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大鷲の国  作者: サトミアキラ
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六章

 テーブルを埋めていた最後の客たちが店を出た。

 夜道を去っていく背中を見送り、バートは表に『本日終了』の札をかけて店を閉めた。

 町中が祭りの準備だお祝いだと賑わうなか、夫婦二人で切り盛りする《鳩の翼》亭は目まぐるしい毎日を送っている。最近は新顔の客が増え、常連も増えた。一日の営業を終え、片付けと明日の下準備をすませるころには日付が変わっている。

 テーブルに椅子をあげて床にモップをかけ終えると、バートは店の明かりを落とした。寝室にあがる前に一階の戸締まりを確かめてまわる。風呂場、トイレ、窓。そして最後、裏の勝手口。

 彼は鍵をかけるべきか迷った。

 いつもなら何も考えずにかけるところだ。コル・ファーガルはならず者が町に入らぬよう検問が敷かれているが、体制は万全ではない。網の目をくぐるように調べをやり過ごす者もいれば、抜け道を見つけて町に入り込む者もいる。ダレルがいい例だ。

 彼は悩んだすえ、鍵を閉めた。長いこと内鍵に触れていた指はすっかり冷え切っていた。

 寝室を開くと、横になった妻の背中が見えた。

 勝手口の鍵を、ステラは頑なに開けておけと言う。いつリズが帰って来るかわからないのだから、と。

 リズがいなくなって三日が経った。

 農場におつかいを頼んだ翌日早朝のことだった。ここに来てから毎日、規則正しい生活をしてきたリズが、その日はなかなか起き出して来なかった。昨日の今日で疲れているのだろうと、バートはそっとしておいた。異変を知ったのは、デミタル商会から帰ってきたときだ。ステラがらしくもなく顔を青くしていた。朝食の支度を終えて呼びに行ったら、部屋にいないのだという。

 バートはすぐ二階の奥の部屋を覗いた。

 荷物はほとんどそのままだった。昨夜、ベッドに横になった形跡もない。ひそかに出て行ったのではと一瞬考えたが、給金代わりに渡していた小遣いには、まったく手がつけられていなかった。

 すぐ義兄に連絡しようというステラを、バートは押しとどめた。警察勤めの兄にリズのことを報せてよいものか、すぐには決断できなかったのだ。夕方過ぎに《鳩の翼》亭を訪れたジョエルから、リズの兄を知っているという人を彼女に紹介した、という話を聞いたことも、優柔不断に拍車をかけた。

 だが。

「兄さんのところに行ったんじゃないの?」

 のん気にそんなことを言うジョエルに、ステラは激怒した。

「黙っていなくなるような子じゃないんだよ、あの子は!」

 これにはジョエルも肝を潰して、リズに紹介したギアッチという人物を当たってみるからと、そそくさ店を出て行った。

 店では気丈にしているが、ステラはリズのことが心配でたまらないのだ。知り合ってから半月程度とはいえ、彼女のことを娘か、年の離れた妹のように可愛がっていた。

 この出来事をきっかけに、バートはとうとう重い腰をあげた。非番の兄を呼び出し、あくまで身内として、リズのことを相談した。それが今日のことである。

 コル・ファーガル以西バクーニャ地方の地酒を飲みながら「捜索願を出すか?」という兄に、バートは首を振った。明るみにできない事情を察して、兄は真面目な顔でグラスを置いた。

「どういう背格好だ。年は?」

「年は十四。女の子だ」

「特徴は」

 バートはリズの姿を脳裏に浮かべながら答えた。

「髪が長い。高い位置で結んでいて……赤毛なんだ。目は青……鮮やかで濃いめの青だ。背丈は俺の胸のあたりで……ステラより少し小さい」

 己の語彙の乏しさを、これほど情けなく思ったことはない。

 兄の目つきが変わった。

「どこの娘だ?」

 バートは答えられなかった。事実、彼はリズがどこの誰の娘なのか、まったく知らなかったのだ。わかっていることといえば、ダレルから聞いた「昔世話になった人の娘で、両親を亡くして困っている」ということだけである。

「……知り合いから預かった、大事な娘なんだ」

 情報を求める兄に、バートはそう答えるのが精一杯だった。

 兄からの連絡を待つあいだも、忙しさに追われる日々が過ぎていった。ステラを奥に下げて一人で店を回すあいだ、バートはたびたびリズのことを思った。

 朝から晩まで、くるくるとよく働いた。

 働きすぎる、娘だった。

 今にして思えば、忙しくすることで母親の死から立ち直ろうとしていたのかもしれない。

 後悔先に立たずとは言うが、もっと話を聞いておけばよかった。ダレルが連れてきた娘だから深入りはすまいと、無意識にそう心がけていたのだろうか。バートは自分が嫌になった。

