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4.過去の思い出から覚めればそこは夜明けの厨房で

「ねえ、ピレス。今度、舞台に立つことになったの。見に来てくれるわよね?」


 カトリーヌが微笑む。

 私は粉を振るう手を止めた。カレンダーに目をやり、彼女の舞台の日を確認する。

 大丈夫、その日は休みだ。


「行けると思うよ。席のチケットは今からでも取れるのかい?」


「何言ってるのよ。もう特等席を押さえているわ。あなたにわざわざチケット代を出させなんか、しないんだから」


 わざと怒ったような顔を、カトリーヌは私に向けた。

 私はそれが冗談であることを知っている。

「ごめんごめん。じゃあ、楽屋にお菓子を差し入れにいこう。何か食べたいものがあれば、リクエストしてくれ」と笑いかけると、彼女もすぐに表情を崩した。

 朝の陽射しに、その笑顔と白金色の髪が踊る。


「ほんと? じゃあ、アシェット・デセールがいいわ。あなたの技術の粋を尽くした芸術的なスイーツですもの。きっと皆ビックリするわよ!」


「待った、カトリーヌ。あれは持ち運びには向かないんだよ。一つの世界を創るような、そんなスイーツだからね。頼むから変えてくれないか」


 苦笑いと共に、私はボウルを左手に取り、泡立て器を手にした。

 朝食のそば粉のクレープを作るためだ。そのクレープの生地を見ながら、カトリーヌは首を傾げる。

 キャミソール一枚の彼女がそんな姿勢になると、とてもコケティッシュな魅力があった。


「ううん、やっぱりダメよね。じゃあ、そうね。タルト・タタン(りんごのタルト)は? あなたの作ったあのタルト、すごく好きなの」


「いいとも、お安いご用だ。さて、お嬢さん(マドモアゼル)。朝食の前に着替えておいで。僕の目の毒だし、風邪をひくよ」


「あら、目の保養になると思ったからこんな格好なのよ。それに、あなたが暖めてくれれば何も問題ないじゃない?」


 挑発的に髪をかきあげながら、カトリーヌは私の肩に頭を乗せる。

 正直ぐらっときたが、そこは理性で我慢した。

 女の魅力であっさり陥落するのは、負けたみたいで悔しいからだ。


「だーめーだ。顔を洗って着替えた頃には、クレープも焼き上がっている頃さ」


 優しく諭すと共に、私はボウルの中身をフライパンに注ぐ。

 トロリとした生地が流れ落ち、香ばしい匂いがふわりと鼻孔をくすぐった。

 そば粉独特の、軽くそれでいて奥深い甘さを予感させる匂いだ。


「分かりました。ここは天才パティシエのおっしゃる通りにするわ。その代わり、美味しいクレープ食べさせてね」


「ご期待を裏切ることはないと断言しておくよ」


 彼女の体が私から離れる。消えていった柔らかい感触を少々惜しいと思いつつ、私は自分の注意力をフライパンの中へと向ける。

 クレープの生地は薄いため、焦げないように注意しなければならないのだ。


 "いい日曜日だ"


 火を止め、私は何枚かのクレープを皿に移す。湯気で湿気ないように、少しずらしながら重ねていく。

 並行して作っていたベーコンと玉ねぎのスープも、そろそろ出来る頃だ。簡単だけれど、カトリーヌと食べるなら何でも美味しい。


「ちゃんと着替えてきましたー。あ、あれ、全部作ってくれたの?」


「本職だしね。これくらいは何でもない」


「む、じゃあコーヒーは私が淹れるわね。何にもしないんじゃ、あんまりだから」


「じゃ、お言葉に甘えて任せようかな」


 タートルネックのセーターに着替えたカトリーヌが、慣れた手つきでコーヒー豆を挽く。

 開けた窓から入る空気は微かに暖かく、春が間近に迫っていると気がつかせてくれた。


「――幸せだな」


「え、何か言った?」


「何でもないよ」


 椅子に座りながら、私は軽く首を横に振る。

「そう?」と呟きながら、カトリーヌが淹れ立てのコーヒーの入ったマグカップを食卓に置いた。

 コトリという重い音が、何故か妙に優しい。


 私は視線を上げる。カトリーヌの顔が見えた。

 彼女の顔を見飽きることはないだろうな、と何の根拠もなく思った。



† † †



 "あの時は別れるなど、全く考えていなかったな"


 ゆっくりと目を明けながら、私は追憶を振り払う。

 夜中の厨房は静かで誰もいない。

 下準備を終えた後、追い込みのために仮眠を取っていた。

 椅子に座っただけでも、眠るには十分だ。


 時計を見る。午前四時か。

 ここから三時間で仕上げて、午前七時。

 搬入のための軽バンは、午前八時に手配している。いい頃合いだ。

「よし、やるか」と呟くと、私はウェディングケーキに取りかかり始めた。


 何を作成するかはかなり迷ったが、最終的には自分が自信のあるスイーツに決めた。

 通常、ウェディングケーキは二種類の中から選ぶ。

 円筒型のホールケーキを塔のように重ねたケーキか、四角いボード(スクエア)のようなケーキのどちらかだ。

 私も特に顧客からリクエストが無ければ、このどちらかを選ぶ。どんな飾りつけをするかは、ケースバイケースだ。


 "だが、今回はそのどちらでもない"


