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大鷲の国  作者: サトミアキラ
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三章


 《鳩の翼》亭の朝は早い。

 夜明けと共に目を覚ましたリズは、手早く着替えて一階に下りた。洗面所で顔を洗い、鏡を見ながら髪を結ぶ。

 彼女の一日は掃除から始まる。

 水で満たしたバケツを食堂に運んだ。床をモップで磨き、テーブルにあげていた椅子を下ろす。カウンターを拭き、酒瓶の埃を払い、汚れた水を流すついでに、昨日のうちにまとめたゴミを勝手口の外へ出した。

 建物のあいだから覗く夜明けの空は、薄青く澄み渡っていた。朝が夜を追いやり、コル・ファーガルの路地に光が行き渡る。二週間前、ダレルに手を引かれて夜道を駆けたことが、だいぶ昔のことのように思えた。

 リズは大きく伸びをした。柔らかな光のシャワーが、赤い髪を煌々ときらめかせた。

 勝手口からバートが厳つい髭面を覗かせた。

「おはようございます。バートさん」

 バートは頷いて応えた。

「ステラを手伝ってくれ」

「はい」

 仕入れへ向かうバートと入れ替わりに、リズは家の中に戻った。

 台所でステラと共に朝食を作る。

 薪を組んで竈に火を入れ、パンが焼き上がるまでのあいだにスープを作った。並んで調理に勤しむ二人は、何年も一緒に暮らしてきた姉妹のように打ち解けていた。

 リズはミトンを両腕にはめて竈の戸を開いた。焼き上がったパンの香りが、台所に温かく立ち上った。

「いい香りねぇ」ステラの頬にえくぼが出来る。「うちの人が帰ったら朝ご飯にしましょ」

「ええ。ちょっと表を掃除してくるわ。今日はとてもいい天気よ」

 朝食の準備をすっかり終えて、リズは箒を手に店表へ出た。

 コル・ファーガルの町並みは、区画によって景観が異なる。

 レンガ倉庫や工場が建つ東区。

 放牧地と耕作地が隣接する西区。

 宿場や商店が立ち並ぶ南区。

 コーウェン家と、貴族たちの館が物々しくそびえ立つ北区。

 《鳩の翼》亭は南区の大衆食堂である。夫婦二人で切り盛りする小さな店だが、バートの料理が評判で、食事時になると常連客で席がいっぱいになるほどだ。

 住み込みで働けて、給金まで貰える。バートたちと引き合わせてくれたダレルには、感謝しかない。

 箒で店先を掃いていると、チリン、とベルの音がした。

 聞き慣れた音にリズは顔をあげた。

「おおーい、リズ!」

 道の向こうから自転車がやって来る。バランスを取りながら大きく手を振っているのは、宿屋の下働きのジョエルだ。リズより三つ年上だが、そばかすの浮いた顔には少年らしい愛嬌が残っている。

 彼は《鳩の翼》亭の前で自転車を止めた。

「おはよう、ジョエル。いい朝ね」リズは荷台に紐で括り付けられた、膨れた革鞄を見た。「これから配達?」

「まあね。客からの預かりものさ」

 ジョエルは手紙の詰まった革鞄を軽く叩いた。

「みんな祭りの準備におおわらわだよ。ま、そのおかげでこっちは儲かってるんだけどね」

 祭りの準備に賑わうコル・ファーガルでは皆が皆、気前が良い。手紙の配達に行くだけで普段の倍以上はチップを稼げるのだと、ジョエルはご機嫌だった。

「今日は北区にも行くんだ。おまえの兄さんのこと、知ってる人がいないか探してきてやるよ」

 ペダルに足をかけたジョエルに、リズは急いで飛びついた。

「待って、ジョエル。あなたの気持ちには感謝しています。だけど、そこまでしてくれなくていいわ」

 ジョエルは鼻の下を指でこすった。

「遠慮するなよ、仕事のついでなんだから」

「そうじゃないの。私……」

 リズは口から出かかった言葉を、喉元で押しとどめた。自転車から離れて、箒の柄を強く握りしめる。急ぐから、と配達に出かけていく青年の背中を、彼女は複雑な思いで見送った。

 五日前、《鳩の翼》亭にやって来たジョエルと初めて会ったとき、リズは兄を捜していることを話してしまった。それからというもの、彼は配達に向かう先々で、オズウェルのことを尋ね回っているのだ。

