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大鷲の国  作者: サトミアキラ
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七章

 夢の縁から足を踏み外して、ダレルは午睡から目覚めた。

 大きなあくびをしながら起き上がり、凝った肩を回す。

 ダレルが乗っている荷馬車には、絹の生地、絨毯、酒樽が所狭しと詰め込まれている。高価な品々を乗り越えて、彼は幌の後ろを少し開いた。眉間に皺を寄せ、寝起きの瞼を何度も瞬く。夕日に赤く彩られた大地に、轍が刻まれた道が延々と伸びていた。

 眩しさに目を細めて、ダレルは幌を閉じた。

 刺繍入りの絨毯の上に胡座をかいて、髭をざらりと撫でる。夢うつつに何やら胸騒ぎを感じたのだが、近くに危険な気配はない。勘違いだったのだろう。ダレルは再びのんびりすることにした。

 ヨームに出向いたことで〈王の選定〉の実態を知ることができたし、王家に次ぐ権力者の後ろ盾を得ることもできた。結果的に一ヶ月近くもリズのそばを離れてしまったことが気がかりだが、ここまでの成果はおおむね、上々だといえよう。

 ユーゴ=ハーマンからオズワルドへ贈られる祝いの品とともに、ダレルはコル・ファーガルを目指していた。

 久しぶりにリズの顔が見られるかと思うと、年甲斐もなく胸が弾んだ。何も告げずに姿を消したことを、彼女は怒っているかもしれない。だがダレルは今、それさえも楽しみだった。

 魔道士を乗せた荷馬車は盗賊に襲われることもなく、翌日の朝、コル・ファーガルへ到着した。

 おなじみの検問で、ダレルは御者の男と共に身体検査を受けた。いつになく厳しい検査を怪訝に思い、何かあったのかと役人に尋ねたところ、昨日、西区のほうで爆発騒ぎが起きたのだという。

 工場が密集する東区ならともかく、広大な耕作地帯が広がる区画で爆発とは、人為的なものでなければありえない。穏やかではない話だ。《鳩の翼》亭の仕入れに影響がなければいいが、とダレルはのん気な心配をした。

 ダレルは御者と別れて通りを真っ直ぐ進んだ。《鳩の翼》亭の看板が見えてきたあたりで足を速める。

 しかし、いざ入り口までやって来てみると臨時休業の札がかけられていた。ダレルは奇妙に思いながら裏に回り、いつかの夜と同じ手法で店に入った。

 勝手口を開いてすぐ、厨房に立つバートと目が合った。

「久しいな。バート」ダレルは笑顔で大仰に腕を広げた。「元気そうじゃないか。臨時休業とはどうした。子どもでも生まれたか?」

 バートの驚いた顔に、みるみる赤みがのぼる。それはものの数秒で憤怒の形相に変わった。

「よくも貴様、今さら……のん気なことを!」

 ふわふわと浮かれた気分からスッと冷めて、ダレルは呟いた。

「……どうやら、ただ事ではないことが起きたようだな」



 ダレルはリズが失踪した経緯を聞いて厨房から店内に入った。

 テーブル席のひとつを、見慣れぬ一団が陣取っていた。

 肌の色や彫りの深い顔つきから、ダレルは彼らが自分と同郷の人間であることを見て取った。年は上が六十、下が二十といったところか。七人の男たちのうち六人は起立しており、椅子に腰掛けた青年のそばに控えている。

