2.お客さまに騒がれるのは人気店の宿命で
その日も忙しかった。
極東の国、ニホンからのツアー客が大勢訪れたからだ。
若い女性が中心であり、店内が活気のある華やかさで満ちる。
「ねえねえ、あのパティスリーのケーキとどっちが美味しいかな?」
「De Vous Voirと比べてってこと? あそこのフロマージュ・キュイは絶品だったよね! パティシエさんもイケメンだったし!」
「あの人も外国人だったわよね。確か、アランって言ったっけ。うーん、いいや、どっちのお店も美味しいから私は満足だなー」
「そうね、このオレンジソースのクリームブリュレの香り高さといったら......はぁ」
ユタカに訳してもらったところ、彼女らは日本語でそのようなことを言っていたらしい。
彼自身も「鈴村さんて、あの鈴村豊さん? ショコラ部門で一位取った人ですよね!」と声をかけられている。
ふふ、だいぶ名を上げたじゃないか。
「通訳ご苦労さま。あの女の子達はアラン君とカエデ君を知っているようだね」
戻ってきたユタカに話しかけると、彼は表情を緩めた。
奇妙な縁があって知り合ったその二人を、ユタカもよく知っているのだ。
「ええ、あの二人のパティスリーは今は人気店の一つですからね。そういえばこの前、日本のニュースサイトで取り上げられていましたよ。えらくなったもんですね」
「彼らの力量なら、それくらいはやるだろうよ。私を本気にさせた二人なのだから」
ちらりと脳裏を掠めた記憶は、それほど昔のものではない。
ここではない何処かで、私はアラン君と菓子作りの腕を競った。
いつかまた腕を競いたいものだと思うが、その機会が来るかは分からない。
"それより今は、このお客様を何とかさばかないとな"
常連客も大事だが、ツアーの一見さんも大事なお客様だ。
二度と来ることのないお客様なのだから、勝負は今回一度きり。
私のケーキを二度と味わうことはないだろうからこそ、ベストのものを提供したい。
「ユタカ! シューパリゴーは焼けているか? 私は洋梨のサヴァランを仕上げておくからな!」
「はい、ムッシュ!」
「その意気だ」
若干浮かれ気味のユタカの気を引き締め、私は厨房に戻る。
コニャックを使ったサヴァランは、このパティスリー独特のケーキだ。生地をミルフィーユのような多層構造にしたのは、サクリとした歯触りを目指した為。
存分に味わってほしいと願いながら、私は自分の仕事に集中する。
† † †
「どうぞ、お嬢さん。当店特製の洋梨のサヴァランです。風味づけのため、コニャックを使っております。お酒に弱い方はご注意を」
私自らがケーキを運ぶ。
本当はウェイトレスに任せればいいのだが、ツアーのお客様へのサービスだ。
「きゃー、あのムッシュ・キャバイエ自らが運んでくれるなんて!」と握手をせがまれれば、やはり悪い気はしない。
うん、それが自分の母親くらいのご婦人でも......濃い化粧がまるでケーキのクリームのように見えたとしても......お客様に罪はない。
「まーっ、ほんといい男! こんなカッコいいイケメンで、ケーキ作りも上手いなんて、うちの亭主と全然違うわねーっ!」
「ほんともう、私があと二十歳若かったら放っておかなかったんだけどねえ! いいや、人生八十年、まだ今からでも遅くないわよねっ!」
「ちょっとやめなさいよ、おばさん達! キャバイエさん、困ってるじゃないの!」
「あらやだ、照れてるだけよ。もー、うちの近所にも、こんなカッコいいケーキ屋さんがいたらねえ!」
うん。
きっとこの人達は、日本からパリに来て舞い上がってるだけなのだろう。
きっとそうさ。
半ば強制的に自分にそう言い聞かせながら、私はユタカの意見を聞く。
「残念ながら違いますね、ムッシュ。こういうマナーのなってない観光客は、びしっと言ってやらないとつけあがりますよ。俺がやります」
「え、ちょっと待て、ユタカ!?」
私は慌てた。
ユタカはこう見えて、割りと血の気が多い。正義感に駆られるのはいいが、行きすぎは困る。
店の評判に関わるではないか。
「や、大丈夫っすよ。ムッシュはちょっと休んでいてください、はははは!」
なあ、ほんとに大丈夫なんだろうな?