 ジョエルは気のいい青年に違いない。それゆえに、リズは己の軽率さを悔やんだ。

 重苦しい不安を抱えたまま、店表の道を掃く。

 山奥の村とは違い、ここでは隣人でも距離がある。住居と仕事を与えてくれるバート・ステラ夫妻に事情を打ち明けるのは当然だ。しかし、ほんの少し親しくなったからといって、ジョエルにまでオズウェルのことを話すのではなかった。

 《鳩の翼》亭での暮らしは、温かく、幸せだ。しかし母の言いつけを破って村を出たということだけは、忘れてはならない。

 リズはうつむき、石畳の溝を無心に掃いた。



 車を曳いて戻ったバートを、リズはステラと出迎えた。

 荷台に積まれた木箱は、今日明日の食材である。西区の農場で作られた野菜や鮮肉は、『デミタル商会』という問屋を介して、南区の商店に届けられる。多忙な農場主が煩わしい銭勘定を嫌って、商会に顧客管理を一任しているのだ。

「おかえりなさい、バートさん。朝ご飯出来てます」

 バートはむっつりと頷いた。家を出る前よりも、心なしか表情が沈んでいる。リズの覚えた違和感を、彼の妻はより如実に感じ取ったようだった。

 朝食後、ステラはいつにもまして口数の少ない夫が運んできた荷物に目をつけた。袖をめくり、床に積まれた木箱の前に立つ。

「バートがあんな顔をするのはね、デミタル商会で納得いかないことがあったときって決まってんの!」

 はめ込みの蓋を、ステラはガッと開いた。

 リズも隣の箱の中身を検める。思わずホゥ、と息をついた。新鮮な冬野菜が、所狭しと詰まっている。どれも山奥の小さな畑で育てていた根菜とは、桁違いの大きさだった。芋をひとつ取ってみても、ずっしりと重く、身がしまっている。

「傷もないし、とても美味しそうよ」リズは次の箱を開けてみた。「こっちも大丈夫みたい。ねえ、ステラ?」

 腹に赤子を抱えているとは思えぬ身のこなしで、ステラが品物を吟味していく。その眼差しには一切の妥協もない。

「ちょっと、あんた!」

 妻に呼ばれて、バートが厨房からのそのそ顔を出した。体躯の大きな彼が背中を丸めていると、まるで巣穴から這い出した熊のようである。

 ステラは腰に手を当てて夫をキッと睨めつけた。

「どうして香草がないの」

「そら、おまえ……」バートは頭をかいた。「お上の都合ってやつだろうよ」

 リズは箱の蓋を元通りに直して尋ねた。

「どういうことです?」

「お偉いさんの館で使うからって、必要な香草をうちのぶんから持っていかれたんだ」

 オズワルドの誕生祭に向けて、コル・ファーガルには様々な人が集まる。こうした状況下では、ジョエルのように臨時収入を喜ぶ人間がいる一方で、トラブルも起こりえるのだ。

「だからって、そのためにうちが煽りを食っちゃたまらないよ。鶏の香草焼きは人気があるんだから」

「そうカッカするな。今回は運がなかった」

 鶏の香草焼きはこの店の看板メニューである。

 香草の独特な香り、噛むと溢れる肉汁。鶏の旨味が凝縮された一口は、付け合わせの野菜と合わせることで飽きない味に仕上がっている。あれを楽しみに通ってくる常連が、何人もいるのである。

