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私の身体は虚空に向けてずり落ちる。後数秒後には、アスファルトの上にこのたんぱく質とカルシウムとその他色々の塊は叩き付けられて「私」という形を失うのだろう、となぜか冷静に考えていた。
数秒間、眼をつむってそのまま考えていた。
「……?」
予想していた衝撃が来ないことに、「ひょっとして痛みも苦しみも一切何も感じないまま、あの世に行けたのではないだろうか」と淡い期待がこみあげる。
そして、私はきっと天国にいる大好きだったおばあちゃんが見えると信じて、ゆっくりと目を開いた。
「……いい加減上がって来てもらえるかな? こちらとしても、仕事を済ませないうちに死なれると少々困るのでね……」
ペンギンが必死の形相で、私の右手を両の翼でしっかりと抱えている異様な光景がそこにあった。
「まずは自己紹介と行こうか、私は肯定ペンギンという者だ。これが名刺……あぁ、君の名前は結構だよ。胡散臭いペンギンに個人情報など明かしたくはないだろう?」
「は、はぁ……」
私は何とかペンギンに引きずり上げてもらうと、そのまま先ほどのように手すりの外側に座り込み、ペンギンと話し合っていた。……うん。自分でも何言っているのかわからなくなってきてる。
落ち着くために、ペンギンの渡してきた名刺を顔の前に持ってくる。
「南極一番地 肯定ペンギン」とだけ書かれていた。
「……駄洒落、ですか?」
「まぁ君が何を思おうが自由だが、私は私の名前と職に誇りを持っているよ?」
「……すいません、そういうつもりじゃ……」
初対面の人(?)に要らない一言を言ってしまう……私の悪癖は、死を目前にしてペンギンと隣り合って話しているなどという意味不明の状況でも絶賛活動中だった。
「構わないさ。君が何を感じ、何をしようと、私は君を肯定する。それが私の仕事だからね」
「……貴方……死神か何か……ですか?」
死の直前にやって来るファンタジーな存在など、そう言った物しか思いつかない。霊感など欠片もない私だけど、ひょっとすると命尽きるこの瞬間にだけ見える存在なのかもしれない……ペンギンの姿の死神なんて嫌すぎるけど。
すると、ペンギンはフッと微笑んで-微笑んでいるんだよね、あのクチバシの動き。ペンギンの表情なんて見分けられるわけないけど、なんか微笑んでいる気配はする-こう言った。
「君がそう思うなら、私は死神だろうね。ただ、別に君の命を奪ったりはしない……先ほども言ったように、少しお茶を飲みながら話でもできればいい、と思って来ただけだ」
「……それだけですか?」
「それだけだ……さて、砂糖はいくつ入れるかな? ミルクは? それとも、レモン派かな?」
ペンギンは話の脈絡を無視したかのように、いつ間にか傍らに置いていた大きな旅行鞄から、魔法瓶を一つとティーカップを二つ取り出した。
「落ち着くねぇ……こうして風を感じながら温かいお茶を飲む、というのはなかなかできない贅沢だよ。故郷を離れてからはなおさらだね」
「そう……ですね……」
なぜか私はペンギンから素直にティーカップを受け取っていた。ペンギンは小さなクチバシから、零さないよう器用にお茶を飲んでいる。
なんだかその光景に全てがどうでもよくなってきた私は、どうとでもなれ、という思いと共に両手で抱えたティーカップを傾ける。
美味しかった。
ただそれだけなのに、涙が出てきた。今更……「自分は生きている」ということを実感してしまい、喜びと悲しみで涙が出てきてしまった。
「……ゥグッ……エグッ……」
私がペンギンから顔を背けて涙を零していると……傍らからそっとハンカチが差し出された。
「涙は似合わないよ、お嬢さん。私は君の悲しみも肯定するが……別に君を泣かせに来たわけではないからね」
「ありがとう……ございます……」
受け取ったハンカチで涙をぬぐう。……なんだか、この人(?)がペンギンだから何なのだ、という気分になってきた。彼はごく紳士的に私に接してくれているし、「雑居ビルの屋上にペンギン」という異様な状況も、彼が何かしら常識の埒外の存在なら気にすることではないのだろう。
「貴方……私を助けに来た……んですか?」
一縷の期待を込めて、私は彼を見る。ひょっとして、若い身空で命を散らそうとしている私を哀れに思った神様が、天使をペンギンの形で遣わしてくれたのではないか……彼の登場と共に、私の全ての運命は好転するのではないか、そんなおとぎ話じみた願いがそこにはあった。
「残念だが、それは肯定できない。事実ではないからね。私は君のあらゆる思いを肯定するが……事実に反したことを肯定するのはルール違反だ」
だけど、ある意味で彼の口調はどこまでも突き放したものだった。
「……じゃあ一体どういう用事で……」
「名前の通りさ。肯定すること、それが私の存在意義。肯定した後、君の運命がどうなるかは私の管轄外の話だね」
「…………」
「何も努力していない人間に、幸運は舞い降りてこないよ? ふとしたきっかけでやってくるのは、どうでもいい存在だけさ」
ペンギンは相変わらず美味しそうにお茶を啜りながら、足元を行きかう人と車を眺めていた。