1
私は、ビルの手すりから眼下を見る。8階建ての雑居ビルの屋上から眺めるアスファルトの道路では、何をそんなに急いでいるのか、たくさんの人と車が行きかっている。
初めて見る光景のはずなのに、それはなんだかとても愛おしかった。まるで私を誘い込むように……おいでおいでと抱きしめるようにその景色はゆらりと揺れる。
そう言えば私は高所恐怖症だったのだ、ということをその歪んだ道路を見てようやく思い出す。
「……なんで今更そんなこと思い出すかなぁ……」
急にガクガクと震え出した足を押さえつけるようにしながら、私は自分のあまりに能天気な記憶力を叱る。
何も今……今この瞬間にそんなことを思い出させなくてもいいだろうに。
ビルから飛び降りようと決意したその瞬間に思い出させなくてもいいだろうに。
「……ふぅ、ちょっと落ち着こう」
私は背中を手すりに預け、ズリズリとその場に腰を下ろす。初めて出たが、この手すりの外側の空間という奴は意外と広い。足を縮めれば座り込むスペースぐらいはあるのだ。
「深呼吸、深呼吸……」
死と言うのは、人生で一度しかないやり直しの効かないチャンスなのだ。その瞬間を、「高いところ怖い!」などというふざけた感情で迎えるなど、命への冒涜でしかない。……私はあらゆる生命の条理に反して、自ら死に逃げようとしているのだ。せめてその時ぐらいは心穏やかに迎えたい、と思う。
「……よし!」
私はパンと一つ両頬を叩くと、覚悟を決める。……まだ心にはさざ波が立っているけど、さっきのような大波はなんとか治まった。いくらなんでも、これ以上落ち着くのは無理だ。これが私の限界、と諦めるべきなのだろう。……今までの人生で、幾度もそうしてきたように。
しかし、その時、水を差すように屋上の鉄扉が開く音がする。
「ッ!」
この時の私の心の揺れ動きを一言で言い表すのは不可能に近い。「見つかった!」という焦りと、「これでまた嫌な人生に帰らなければいけない……」という諦観と、「今すぐ飛び降りれば止められることもないんじゃないかな?」という楽観と……「あぁ、これで死ななくて済む」という安堵が入り混じったとても複雑な物だった。
だから、私は渋々……と言った体で振りむいたはずだった。いかにも貴方に自殺を止められて不満ですよ、という感情で心の中の安堵を、闖入者と自分自身に誤魔化すように。
だけど、そんな私の人生の全てを込めた諸々は、その人物の姿を見た瞬間に一つ残らず消し飛んだ。
ペンギンだった。
「は?」
私は思わず間抜けな声を上げる。恐らく眼も限界まで見開かれていたはずだ。
スラリとした、水の中を泳ぐことに特化した流線形の体型、その代り地上を歩くには適していない寸胴の足の造り。翼は空を飛ぶことを捨て、海を駆けるために進化している。腹の羽毛は白色、頭頂部から肩(?)、そして翼に至るまではシックな黒で、クチバシの黄色がアクセントになっている。
「ごきげんよう、お嬢さん。よろしければ今しばらく、お茶など付き合ってはいただけませんかな?」
……喋った?
誰かがマイクかスピーカーで喋っているのか? と思ったけれど、ペンギンがクチバシを開くと共に間違いなくその声は飛び出していた。
着ぐるみ……はあり得ない。だって、あのペンギンの身長は明らかに扉のドアノブと同じぐらい、つまり1メートルぐらいしかないのだ。
「え? ペンギン? なんで今……?」
色々とあり得ないことばかりで、私は自分が今どこにいるのかうっかり忘れていた。
そのまま立ち上がって……動揺のまま一歩、二歩後ろに踏み出す。
三歩目はどこにもつかなかった。
「あれ?」
その瞬間の私の思考は……「遺言が『あれ?』だなんて情けなさ過ぎるなぁ」だった。