 年の頃は二十代半ば。頬に走る深い傷は剣で切られたものだろう。その顔立ちと、黒曜石の瞳にダレルは既視感を覚えた。

「昨日の夜、うちに来た」バートが言った。「リズを知っているそうだ」

 ダレルは誰に許可を得ることもせず、青年の向かいの椅子に平然と腰掛けた。周りにいる六人の男たちの表情が不愉快に歪む。なかには腰帯に差した短剣に手を置く者もいた。

 わかりやすい反応だ。ダレルは口角をあげた。

「君たちはシャハ族だな」

「……なぜわかる?」

「帯の刺繍、そいつはシャハの文様じゃないか。それにわたしは昔、トビアーシュの世話になったことがあってね」

 怪訝そうに目をすがめる青年の傍らで、近侍の老人が不意に、わなわなと両目を見開いた。

「き、貴様は……まさか」

「知っているのか?」

「オブライエン!」

 抜刀しかけた老人を、周りの仲間が慌てて押しとどめた。

「はっ、離せ。こやつだけは生かしておかん!」

「よせ、ラデク!」

 頬に傷のある青年に一喝され、ラデクと呼ばれた老人はぐっと声を抑えた。ダレルはというと、老人が剣の柄に手をかけた瞬間に間合いの外へと逃げ出していた。

「この場において殺生は許さぬ。過去の怨恨は置いておけ」

 孫ほどの年齢の主君に諭されて、老人は剣から手を離した。しかしその目は変わらず、ダレルを憎々しげに睨みつけていた。

 青年はダレルに詫びた。

「うちの者が失礼をした。トビアーシュは俺の祖父だ」

 彼はザハリアーシュ、と名乗った。

 危機は去ったと見て、ダレルは席に戻った。

 シャハ族とはサナンに住まう部族のひとつで、そのなかでも一、二を争う勢力を誇る。

 今でこそヨームと友好を築いているものの、五十年ほど前まで、サナンは二人の巫女姫による独裁下にあった。太陽と月の加護を持つ彼女たちの魔力は、今のダレルから見ても圧倒的で、サナンは巫女姫たちに支配されるまま何百年も鎖国を続けていた。

 その歴史の転換点となったのが、シャハ族長トビアーシュの台頭である。

 ダレルは青年時代を懐かしく思い出した。

「やつが死んで、シャハ族とは縁が切れたつもりだったが……孫とはね。しかし、トビアーシュの孫ともあろう者が、なぜヨームに?」

 ザハリアーシュは無言でダレルの顔を見返した。その眼差しには嫌悪こそなかったものの、魔道士に対する警戒が浮かんでいた。

「魔道士には言えない?」

 意地悪くダレルが尋ねると、彼は悪びれることなく答えた。

「不信感があるのは確かだ。せめて嘘はつかぬ」

「なるほど。ところでサナン側の留学生は、マルタという女性ではなかったかな」

 ラデクの歯ぎしりする音がはっきり聞こえた。

 マルタとはシャハ族の長の、三番目の娘である。ザハリアーシュ率いるサナンの一行が、交換留学の件でヨームを訪れたことは、もはや疑いようがなかった。

「まあ何にせよ、君たちの目的に興味はない。それがリズ殿に関わることでなければ、の話だが」

 リズの名を耳にした瞬間、ザハリアーシュの人相がいっそう険しくなった。彼はラデクを含む部下たちに下がるよう目つきで示し、ダレルと一対一で話す姿勢をとった。

「天分と人間性は別物だ。魔道士は信用できんが……そなたのことはエリザベスから聞いている。信頼のおける人物だとな」

 ダレルは口の端を歪めて笑った。

「……では、親睦を深めたところで情報の共有といこうか。聞かせてもらおう。君がリズ殿と出会ったいきさつを」


+++


 同腹の妹がヨームへ行くことが決まった日、ザハリアーシュは初めて父に刃向かった。

 もともと、折り合いのいい父子ではなかった。交換留学の件はていのいい口実だったのだろう。父は己が持ちうる権限を振りかざし、息子に追放を言い渡した。

 サナンの部族にとって、追放はもっとも重い処分である。処刑と違い、生まれた大地で死ぬことすら許されないからだ。この刑を下されたが最後、二度と一族に戻ることはかなわぬ。

 シャハ族は揺れた。

 その揺れが決定的な亀裂を生み出す前に、ザハリアーシュは故郷を離れた。追いすがる者の手をほどき、ついて行くといって聞かない者だけを連れて、海へ出た。

 四年前、ヨームに留学したジュナ族の娘は生きて帰らなかった。親族は泣き寝入りである。久鳳が力を強めつつある今、ヨームとの同盟関係にひびが入るのはまずいからだ。

 だが、このうえマルタの身に万が一があれば。そして、そのことをまたなあなあですませれば。

 サナンの民は王を持たない烏合の衆と、諸国から侮られるだろう。

 シャハの将来のためにも保身を考えている場合ではなかった。

 話を白紙に戻せるとは思わない。彼はせめて、帰国するまでの三年間、ヨームで妹を保護してくれる後ろ盾が欲しかった。

 ヨームの要人と会うのに、トビアーシュの孫という肩書きは便利だった。だが、それだけだった。無理もない。要求に対して見返りを求める相手に、今のザハリアーシュがなにを保証できるだろう。話し合いが交渉に発展することはなかった。数少ない機会を浪費するばかりの日々に、焦燥はつのるばかりだった。

