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1.私と君は今は他人で

 粉、卵、砂糖、クリームが渾然一体となった厨房の匂いが、私の鼻をくすぐった。毎日のようにこの匂いに接しているが、一日として同じことはない。

 菓子作りをしない者なら「え、同じじゃないの?」と言うだろう。

 だが、違うのだ。菓子作りに使う素材は生きているので、毎日微妙にその状態は異なる。


おはよう(ボンジュール)、諸君」


 私の挨拶が響く。

 一瞬だけその場のパティシエ達は動きを止め、こちらを向いた。

「おはようございます、ムッシュ!」という挨拶が皆の口から響いた。

 私が頷くと、また作業に戻る。


 そのいつもの光景は、私を満足させた。

 そうだ、私への挨拶などで時間を必要以上に無駄にすることはない。菓子作り以上に大事なことなど、このパティスリー《ソレイユ・ド・モンマルトル》にはありはしないのだから。


 丁寧に整えたあごひげに一度手をやってから、私は一人のパティシエに視線をやった。

 日本人ながら優秀な彼は、今では私の片腕だ。


「ユタカ、今日の予定は?」


「はい。オルティス上院議員からパーティー用のケーキを四つ受注しているので、その仕上げをお願いします。夕方からはユーロニュースのパリ支局からの取材です。スーツに着替えて、スタジオへ向かいます」


