歌姫(最終話)
脇腹に激しい痛みを感じてきたところで走るのをやめ、アスファルトの地面に大の字に寝そべった。目を閉じる。暗闇に心臓の鼓動と呼吸音が響く。これは夢なのだろうか、それにしては感覚がリアルすぎる。このまま目を開ければおれは自分のベットの上にいるだろうか。ユーチューブの見すぎで変な夢を見てしまったのではないか。
そっと瞼を開く。暗闇の中に小さな光の結晶が散らばった。小さい頃住んでいた離島の夜空を思い出した。深呼吸しながらしばらく空を眺めた。
水面に水滴の落ちる音がした。起き上がり、あたりを見渡すが水は一滴も存在しない。また落ちる。遠くで雨が降りはじめたのかもしれない。かすかな音を頼りに音源を探す。
暗闇で気づかなかったが、近くに広い公園があった。中心に広場がありそれを囲うようにベンチや遊具、木が並んでいる。ベンチには真っ白なワンピースを着た少女が座っていた。目は白く濁り、光を映していない。肌はワンピースとの境目が分からないほど白く、月の光を反射していた。髪は銀色に輝いている。
音は少女の喉から奏でられる歌声だった。
離島の川で泳いだときの感覚。水の中でせせらぎの音に耳を澄ませる。汗を、泥を、洗い流してくれる。不満、苛立ち、哀しみ、体の中の汚れまで全て洗い流してくれる。自分の体が川の流れの一部になったような、全て洗われて透明になったような感覚が想い起された。
おれはベンチから広場を挟んで向かい側にある滑り台の下に腰を下ろした。
『効かないクスリを飲む毎日
仮面の声しか聞こえない
調節された室温 消された臭い 平穏
こんな場所でどう生きる
誰もいない部屋で過ごす日々
窓から差し込む日の光
わたしには眩しすぎる カーテン閉めて
暗闇の中にこもる
わたしは眠る あなたに会いに
ここがわたしの生きる世界
起こさないで
起こさないで
起こさないで
起こさないで
暗闇の中あなたと歩く
つないだ手に伝う温もり
星がきれいと呟く声 輝く目
うれし涙がこぼれる
わたしは起きる あなたに会いに
ここが真の現実世界
眠らないで
眠らないで
眠らないで
眠らないで』
少女の声が途切れた。
目を向けると、彼女の白い首元に背後から黒い影が腕を巻き付けていた。
鼓動が激しくなる。体内の水分がすべて沸騰してしまいそうな強い怒りが沸き起こった。彼女の表情はよく見えなかったが、脅えて体を動かせないようだった。
気づくとおれはクラウチングスタートに近い体勢をしている。頭に上っていた怒りをすべて太腿に流し、その力で地面を思い切り蹴った。筋繊維がぶちっと切れる音がした。気にせずに地面を蹴り続けた。1秒もかからず少女の座るベンチにたどり着いた。
「もう大丈夫だよ」
純白な肌に絡みつく黒い影の首をつかみ、思い切り腕を振る。10メートルほど飛んで地面に叩きつけられた。顔は暗くてよく見えなかったが、汚い男の乞食のようだった。頭部の左半分がなく、きれいに陥没している。
「ぐへへ、でゅふふふふふふふふ」
殺す。
おれは今すぐにこいつを消滅させなければいけないという強い使命感に駆られた。顔をぶん殴るために胸ぐらをつかもうとした瞬間、おなかに強い衝撃があり、背中から倒れた。男が反撃してきたようだ。
地面に背中を打ちつけたとき腰のあたりに違和感があり、おれは重要なことを思い出した。そうだ、おれには銃がある。あのかっこいい秘密武器庫で手に入れたハンドガンが腰にはさまっているのだ。
右手でベルトから抜き出し、立ち上がった。男は素早くおれの右手をつかんだ。引きはがそうととするが、左手も同様につかまれた。互いに両手がふさがった状態だ。男が右半分しかない頭で頭突きしてきた。それを膝蹴りで受け止める。全身の力が抜け、崩れるように倒れた。
男の頭部に向けて銃を構える。
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ
痙攣する右手を左手で抑え、おれは絶叫しながら引き金を引いた。
弾が放たれる衝撃を感じない。
装填されていないのか?
違う、
引き金には指がかけられていない。
脳は確かに撃つ命令を下した、が、その命令を実行する人差し指は存在しなかった。
急いで左手に持ち替えようとした。
しかし、男はその隙を見逃さなかった。
一瞬にして銃は奪われ、銃口は自分に向けられる。
爆発音とともに視界の左半分が真っ白になり、激しい耳鳴りに襲われた。
視点が地面まで落ちる。
撃たれる直前、男の顔がはっきりと見えた。よく知っている顔だった。
毎日のように鏡面をはさんで向かい合っていたあいつだ。
朦朧とする意識の中、少女のいる方向に向かっておれがスキップしていくのが見えた。