 そんななか、コル・ファーガルへ行こうと思い立ったのは、ある貴族の館でオズワルドのことを聞いたからである。

 北方辺境領を治めるコーウェン家の若君は、魔道士を側近として重用するような、度量の広い人物だという。そう語った貴族の声には少なからず皮肉が込められていたが、ザハリアーシュは頓着しなかった。

 オズワルドはマルタと引き替えにサナンへ引き渡される人質だ。留学の期間中、シャハがオズワルドに便宜を図ると持ちかければ、コーウェン家と取引できるかもしれない。

 どんなに小さな可能性でも試してみる価値はある。

 しかし、前途は多難だった。

 紹介状によって書記官を務めるリッツォーリという男に会うことはできたものの、彼の態度はにべもなかった。

 コーウェン家のオズワルドは今、成人、ならびに〈親善大使〉就任祝いの準備に追われて多忙を極めている。ようするに、事が無事にすむまで厄介事は避けたい、というのが先方の言い分なのである。屋敷の一室をザハリアーシュ一行に提供したのも、よそで問題を起こされないように、という予防策なのだろう。

 あてが外れたと見切りをつけて、ザハリアーシュはリッツォーリの屋敷を辞した。新たな拠点捜しを仲間に任せ、この機会に頭を冷やそうと、彼は喧噪のない農場へ向かう荷馬車に乗り込んだ。

 リズ=ラッセルと出会ったのは、そのときだった。

 隣に座る赤い髪の娘が、最後に乗り込んできた客と同一人物だと、すぐには思い至らなかった。始めにフードを目深に被った姿を見て、少年だと思い込んでいたからである。

 品のある言葉遣いから、育ちの良い娘なのだろうと思った。そしてふと疑問を覚えた。コーウェン家の城を遠目に眺める眼差しが憂うつに陰ったとき、彼が感じた違和感はいよいよ大きくなった。

 こんな娘がなぜ、付き添いもなく一人で出歩いているのか。

 そのようなことを考えていたものだから、荷馬車が狼犬の襲撃を受けたとき彼女がとった行動に、ザハリアーシュは動揺を隠せなかった。シャハ族では、女が武器を持つことなどまずありえないのである。

 農場に着くまでのあいだ、御者の隣で周囲を警戒しながら、ザハリアーシュは荷台の様子をうかがった。不安と恐怖で言葉少なになった乗客たちのなかで、赤い髪の娘は自分よりも幼い少女をなぐさめ、老人をいたわり、怪我人を介抱していた。

 どれだけ鮮烈な印象を残したとしても、ザハリアーシュにとって彼女はしょせん異国の娘である。のちの出来事がなければ、彼はこの邂逅を一期一会のものとして、時間と共に記憶を風化させていただろう。

 狼犬の死体が農場に運ばれてきたあと、ザハリアーシュはその所有者であるという人物に呼び出された。相手がヨーム本国の貴族を名乗ったときは、さすがに己の不運を呪った。

 幸いにも素性を勘づかれることはなかったものの、狼犬の飼い主が延々と垂れ流す文句には辟易させられた。賠償や謝罪を求めらたほうがまだマシだ。これでは話の落としどころがない。うんざりしていたのはザハリアーシュだけではなかった。同席した農場主、テナール叔父。彼らの無の表情からは、早く形式通りのやり取りをすませてこの場をお開きにしたいという本心が透けて見えた。

