げの投手は、藁谷自身も含めて何人かいた。しかし、ベンチ入りに選ばれたのは彼女だった。
藁谷は自身に才能がないことを分かっていた。しかしながら最初から左投げで野球を始めていれば、1つ下の彼女よりは上の投手になれていただろうという確信があった。お遊びで左投げを試した時、右投げとそれほど感覚が変わらなかったからだ。事実、そのお遊びでストライクゾーンに115キロのストレートを投げ込んでいる。高校2年生の、春の時だ。
あそこからでも左投げに転向すれば、今年の夏までには間に合っていただろうか。そもそも野球を始めたのが遅かったのだろうか。自身の人生においての選択で、間違いばかりを選択してきたような感覚にすら陥っていた彼女は、1学期の終業式が終わってからずっと、引き籠りのような生活を過ごしていた。
やがて、今年の湘東学園がどこまで勝ち進んだかの結果が嫌でも藁谷の耳に入る。夏の神奈川県大会、優勝候補の一角として数えられていた湘東学園は、準決勝で強豪の統光学園に5対1で負けていた。敗因は、その左投げの投手が逆転のツーランホームランを含む4失点をしたからだった。その情報を聞いて、また藁谷は自室のベッドの上で蹲る。
藁谷は今年になってから、実家で飾っていた奏音のグローブを寮に持ち込んでいた。そのグローブを抱え、悔しさと申し訳なさでいっぱいになった彼女は、ふと奏音のサインが変なことに気付く。
「……逆?」
見慣れていたはずのサインだったが、最近になってようやくネットのオークションなどで並ぶようになった奏音のサインとは、違っていたのだ。達筆過ぎて読めなかっただけだと思っていた藁谷は、そのグローブを着けて、鏡の前に立つ。
そこには、左投げになった藁谷がいた。藁谷が着けているグローブには、ちゃんと「KANON JITSUMATSU」と読めるサインが書かれている。それに気づいた瞬間、藁谷はグラウンドに飛び出していた。あの悪夢の日から、一度も立ち入ることすらしなかったグラウンドへ。
時刻は既に深夜で、ナイターの設備がある湘東学園でも、流石にもう練習をしている人はいなかった。真っ暗闇の中、1人藁谷はグラウンドに立つ。
「約束、したのに。あの時、甲子園優勝まで導いてくれるかなって。私は憧れのあの人みたいに強くないのに、馬鹿みたいに頷いて、グローブまで貰って、挙句の果てに甲子園にも届かなかった。それどころか、選ばれさえしなかった」
ここ数日、まともに食事すら喉を通らなかった藁谷は、目の前がどんどん暗くなっていく。それが自身の涙によるものなのか、夜の帳のせいなのか、藁谷には分からなかった。
やがて真っ暗になった視界が真っ白になった時、涙が止まった時、藁谷は今一番会いたくない人が目の前にいることに気付いた。メジャー3年目のシーズン途中なのにも関わらず、既にメジャーでの通算本塁打数が400本を超えた湘東学園のOG、実松奏音がそこにいたのだ。