 敢えて、定番のその二つを外す。

 国民的人気を誇る女優の結婚式だ。独創性溢れるスイーツをウェディングケーキに仕立ててみたかった。


 ホワイトボードに貼ったメモを確認する。そこには私が描いた今回のスイーツの完成図がある。

 アシェット・デセール。

 複数の異なるスイーツを組み合わせて配置し、一つのプレートに盛り付けるスイーツだ。

 組み合わせるスイーツの種類と配置によって、一つ一つのデセールはまるで異なる印象と味覚を持つ。


 "前にアラン君と仕合った時は、いちごとバジルとフロマージュのコンポジションだったが、今回は違う"


 アシェット・デセールには無数の種類がある。

 その場その場に相応しいデセールを選び出し、それを作りあげていく。

 今回私が選んだアシェット・デセールは、リンゴとバナナとラム酒のミルフィーユ仕立てだ。

 ラム酒のアイスクリーム、バナナのキャラメリゼ、焼きリンゴ、キャラメルソース、ラム酒風味のクレーム・フェッテなどを使い、インパクトのある演出が出来る。


 このデセールのベースとなるのは、一番下に敷くフィユタージュ・アンヴェルセ。

 多層のミルフィーユ生地は、このフィユタージュの出来にかかっている。

 既に何回か成形と冷蔵庫での生地の休憩は終えており、ここからは仕上げだ。

 あと一回生地を整えてから、また冷蔵庫に一時間休ませる。その一時間の間に、他のスイーツを作ればいい。


 重い業務用冷蔵庫から、ラップで包んだ生地を取り出す。

 薄力粉、強力粉、発酵バターにサワークリーム、砂糖、白ワインビネガーを馴染ませている。

 ラップを外すと、わずかに黄色みを帯びた白い生地があらわになった。

 これをオーブンシートにおく。


 "アシェット・デセールは、カトリーヌに作ったことはなかったな"


 手で生地をたゆませながら、ふと考える。

 ちょっと作るという訳にはいかないのが、アシェット・デセールだ。

 だから彼女が食べたことがなくても、やむを得なかったとは思う。

 とはいうものの、今にして思えば少し気にはなる。


 "いいさ。この機会にプレゼントしよう"


 多分これが最初で最後の、カトリーヌに作ってあげるアシェット・デセールとなるだろう。

 ならば、今の私が持てる最高の技術で作ってみせようじゃないか。


 もう一度生地をラップで包み、冷蔵庫に入れておく。

 他のスイーツのプロセスを確認する。

 ラム酒風味のクレーム・フェッテとバナナのキャラメリゼは、既に作りあげている。

 次は木の葉のチュイールに取りかかることにした。


 耐熱ボウルに、乱切りにしたさつまいもと牛乳を入れる。

 500Wの電子レンジで三分ほど加熱すると、さつまいもがほどよく柔らかくなった。

 それを確認してから、裏ごししてペースト状にした。そこにさらに牛乳を注ぎいれる。白っぽくなったさつまいものペーストは、穏やかな甘い匂いがした。


 "手早く、正確にだ"


 頭の中でリズムを刻む。

 粉糖、薄力粉、シナモンパウダーを加えて、ヘラで混ぜ合わせていく。ペーストはとろりとした液状になっており、状態はいい。

 次にシルパットと呼ばれる板に、大小の葉の形の型を載せる。

 そこに今作ったペーストをパレットですくい、丁寧にすりこんだ。

 ほとんど美術の授業だ。


 "よし、あとはこれを焼けばほぼ終わり"


 天板に型をあけると、お菓子の木の葉が何枚も広がった。

 これを160℃のオーブンで10分ほど焼く。そのあとチョコレート色素をエアブラシで吹き付ければ、完成となる。


 休む間もなく、次のスイーツに取りかかる。

 順序から言えば、ラム酒のアイスクリームだ。

 まずは牛乳、生クリーム、水あめ、バニラビーンズを混ぜたものを、冷蔵庫から取り出した。すでにいい感じに馴染んでおり、とろりと甘い匂いが広がる。


 だがこれで終わりではない。

 グラニュー糖、てんさい糖、卵黄をすり混ぜたものを、この中に追加する。ボウルの中で、全ての材料がじわじわと一体化していく。

 甘さに華やかさが加わった匂いが心地よい。適度なところで、これを鍋に戻した。


 "弱火で少しずつ......"


 冷やすのはこの後だ。火にかけて全ての要素を一体化させ、なめらかさを引き出していく。

 それが終わったら、ボウルに移し氷水で一気に冷却だ。この冷却の間にラム酒を少量注ぎ、香りと風味を際立たせてやる。


「よし、ここからアイスにするか」


 アイスクリームマシンのスイッチを入れながら、私は窓の外を見た。

 黒と青を重ねたような色が、夜明けの太陽に差し込まれている。白っぽい光の欠片がやけに眩しい。


 時間は朝の五時を少し回ったところか。

 大丈夫、きちんと仕上げられるペースだ。

 眠気はどこかに置き去りにした。集中力を高めながら、完成形を頭の中で思い描く。本当に難しいのは、ここからとなる。


 "天才(ジェニー)などという大層な呼称を戴いたからには、それに負けないウェディングケーキを作るさ"


 背筋を伸ばし、私は次のスイーツにかかる。

 このリンゴのタタンが終われば、いよいよフィユタージュの焼き上げだ。

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