ライブ
もったいないことをしたなあ。街灯に照らされた夜道を歩きながら、おれは後悔の念に駆られていた。あの肉団子をもっと食べたかった。麺もスープもすべて食べきって、肉団子を最後に一つだけ残して、それをあの男の右目にはめればよかった。本当にもったいないことをした。
遠くでにぎやかな声が聞こえる。光に照らされた立方体の建物の前で群衆が列を作っていた。黒いTシャツ、首にはハンドタオル、手首にはラバーバンドをはめている。バンドのライブがあるようだ。タオルもラババンもないままおれは列に加わった。
受付の男にチケットの掲示を促されたが指の欠けた右手を見せるだけで良かった。そのまま手の甲にスタンプを押された。男は口の右端から右耳の付け根あたりまで裂け目があり、ボディステッチでおしゃれに縫い付けられていた。
キャパ1000人はありそうな広いライブハウスだった。おれはほぼ一番後ろで舞台が遠くに小さく見えた。垂れ幕には血の涙を流しているような目のロゴマークが大きく印刷されていた。手の甲に押されたスタンプも同じデザインをしている。
前方にはライブ用の服装をした人たちがほとんどだが、後方にはおれと同じように何のライブかも知らずに飛び込んできたであろう人が多かった。
隣に立つ若い女性に目を向けた。茶色に染めた髪を後ろで結んでポニーテールにしている。左目尻の下にあるほくろが官能的だった。
視線に気づいたのか、おれの方に顔を向け、軽く微笑んだ。おれは反応に困り、不審に思われないよう話しかけることにした。
「あの、これって何のライブかわかりますか?」
「あ、実はわたしも知らなくて、なんか楽しそうだったから、入ってみました」
彼女は恥ずかしそうに笑った。
「わたし、リュウって言います」
「自分はカイです。リュウさん、なんか、珍しいですね」
「そうなんですよ!よく男と間違われます」
話すときの表情が光り輝いていて、誰もが好感を持てそうな人だった。
「あの、リュウさんは、どこが悪いんですか?あ、言いたくなかったら答えなくてもいいです、ただどこにも異常がなさそうなので」
「全然大丈夫ですよ!.....わたし、肺が一つないんです。手術で摘出しました。肺気胸っていう病気で、男の人が良くなる病気らしいんですけど、たまにホルモンのバランスが崩れると女性でもなるらしいんです。まあでも生活は普通に送れてたんで問題ないんですけどね」
笑った顔が少しだけ歪んでいた。この質問はまだ早かったなと後悔した。
「カイさんこそ、どこも悪くなさそうですけど」
おれは右手を差し出した。
「え、やくざだったんですか!」
「い、いや、違いますよ!自転車の車輪に巻き込まれたんです、ほんと、ダサいですよね」
「あ、そうなんですね、ちょっと、びっくりしましたよ」
「こんな弱そうなやくざ、いるわけないじゃないですか」
「たしかに、そうですね」
彼女と話していると、この世界に来てからずっと続いていた緊張感がほぐれていくような感じがした。
突然、会場が暗闇に包まれた。歓声が上がる。舞台に目を向けると4つの影が姿を現した。歓声はさらに大きくなり、奇声が混じっている。爆音とともに強い光が放たれ、影の正体を照らす。メンバーは全員、白衣を着ていた。
高速ギターとベースのスラップが激しくぶつかり合う音で始まり、1曲目から空間全体に熱が充満した。
隣の人と肩を組みヘドバンして絶叫するような曲から、体の芯に染み込み思わず目を潤わせるバラードまで、緩急の激しい最高のライブだった。
「次で、ラストです。ありがとうございました!!」
静かな始まり方だった。ドラムの一定のリズムを刻む音がしばらく続き、ギターが後を追うように同じリズムを刻む。ベースもまた同様に後を追った。体が無意識に反応し小さく踊りだす。わずかだが徐々にリズムは速く、音は高く、大きくなっていく。なかなか歌は始まらない。
どれくらいそれが続いただろうか、体感時間は10分を超えていた。さすがにこれは異常すぎる。音は不協和音すれすれにまで変化し、気分が悪くなってきた。リズムに隙間を設けず、手あたり次第音を詰め込んでいるように聴こえる。不思議と熱が冷めることはなく、鼓動はリズムに合わせて速くなっていった。心臓の支配権を奪われたような感覚だ。
「お前らぁぁぁ、狂えぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!!!」
突如ボーカルが絶叫した。これまでの爽やかなイメージが一瞬にして崩れた。
リズムは崩壊し、暴力的な騒音に変わった。
前方で悲鳴が上がる。乱闘が始まったようだ。あちこちで血が噴き出しているのが見えた。メンバーの白衣が所々黒に染まっている。血しぶきは徐々にこちらに近づいてきている。血のウェーブだ。
咄嗟に隣のリュウさんに顔を向けた。目尻から黒い雫をたらし、鼻、耳、口からも同様に黒い液体が漏れている。おれは急にその顔を破壊したくなった。原形が分からないくらいめちゃくちゃに殴り潰してやりたい。鼻をへし折り、顎を外し、眼球を引きちぎる。おれがそうする姿が具体的に頭に浮かんだ。おれは思い切り自分の頬を殴った。血のウェーブはすぐそこまで来ている。
全速力で出口まで走った。
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ
出る直前、受付の男が倒れているのが視界に入った。ボディステッチはちぎれ、口から耳元までぱっくりと裂けていた。理科室にある骨格標本のように顎の構造がはっきりとわかる。そのまま速度を落とすことなく走った。