 デミタル協会は《鳩の翼》亭開店以来の付き合いだ。持ちつ持たれつだとバートは言うが、注文の約束を反故にするのはまた話が違うのではないか。

 朝の仕込みに厨房へ戻ろうとするバートへ、リズは声をかけた。

「私、農場へ行って貰ってきます」

 バートは虚を突かれたように目を瞬いた。

「そんな、いいよ」ステラが遠慮して言った。「いつも手伝ってくれてるし、リズはやることがあるじゃない」

「気にしないで。今から行けば夜には間に合うでしょう?」

 夫婦がそれ以上何かを言う前に、リズは二階にあてがわれた自室へ戻った。腰にベルトを巻いて短刀を差し、外套を羽織る。

 鞄を背負って一階に戻ると、バートが待っていた。

「本当に行ってくれるのか」

「もちろんです」

「正直、ありがたいが」バートは難しい顔を解かない。「ダレルから、おまえのことを頼まれている」

「もう十分、良くしていただいています」

 リズはダレルの口添えで、《鳩の翼》亭に置いてもらっている。一番忙しい食事時に店に立てないぶん、裏方の仕事で少しでも夫婦に恩返しがしたかった。

「お世話になっているのですから、これぐらいのことはさせて下さい」

 リズは料理に使う種類の香草を、バートに確かめた。念のためにメモを取り、必要数を書き足す。

「行ってきます」

「気をつけるんだよ」

 表まで夫妻に見送られて、リズは足早に出かけて行った。



 四つの通りが交差する十字路で、リズは農場へ向かう荷馬車を探した。コル・ファーガルの中でも西区は広い面積が取られており、徒歩で行き来をしたら半日どころですまない。

 幸いにもすぐデミタル商会の荷馬車が見つかった。リズは御者にわずかばかりの心付けを払い、農場へお使いにいく他の人たちと共に荷台へ乗り込んだ。

 相乗り客はリズを入れて四人だった。八歳くらいの少女と、その祖父らしい老人。それから、浅黒い肌をした頬に傷のある青年。

 荷馬車はゆっくりと走り出した。

 フードを目深に被った姿が珍しいのか、隣り合った少女が好奇心に満ちた目を向けてきた。リズが微笑んで目を会わせると、少女は気恥ずかしげに祖父のほうへ顔をそらした。

「お祖父様と一緒におつかいですか?」

 リズが声をかけると、少女はどぎまぎしながら答えた。

「あたし、おじいちゃんの付き添いなの」

「偉いですね」リズはフードを外して老人に会釈した。「リズ=ラッセルと申します。南区にある《鳩の翼》亭という食堂で、お世話になっている者です」

 老人はにこやかに頷いた。

 道中は景色を見るくらいしかやることがない。乗客は退屈なうえに、荷馬車が揺れるたびに尻を叩かれる。気晴らしの話し相手がいるのは、お互いにありがたかった。

 老人はサイモン、少女はキャロルと名乗った。

「コル・ファーガルには最近来たのかな?」

「はい。驚きました。こんなにたくさん人がいるなんて」

「もともと大きな町だけど、このところ外からもいろんな人が集まってきているからねえ」

 はじめはモジモジしていたキャロルも、祖父と親しげに言葉を交わすリズに、少しずつ心を開いていった。

「リズはしっかりしてるね」

「しっかり?」

「うん。あのね、うちのお兄ちゃんはね、大きな声ですぐワーワー騒ぐから、お母さんにいつも怒られてるの。だけど、リズはとても静かに話すでしょ。大人のひとみたい」

 リズは口に手を当てて小さく笑った。

「私だって小さい頃からしっかりしていたわけではないわ。全部、母から教わったの」

 リズの母は物腰の穏やかな女性だったが、行儀作法にはことさら厳しかった。言葉遣いや正しい姿勢、食事のマナーなど、彼女がリズに教えた数々の作法は、山で暮らすには必要のないものだった。

 かといって、リズはそれらを苦に思ったことはない。

 母の厳しさの陰には常に、夫に先立たれた悲しみがあった。女手ひとつで我が子を育てなければという重圧が、病気がちだった彼女を繋ぎ止め、また、苦しめてもいた。

 草原の先にある木立の向こうに、北区の町並みが広がった。ゆるやかな段々状の土地に屋敷が並んでいる。槍のように突き出した屋根が多いため、その風景は石の林のようにも見えた。

 その中で随一の威容を誇る城塞が、コーウェン家の居城である。

 リズはその城をじっと見つめた。

「あそこだけ壁の色が違いますね」

「ああ……大火の跡だ」

 サイモンは痛ましそうに眉をひそめた。

「もう十五年になるかな。今の城主様が跡を継ぐとき、反対した連中がいてね。よりにもよって、奥方様と若様がいる離れに火を放ったんだ。奥方様は残念だったが、若様がご無事でいらしたのが唯一の救いだよ」

