【逸話】山吹神社事件・2
ぽつりぽつりと地面に落ちてくる雨。滲んでは消え、また滲んでは消える。セメルの身体に雨の臭いを含んだ空気がまとわりつく。時折、額を伝う汗を拭いながらセメルは考えていた。
最初からずっとあった違和感。それは神主だ。ヒロトは言った。「上の服がタンクトップだったら」、と。そう、セメルは神主の服装が頭に引っ掛かっているのだ。
今の季節は春。朝方や夜はまだ肌寒くとも、日中になれば一気に気温が上昇するこの時期に、長袖を着て歩いている者などいないのだ。神主自身うちわを扇いでいた。暑くて仕方なかったのだ。しかし、袖をめくる素振りは一切見せず、腰が痛いと言い残して本殿に戻った。
それに、化け物退治を経験している闇影隊が不安を隠せずにいたのに対して、神主は全く動じていなかった。目に見えない存在を恐れるのは人の心理だ。ましてや相手は巨大な獣。いくら被害がないからといって確認すらしないのはどうしてなのか。
石段に両手を置き身体を傾けた。そうして夜空を仰ぐ。妙なのは神主の方かもしれない、そう思っていた。
セメルには確証を得る方法があった。ここに残る事だ。雨が降っても対象が姿を現さないのであれば、隠しているのが神主であるか、あるいは対象が神社に身を潜めているか、だ。
またセメルは考えた。そして、独り言に呟いた。
「両方、かな」
鼻の利く獣なら、とっくにセメルがここに居ると気づいているはずだ。そうこう考えていると、視界が悪くなるほどの強い雨が降り注いだ。
セメルが立ち上がった。まるで自分を襲えと言わんばかりに戦意もなく立ち尽くす。そうしながら周囲に目を配った。今のところ合図はない。
目を細めながら、次に本殿の方に身体を向けた。
あれから何時間がすぎただろうか。新しい足跡から500メートル地点に、赤坂班はいた。
「親父、大丈夫かな」
身震いしながらそう言ったヒロト。肌寒い明け方、濡れた体のせいで一層冷たさが増す。それは他の者も同様であった。身体を摩りながらヒロトに向く。
「心配だな。足跡は二体分あった。だが感知したニオイは0だ」
「だからなんだよ」
「貴様は無臭の犬っころを抱き上げたことがあるのか?」
セメルから合図が送られたのはそんな時であった。煙幕だ。鳥居の前に総員集合する。
「何も起こらなかったな」
1人が安堵の声を漏らした。
「セメルさん、数日続けましょう。他へ移動した痕跡がない事から対象は必ず近くにいる。闇影隊は諦めないと、思い知らせてやろうじゃありませんか」
手柄を上げたいのはどの国も同じだ。全員が同意し、セメルが練った作戦を変えることなく朝から晩まで持ち場に待機した。
雨が降る日もあれば、降らない日もあった。芯から冷えたり、かと思えば日中は暖かかったりと、気温の変化は闇影隊の体調に異変をきたした。
根比べは1週間も続き、皆に限界の色が見え始めた。
皆が集合した朝、セメルが告げた。
「皆、よく堪えてくれた。作戦を変更する」
「何か案が?」
「ああ。南光の闇影隊には申し訳ないが、本殿を開けさせてもらう」
「――っ、それはっ……」
「わかっている。もし何もなければ王家から罰せられるのは承知の上だ。しかし、あそこ以外に規格外の生き物を隠せる場所があるか?」
「隠せる……。それはつまり、神主様を疑っているという意味ですか?」
「俺は最初から彼を疑っている。赤坂、お前も黙っていないで話せ」
頭をボリボリと掻きながら前へ出た赤坂を、南光の精鋭部隊が咎めるような視線を投げた。対して、赤坂は言葉で返す。
「一応ね、俺の大切な部下に手をあげられたわけよ。何も知らないまだ13歳の子ども相手にさ。そりゃ俺だって意地悪の一つくらいしたくもなるでしょーよ。王家がいかに偉大な存在であるか、それを知るのは先の話じゃありません? せめて、臨時授業の日まで待てませんかね?」
「……すまなかった」
「わかればいいんです。では、早速本題へ」
赤坂は石段に登り、皆より高い位置で説明した。
