4 スローモーションな時間 シェアハウス物語
佐々木さんのところへ行ってみた。
無理にお兄さんの件を話すつもりはなく、顔を見ておこう
と思ったからだ。
スタッフによる佐々木さんについての毎日の記録に目を通
した。特に変化のようなものはないようだった。
記録が毎日あることが、わずかな変化も見落とさないよう
にしてくれているが、記録者の主観によって、受ける印象
が違うという点については、記録の際に10年後にその記録
を読んでも、リアルに感じるような記録を心がけることを
指導教官やスーパーバイザーから常に言われている。
佐々木さんの部屋の前に来て、自分の呼吸を整え直した。
「佐々木さん。川村です。入りますよ」
声を掛けるも返事がなかった。
もう一度、声を掛けながら、部屋に入った。
ベッドにもソファにもいない。
散歩に行くような体力は、すでに今の佐々木さんにはなく、
部屋の外に出るとしても、車椅子に自分だけで乗り移るの
も1ケ月以上前から出来なくなっていたから、当番スタッフ
が知らないうちに部屋を出ることはない。
あとは、トイレしかない。
「佐々木さん、川村です。トイレですか?」
トイレに入っている気配が感じられなかった。
急いで、当番スタッフを呼んで、トイレを確認した。
トイレの中で、意識がなくなっている佐々木さんがいた。
当番スタッフが救急車の手配をしに行った間、彼女から
渡されたハウス内PHSで指示をもらえるようにして、僕は
現場に残った。
到着した救急車へ僕も同乗した。
到着するまでの10分程の間、渡されたPHSに救急隊から直接
連絡が入り、指示を受け、僕の出来る確認をして報告を何度
かやり取りをしていた。
救急病院には、すぐに到着した。
病院の聞き取り担当看護師からの質問に答え、廊下の長椅子
で家族が来るのを待った。
佐々木さんの部屋に行ってから、今までの時間が、あまりに
あわただしくて、今ここで、何も考えず、じっと何もせずに
すわっていられることが、現実の時間の方がスローモーショ
ンになったかのような感じで、不思議な感覚になっていた。
久しぶりに自分のことを考えた。
僕の通う大学の観光学科の現地実習で、ここバンコクに来て
からは、自分のことを考える余裕なんてなかった。
日本の両親にも、こっちへ来て以来、何の連絡もしていないの
に気づいた。 両親への近況報告としてツイッターを始めよう
かな。
佐々木さんの家族が来た。
お兄さんも来ていた。
僕の知っている状況を家族に伝えた。
家族にとっても、これまでにはなかった事態で、病状というこ
とではなく、家族の心の準備のステージが一段変わった時なの
だろうと思った。
だから、佐々木さんの病状を頭では理解していても、心では受け
入れられてなかった部分が、今日のことで本当に覚悟ができるよ
うに変わっていけるのかもしれないと、この意識がなくなったと
いう状況も何かを教えようとしてくれているようにさえ思えた。
ハウスへもどろうとしていた僕に、お兄さんが声を掛けてくれた。
「せっかく、今日の朝食を食べましょうって約束をしていたのに。
少し残念でしたが、やっと、弟の近くへ行くことが出来るので、
話はできないでしょうが、昔の子供のころを思い出しながら、弟
と朝食を食べてる気分になってみようかと思っています」
また近いうちに食事をしましょうと、お兄さんと話して、僕は
バイクタクシーを呼んだ。
ハウスに帰ったら、3ケ所は報告に行かないといけない。
ハウスに着くまでに、報告書だけでも完成させておこうと思い
携帯端末に集中しようと思ったが、お腹が空いた。