恋人いない歴=年齢の私が、官能小説の師匠にされました。
ポンポンと肩を叩かれた。だるい授業が終わった直後で、気持ちよく寝ていたのに。
机に突っ伏している私は、起き上がる気になれなかった。
しかし、肩は執拗に叩かれる。
「三神さん、ちょっといいですか?」
名前を呼ばれた。でも、知らない女の子の声だ。何があったのだろう。気になって仕方ない。
私は夢の住民になる事を諦めて、起き上がる。
おかっぱで制服のスカート丈を膝下でそろえた、昭和の名残を残した女の子だ。
「徹子と言います。よろしくお願いします!」
名乗ってと頼んだ覚えはないが、よろしくお願いされてしまった。
私は曖昧に頷いた。
「えっと、徹子さん。私に何の用?」
「官能小説の書き方を教えてください!」
私は椅子ごとずっこけた。
まずは状況を整理しようと提案する前に、徹子はどんどん話を進める。
「私の夢は素晴らしい小説で世界中のみんなを幸せにする事です。しかし、知名度のない間は何を書いても評価されません。一発で注目される必要があるのです。私は悩みに悩み抜きました。誰しもが必ず読むものは何ですか? 絵本? いいえ、あれはごく一部を除いて大部分が忘れ去られています。コアなファンがいない小説は廃れるのです。そう、コアなファンを獲得する方策を編み出すべきなのです。では、コアなファンが必ずいるジャンルとは? そう、官能小説です!」
「ちょっと待って」
突っ込みどころ満載の演説まがいをさえぎって、私は提案する。
「まずは落ち着こう」
「私はこれ以上なく落ち着いています。例えるなら大地に根付く木々です。風と共に静かにさえずっているのです」
「なんとなく美しい表現だけど、ついていけない」
私が率直な感想を述べると、徹子は両目を見開いた。
「そんな……今の私は雷を浴びたように身体がしびれ、動けません」
「口はしっかり動いているじゃん」
「それだけ精神的ダメージが大きかったという事です。その痛みをこれほど素晴らしく表現したのに。三神さん、私の芸術が分からないのですか!?」
「会話に芸術は必要ないかな」
徹子はハゥッとため息を吐き、片手で額を押さえる。腰を抜かしたのか、膝から床にひれ伏した。
「会話に芸術は必要ない……会話に芸術は必要ない……」
壊れたロボットのように繰り返している。クラスから変な視線を浴びるし、この場を離れよう。
そう思って立ち上がった私の足首を、徹子がつかむ。
「三神さん、いえ、師匠。私は感銘を受けました。これからは師匠と呼ばせてください」
「は?」
私は頭が真っ白になり、その場を離れるという思考が働かなくなった。
諦めて椅子に座る。
「えっと…………そもそも、なんで私に官能小説の書き方を聞くの?」
「あなたに光を見い出したからです! か弱い人類は私が真実を告げただけで恐れおののき、疾風のごとく走り去ったものです。しかし、あなたは使命から逃げませんでした」
既にいろんな人に話しかけていたのか! 私も即座に逃げればめんどくさい事にならなかったかもしれない。でも、今から逃げるのは忍びない。
「そんなに徹子さんは官能小説を書きたいの?」
「はい、師匠!」
徹子は綺麗な瞳で私を見つめる。
「そのためには、師匠の助力が必要です!」
「私じゃ無理。だって、恋人いない歴=年齢だから」
「関係ありません! 経験がある事しか書けないなら、世の中のミステリ作家は大部分が殺人者です。それは小説界を揺るがす大惨事です。必要なのは絶対に書いてやろうという情熱です」
「私に情熱はないよ。早く寝たいし」
「師匠、寝たいのですね。寝たいのですね!?」
徹子が鼻息を荒くして顔を近づけてくる。猛獣に食われる寸前の獲物になった気分だ。
人間、本当に怖いと悲鳴をあげられないのだと実感した。
徹子は深々と頷く。
「寝る、すなわち生理的欲求。それは官能小説を書く重要なファクターです。師匠は天性の女流官能作家です。セクシャル・エンジェルです!」
わけのわからない称号をつけないでほしい。ほら、クラスメイトがひそひそ話を始めたじゃん。
寝る時間はもういいから、早くチャイムが鳴ってほしい。
徹子は私の目の前で、両手を合わせた。
「お願いです。力を、知恵を貸してください! 私は小説で世界を救う使命があるのです」
「どうやって」
「世界中の災いを小説に沈め、感動へと昇華するのです」
ダメだ! こいつ頭がおかしい!