 話が一巡したところで、淀んだ室内に風穴が空いた。

 義憤にかられたリズ=ラッセルが乗り込んできたのである。

 彼女は大の男を相手に少しも怯まなかった。毅然とした声を聞きながら、ザハリアーシュは向かいに座る男の変化に不審を覚えた。

 赤い髪の娘を見つめるテナール叔父の目は、思いがけぬ僥倖に巡り会えた興奮で、爛々と輝いていた。

「《輝石を抱く鉤爪》に誓って。あとで怪我人を見舞うさ」

 テナール甥が最後に言い残した言葉も意味深である。

 ヨームのシンボルは大鷲。その国旗には、鉤爪が描かれている。本国で会った貴族たちの口から何度も同じことを聞いた。

 《輝石を抱く鉤爪》とは、王の一族を呼びならわした言葉だ。

「あなたを捜していました」

 不意に、リズ=ラッセルが言った。

 ふと気づけば、テナール氏たちと農場主はとうに退室し、ザハリアーシュは応接間に彼女と二人きりで残されていた。

 質問の意味を理解して、彼は問い返した。

「なぜ?」

 彼女は手を前に揃えた。

「……助けていただいたお礼を、言っていなかったので」

「当然のことをしたまでだ」

「いいえ。本当に、ありがとうございました」

 そう言って、リズ=ラッセルは折り目正しく頭を下げた。

 農場主の家を出るまで、ザハリアーシュは当然の義務として彼女に付き添った。ひとりにしておくのは危険だと感じたのだ。

 テナール叔父のギラギラとした目つき、甥の言葉。

 だが果たして、こんなことが現実に起こりえるのだろうか。

 町へ向かう馬車を見つくろって戻ると、リズ=ラッセルは農場主の家の前からいなくなっていた。窓からそっと中を覗くと、テナール叔父が血眼になって何かを捜し回っていた。

 ザハリアーシュは辺りを見渡した。彼女のそばを離れて五分も経っていない。どこか近くに隠れているはずだ。

 彼は家の裏に回った。そこから、身を隠せるような障害物としてすぐ目につくのは、円筒型のレンガの建物ぐらいだった。

 近づくにつれ、建物の陰にうずくまる小さな影が見えてきた。

 自分の体を抱くように二の腕を握りしめた手は、震えていた。名前を呼ぶと、彼女はゆっくり顔をあげた。張りつめた藍色の瞳、血の気のない顔色。狼犬に短刀を突き立て、テナール甥に食ってかかった勇ましさを知っているだけに、その怯えた様子は尋常でないものに見えた。

「どうした」

「いえ……」彼女は目を伏せた。「待っているあいだ、この辺りを見て回っていたら……急に立ちくらみがして。ごめんなさい」

 噛みしめた唇が色を失っている。

 ザハリアーシュは、妹の後ろ盾を得るためにヨームへ来た。現状はまさに手詰まりである。オズワルドに会えない以上、他の人物を当たらざるをえない。こんなとき、彼の目の前には、本国の貴族が血眼で欲しがっている娘がいる。

 ザハリアーシュは彼女の前に膝をついた。

 一日でも早い本願成就を望むなら、この娘をテナール氏に引き渡す、という選択肢もありえただろう。

 だが、それは誇りを失った畜生のすることだ。

「立てるか」

 おずおずと彼の手に触れた指先は、小さかった。

 帰る場所があるのなら、そこに彼女を守る者もいるだろう。

 ザハリアーシュは疑いもなくそう思っていた。

 このときは、まだ。



 それから数日のあいだに起きた出来事の多くは、リズ=ラッセルと関係のないことなので、ここでは割愛する。

 リッツォーリ氏の屋敷を辞したあと、ザハリアーシュ一行は西区と南区の境にある新興街へ拠点を移した。

 コル・ファーガルは北方辺境領において最大の規模を誇る都市であり、各地の町村から多くの人間が仕事を求めにやって来る。そういった人々のために作られた街の一角で、ザハリアーシュはオズワルドに宛てて手紙を書いた。

 反応を待つあいだ、彼は部下たちを日雇い人夫としてデミタル商会の下請けに潜入させた。コル・ファーガルの民衆はなにくれとオズワルドを褒め称えるが、城主タイソンに関する風評は、どうにもきな臭かった。老人連中が言うには、コーウェン家が軍備の増強に力を注ぐようになったのは、当代からなのだという。

 タイソンの思惑はわからぬ。噂の真偽も定かでない。だが、一族の娘をこれからヨームへ預けようというシャハ族にとっては、到底捨て置ける話ではなかった。

 ザハリアーシュ一行がひそかに情報を集めていた、そんなときだった。とある貴族の使者を名乗る男が、彼らの隠れ家にやって来た。

 使者の口上を簡潔にまとめると、内密の依頼を引き受けてくれればマルタの後ろ盾を引き受ける、ということだった。

「身分を明かさぬ輩とは組まぬ」

 ザハリアーシュがラデクを通じて返答を伝えると、使者はおおいにうろたえた。トビアーシュの孫と取引を交わそうというのに、使者が交渉の裁量権を与えられていないことに、ラデクは憤慨した。