 落ち着かない気分のまま一日経ち、また二日が経った。

 《鳩の翼》亭に、二組の新顔の客がやってきた。

 一方は祖父母と孫娘の三人連れ、もう一方は若い男女である。

 昼時を過ぎたとはいえ、店内の空席は少ない。相席になっても構わないかと訊くと、彼らは快く了承してくれた。

「こちらのお若い方に案内してもらってね」サイモンと名乗る老人は、相席の青年に対して目尻を下げた。「こうして会ったのも何かの縁だ。今日はご馳走させて下さい」

「いえ、どうかお気になさらず。一緒に食事を楽しみましょう」

 如才ない受け答えをする青年の隣で、銀髪の女性が微笑んだ。大衆食堂には不釣り合いの、品の良い二人組だった。

 バートはテーブルに水を運んだ。左右を祖父母に挟まれた孫娘が、しきりに店内をきょろきょろ見渡している。なにがそんなに物珍しいのかと不思議に思っていると、サイモンが困ったように笑いながら孫の頭を撫でた。

「落ち着きがなくて申し訳ない。この子は今日ここへ来るのを、ずっと楽しみにしていたんですよ」

「おじいちゃん。リズは?」

 バートは聞き間違いかと自分の耳を疑いながら、サイモンにどういうことか、と目を向けた。

「先日は孫ともども、リズさんに大変お世話になりまして。お礼に来たのですが」

 サイモンは先日、農場へ向かう道中で起きた出来事をかいつまんで説明してくれた。

 すでに終わったこととはいえ、バートは聞いていて肝が冷えた。農場で野犬の騒ぎがあったことは噂で聞いていた。しかしまさか、リズがその渦中にいたとは。

「向こう見ずな女の子がいたものですね」一緒に話を聞いていた青年が、水を一口飲んだ。「怪我などしていませんでしたか」

「おそらく。なにぶん、あっという間のことで……」

 青年は無言で頷いた。物思いにふける目つきだ。同伴の銀髪の女性がさり気なくその背中を撫でた。

「その方、今日はいらっしゃらないの?」

「……ちょっと、外に出ていまして」

 行方不明だとはとても言えなかった。

 翌日、開店と同時にジョエルがやって来た。ギアッチという人物が見つかったと報告する彼の表情はしかし、冴えなかった。

「ごめん、ステラさん。ギアッチさん、入院してて。身内の人じゃないと面会できないんだ」

 行方の手がかりすら掴めぬ現状に、ジョエルもいよいよ事態を楽観視できなくなったらしい。何でも言ってくれという彼に、バートとステラは一通の手紙を託した。

「手紙を届けてもらえる? うちの人の兄さんで、ビート=バックスっていうの。南管区警察局に勤めているから」

「警察……ってことは」

 バートは頷いた。

「捜索願だ」

 もっと早くにこうするべきだった。だが、バートにはどうしても拭えぬ懸念があったのだ。リズの面倒を《鳩の翼》亭で見ることが決まったとき、人にものを頼む立場でありながら、ダレルはある条件をつけた。

「働かせるのは構わんが、人前に出る仕事はさせないでくれ。悪い虫がついたら困るのでな」

 早世した両親に、教養のある娘。彼女は北方辺境領のなかでも特に寂れた、北の果てからやって来た。このうえ人前に出すなとくれば、わけありだということくらいバートにも察しがつく。

 気をつけていたつもりだった。だが、心のどこかで甘く考えていたのだろう。

 農場に行かせた日の夜、リズはいなくなった。

 自転車で警察局へ向かうジョエルを見送るバートの胸には、慚愧に堪えない思いが渦巻いていた。

 進展がないまま、数日が経った。

 リズの安否がわからぬ不安の日々で、思いがけず恵まれた出会いがあった。このあいだ来店した男女の二人組が、お茶を飲みにちょくちょく訪れるようになったのである。

 バートは一度目が合ったときから銀髪の女性にやや苦手意識を抱いていたが、ステラは給仕がてらに彼女とよく世間話をしているようだった。年が近い女性同士、話しやすいのだろう。忙しいときにお喋りをされると困るが、彼らはその辺りも配慮して、混雑する時間帯を避けて来店してきていた。