「神主を疑う根拠としてまず一つめ、神主の服装。汗を流す日中に長袖でいるのはなぜか。んで二つめ、神社内から早々に追い出した理由。それは対象を隠している事にあるのではないか。最後に三つめ、作戦実行の日からセメルさんが入り口を見張っていた。以上の事を踏まえると、怪しいのは神社しかない」
「しかし、セメルさんも言ってた通り本殿に対象が居なかった場合、罰を受けるのはお前達だぞ? いいのか?」
「罰を恐れて闇影隊が務まりますかね? 相手は馬鹿でかい獣でしょーよ。じゃあ、こっちもそれなりの行動にでなきゃじゃないですか?」
納得せざるを得ない理由に隊員は硬く口を閉ざした。それを肯定だと判断し、セメルを先頭に総員が動き始める。
本殿を囲むようにして総員が配置についた。セメルが力任せに本殿の扉を開く。中には、胡座をかいて座る神主がいるだけであった。
そんなはずはない、とセメルが目を凝らす。そこへ、セメルの横を走って通り過ぎていく者がいた。
神主の胸ぐらを掴み上げたのは西猛の闇影隊であった。体調が思わしくないようで、冷や汗にくわえて身体は小刻みに震えている。
彼の判断を鈍らせたのは、一週間にも及んだ耐久戦が原因だろう。
「お前しかいないのはもうわかっている! どこに隠しているんだ!」
「私は言ったはずだ。身に覚えがない、と」
「――っ、さっさと吐け! 被害がでたらどうしてくれる! 奴らが襲うとしたら月夜の次は西猛か北闇だ! 貴様はそれでも隠し通すつもりか!?」
平然とした神主の態度に西猛の闇影隊は怒りを爆発させた。
「まずい、取り押さえろ!」
セメルの声に南光の闇影隊がすぐさま動く。外で悲鳴が聞こえたのは、まさにその時であった。
本殿のガラス戸が真っ赤に染まり、下の方へ流れていく。その奥では影が蠢いていた。すると、闇影隊の手を振り払い、神主は慌てて外へ飛び出した。
「奴を逃がすな!」
血が煮えたぎっている隊員は仲間に叫び、神主を追った。
後に続いたセメルたち。本殿の外に出ると、眼前に広がる光景に思わず立ち止まった。そして、息を飲んで目を見開く。その横で、赤坂班にいる混血者が呟いた。
「本当にコレは犬なのか?」
犬の容姿は目を疑うほどに奇妙であった。一体は白い毛の犬をそのまま大きくした巨大な体つきで、中でも足が異常に発達している。もう一体は顔の半分が醜く捻れており、もう一体と同じく足がでかい。
神主は二体の間に立っていた。
神主を追った隊員達は巨犬の口に捕獲されていた。顔や足、あるいは全身が口に収まっている者もいる。
「たす……けて……」
巨犬は躊躇なく噛み、血しぶきはセメル達のもとまで届いた。皆、転がる頭部と両足に目が釘付けとなった。
「にっ……、逃げろぉおおお!!」
誰かがそう叫ぶと辺りは混乱と化した。
いくら逃げても蚊を叩くように踏み潰され、箸に取った肉を半分だけ食うように引き千切られる。一人、また一人と絶命し、本殿一帯はあっという間に血の海に代わった。
我に返ったセメルが叫んだ。
「総員、1分以内に神社の外へ退避! 奴らを捕獲する!」
皆、死に物狂いで外へ駆けた。一度に違う方向へ逃げられた為か、二体の犬は戸惑っている様子だ。その隙にセメルが言霊を唱える。
「氷・捕縛牢」
溜まっていた雨水が神社を囲むようにして壁のようにせり上がった。神社を綺麗に包み込むと、次第に色が変わり始める。分厚く白い壁が出来上がり、それは外に居る者に冷気を感じさせた。
氷に手の平を置いてセメルは俯いた。向こう側には壁を叩く者が数人いる。
「すまない……」
その横で、ヒロトが壁に強く耳を押しつけていた。
「親父、何か聞こえる……」
隊員達が互いに顔を見合わせた。そして、恐る恐る皆が耳を当てた。
「本当だ、何か伝えようとしているぞ……」
「聞こえない! もう一度頼む!」
涙ながらに隊員は叫んだ。相手は同じ色をした戦闘服を着ている。仲間だ。
「かん……が……ぼう! われ……に……いる! や……した! くりか……、かんぬ……が……ぼう!」