「マルタ様の名前を出せば我々が無条件で従うと思うたか!」

 彼は青い顔をする使者を表へ叩き出した。

「帰って貴様の主人に伝えろ! 我々と取引がしたくば相応の敬意を払えとな!」

 ほうほうのていで使者が逃げ帰ったあと、ザハリアーシュは外に出ている仲間たちが戻るのを待って、事の次第を説明した。

「……想定の範囲内ではありましたが、手紙はオズワルドに届かなかったようですね」

 長い沈黙のあと、ラデクに次ぐ年長のペトルが口を開いた。

「リッツォーリのしわざか?」若輩のデニスがいきり立った。「我々がオズワルドと会うことを阻止しようと……」

「それはあるまい。あの男は日和見主義だ」

 ゾルタンが皮肉っぽく笑う。ペトルが同調して頷いた。

 腕を組んで考え込んでいたシモンが、確信の持てない声で言った。

「いずれにせよ、ヨームの貴族が異国の人間を使ってまで成し遂げたいことというのは、よほどの大事なのではないか?」

「くわえて先方は、オズワルドの目に触れぬよう、ひそかに事を運びたいと見える」

 シモンの懸念を引き取るかたちで、マレクが付け加える。

 ラデクが周りの五人を戒めるように言った。

「使者の言い分を額面通りに受け取るのは尚早であろう。我々をヨームから排除する方便やもしれぬ」

 ではどうするか、という段になって、一同の視線がザハリアーシュに集まった。

 彼は仲間たちの顔を見渡し、決を伝えた。

「まずは先方の思惑を知ることだ。最終的な判断はそれから下す」

 後日、再び使者がやって来た。先日とは別の、クリフォードと名乗るその男は、ご丁寧に馬車まで用意していた。

「我が主人、テナール伯がお望みです」

 テナール、という名に心当たりがあったザハリアーシュは、隠れ家にペトル、デニス、シモン、マレクを残し、ラデクとゾルタンを伴って馬車に乗り込んだ。

「主人は公務で席を外しておりますが、名代として、甥のギルバート=テナール様が皆様をお迎えいたします」

 ザハリアーシュ一行を出迎えたのは、彼が予想した通り、農場で会ったテナール甥だった。

 テナール甥あらためギルバートは、不機嫌を隠さぬ表情で長いすにもたれていた。彼は入って来たザハリアーシュを一瞥して薄く目を見開いたが、なにも気づかぬふりで立ちあがった。

「ご苦労、クリフォード。下がってよし」

 クリフォードはまさかという顔をした。

「いや、しかし……」

「主家に口答えするのか?」

 声高にそう責められたクリフォードは、鼻白んで引き下がった。

 ギルバートはフンと鼻をならして傲慢に言った。

「座れ」

 ザハリアーシュが対面に腰掛けると、彼は懐から取り出した銀の笛を咥えた。音がしないことから、ザハリアーシュはそれが犬笛だとわかった。

 ほどなくして、扉の外から犬の吠え声と、クリフォードの壮絶な叫び声が聞こえた。

「おまえが殺した狼犬たちの親犬さ。あの二匹は本当に、もったいなかった。……まだ子犬も同然だったのにな」

 これが、この男なりの懺悔なのだろう。

 目付役がいるということは、ギルバートは必ずしも叔父に従順ではないのだ。ザハリアーシュの受けた印象を裏付けるかのように、彼の言葉は明け透けだった。

「おまえがザハリアーシュだったとはな。叔父が知ったら卒倒するところだ」

「コーウェン家宛の書状を盗み見たな」

「ふん。それがなんだ。はじめから、どちらに転んでもいいように書いたんだろう。……おまえも薄々感じているとおりさ。本国の貴族たちは辺境領を見下しながら、心の底ではいつ出し抜かるかと冷や冷やしている。……本当に下らない」

 ギルバートは一息ついて姿勢を正した。

「叔父は、おまえたちにある積み荷を運ばせるつもりでいた」

「……中身はなんだ?」

「テナール家には過ぎた代物だよ。あの人は……」ギルバートは一瞬、言いよどんだ。「ま……いろんな意味で目が眩んだんだな。ともかく、こんなやり方はうちの名誉に関わるんだ」

