地獄と閻魔大王
真っ暗だ。
何も見えない。
床も壁もない、宇宙のような闇の中を泳いでいる。
……ん? どこかから小さな声が聞こえる。
遠くにいるらしい誰かの声が、近づいてきている。
この声は……。
(チアキ? いや、まさか、そんなはずは……)
懐かしい幻聴に導かれるようにして、いつの間にか俺は着地していた。
西部劇の荒野のようなごつごつとした地面だ。
ん? 地面が見えるってことは、明るくなった……?
「っ!」
顔を上げて正面を向くと、異国の城の入り口のような大きな扉があった。
扉だ。うねうねとした模様が一面に施された、薄気味悪い扉、なのだが……扉があるだけで、その向こうにはまた荒地が広がっている。
さっきからあったのに気付かなかったのか、それとも今現れたのか……。
(なーんて、馬鹿なことを考えたんだろうな、昔の俺だったら)
階段から転げ落ちたところまでは憶えている。意識を失って夢を見てるんだろう。我ながら趣味の悪い夢だ。
さて、どうすれば目覚められるかな。数秒考えて、結果。
扉に手を伸ばした。頑丈そうに見えるのに、音ひとつ立てずに扉は開く。
柔らかい光が溢れて、俺を包む。
「お前さんは地獄行きだ」
簡潔な自己紹介と説明を済ませた後、第千百三代閻魔大王は俺にそう言った。
閻魔大王、というと大きな図体の鬼のような男が思い浮かぶけれど、目の前にいるのは家族向けのテレビドラマで端役を務めていそうな、スーツ姿の人の良さそうなオッサンだ。貫録をつけようとしたんだろう、伸ばしたあごひげは白髪混じりで、威厳なんてまったく感じない。
どうやら、さっきくぐったのは地獄へと続く扉だったらしい。死んだ人間の前には天国行きか地獄行きの扉が現れることになっている、らしい。
事務机が一つあるだけの、殺風景な部屋だった。机を挟んで閻魔大王と向き合うなんて、幼い頃に見たアニメのワンシーンのようだ。
死んだ、と聞かされても特に慌てたりはしなかった。気が抜けたような、ほっとしたような心地だ。
「あ」
心残りのようなものがひとつだけ浮かんだ。泣きそうなミオの顔が浮かんだ。
あいつ、泣くかなぁ。……泣くよなぁ。泣いた上、俺のアカウント使って色々やらかすだろうなぁ。……俺がいなくなったら、あいつは誰と日曜日を過ごすんだろう。
「だがなぁ」
気付けば顔を落としていた俺に、閻魔大王が声を掛けた。
顔を上げると、オッサンは見た目のわりに大きな手の人差し指を立てて、
「手段がないわけじゃあない。一度だけチャンスをやろう」
ニヤリと笑った。
それはどういうことかと尋ねようとしたが、得意げな顔から一転して怒りの表情を浮かべているオッサンを見て言葉を飲み込む。
困惑する俺の瞳を見つめながら、閻魔大王は吼えた。
「どうか、地獄を救ってくれ!」
修羅場なんだよ、とオッサンは言った。どうやら地獄ギャグらしい。
「地獄でもそれなりに文明を取り入れていてな、ボタン一つで亡者を処罰できるようになったんじゃが……」
ポリポリと頬を掻きながら、オッサンは弱々しい声で続ける。
「その、マスターキーが盗まれてしまってのう。わしが寝てる間にやって来た亡者が犯人だと思うんだが」
「寝るなよ」
突っ込んでから気付いたが、俺も他人のことは言えないな。居眠りの常習犯だ。
「んん? 他人のことは言えんだろう、羽刈ツカサ」
名を呼ばれて一瞬ハッとした。さすが閻魔大王、すべてお見通し……!
じゃなくて!
「夢、だよな……俺の見てる、夢」
「まーだそんなこと言っとるんか」
オッサンは呆れた顔をして、それからニヤッと笑った。
「そうだ、夢だ。お前さんは頭を打ったせいで悪い夢を見てるんだ。それでもなぁ」
真剣な表情を浮かべて、俺の眼を射貫くように見つめながらオッサンは言った。
「誰かが困ってるときは助けるのが、人間として正しい。そう思わんか?」
「そ、それは……」
「まぁ、まずは一階から始めるといい。そのノートが役に立つだろう」
オッサンに指を差されて初めて、自分が右手に握っているものを見た。いったいいつから、俺はこれを……。
「マスターキーはなくとも、このボタンを押せば床に穴が開いて降りられる。落ちる、という方が正しいかもしれんが」
「え?」
「それじゃ、頼んだぞ羽刈。……ひとつだけ言っておく」
机の上のボタンに指をかけて、オッサンは笑った。
「ここは“思った通りになる世界”だ」