† † †
「昼の休憩まだでしたよね? ちょうどいいので、行ってきてください」
ユタカに押しきられる形で、私は裏口から外に出た。若干不安ではあるが、ここはもう彼を信じることにする。
コックコートの上だけ脱いで、長袖のシャツに袖を通す。サングラスをかければ、一応変装にはなるだろう。
その格好で、近くの馴染みのカフェに入った。
「いらっしゃいませ――あら、ムッシュ・キャバイエじゃないですか。どうしたんですか、そんなサングラスなんかして」
「日本人の客が押し寄せてきて大変なんだ。ばれないように裏口から逃げてきたけれど、見つからない為の用心だよ」
私の説明を聞いて、店主のオルコットは「まあ、有名人も大変ねえ」と苦笑する。
赤毛がチャーミングな彼女は、私の知り合いと友人の中間のような存在だ。
「茶化さないでくれないか」と反論すると、言葉の代わりにランチのプレートが目の前に差し出された。
「お腹が空いてると、人間ろくなことを考えないもんですよ。ほら、食べた食べた」
「すまない。その気遣いに感謝するよ」
礼を言いつつ、生ハムとレタスのサンドイッチにかぶりつく。
何とか一息つけた。生ハムの塩気とシャキッとしたレタスがよく合っている。食べ終える頃には、心も落ち着いていた。
店には他の客もいるが、私がピレス・キャバイエとは気がついていないようだ。
日常の隙間のような、ほっと出来る貴重な時間だった。
「いつもの通り、ブラックでいいですか?」
「ああ、頼む」
オルコットからコーヒーのカップを受け取りながら、私は何気なくカフェの隅の方を見た。
前は、カトリーヌと付き合っていた頃は、いつもあの隅の二人席に座っていた。
彼女が私のパティスリーに立ち寄った時、抜け出しては束の間のデートを楽しんだものだ。
「思い出してしまうね」
私の呟きを、オルコットは黙って聞いている。返答の代わりに、二杯目のコーヒーがそっと差し出された。
「ありがとう」
「どういたしまして。ムッシュ、仕方ないよ。人生にはどうしようもないことだってあるもんだし」
「いや、別に心に刺さるとかはないんだけどね。ただ、あの席は変わってないなと思っただけだ」
返事の後味を、コーヒーの苦さで打ち消す。
店の小さなテレビへと目を移すと、たまたまと言うべきなのか、彼女が映っていた。
ドラマの宣伝番組らしい。
「気になるなら消しますよ?」
「構わないさ。そろそろ結婚しようという女に未練はないよ」
未練が無いのは嘘じゃない。好意という気持ちは消えている。
感傷という名残が、時折うずくだけの話だ。
「ならいいけど。二週間後の土曜日らしいですね」
「らしいね。うちの店がウェディングケーキの受注に失敗したから、よく覚えているよ」
オルコットが驚いたような顔になる。
「別れた彼女の結婚式のウェディングケーキを受注しようとしたんですか? 商魂たくましいというか、アグレッシブですね」
「私の個人的事情よりも、店の評判と売上の方が大事だからね。従業員の生活を守る義務があるからな」
「そんな殊勝な心がけも虚しく、受注出来なかったとはお気の毒さまですね」
「仕方ないさ。あのパティシエが出てきたなら、流石に譲るしかないよ」
脳裏に一人の男の姿が翻る。
いつもにこやかな微笑を絶やさない。その見事な菓子作りの技術は、国際的にも評価されている。
心臓に持病を抱えているらしいが、まだまだ現役を退くつもりはないらしい。
「"帝王"レオン・ガートハルドのウェディングケーキなら、私も見てみたいかな。いいなあ、羨ましい」
「私も一ファンとして、その意見に同感だね」
会話が終わる。
オルコットは他の客の対応に移り、私は意識を切り替える。
そろそろ店も落ち着いた頃か。ユタカの配慮にいつまでも甘えるわけにはいかないだろうな。




