資格②
門の前に俺の帰りを待っていたかのようにあの猫が座っていた。急にふつふつと怒りが込み上げ、俺はその場で自転車を放棄し猫に向かって走り出した。猫はおれの部屋の方向へと走っていく。一瞬何が起きたのかわからなかった。そのままドアに向けて速度を落とすことなく飛び込み、消えた。
重いグレー色をしたドアには水面のような波紋が広がっている。もう酔いが回ったのかと自分の目を疑った。
人差し指を失って気がおかしくなったのだろうと冷静に考え、放棄した自転車を駐輪場に直し、再び玄関の前に立つ。恐る恐るドアを蹴ってみるがつま先に痛みを感じるだけだった。これは固体だ、足が消えるわけでもなく液体のように波紋がたつこともない。ほっと胸をなでおろし、鍵を開け、取っ手を引っ張った。
「うぉわっ!」
思わず声が出た。
「お待ちしておりましたぞ!!ささ、お荷物を預かります」
タキシードを着た老人が目の前に立っていた。頭の頂点が俺の乳首の高さと同じくらいだ。満面の笑みでそそくさと俺のリュックを奪い、部屋の奥へと進んでいった。背筋がピンと伸び、モデルのようなきれいな歩き方をするため、実際より背が高く見えた。
そこはおれの部屋ではなかった。もはや部屋ではなく高級ホテルのロビーのような空間だった。天井にはシャンデリアがぶら下がり、楕円形のガラステーブルを挟んで2つの黒いソファが向かい合っている。
「ささ、どうぞお座りになって!」
おれが座ると同時に老人も向かい側のソファに腰を下ろす。
「あなた様は非常に運がよろしい!これからあなた様は自分が願った通りの、思いどおおおおお!!!!!りの、人生を歩むことができるのです、おめでとうございまぁぁぁす!」
パンパンパンパンパンパンパンパンパン
両手を叩く音が広い空間に良く響いた。
顔は皺だらけだが、声は若々しく力強かった。
なんなんだこれは。
空間の雰囲気から、自然と映画マトリックスのワンシーンが思い出された。
丸いサングラスをかけたスキンヘッドのおっさんが両手にカプセルを握っている。右手は赤、左手は青だ。
赤のカプセルを飲めば世界の真実を知ることができる。青を選べば元の生活に戻れる。
主人公は迷わず赤を選ぶ。
ふと顔を上げるとまさにその丸いサングラスをかけたスキンヘッドのおっさんが座っている。
「この姿のほうが良いかな?」
男はさっきより低いどすの利いた声でセリフを吐いた。
おれが口をあんぐり開けたまま二、三度瞬きすると元のタキシード老人の姿に戻った。
「いやいや、脅かせてしまってすまないね、いひひひ」
にんまりと笑う口元を見ると、奥歯より少し手前あたりに大きな肉の食べかすが挟まっていた。
「まだ何が起こっているのかわからないだろう?みんなそうさ、最初は君と同じ反応をするよ」
さっきまで『あなた様』だったのにもう『君』か。
「人間の脳は」
老人は急に静かな低い声で話し始めた。空間にピリッとした緊張感が漂う。
「人間の脳は進化しすぎた。最初は手先が少し器用なだけだった。石を使うようになり、火を起こした。絵によってコミュニケーションを取るようになり、やがて文字が生まれた。言葉を操るようになると一気に人間同士のコミュニケーションは容易になった。その後、電気を操り、車を発明し、コンピュータができた。コントロールできる領域をどんどん広げていき、ついには世界すべてを操れるようになってしまった。言葉の通り、考えるだけで自分の見る世界を願い通りに動かすことができるのだ。しかし、しかしだ、人類すべてが世界を思い通りにコントロールできるとしたらどうなる?一瞬にして世界は崩壊するだろう。だから普段、この能力は封印されている。脳の奥底で深い深い眠りについているのさ」
ここで老人は不気味な笑みを浮かべた。
「そしてその封印を解くことができるのは、ある資格を持つ者だけだ。その資格が何か、君はわかるかい?」
目線がおれの右手に移る。
おれも思い出したように右手の人差し指があった箇所を見る。いつの間にか傷はふさがり、血も出ていない。まるでそこにはもとから何もなかったかのような完璧なふさがり方だった。
「そう、何かしらの代償を払った者に資格が与えられる。つまりは障害者だ。身体的にどこか異常のある者だけが資格を得る。その障害の大きさによって得られる能力の大きさも変わる。障害が大きければ大きいほど、より広く世界をコントロールできる。君は本当に運が良いよ」
優しく微笑んでいるつもりなのだろうが、さっきより一層不気味な笑みを浮かべている。
それが本当ならば、なぜ今おれと向かい合っているのが背の低い老人なのか。真っ先に疑問に思った矢先
「あら、こういうのが好みかしら?」
古代ギリシアの彫刻に命が宿ったような美しい裸体の女が姿を現した。
おれの下腹部がうごめきだす。
「やめてくれ、立ち上がれなくなる」
ここに来て初めておれは言葉を発した。
ハッハッハッハッハッハッハッハ
老人はいつの間にかもとの姿に戻り、涙目になりながら大声で笑った。歯には相変わらず肉の食べかすが挟まっている。
おれのしかめっ面に気づくと、笑いを止め、立ち上がった。
「さあ、そろそろ外に出よう。だがその前に、注意事項がある。これから出る世界は君だけの世界ではない。ほかにも資格を持った者たちがうろうろしている。彼らにコントロールされないように気を付けろ」
そう言いながら後ろを振り向き壁の方へ歩いていった。
天井まで伸びている大きな本棚の前で立ち止まる。老人が一冊の本を抜き出すと隠し扉が現れた。中に入ると部屋の壁一面に武器が飾られていた。まさに映画に出てくるスパイの秘密武器庫だ。おれの心臓は破裂しないか心配になるほど激しく踊りだした。
「好きなだけ持って行っていいぞ。外の世界は基本的には平和だが、殺し合いが始まることも別に珍しくはない」
ハンドガン、ライフル、グレネードランチャー、ジャックナイフ、西洋のロングソード、日本刀.....
世界のありとあらゆる武器が集結したようだった。それらを眺めていると腹の内側がくすぐったくなる。
おれはもうその空間にいられるだけで満足だった。
銃身がシルバーに輝くハンドガンを一丁手に取り、腰とベルトの間に挟んだ。
「もう大丈夫です」
老人に一言声をかけ、部屋を出た。
「そうですか、ではではお見送りいたします」
最初の丁寧な口調に戻っている。玄関に向かう老人の背中におれは声をかけた。
「あのさ、一つだけいいかな?」
「なんでしょう?」
「おれの指食べた?」
「.....まさか、あんなもの食えたもんじゃないですよ。ほとんど肉がついてないですし。まあ、あのコリコリとした食感だけは悪くないですね」
おれは諦めたようにため息をつき、老人が開けたドアの外に出た。
「気を付けて行ってらっしゃいませ。あなた様のご健闘をお祈りします」
少し歩いて振り返ると、ギリシア彫刻の女が投げキッスをしていた。