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資格  作者: 肉塊
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資格①

 正面からママチャリが流れてくる。前と後ろにベビーシートのようなものが取り付けられ、前には買い物袋、後ろには3歳くらいの男の子を乗せていた。運転者の目はうつろでどこか遠くの違う世界を見ているようだった。子供の方は大昔の中国の皇帝のような態度でふてぶてしく座っている。

日は沈みかけで空はまだ明るかったが、ママチャリはライトを点けていた。目を焼くほど眩しい迷惑な光だ。その光は右手にあるスーパーの駐輪場に吸い込まれていった。


 おれの自転車のライトはタイヤとの摩擦熱を光に変える安いやつで、タイヤが擦れる音でうるさいためぎりぎりまで点けない。


 バイト終わりの帰り道で今日一日を振り返った。特に異常はない。印象に残ることもほとんどない。


 強いて言えば、レジのカウンターで作業中、5歳ほどの男の子が話しかけてきた。


「あのねぇ、ぼくのねぇ、あのねぇ、ぼくねぇ、ぼくのねぇ、とってねぇ、あげるの、とってぇあげるからぁ、もらうっていってたの 」


その言葉しか知らないようにひたすら繰り返した。


「何を取るの?」

「あのねぇ、ぼくのねぇ、ぼくのをねぇ、とるの」


反応に困っていると、背の低い眼鏡をかけた男が近づいてきておれに会釈をし、男の子の手を引っ張り自動ドアの外へ消えた。男の子が何を伝えたかったのか気になったが、数秒後には作業に戻りその子のことも忘れていた。


 ちょっとした異常でも思い出して反芻しないと気持ちが落ち着かない。

 今日の残り時間は、ベッドで寝落ちするまでユーチューブを見ていれば一瞬で終わる。


 勤務先から自宅までは一直線の道のりで5分ほどで着く。自宅から大学のキャンパスまでの半分ほどの距離だ。

 自宅の駐輪場が視界に入る、右手のブレーキを徐々に握る、音をたてないようにゆっくりと減速し、車輪が止まると同時に素早く飛び降りる。線に沿ってきれいに並んだ自転車たちに倣い自分の自転車を停める。鍵を抜き取りジーンズの右後ろポケットに放り投げる。

 昨日も同じ時間帯に同じ動作をした。一昨日もそうだ。三日前はどうだろうか。いつからこの無限ループにいつから放りこまれたのか。毎日が同じことの繰り返しでつまらない、そんな思考に至るのも人並みで珍しくとも何ともない。誰もが思うことだ。平和な日々に嫌気が差し、何か身近で大事件が起こってくれないか、自ら行動しようとせず常に受け身の姿勢で生きている。そんなに事件を望むのなら自ら犯罪に手を染めればよい、簡単なことだ。少しは刺激的な体験ができるだろう、そんな勇気はないだろうが。


 おれの部屋は一階の角部屋で、この建物の中では最も家賃が安い。

 昨日と同じ容姿をした玄関のドアの前に立つ。今にも泣き出しそうな曇り空に似た重いグレー、身長は190くらい、おれの目線と同じ高さにほくろのようなレンズ穴、腰より少し上の高さで握手を求めるように取っ手を突き出している。部屋のカギをリュックのポケットから抜き出し、鍵穴に差し込む寸前で手を止めた。

 ふと何かを思いつき、笑いが止まらなくなった。ならば逆らえばいいじゃないか。何でもっと早く気が付かなかった。

 駐輪場に引き返し右後ろポケットから自転車のカギを取り出す。とりあえずいつもと違うことをしたかった。とにかく遠くに行くことにした。行ったことのない街へ繰り出せばそこで何かしらの事件に巻き込まれるかもしれない。期待を胸に、薄汚れたアパートの門をさっきとは逆の方向にくぐった。



     *



 30分もたたないうちに帰路に就いた。路地裏にひっそりとたたずむバー、扉を開けると中にはグラスの氷を物寂し気に回す一人の美しい女、なんていうドラマチックな展開はミリもなかった。

 知らない道でただ迷子になり、グーグルマップで帰り道を検索するのに一苦労した。

 ようやく知っている道まで戻り、アルコールでこの虚無感を洗い流そうといつものコンビニに寄った。最近話題の99.9%純度ウォッカを使用したチューハイとおつまみを買った。350ミリ缶にもかかわらずグデングデンに酔えると噂だ。


 コンビニを出たときには空はだいぶ暗くなっていた。自転車を走らせながらライトを点けていないことに気づき、右手を前車輪の上部に取り付けられたスイッチに近づける。

前に無灯火運転で警察に注意されたせいでマメに点けるようになっていた。

スイッチに手が触れる直前、視界の隅に黒い塊が横切った。猫だ。

あわててハンドルを右に傾けた。


「あダダダダダダダダダダダダダダだああッ!」


20年間生きてきてこれまで聞いたことのない声が自分ののどから発せられた。おれの素の声は本当はこんな音かもしれないとあとで思った。

 車輪は右手の人差し指を巻き込み、まるでソーセージをかじるようにボリボリと肉と骨を嚙み砕いた。完全に左ブレーキを握りきったときにはもう遅く、右手の指は全部で4本になっていた。

 ちぎれた人差し指は車輪の近くに落ちていた。猫は自分が轢かれそうになったことも気にせずそれをくわえ、走り去った。おれは茫然とその様子を眺めていた。不思議と痛みはほとんど感じなかった。衝撃が大きすぎて痛みを感じる余裕がなかったのだろう。右手の中指と親指の間から温かい液体が滴り落ちてくる。


 ふと我に返り10秒ほど考えた結果、ビニール袋から350ミリ缶を取り出し左手でふたを開け患部にぶっかけた。少しもったいないなと思い今度は口にウォッカを含み右手の黒く染まった箇所を咥えた。鉄の味とアルコールが混ざり合い深みのある何とも言えない味がする。新しいお酒を発明したようで気分が良くなった。


 こういうときどうしたらいいのか、病院にはできるだけ行きたくなかった。とりあえず中指と親指の間を口に咥えたまま片手で運転し、部屋に帰ることにした。心臓が鳴るたびに液体がぴゅっぴゅっと吹き出し、母乳を飲んでいるようだった。


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