 がたり、と荷馬車が大きく揺れて止まった。

「なにかしら」

 リズはキャロルと顔を見合わせた。

 御者に話を聞きに行ったサイモンが、急ぎ足で戻って来た。

「野犬だ。前のほうの馬車が野犬に襲われた」

 リズは荷台から飛び降りて前方を確認した。道の上に点々と血の跡が続いている。野犬から逃げてきたらしい、左腕を血に染めた若者を、御者が抱えるように後ろへ連れて来た。

 噛まれた跡から血がドクドクと溢れていた。リズは若者の腕をきつく縛り、傷口にハンカチを押し当てて止血した。出血が落ち着くのを待って、自分の外套を震える肩にかける。

 同乗していた青年が、御者と協力して若者を荷台に引き上げた。

「何匹だ。群れか?」

「い、一匹……でかいのが一匹だ。すごくでかかった」

 サイモンは孫娘を守るように荷台の奥で体を縮めている。血で汚れた怪我人を見たキャロルは、声もなく青ざめていた。

「全員ここで伏せていろ」

 頬に傷のある青年はそう言うと一人、馬車の前方に回った。

 なだらかな道の向こうから、じきに犬が姿を現した。血の跡をつけてきたのだ。

 若者の言うとおり、確かに大きい。ピンと伸びた尻尾、鋭い牙。茶色い毛並みを除けば、その姿は森で目にした狼と酷似していた。

 血の興奮によって、疾走する犬の目は爛々と輝いていた。距離がつまるにつれて、てらてらと赤く染まった牙がはっきり見えた。

 頬に傷のある青年が身構えた。

 その矢先のことだった。先頭に続いてもう一匹、犬がこちら目がけて駆けてきた。

「もう一匹いる!」

 頬に傷のある青年は動じず、牙を剥く一匹目の鼻面に拳をぶち込み、続けて飛びかかった二匹目の喉元を掴んでねじ伏せた。

 リズは荷台から飛び降り短刀を抜いた。

 鼻面を殴られた犬が、頬に傷のある青年に再び襲いかかる。

 考えての行動ではなかった。リズは目の前の茶色い毛皮を鷲掴みにした。荒ぶる獣の口に短刀の切っ先を突っ込み、怯んだところを引き倒す。馬乗りになって首めがけて短刀を振り下ろすと、肉を断ち切るブツリ、という音が手に響いた。

 痙攣する死に体にとどめをさした青年が、リズの手からおもむろに短刀を取り上げた。

「なぜ出てきた」

 怒気のこもった言葉には、聞き慣れない癖があった。

 リズは驚いて固まりながら、青年の顔を初めてまじまじと見た。黒い瞳、頬からこめかみにかけて残る傷跡。店でもたまに見かける浅黒い肌は、南国出身者によく見られる特徴である。

「あなたがやられたら全員死んでいました」

「君が危険を冒す理由にはならない」彼は断固として言った。「女だてらにこんなものを持つから気が大きくなる」

 リズの頬にカッと熱がのぼった。

「身を守るためなら当たり前でしょう!」

 怪訝に眉を寄せる青年から短刀を取り返して、リズはぷりぷりしながら怪我人の様子を見に荷馬車へ戻った。

 誰も口にしなかったが、まだ他に犬がいる恐れがあった。また襲撃があるかもしれないという警戒心と不安から、農場に着くまで積極的に口を開く人はいなかった。

 道の途中に若者が置いてきた荷車があった。積み荷は荒らされ、地面に血だまりの跡ができている。それらを横目に、荷馬車は運行を続けた。

 荷馬車は無事に農場へ辿り着いた。

 リズは先に降りて農場の人たちに事情を説明し、怪我人の介抱を頼んだ。訊けば、もともと来訪者のために農場主の家の二階が開放されているという。若者が担架で運ばれたあと、彼女はサイモンとキャロルを連れて農場主の家に向かった。