 テーブルごしにギルバートが小さな鍵を投げてよこした。彼は顎をしゃくり、先に立って部屋を出た。扉の番をしていた灰色の大型犬が主人の顔を見て尻尾を振った。

 ザハリアーシュらはギルバートの案内で、館の裏に用意された馬車の前まで連れて来られた。

「価値を知らない人間に預けたほうが、いっそマシだ」

 馬車の中は座席が取り払われ、中央に黒い箱が安置されていた。ゾルタンが「棺とは良い趣味をしている」と皮肉を零す。

 目顔で釈明を求めるザハリアーシュを、ギルバートは無視した。

「さっさと持って行け。……くれぐれも丁重にな」

 射殺すような目でギルバートを睨むラデクを制して、ザハリアーシュは馬車に乗り込んだ。横長の黒い箱は、ゾルタンの言うとおり、棺によく似ている。彼はさきほど受け取った鍵を穴に差し込んだ。

 蓋を開いて、ザハリアーシュは絶句した。

「……これがヨームのやり口か」

 馬車に背を向けたギルバートが、自嘲気味に答えた。

「言ったろう。名誉に関わると」

 ザハリアーシュは腹の底が煮えるような怒りを覚えた。ギルバート個人にではない。それは、このようなことがまかり通る、ヨームの貴族社会に対する怒りだった。

 上等な絹に、まるで宝石のように包まれて。

 彼女、リズ=ラッセルは、棺の中に横たわっていた。



「ギルバートは、彼女を連れて本国にいるハーマンという人物を訪ねろと言った。それが、すべてを丸く収める唯一の方法だと」

「……違いない。ハーマン殿にはそれだけの力がある」

「何者だ、その男は」

「話の続きが先だ。リズ殿をどうしたか、聞かせてもらおうか」



 空の棺を乗せた馬車が館を出たあと、ザハリアーシュらは裏門から脱出を果たした。

 このときすぐにコル・ファーガルを出ていれば、その後の災難は起きなかったはずである。しかし、ザハリアーシュとしては、「ハーマンという男に会えばすべて丸く収まる」というギルバートの言葉を鵜呑みにするわけにはいかなかった。

 ゾルタンを先行させて安全を確保しつつ、彼らは拠点に戻った。いつでも動ける状態で待機していたペトルたちは、ザハリアーシュが連れ帰った少女を見て、一様に戸惑いの表情を浮かべた。

「ここを出る」

 ギルバートの擬装にテナール氏がいつ勘づくとも限らない。同じ場所に留まるのは危険と判断して、ザハリアーシュは仲間たちに出立の準備を急がせた。

 次なる潜伏先については、仲間たちがデミタル商会の下請けで働きながら集めた情報が役立った。西区の郊外には、本国の貴族が夏期に使用する別荘がある。情報を持って来たマレクを先に出し、ザハリアーシュは夜を待って拠点にしていた住まいを出た。眠っているリズ=ラッセルを麻袋に隠し、担ぎ手にはペトルを指名した。

 件の別荘は、西区の端に広がる森の奥、青い池のほとりに建っていた。壁に蔓草の這う瀟洒な家だった。完全な無人であることはマレクが確認済みである。鍵はゾルタンが開けた。皮肉屋なのが玉に瑕だが、小手先の技能に長けた重宝する男だ。

 明かりが外に漏れぬよう布で窓を閉ざして、小さく火を灯す。隣室のベッドにリズ=ラッセルを寝かせた。テナール邸を出てから数時間が経っているというのに、彼女は昏々と眠り続けていた。

「この娘、目を覚ましませんな……」

 幼さの残る寝顔を見て、ペトルが眉をひそめる。沈痛な表情はどうやら、昨年病死した孫娘と面影を重ねているらしかった。

 呼吸や脈に異常はない。念のため、薬学に造詣が深いシモンにも診せたが、薬が切れれば目を覚ますだろうということだった。

 追っ手を警戒して、その日は交代で番をしながら一夜を過ごした。

 何事もなく夜明けを迎えた一行は、簡素な朝食をすませた。

 外の様子は一貫して静かなもので、ときおり、小鳥のさえずりすら聞こえた。だからといって、長閑な朝を満喫している場合ではない。いつコル・ファーガルを発つか、彼らは早急に決断せねばならなかった。