了解(ダコール)、私のいない間はまかせるぞ」


はい(ウィ)、ムッシュ!」


 ユタカの元気のいい返事に、小さな笑いを返す。

 やれやれ、私も君のように菓子作りだけに集中出来たらと思うこともあるよ。

 今更後戻りは出来ないし、これも仕事の内と分かっているけどね。


 私――ピレス・キャバイエの毎日はこんな感じで始まる。

 菓子作りの最高峰(クープ・デュ・モンド)を受章し、天才(ジェニー)などと大層な称号をいただけば、中々パティシエだけしているわけにもいかないものさ。



† † †



 その日のユーロニュースの収録を終え、私はホッと一息をついた。

 我が国(フランス)のケーキの流行をヨーロッパ全体のケーキの流行と比較するという、内容があるのかないのか分からないような特集の為に呼ばれた。

 ケーキが流行らなければ店を畳むしかないので、興味が無いことも無い。

 だけど正直に言えば、下らないと思う。


「納得いかない、という顔ですわね。ムッシュ・キャバイエ。番組の内容が面白くありませんでした?」


「正直なところ賛同いたしかねる......と言ったところでしょうか。流行をある程度重視するのは、私もパティシエである以上はやっています。ですが」


「ですが?」


 声をかけてきた女性キャスターが、小首を傾げる。自分でも無愛想だなという声で、私は彼女の問いに答えた。


「流行り廃りなどに惑わされず、その時感じた美味しさを大事にしていけばいい。一介の菓子職人としては、それが偽らざる本音ですね」


「真面目ですね。そうした真摯な態度で向き合われているからこそ、ムッシュ・キャバイエのお菓子は皆に愛されているのでしょうね」


「程度の差こそあれ、パティシエは皆そうだと思いますよ。とはいえ、お客様のニーズを汲み取ることも重要です。そのジレンマの狭間に立ちながら、粉をふるっているのです」


 ネクタイを片手で緩めながら、息をつく。

 最初は戸惑ったが、今はテレビ局の雰囲気にも慣れた。

 著名な芸能人やニュースで見かけるアナウンサーの世界も、今や私の生活の一部になっている。

 そんな私の心の中を知ってか知らずか、女性キャスターが「今日はどうなさいますか。スタッフの皆で軽くご飯でも行こうかと話しているのですが」と聞いてくる。


「お誘いどうも。ですが止めておきます。明日も早いのでね」


「ふふ、そうおっしゃると思っていました。ムッシュの本分はあくまでパティシエですものね」


「ええ、本来メディアのような華やかな舞台には向かない男ですから」


 肩をすくめながら、一階のホールに出た時だった。視界の端に、ふと引っ掛かるものがあった。

 過去の記憶が揺り起こされ、私はその場に立ちすくむ。


「どうされました......あら、ムッシュでも女優さんに興味を持つことがおありですのね」


「――ええ。ほぼ毎日のように、何かのドラマで見かける方ですし」


 返答する間にも、私の目はその女性を追っていた。

 蜂蜜色の長い髪は結われ、丁寧に編み込まれている。

 深紫色のツーピースをきちんと着こみ、華やかな笑みを浮かべていた。

 男なら誰しも引き込まれそうな、可愛らしさと艶やかさを兼ね添えた笑みだ。


「人気絶頂のカトリーヌ・ドメーヌを前にしては、さしもの天才パティシエも骨抜きみたいですね。それでは車を呼んできます、こちらでお待ちください」


「ああ、お願いします」


 なるべく素っ気なくならないようにしつつも、私の目はまだその女優から離れなかった。

 ちらりと彼女がこちらを向いた気がして、慌てて視線を逸らす。

 多分、気のせい。自意識過剰だと思いながらも、心の一部がささくれるのを止められない。


 "無理もない、か"


 エントランスで車を待ちながら、ため息をつく。


 "婚約までした昔の恋人なのだからな"


 完全に気にしないでいられるほど、私も達観しているわけではないらしい。

 らしくないと思いながらも、私はもう一度だけ振り返る。


 カトリーヌ・ドメーヌはそこにはもういない。

 分刻みのスケジュールで追われる生活は、今も変わっていないのだろう。

 そういえば思い出した。彼女が婚約を発表した記事を、この間ニュースサイトで見かけた。

 その時は仕事に忙殺されて何とも思わなかったのだが。


 "未練か、果たして後悔か"


 不毛と知りつつ、自問せずにはいられなかった。答えを出せないまま、送迎の車に乗り込む。

 滑らかに加速するシトロエンの後部座席から、私は窓の外を見る。

 流れてゆくパリの夜景も、答えを教えてくれるわけでもなかった。



† † †



 一言でまとめれば、男と女のよくある話だ。


 とあるグルメ番組の収録を通して、私と彼女は知り合った。

 新進気鋭の若手パティシエと芽の出始めた若手女優の恋。

 華やかで適度なゴシップもあって、猥雑で活気のある、そんな芸能紙の片隅を喜ばせるような二人だった。


「ごめんなさい、ドラマの収録が長引きそうなの。しばらく会えないかもしれないわ」


「大丈夫、分かってるよ、カトリーヌ。頑張って」


 多忙な二人はそれぞれの夢を追うことに必死で、同時にお互いの事情も理解していた。

 いや、理解していたつもりだった。


「今回のコンテストはどうしても勝ちたいんだ。すまない、カトリーヌ。埋め合わせはきっとするから」 


「この前もそうだったじゃない。私がどんな思いでオフの時間を作ったのか、分かっているんでしょう? 答えて、ピレス」


「......すまない、どうしても無理だ」


 理解していたつもりは所詮つもりだったと知ったのは、もう無理だと悟った後だった。

 もう少し早く気がつけよ、と私は自分一人の部屋で思ったものだ。


「さよなら、ピレス。元気でね」


「さよなら、カトリーヌ。応援しているよ、一人のファンとしてね」


「――また、あなたのケーキ食べにきていいかしら」


「もちろん。婚約は解消したといっても、あなたが私の大事なお客様であることには変わりはないのだから」


 最後に交わした会話は今でも覚えている。

 サヨナラの握手をした時に、ふと思い出したことがあって小さく笑ってしまった。


「どうしたの?」


「いや、握手した瞬間にね。君の指輪のサイズは7号だったなと思って。そんなこと覚えていても仕方ないのにな」


「そうね。そういうことは早く忘れて、次の違う誰かのことを大切にしてあげて。私は大丈夫だから」


「ああ」


 二年半の交際の最後は、あっけないものだった。バタンとドアが閉まり、彼女は私の部屋を去っていった。

「仕方ないことなんだ」と私は呟き、机に残ったカップを片付けた。

 微かに残った湯気が彼女のいた名残のようで、思わず目を反らした。


 恋愛は菓子作りのレシピの通りにはいかない。

 そのことが文字通り身に染みた。

 二年前のあの日以来、私は誰とも交際していない。

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