 野犬の騒ぎで足止めをくっている人は思いのほか多かった。彼女は端の空いた席に二人を呼び寄せ、自分は壁ぎわに立った。

 のち、挨拶にやって来た農場主は、恰幅のいい老人だった。

「ご迷惑をおかけしています。警察を呼びましたから、安全が確認できるまでゆっくりしていって下さい」

 振る舞われたお茶をすすると、だいぶ気持ちが落ち着いた。

 リズは先ほどの出来事を思い返した。

 青年の物言いは一方的だったが、悪意から発したものではない。あのときはつい頭に血がのぼってしまったが、まだ助けてもらった礼も言っていなかった。

 リズは湯飲みを置いた。

「どこか行くの?」

 不安そうな顔をするキャロルに、リズは明るく言った。

「おつかいをすませなきゃ」

 農場の職員に用件を告げ、香草を用意してもらうあいだ、リズは頬に傷のある青年を捜した。すれ違う人たちがこぼす愚痴や噂話が耳に流れ込んでくる。

「小作人を襲った野犬ってのは、実は飼い犬らしいな」

「本国のお偉いさんだろ? あの兄ちゃんも気の毒にな」

「体を張って荷馬車を守ったっていうのに、因縁をつけられてよ」

 リズは振り返り、噂話をしている人たちに尋ねた。

「その人は今どこにいますか?」



 応接室から漏れる音に聞き耳を立てる人たちのあいだのすり抜けて、リズは扉を開いた。

 頬に傷のある青年と農場主、ソファにだらしなく沈みこむ男とその付き添いらしい口髭の男。二対二で向き合っていた視線が、いっせいにリズのほうを見た。

「お嬢さん、いけませんよ。こんなとこに来ちゃ」

 そう言いながら、農場主は相手方の様子をちらちら窺った。

 上座の男はまだ若かったが、目つきが陰鬱で溌剌とした精気に欠けていた。退屈が服を着ているような人物だった。

「入る部屋を間違えた……という顔じゃないな」顎をかく仕草すら気だるげだ。「誰だい?」

「その人と同じ荷馬車に乗っていた者です」

 隣に座る口髭の男が、不躾なほど無遠慮にリズの顔を見やる。彼は半分浮かせた腰を再度ソファに落ち着けて、静かに訊ねた。

「そうでしたか。お嬢さん、お名前をうかがっても?」

「私の名前が必要ですか」

 口髭の男は目を瞬き、次に破顔した。

「いいえ。大変失礼いたしました」

「叔父さん。その子が何を言ったって、僕は聞きませんよ」

 熱のない声だ。飼い犬が殺されたことを嘆き悲しむ様子もなく、暇そうに爪をいじっている。

「あれは犬と狼を掛け合わせた品種でね。きみにはわからないだろうけど、とても頭のいい犬なんだ。殺したのはもったいなかった」

「殺さなければ死人が出ていました」

 男は実感がわかない顔で首を傾げた。

 リズの脳裏に、傷から血を流す若者や、自分を盾に孫娘を守るサイモン、怯えるキャロルのことが思い起こされた。

 文句のひとつも言ってやりたいが、きっと、この人には響かない。

 震える拳をほどき、彼女は深く息を吐いた。

「この人は、危険を顧みず乗客を守るために戦って下さいました」

 頬に傷のある青年が、感情の読めない目つきでリズを見た。

 リズは青年の視線に緊張しながら、決然と言った。

「このような扱いはあんまりです。今すぐ解放して下さい」

 男はうるさそうに小指で耳をほじった。

「口が達者な女の子は嫌いだ」

 そう言うと、彼は立ち上がった。上背の威圧感はなかなかのものだった。

 口髭の男は慌てて甥を制した。

「よさんか。おまえもあれらを持て余していたろう。どのみち、人を襲った犬を生かしてはおけん」

 口髭の男は甥に何事か耳打ちした。精気に欠けた目が、衝撃を受けたように見開かれる。彼はそれきり、叔父の仕切りに一切干渉しなかった。

 話をまとめにかかる口髭の男の口上は、手慣れたものだった。

「お話はよくわかりました。今回の件において、すべての非は我がテナール家にあります。農場主のジッド殿。サナンから来られたお若い方。あなた方に対する数々の非礼、心より謝罪申し上げる」

 男が横でぼそりと言った。

「《輝石を抱く鉤爪》に誓って。あとで怪我人を見舞うさ」

 口髭の男とその甥を見送りに農場主が出て行くと、応接室にはリズと青年の二人が残された。

 青年は難しい顔で腕を組んだまま、微動だにしない。

 余計なことを、と怒っているかしら。

 リズはおずおず、青年に話しかけた。

「あなたを捜していました」

「なぜ?」

 短い問いかけは思いのほか穏やかだった。

「……助けていただいたお礼を、言っていなかったので」

「当然のことをしたまでだ」

「いいえ。本当に、ありがとうございました」

 リズが頭を下げて立ち去ろうとすると、青年は先んじてドアを開いた。だが先に出る様子はない。不思議に思って立ちつくすリズに、彼は言った。

「送ろう」

 頼んでいた香草の包みを受け取り、サイモンとキャロルに挨拶をするあいだ、青年はつかず離れずの距離を保っていた。

 帰り際、怪我人を看ていた職員が、外套を届けに来てくれた。それを羽織りながらリズはチラリと頬に傷のある青年を見上げた。

「あの、ここまでで結構ですから」

 彼は特に気分を害したふうでもなく頷いた。

「待っていろ。馬車を捜してくる」

 建物の前で青年を待ちながら、彼女は二重に封をされた包みの口を少し開いた。独特の香りが鼻先をくすぐった。予想外の事態が続いたが、今から戻れば十分、夕方に間に合うだろう。