 この話し合いについては、リズ=ラッセルを巡って三対三で意見が割れた。娘が目を覚ますまで出発を遅らせるべきというペトル、シモン、マレク。今すぐにでもヨームへ向かおうというラデク、デニス、ゾルタン。こうなると自然、年長の二人が以下を代弁することになる。

「あのような深窓の令嬢が、道中で目を覚ましてみろ。自分が大の男に囲まれているとわかったら恐怖で死んでしまうやもしれん」

「会談までもう猶予がないというに、そんな悠長なことを言っておれるか。たとえ倫理に反しても、今は迅速に行動すべきときだ」

 大体において彼らの議論は、ザハリアーシュに相反する二つの意見を聞かせるためにある。どちらもトビアーシュの代からシャハ族を支えてきただけあり、自分の役割をわきまえているのだ。

 議論が白熱するなか、シモンがそっと席を立った。頭を低くしながら、隣の部屋のドアを小さく開く。ほぼ同時に、彼は全員が振り返るほど大きな声で「あっ!」と叫んだ。

「む、娘がいません!」

 ザハリアーシュは椅子を蹴立てて立ちあがった。

 隣室の窓は開け放たれていた。外からガラスを破られたり、鍵をこじ開けられた形跡はない。自分の足で出て行ったのだ。

「目を覚ましても薬はすぐに抜けません」空のベッドに触れながらシモンが言った。「まだ近くにいるはずです」

「捜せ。見つけたらすぐ俺に報せろ。いいか、絶対に手を出すな!」

 リズ=ラッセルは見た目に似合わず、狼犬に立ち向かうほど苛烈な一面を心に秘めている。腕ずくで連れ戻すのは簡単だが、病み上がりの身で無茶をされては元も子もない。

 シモンの言ったとおり、リズ=ラッセルはすぐに見つかった。逃げる途中で力尽きたのだろう。身を隠す場所もない、木の根元にじっと体を横たえていた。

「あんなところにいますよ。今のうちに捕まえましょう、若!」

 ザハリアーシュは、言うが早いか動き出そうとするデニスの肩を掴んでその場に押しとどめた。

「おまえたちはここで待て」

 仲間たちにそう命じて、彼は一人で先に進んだ。

 冬の薄い木漏れ日が少女を淡く照らしていた。ザハリアーシュが近づくと、固く閉ざされていた瞼がぴくりと震えて、その下から深い海を思わせる藍色の瞳が現れた。彼女はふらつきながら、ゆっくりと体を起こした。朝露の滴をまとった赤い髪が、光を浴びて暁色に煌めいていた。

「リズ=ラッセル」

 彼女はザハリアーシュの顔を見、そして彼の後方に控えているラデクたちを見た。ぼんやり霞んでいた瞳に、鋭い光が宿る。追い詰められた獣を思わせる危うげな気配を察して、ザハリアーシュは足を止めた。

 草の上に片膝をつき、彼は少女と目を合わせた。

「俺を覚えているか?」

「……農場で、お会いしました」

 ザハリアーシュは頷いた。

「ゆえあって君の身柄を預かることになった。安心しろとは言わんが、悪いようにはしない。約束する」

 リズ=ラッセルが応えるまで、しばらく間があった。

 彼女が目を伏せてうつむいたとき、ザハリアーシュはそれが、了承を意味する首肯であることを疑わなかった。

 油断が隙を生んだ。

 答えを先延ばしにするあいだに息を整えていたのだろう。ザハリアーシュが立ちあがろうと地面から膝を離したその瞬間、リズ=ラッセルはおもむろに彼に飛びかかった。

「若!」

「来るな。大事ない」

 ザハリアーシュは剣の柄に手をかけたラデクを制した。

 後ろへ飛びすさったリズ=ラッセルの手には、彼の腰帯から奪った抜き身の短剣が握られていた。

「どういうつもりだ」

 彼女の手は、かすかに震えていた。

「ごめんなさい。だけど私は、」一拍呼吸を置いて、彼女は消え入りそうになる声を立て直した。「私には、やらなければならないことがあります。それまで、ここを離れるつもりはありません」