「ダメだ、もう一度!」
氷壁の向こう側で両手を置いて必死に叫ぶ仲間の影。その姿に、隊員は額をついて涙を流した。
「ダメだっ……、もう一度!」
すると、影が一気に間を詰めて氷が赤く染まった。「ひっ……」と細い悲鳴をあげて、腰を抜かす隊員。足もとの方から氷に亀裂が入り、三角状に小さく割れた。
仲間はまだ生きていた。震える指で氷を押して小さな穴を設ける。腰を抜かした隊員が急いで指を掴み、腹の底から叫んだ。
「もう一度だ!」
「……神主が……死亡。我々の中……に裏切り者が紛れ……込んでいる……。奴は対象を逃がした……。繰り返す、神主が死亡……。わ……れわ……」
「――っ、おい! しっかりしろ!! おいっ……」
握る指先に力は無かった。
静けさを取り戻した氷壁内。セメルは言霊を解いた。
本殿に向かうと、本殿の裏の方へ逃げた闇影隊が全滅していた。損傷を見るに、対象の攻撃ではないことは明かであった。傷口が綺麗すぎるのだ。刀で裂いたかのように真っ二つになっている。さらに調べると本殿にも同じ傷跡があった。
闇影隊はすぐに混血者の可能性を疑った。それから神主を捜した。
数多くある死体の中から神主を発見したのはセメルだ。座り込み、上半身を膝の上に置いて服をめくった。そして、下唇を強く噛み締めた。
深くはない傷跡がいたるところにあった。まるで子犬とじゃれて出来たかのような傷跡ばかりだ。腰には湿布が貼られていた。
獣は闇影隊の討伐対象である。神主は、守っていたのだ。
赤坂が隣で膝をついた。
「大丈夫ですか?」
「ああ。神主に家族は?」
「いえ、いません」
「そうか……」
こうして、一度国へ戻り、また仲間を連れて戻ってくるまで遺体は本殿に収められた。
南光の闇影隊は、死ぬ直前まで情報を伝えようとした隊員の事を必ず王家に知らせると約束し、去って行く。
西猛の闇影隊は、裏切り者が誰であるかすぐに調査する意向を言い残し、去って行った。
北闇の闇影隊一行は己の国を目指して歩みを進めた。その間、誰も口を開くことはなかった。
領域の境目を目の前にしてセメルが立ち止まる。
「親父、早く帰ろうぜ」
「そうだな……」
ヒロトが優しく父親の手を引いた。が、しかし、
「……あれ?」
少し歩いたところで次はヒロトが立ち止まった。なぜだか視界のずっと先に本殿の屋根が見える。
「疲れてるんかな」
「父さんもだよ。さ、行こう」
そうしてまた歩みを進める。今度は、全員が立ち止まることとなった。
「どうなってんだ?」
「なんで北闇に戻れないんだよ!」
いくら前に進んでも、気がつけば真逆である本殿の方に逆戻りしているのだ。
ちょうどその頃――。
「やっぱ変だよな?」
「僕もそう思う。僕たち以外の皆が変だ。なぜ同じ言動を繰り返してるんだ?」
「試験だったりして」
「そんなわけないだろう。いくらなんでも北闇の国民まで巻き込んだ試験など行うはずがない。……慎重に行動しよう。あれを僕達も真似ておく方がいい」
「どうしよう、父さんとヒロトは特例任務に行った。国外でも同じ事が起きてたら……」
「今は考えるな。紛れ込む事に集中しろ」
それから一週間ほど過ぎた、早朝。北闇に戻れずにいる一行は、空が明るくなったのを仰ぎ見た。それは居住区の方向からで、一斉に駆けだした。
徐々に正門が近づいてくる。
まだ朝も早いというのに、国内は大混乱であった。
「俺たちは今まで何をしてたんだ!?」
「私に聞かれてもわからないわよ! なんで同じ行動を繰り返していたの!?」
「そっちもなのか!?」
「いったいどうなっているのよ!」
騒ぎの中で赤坂はセメルに帰るように言った。
「報告は俺が! セメルさんは早くナオトの所へ!」
「すまない! 頼んだぞ、キョウスケ!」
セメルは土足で家に上がり込んだ。そこには、出発した日と変わらず、居間に鎮座するナオトの姿があるのであった。
後に、特例任務での事件は「山吹神社事件」として世間を震撼させる事となる。これは、フードの男が言った「始まり」の出来事である。