桜と<エタノール・ワード>
ポチッとな、と太い指先が動いた一瞬後には、周りの景色が一変していた。
落ちる、とオッサンは言っていたけど比喩だったらしい。俺は落とされたという感覚もなく、身動き一つする間もないまま階下へと移動させられたのだ。
で、周りの景色がどういうものかというと……。
「地獄っぽい!!」
素直な感想だ。そりゃあもう、酷いものだった。溶岩を固めたような赤い大地、真っ赤な水面を揺らす大きな池、人骨を枝に飾っている樹木、奇声を挙げながら飛び回る怪鳥、エトセトラエトセトラ……。出来のいいお化け屋敷のように、人を怖がらせるために出来ているような……俺が頭の中で描いていた<地獄>そのものだった。
ん? 背後に気配を感じるような……。
振り向いてみた。血塗れの老婆が俺に手を伸ばしていた。
「うわ、」
人間、本当に驚いた時は声が出なくなるらしい。後に続く言葉が出ない、更に身体も硬直したように動かない。老婆の手が俺に触れる……。
刹那。光が走った。俺と老婆の間に、一閃。
老婆の体はぼろぼろと崩れて、赤い大地の上に小さな砂山を作った。だが、俺は老婆の死に様よりも、その砂山を作った犯人を見ていた。
真っ白な着物を纏った、おかっぱ頭の幼い女の子。桜の花びらをかたどったペンダントを下げている。そして、腰には老婆を屠った一振りの刀が納まっている。
「おーい、羽刈。聞こえるかー?」
オッサンの声が女の子から聞こえる。いや、違うな。
「ご名答。ペンダントからだ」
「ノイズ混じりだな……トランシーバーみたいなもんか?」
「いや、基本的には一方通行だよ。お前さんの声は地獄耳で聞いておるだけだ」
地獄耳のレベルが凄過ぎだろ……。
「その子は桜といってのう、わしの優秀な秘書だ。一階の亡者を食い止めてもらわないとこっちまで来ちまうんでな」
なるほど。ということは下の階にもそれぞれ部下が……。
「いや、二階から下は全滅じゃ」
「心を読むな……って、え?」
全滅? 全滅って言ったよな?
「そう、全滅。つまり一階に上がってくる亡者を止める手段はない。救いなのは各階を繋ぐ<蜘蛛の糸>が細いお蔭で、亡者同士で道の奪い合いをしておるということだな」
「奪い合いなら、強い奴から先に上ってくるんじゃないのか?」
女の子、桜はオッサンの声がするペンダントをぶら下げたまま、無表情で俺と向かい合っている。
「それがのう。力のある奴ほど頭も回るらしい。どうやら弱い奴を先に行かせてこちらを疲弊させようという策を練っているようだ」
なるほど。いい作戦だな。
「そんなわけで二階から下の部下は全滅。まぁ戦闘に関してはそんなに力のある者はおらんかったしのう。桜は別格だが」
「ところで、さ」
言いよどんだ俺の言葉の続きを察して、オッサンは答えた。
「そう、桜は口が利けん。わしと出逢った時からだ。だがな」
いい子だぞ。スピーカーから届いたオッサンの声は温もりのあるものだった。桜は少しだけ微笑み、また無表情に戻る。
「そんなわけで、お前さんには<蜘蛛の糸>を進んで、階下で暴れている亡者どもを一掃してもらいたい」
「んなこといわれてもさぁ」
桜のように刀を持ってるわけでもないし。ノート一冊でどうしろと……。
「唱えてみろ」
オッサンの声が急に真面目な調子になった。え、何?
「ノートを開いて、書いてある呪文を唱えてみろ」
「いやいや……唱えるったって、俺が書いたやつだぞ? 中二病全盛期の黒歴史だぞ!? 人前で読めるかよ!」
「いいから! 唱えろ!」
雷のような怒声に命じられて、渋々ノートを開く。なるべく短いのがいいな……。
「えーと……<高貴なる白き女王よ、陽炎の季節を凍てつかせよ>。……これでいいのか?」
返事を待つ隙はなかった。いいのか、と俺が言い終わる前には変化は始まっていた。
真っ赤な大地も、赤い水面の池も、大樹も、辺りの全てが……。
「凍った!?」
「うむ。凍ったな」
言っただろう。オッサンは笑いを含んだ声音で続ける。
「思った通りになるんだよ、この世界は。思い出してみろ、さっきの呪文をノートに書いた時、お前さんがどんな願いを込めたのか」
「願い……」
あまり思い出したくないんだが……なんとか記憶をたどる。ああ、確か夏のめちゃくちゃ暑い日に、何もかも凍っちゃえばいいやとか、そんなことを考えて……。
「思った通りになっただろう?」
「……確かに」
<エタノール・ワード>なんて馬鹿みたいな名前を付けた中二呪文が、まさか本当の呪文になる日が来るとは。
「でもなぁ」
頭を掻く俺をオッサンが笑う。
「恥ずかしいか。だがな、それを書いていたときのお前さんの気持ちが真剣だったからこそ、こうして現実に変化が起こっているんだぞ」
真剣だった自分を誇ってもいいんじゃないのか。ノイズ混じりのオッサンの声に背中を押されて、俺は決意した。
「<蜘蛛の糸>っていうのはどこなんだ?」
「わしが口で説明するよりも、桜に案内してもらった方が早いだろう。一階の亡者は片付いたようだし、そのまま桜と下りていくといい。頼んだぞ、桜、羽刈」
こくん、と頷く桜。手を挙げて俺の背後を指差し、足早に歩き出す。
俺は桜の後を追いながら、オッサンに尋ねる。
「ミオはどうしてる?」
「ああ、お前さんと恋仲の娘か」
「そういうんじゃないけど」
「訊かれると思って調べておいた。現世にはいまいち疎くてのう。安心しろ、病院に運ばれたお前さんのそばにおるよ」
「病院って……階段から落ちただけだぞ?」
「もう三日経つ」
「三日!?」
ついさっきのことだと思ってたのに、いつの間に……。
「現世でお前さんが目覚めるまでがタイムリミットだ。まぁ、目覚めなくてもわしは構わんがな。歓迎するぞ」
「やめてくれ……。ちなみに地獄って地下何階まであるんだ?」
ミオを心配させたくないから、とっとと亡者を片付けて目覚めたいところだ。いや、ミオのことだから力ずくで起こそうとしてるかもしれない。どちらにしろ急がないとな。
「四千四百四十四階だ」
「うわ!」
急ぐぞ、桜! 俺は前を行く桜の手を取って走り出した。地獄を救って、目覚めたらミオに話してやらないとな。
地獄には和装のロリータ少女がいるってことを。