 リズはフードを被ろうと頭の後ろに手を伸ばした。すると、見計らったように声をかけてくる者があった。

 さっきの口髭の男だった。

「ご機嫌麗しゅう、お嬢さん」

 あなたのほうがよほど機嫌が良さそうだ。

 リズはそう思ったが、口には出さなかった。頭を下げる。

「先ほどは失礼いたしました」

「いいえ、こちらこそ。それより……どうやらお一人のようですね」

「……まだ何か?」

 口髭の男はすっと彼女の耳元に顔を寄せ、ささやいた。

「あなたの母君は、フィオナ様ですね?」

 確信に満ちた声だった。リズは全身から血の気が引いた。

 リズの顔色が変わったのを見て、男は恭しく胸に手を当てた。

「私は枢密院第七席顧問官、ロデリック=テナール。《輝石を抱く鉤爪》に誓って、あなたを害することはありません」

 リズは包みを抱いて後ずさった。

「辺境まで来た甲斐がありました。これならば選定に間に合う」

 他にも男は何か言ったようだったが、音のひとつひとつが大きくぼやけて、リズはそれ以上なにも聞き取れなかった。肩に触れようとする手を振り払って、彼女は弾かれたように駆け出した。

 建物に入り、フードを被って人々のなかに隠れる。テナール氏が人混みをかき分けて追ってくる前に、素早く裏口へ回った。

 勢いよく外に飛び出し、辺りを見渡して離れたサイロの陰に隠れる。

 リズは肩で息をしながらうずくまった。

(――リズ。私に何があっても、都にだけは行ってはだめよ)

 母の言いつけが心臓を締めつける。

(――あなたは絶対に、見つかってはいけないの!)

 逃げなければと思うのに、膝が震えて立てない。

 誰なのだ、あの男は。どうして母の名前を知っているのだろう。

 草を踏む足音が、真っ直ぐこちらへ近づいて来る。

 リズは腕を抱いて息を殺した。

「……リズ=ラッセル?」

 聞き覚えのある声にリズは顔をあげた。

 頬に傷のある青年だった。

「どうした」

「いえ……」リズはとっさに言い訳した。「待っているあいだ、この辺りを見て回っていたら……急に立ちくらみがして。ごめんなさい」

 長い沈黙の末、青年は膝をついて手を差し出した。

「立てるか」

 リズはおずおず彼の顔を見上げた。

「……どうして私の名前を?」

「荷馬車でご老人に名乗っていただろう」彼はそう言ってから、取り繕うにように付け加えた。「聞き耳を立てていたわけではないぞ。隣に座っていたからだ。聞こえてしまった」

 そういえばそうだった。彼は道中、ずっと隣にいたのだった。

 強ばった肩から力が抜けた。リズは青年の手をとった。

「御者と話をつけてきた。君を乗せたらすぐに出るそうだ」

 それは今のリズにとってこれ以上ない吉報だった。

 テナール氏から離れられるなら、なんでもいい。頬に傷のある青年に案内されて、彼女はデミタル商会の荷馬車に乗り込んだ。

「お世話になりました」

 青年は軽く手を挙げて応えると、走り出した荷馬車に背を向けた。リズは荷台の奥に隠れながら、そういえば彼の名前を聞いていなかったことに気がついた。



 夫妻はリズの帰りを、昼食をとらずに待っていた。

 一緒に食卓を囲む時間をいつも以上に大切に思いながら、リズの胸中には澱のように不安が溜まっていった。

 午後はいつも通り、《鳩の翼》亭の厨房で働いた。

 食堂は夕暮れからぽつぽつと客が入り始め、夜には満席となる。こんがり焼き上がった鶏の香草焼きの皿を持って、バートが厨房を出て行くと、店のほうからわっと歓声があがった。

「リズのおかげで助かったよ。ありがとうね」ステラは早くも次の料理の下ごしらえに入った。「今日はもう休みな。お疲れ様」

「ステラも。無理しないでね」

 自室の明かりを灯し、リズはベッドに腰を下ろした。

 大丈夫。

 形見の指輪を握りしめ、何度も自分に言い聞かせる。今日知り合った人のなかで、《鳩の翼》亭で働いていることを話したのはサイモンだけだ。店に顔さえ出さなければ、見つかりようがない。

 そのとき、窓がコッと小さな音を立てた。

 リズは心臓が跳ねあがった。おそるおそる窓の外を見下ろすと、裏の路地に、小石を手にしたジョエルが立っていた。

「ジョエル、どうしたの?」

 ホッとして窓を開けると、彼は大きく手を振って言った。

「オズウェルを知ってるっていう人が、見つかったぞ!」

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