 ザハリアーシュが近づいたぶんだけ、彼女は後ずさった。足下がおぼつかない。万が一にも、取り逃がすことはないだろう。

 だが。

「頼る当てはあるのか」

「……あなたは、私を本国へ連れていくよう、テナールに頼まれたのでしょう。だったら、なにもお話しすることはありません」

 リズ=ラッセルはそう言うと、唇を引き結んだ。

 このとき、ザハリアーシュは自分のしていた思い違いに気がついた。シャハ族では、女を守ることは男の義務だ。寡婦や親を亡くした娘とて例外はなく、ゆえに一夫多妻という文化がある。程度は違えど、そうした概念はどの国でも同じものだと思っていた。

 しかし、リズ=ラッセルは誰の庇護下にもない。さもなくば、テナールに捕まることをあれほど恐れることはなかったはずだ。

「……ハーマンという人物に心当たりは?」

 彼女は訝るように顎を引いた。

 ギルバートが名指しで示した男こそ、あるいはリズ=ラッセルの庇護者たりえるのでは、と思ったが、あてが外れたようだ。ハーマンの名は、彼女を余計に混乱させ、警戒させた。

 ザハリアーシュはしばし考えた。

 どう説得したところで、リズ=ラッセルは本国行きを了承すまい。

「ヨームとサナンのあいだで行われている、交換留学という制度を知っているか」

 彼女と引き替えならハーマンはどんな条件でも呑むだろう、というギルバートの言葉は、このさい忘れることにした。

 ザハリアーシュに出来たのは、ただ誠実であることだけだった。

「今回、サナンからヨームに引き渡される人質は、俺の妹だ。俺は妹を保護してくれる後ろ盾を捜している」

 頑なだったリズ=ラッセルの態度が、わずかに和らいだ。

「……そのために、テナールと取引を?」

「そうなる前に、甥のギルバートが手に余ると言って君を放り出した。本国のハーマンを訪ねろと言ってな」

「じゃあ……」

「だが、君に心当たりがないのなら、連れて行く理由もない」

 リズ=ラッセルが、構えていた短剣を下ろした。

「……あなた方がコル・ファーガルに来たのは、オズワルドがいるからですか? 彼がヨーム側の〈親善大使〉だから。お互いを守るという……交換条件で、約束を交わそうと?」

 ザハリアーシュは絶句のあと、首肯した。彼は少女の頭の回転の速さに驚いていた。

 日が昇るにつれて、朝靄の膜が薄れていく。

 小鳥のさえずりが緑を賑わすように森に響いた。

「オズワルドに、会いたいのなら……」

 そう呟いて、リズ=ラッセルは一歩、二歩、足を踏み出した。

 ザハリアーシュから奪った短剣を差し出して、彼女は言った。

「あなたに、頼みがあります」

「なんだ」

「私はこれから、コーウェン家の城へ行きます。名前を明かせば、オズワルドはきっと会ってくれると思います」

 ザハリアーシュは彼女の瞳を見返した。

「どうか一緒に来て、私を守っては下さいませんか」

 怯懦も迷いもない、目が覚めるような美しい青がそこにあった。

「……よく知りもしない人間に、命を預けるつもりか」

「たった今、少しだけ知りました」

「いいのか」

「信じます。あなたを」

 彼女の声には、摩耗した精神を呼び覚ます力があるように感じられた。信じるという言葉がこれほど真に迫って胸を揺さぶったのは、初めてのことだった。

 ザハリアーシュは受け取った短剣を鞘に収め、言った。

「俺はシャハ族のザハリアーシュ。改めて、君の名を聞かせてもらおう」

 彼女は宣誓するように、ゆっくり胸に手を当てた。

「ディランとフィオナの娘、エリザベス。エリザベス=ルア=コーウェンです」

「その覚悟に応えよう。エリザベス」

 彼はなんの抵抗もなく、その誓いを口にできた。

「今より俺は、君を守る剣だ」



「ふん、若いな……。血は争えないということか。しかし、どうやら君は誓いを果たせなかったと見える」

「……そのとおりだ」

「シャハの男が戦いで遅れをとることなぞ、そうはあるまい。よほど厄介な相手だったとみえる」

「そなたにはもう、察しがついていることと思うが」

「君の口から話す約束だ」

「昨日の夕暮れ過ぎ……俺たちは、エリザベスの体力が戻るのを待って出発する予定だった。

 だが……そこにやつが、仮面の魔道士が現れた」

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