脳内で警鐘が止まらない。危険、早々に対処すべし。
「ごめん、大事な用事を思い出した」
「師匠の用事なら私が片付けます。なんなりとおっしゃってください」
片付ける? これは、しばらく距離を置けるチャンスだ。
「そう! それじゃあ校庭に穴を掘ってブラジルとつないどいて」
我ながら無茶な要求である。しかし、外に出れば冷たい風に当たる。冷静になるかもしれない。
「そんな壮大な穴掘りを、師匠は頑張っていたのですね。分かりました、つないでおきます!」
そう言ってダッシュで教室を出て行く。素直なのは感心感心。
チャイムが鳴った。徹子は確実に授業に出れないだろう。ごめんね。
昼休みになった。徹子が戻ってきた。少しは頭が冷えただろうか。
「師匠、ブラジルってどこですか? 掘っても掘っても行き当たりません」
本気でやろうとしていたんだ。全身が土だらけで、風呂に入れと言いたくなる。てか、どこまで掘ったんだろう。怖いから聞きたくない。
「えっと……日本とブラジルの間にはマントルがあるから、つなぐのは不可能かな」
「そんな! インターナショナルな交流ができると思いましたのに。現実は厳しいですね。小説の力で世の中を元気つけなくては」
「そ、そうだね」
我ながら返事が適当すぎる。徹子がメモ帳に何か書いているが気にしないでおこう。
「ブラジルと日本にマントル、と。国家機密級のマル秘情報ですね」
口に出しているし。てか、世間的によく知られているし。
悲しいかな。突っ込む気力すらない。早くお昼ごはん食べたい。
徹子がメモ帳をスカートのポケットにしまい、真顔になる。
「それでは師匠、実演をお願いします」
「は?」
「お忘れですか? 無理もありません、ブラジルと交流を深めるという大事な使命があったのですから」
徹子の中ではいろんな妄想が広がっているらしい。
呆然とする私をよそに、話を続ける。
「しかし、私にも重大な使命があります。そう、官能小説を書く事です。経験は必要ないですが、データや資料はほしいのです。師匠は言っちゃ悪いですが小太りの平凡な女の子で、恋愛経験がないのも頷けます」
ほっとけ。しまいには泣くぞ。
「しかし、だからこそ、誰よりも可能性があります。私は恋愛の実物が知りたいのです。そのためには相手が必要です。身長が高くて成績がよくて誰にでも好かれるけど喧嘩も強い、でも浮気しない男子。そう、浮気しない男子がほしいのです。大事なことなので何度も言いますが……」
「いいよ、大丈夫。充分に理解したから」
私の頭は糖分不足のためか、ろくに働いていなかった。
「徹子さん、あなたは免許皆伝。私を師匠と呼ばなくていいよ」
「え……?」
「だってそうでしょ。小説を書きたいという欲求があり、理想の男子像がある。完璧」
「完璧……? 私が……?」
徹子の瞳から涙がこぼれる。
「完璧と言われるなんて、思ってもみませんでした。初めて抱く感情が沸き起こっております。そう、それは突然まばゆい光に包まれた草木の喜び。暗い寒い土の中から出て、やっと空を知る蝉の宴」
「その想像力で官能小説を書き上げるといいよ」
発言に責任は持てないが、この際だ。空気を大切にしよう。
「徹子さん、あなたにふさわしい称号をあげる。グランド・セクシャル・エンジェル」
「グランド・セクシャル・エンジェル……ああ、なんて素敵な響き! 地球を優しく包み込む天使の歌声が聞こえます」
確実に気のせいだが、夢を壊さないでおこう。
徹子はあふれんばかりの涙をこぼして、何度も私に頭を下げた。
「師匠、いえ、三神さん、ありがとうございます。私、きっと三神さんを超える官能小説を書きます!」
「うん、そうして!」
官能小説どころか作文だってろくに書けないが、弟子が一人だちするのはいい事だ。
私の負担が消えるし。お昼ごはんを食べる時間がほしいし。
徹子はメモ帳を取り出す。
「小太り三神は高身長で性格よしの完璧イケメンと恋に落ち、禁断の愛に発展し……」
「その主人公は見なおそう!」
やっぱり指導はほしいようだ。