「申し訳ない。連れがいつも奥方を引き留めてしまって」

 勘定のときに青年が詫びを口にした。

「いや、こちらこそ……迷惑でなければいいんだが」

「お腹のお子さんがそろそろでしょう。お節介はよせと言っているんですが、殿方にはわからない、と逆に叱られてしまいました」

 青年は柔らかい苦笑をこぼした。人好きのする気配に引かれて、バートはつい自分から話を振った。

「お二人はご夫婦ですか」

「いえ、まだ」青年は傍らの女性と顔を見合わせて、照れくさそうに頬を染め合った。「まだなんです」

 素直さに嫌味がない。全身から育ちの良さが滲み出ていた。

 ステラがお茶菓子を包んで銀髪の女性に渡した。

「はいこれ、昨日のお礼」

「まあ、ありがとう。嬉しいわ」

 何のことだろう、という顔をする男性陣に、ステラが言った。

「小瓶入りのポプリをもらったのよ。これがまたいい香りでね」

「眠りが浅いとお聞きしたものですから」

「おかげで昨日はぐっすりだったわ。リズが帰ってきたら一緒に作り方を教えてちょうだい」

「ええ、もちろん。くれぐれもお体に気をつけてね」

 相変わらず苦手な印象は拭えないが、この女性のおかげで落ち込んでいたステラもだいぶ明るくなった。

 次の日もバートは彼らが来ることを期待していたが、夕方を過ぎても二人はやってこなかった。

 その矢先のことだった。

 常連のひとりが、コル・ファーガルの西区で爆破事件が起きたという報せを持ってきた。

 閉店間際まで、店内はその噂で持ちきりだった。

 オズワルドの誕生日を前にして起こった事件の対応に、警察は大慌てだという。だから表に閉店の看板を下げた直後、兄のビートが前触れなく《鳩の翼》亭にやって来て、バートはひどく驚いた。

 顔色の悪い兄に温かい飲み物を出してやりながら、バートはその姿に眉をひそめた。目の下の痣、腫れた頬、切れた口の端に赤黒いかさぶた。まるで路上で喧嘩でもしてきたかのようだ。

「西区の爆発騒ぎは大丈夫なのか」

 兄は生返事をしながら目の前のカップを手に取った。熱い飲み物が口内の傷に沁みるのか、喉から低いうなり声が漏れた。

 警察には守秘義務がある。仕事に関わることは、たとえ身内であろうと民間人に漏らすことは許されない。

 バートは話題を変えた。

「手紙は読んでくれたか」

 カウンターの薄暗い明かりの下で、ビートは短く答えた。

「捜索願は出せない」

 酒瓶を吟味する手を止めて、バートは兄の顔を見つめた。真っ直ぐこちらを見返すよどんだ目は、酔っているわけでも冗談でもないと、言外にそう告げていた。

「なんでだ」

「なんでもだ」ビートは凄んだ。「バート、この件にはもう関わるな。あの娘のことは忘れろ」

 そう聞いた瞬間、真っ白になった頭にカッと火がついた。カウンターごしに、バートは兄の胸ぐらを掴みあげた。

「知ってたんだな……リズのことを、知っていたんだな!」

「ああ……」

 激昂する弟にされるがまま、ビートは投げやりに声を荒げた。

「教えてやる。どうせもう終わったことだ。ああ、そうさ。知っていたとも! うちで保護していたんだからな。おまえから相談された前の日から、一昨日まで!」

 いつの間にか二階から降りてきていたステラが、青白い顔でドアの前に立ちつくした。

「あの子は自分の足で警察に来たよ。親が死んでコル・ファーガルへ来たが、戸籍がないから仕事に就けず困っていると。確かに、どこを調べてもあの子が生まれた記録は見つからなかった。リズ=ラッセル。十四歳。わかるのは本人が申告した名前と年齢だけだ。だがな、こういうのは前例がないわけじゃない。うちから必要な書類を出して、仮の身分証を発行して、それですむはずだった」

 ビートは胸ぐらを掴む弟の腕をがっと掴んだ。

「おまえの話を聞いたあと、俺は本人に聞いてみたよ。《鳩の翼》亭を知っているかって。あの子は知らないと答えた。バート、俺はな、おまえらがどれだけ心配してるか、話して聞かせたんだ。手紙も見せた。でも駄目だった。あの子は頑なに知らないって言い続けるばかりだった」

 その情景を脳裏に思い描いて、バートは歯を食いしばった。

「今ならわかる。あの子は知らないふりを通すことで、おまえらを守ろうとしていたんだ」

 バートの手を乱暴に振り払い、ビートはカウンターに拳を叩きつけた。いかった両肩から、怒りと無念がほとばしるようだった。

「本国のお偉いさんが特権だかなんだかを振りかざして、あっという間だった。どうにもできない場所へ連れて行っちまった。なのに今さら、いろんな連中があの子のことを狙ってきやがる。……可哀想だが、もう二度と、ここには戻って来られないだろう」

 ステラが両手で顔を覆って泣き崩れた。バートはカウンターから飛び出して妻に寄り添いながら、無力感に打ちひしがれた。真っ暗な穴の底で、あるかどうかもわからない出口を見上げているような、絶望的な気分だった。

 ビートは鬱憤を吐き出した途端、途方もないむなしさに襲われたらしい。冷めたカップを一気に煽り、彼はカウンターにもたれた。背中にやり切れない哀愁が漂っていた。

「なあ、バート。おまえ、どこの誰からあの娘を預かったんだ」

 そのとき、店の入り口が開いた。

 吹き込む冷たい風と共に入って来たのは、浅黒い肌をした、男ばかりの七人の集団だった。

「夜分に失礼する」

 一瞬で警官の本分に引き戻されたビートが、それ以上の侵入を阻むように立ちあがる。

「なんの用だ。今日の営業は終わりだぞ」

 威嚇するような物言いだったが、先頭の青年は意に介する素振りすら見せなかった。

「店主殿に話がある」彼はバートとステラのほうを向いて言った。「あなた方は、リズ=ラッセルをご存じか」

 その顔には、頬からこめかみにかけて、深い傷が走っていた。

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